この恋心を名付けるならば

文字数 4,092文字

 春に出会った君。大学の入学式。君は九段下の駅で、迷っていた。北海道から出てきたばかりで、東京の地理には疎かった。白いシャツにスーツだったけど、あの日は四月一日にしては暑かった。少し汗ばんだ君は、「武道館はどこか、わかりますか?」と尋ねてきたね。偶然同じ大学だった僕。僕も当日はスーツ。僕に尋ねたのは偶然じゃないよね。同じ格好だから、入学式に行く生徒だって気づいていたはず。地下鉄の路線がわからなかったと、はにかんだ笑顔が、桜の花みたいだった。千鳥ヶ淵はちょうど花がこぼれていて。入学式は流れで一緒に出席して。そのあと、なんとなく別れるのが嫌だったのは、きっとお互い一人暮らしが始まったばかりだったからだと思う。入学式後、昼食を一緒にして、お互いの連絡先を交換したっけ。同じ学部、学科だった偶然。君にとっての初めての東京の友達が僕になるなんて、どこかしら運命的だと感じてしまったのは、僕だけじゃなかったでしょう?
 履修科目を一緒に決めたり、空いた時間に近くの川沿いで、コンビニで買った話題のドリンクを飲んだり。そんな『友達』としての時間が、ふたりの距離をだんだんと近づけていった。
 桜が散ったあとくらいに、君から休みに動物園に行こうと言われたとき、少しドキッとした。友達としてだという感情と、もしかしてこれはデートかな? という淡い期待。しかも君はお弁当を作ってきてくれるというじゃないか。これはもう期待しないほうがおかしいよ。「お弁当、まだ腐ったりする時期じゃなくてよかった」って言った君。家庭的だな、と惹かれる僕がいた。おいしかったのは、春巻き。初めてお弁当用に作ったって言ってたけど、お弁当に冷凍じゃない春巻きを持ってきてくれて、嬉しかった。母が作るお弁当は、当然時短のために冷凍食品だったわけで。それだけこの動物園に持っていくお弁当に時間をかけてくれたんだなって感動しちゃったよ。味もすごくおいしかった。ゴマとしらすのおにぎりも、から揚げも、全部全部。
 春は出会いの季節だ。でも、別れの季節ともいう。僕たちは付き合ってはいなかった。付き合うとか、付き合わないとか、そういう『言葉』がなかったのが甘えだった。ふたりの関係は友人以上、恋人未満。いや、ひとり暮らしの寂しさを紛らわせるだけの、恋人ごっこだっただけだったのかもしれないね。君からのメッセージ。『彼氏ができました』。宙ぶらりんにしていた、僕が悪かったんだ。

 夏のあいつは、SNSにいた。開催されるフェスのチケットが2枚。同行者だった友達が、急に当日行けなくなってしまい、SNSで急遽同行者を探したのだ。はっきり言って、こんなことをした僕が浅はかだったんだ。何も知らない、現実の世界で会ったこともない人と、当日フェスに行こうだなんて。「別にいいじゃん」。あいつは僕を笑った。「今どきオンもオフもないでしょ? 今日を楽しもうよ」。夏の騒音だ。どこのステージを回るかも、僕は考えていなかった。お目当てのバンドのステージが見られればよかったから。そんな僕を、強引にあいつは連れまわした。「せっかくのフェスなんだから、好きなバンド以外のステージもガンガン見るべきだ」。SNSで同行者を探したのは失敗だった。僕がチケットを取ったのに、主導権は全部あいつだ。仕方なかった。あいつは何度もこのフェスを経験している。それに比べて僕は初めての体験だった。あいつの思うがまま引きずり回されて、その日はバテてしまった。でも、一日。たった一日の付き合いだからと割り切っていた。現に、フェスが終わったあとはあっさりと解散したし。
 そう思っていたのに、フェスが終わった数日後、あいつから連絡が来た。「今、家出してきた。行く場所がないんだけど」――家出? 僕は焦った。「だから何?」と突き放すわけにはいかない。外は大雨が降っている。あいつはまるで野良猫みたいなやつだ。だからと言って、こんな大雨の日に外にいる猫を放っておくわけにはいかない。同情。それだけ。僕はあいつを家に呼んだ。
 あいつは僕にとっての『不運』だった。家に一度上げた途端、押しかけ妻状態。冷蔵庫の中身がないから雨が上がったら一緒に買いに行こうだの、洗濯物にアイロンがかかっていないからやってあげるだの、どれもこれも気ままなひとり暮らしを堪能していた僕には、迷惑でしかなかった。挙句の果ては、大学の遠隔授業のとき。こちらがタブレットに向かっているのに、部屋ではあいつが寝そべってスマホをいじっている。視界に入るだけで不愉快。ああ、いつまで居座る気だ。
 ……僕が追い出せばいいのか? あいつは家賃も何も払っていない、ただの迷惑な居候だ。そうだ、追い出してしまえ。我慢の限界だった。僕はある日、「出て行ってくれ」ととうとう言った。雨が降る夜の日。あいつに行く場所があるかどうかなんて、知ったこっちゃない。
 雨は最後まで上がらなかった。

 秋。少し寒くなり、哀愁漂う季節。だけど、なんだかんだ言ってこの季節が一番過ごしやすい。平穏な日々を取り戻した僕は、バイト先で再び春の君に出会った。春は花粉が大変だったけれど、秋はそれがない。春に出会った君は、彼氏と別れたって言っていたね。人肌が恋しかったんだろうってことは、すぐにわかった。僕のバイト先のカフェに来るってことは、そういうことでしょう? 出会いははっきりとしていたけど、僕らの関係は最後まで曖昧で。春は出会いと別れの季節。じゃあ、秋は?
 ひとり暮らしにもお互いに慣れ、友達もできた。君は彼氏も。今更どういう関係になればいいのかなんて、僕にはわからなかった。僕の勤め先でコーヒーをオーダーすると、君はカウンター席で読書を始める。そうか、秋は読書の秋か。君が読んでいるのは、洋書だった。僕が読んだことのないもの。読書すること自体に興味がなかったけども、春のときよりも君自身に興味はわかなかった。宙ぶらりんの感情は、秋風に吹かれるだけだ。黒かった君の髪も、いつの間にか茶色になっていて。すっかり都内の大学生になっていたのは、少しだけショックだったのかもしれない。他の男が君を変えたことにショックだった? そうじゃないな。移り変わっていく季節と同じで、人も変化していく。変わらない人間なんていないだろう。だけど、僕だけは変わっていない。大学に入って、ひとり暮らしを始め、バイトもしている。勉強も。それなのに、何も変わった気がしない。夏のあいつはただの事故。あいつは何でもない。僕の人生に影響を与えるような人間じゃなかった。君もそうだろう? 嫌悪、憎悪、嫌気。君もあいつも、根本的には変わらない。都合のいい男をいつだって探している。別に、僕じゃなくたっていいでしょう? なんで僕のところに来るんだ。都合のいい男なんて、ダサいだけだろ。そこまで僕はバカじゃない。見下さないでくれ。
 でも、君は客だ。嫌でも僕のバイト先に来る。目に入る。大学でも話しかけてくる。彼氏がいなくなったから。それなら僕が去ろう。君とは距離を置きたい。秋風とともに、僕は去る。

 冬――大学を辞めた僕は、地元に戻ってきていた。これからどうしようか? 次の春までは時間がある。短期のアルバイトはしているけども、両親には殴られた。急に大学を辞めたから。「これからどうするんだ?」「将来のことは考えているの?」――考えるのも億劫だ。どうすればいいのかなんて、僕だってわからない。ただ、マイナス思考でぐるぐるしているのだけはやめようと思い、趣味に打ち込もうと考えた。僕の趣味は写真だ。カメラを持って、今まで貯めたバイトの金で、旅行することにした。春の住んでいた北海道。夏の住んでいた沖縄。あいつらがどんな場所で育ったのか、純粋に興味があったから。広く、極寒の大地と、今の時期には心地よい島。どちらも悪くなかった。だけど、結局自分の地元が一番居心地がいいことにも気づいてしまった。一時期住んでいた東京は、最悪だ。ごみごみしているし、なんでもあるように見えて、すっからかんの伽藍洞。あるのは空虚のみ。
 この街にあるのは、小さい公園だけ。小さい頃、よく遊びに行った場所。桜もあるし、夏には人工の川に蛍が宿る。秋にはコスモスと薔薇が咲く。こんな素晴らしい場所は他にない。僕にとっての楽園だ。
 そんな楽園も冬は閑散としている。だけど、空が広い。何もない空を、鳥が自由に飛んでいく。白いカンバスに雲が絵を描いてくれる。その光景を、写真に撮る。悪くない。
 その日も僕は写真を撮っていた。「あのう」と声をかけてきた貴女。年齢は僕より少し年上くらい。「いつもいらっしゃいますよね。何を撮っているんですか?」。尋ねられた僕は、照れながらもカメラの画面を貴女に向け、写真を数枚見せましたね。覚えていますか? それが、出会いだったんですよ。
 僕らは公園で何回も会った。僕は無職の元学生。貴女は……? 何も聞けない自分を恥じる。
 僕の感性を気に入ってくれた貴女に、初めて僕は恋心を抱いています。どんなに親しくなっても、名前すら知らない。話すのは、写真と天気のことだけ。会ったら笑顔で「こんにちは」。この想いにタイトルをつけるにはどうすればいいのだろうか。写真と同じように、想いに名前を付けられればいいのに。恋心だけども、名前が欲しい。貴女への想いを、ファインダーに収めたい。
 肩書も何もない僕に、貴女を想う権利なんて、もしかしたらないのかもしれない。相手のことを本当に知らないから、恋ができているのかもしれない。これは幻想? いや、違う。そうじゃないと信じたい。僕は、今日も貴女を想って公園へ向かう。カメラで空を撮る振りをして、貴女と出会うことをお許しください。
 雪が降った日。雪景色を撮ろうとした今日。貴女も公園にいる。僕は駆け寄って、貴女に声をかけようとする。「寒くないですか」? 「貴女も雪を見に来たんですか」? 考えていないから、ただ息を白くするだけ。

 僕から自然と零れた言葉は、「貴女だけが好きです」だった。
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