文字数 9,052文字

 それから僕は何時ものように高校に通い、二学期と三学期を終えて三年生への進学を果たした。傍目から見ればより良い日々を送って、着実に次のステップに進んでいる。だが僕は杉山の一件のせいで、僕には神経を痛ませるような傷跡が残っているのだ。僕は今推薦入試で大学受験を控え、また新たな段階に進もうとしている。しかし杉山の姿が僕の中で歪められたままの状態では、僕は前に進んでも満たされない気がする。杉山と言う存在が、僕の中にある高校生活という良い日々の中に、大切な構成要素として残っているのだ。その事が僕にはもどかしくて、ケリをつけたかった。

 丹波山村の杉山の元を訪ねてから、二週間が経った。東京の秋はますます深まり、コンクリートのビルの間を冷たい風が吹くようになった。あともうしばらくで、ダッフルコートとマフラーの出番が来る季節になるはずだ。空を見上げると、西の空が淡いオレンジ色から染料を染み込ませたような朽葉色へと変化している。その変化の途中には鈍い銀色を放つ雲が幾つか浮かんでいて、冷たくなってゆく季節の変化を視覚的に教えてくれた。
 僕は学校が終わった後、帰宅途中の道で小川と加藤の二人と校門の前で一緒になった。僕達は帰る方向がバラバラだったが、最寄りの地下鉄の駅までは一緒の道のりだった。
「最近どうだい」
 口を開いたのは小川の方だった。僕は推薦入試になるのだが、その事は話せなかった。
「まあ、可もなく不可もなく。当事者だけれど余裕も危機感もないかな」
 僕がそう答えると、小川は鼻で笑いこう返した。
「まあ、当事者が当事者に質問するのも変な話だよな。俺は第一志望がギリギリかな。第二は普通だと思う」
「そう」
 僕は小さく答えた。何の慰めにもならない言葉だった。
 僕達三人は交差点を左折し、地下鉄の入り口に繋がる道に出た。歩道の脇にはこの前待ち合わせに使ったコンビニがあったが、立ち寄る気分にはならなかった。
「そういえば」
 コンビニに近づいた途端、僕は思わず口走った。意味もなく漏らした言葉に、慌てて次の言葉を付け足す。
「この前会った杉山からは、何かメッセージはあった?」
 僕の言葉が意外だったのか、小川と加藤は目を丸くした。
「何もないよ。この前メールアドレスを交換してからは何もないよ」
 加藤が答えた。
「芦川は何かあったのか」
 僕の中の異変に気付いたのだろうか、僕の顔色を伺いながら聞き返してきた。
「いや、何もない」
 僕はそう答えた。何の気なしもなく、まるで配線がショートして火花が飛んだ時みたいに出た言葉なのだ。
「何もない。無いなら良いんだ」
 僕はそう残して、地下鉄の入口へと入って行った。



 帰宅しても、さっきの言葉が頭から離れない。
 今更になって杉山に恋をしているみたいじゃないか。と僕は自分で訝った。本当なら僕は推薦入試で大学に入る事を口実に少し気楽な気分で残りの高校生活をより良い日々に変えてもいいはずなのに。杉山との過去を蒸し返したせいで、あちこち思考に杉山が割り込んでくる。確かに杉山の事があの新宿での待ち合わせ以降、クラスの女子生徒によって歪められ僕の中で傷跡になっているのは事実だ。その後は順調な高校生活と言うファンデーションと長袖の服によって、表には出ない筈だったのに、どうして今更になって出てくるのだろう。僕は勉強机に向かって考えたり、或いはベッドの上に横になったりして考えた。そうして気付かないうちに、僕は眠りに着いてしまっていたらしい。目が覚めると、枕元のデジタルクロックは午後七時二十一分を表示していた。
 空腹感と共に、僕の隣にある兄の部屋からドラムマシンの音が聞こえて来た。曲は古いヒップホップミュージックで、英語のラップが聞こえてくる。僕は起き上がって自分の部屋を出ると、隣にある兄の部屋の扉をノックした。
「入るよ」
 僕が寝ぼけ眼で扉を開けると、部屋からは香水とスナック菓子の臭い、そして度数の強い酒の臭いが鼻先に漂ってきた。部屋の中では兄の恋人である愛美さんと兄が、酒に酔った顔で僕を見ていた。
「なんだ、無粋な弟よ」
 酒で上気した兄の表情はだらしなく、僕を道化のピエロでも見るような眼差しで見つめていた。知ると僕は兄の向かいに座る愛美さんと視線が合い。愛美さんが小さく手を振った。
「お邪魔しています」
 愛美さんは可愛らしくそう挨拶した。彼女の手にはタンブラーに入った飲み物があり、その傍らにはヘネシーVSとジンジャーエールの二リットルペットボトルがあった。
「何をしているのさ?」
 僕は兄に質問した。
「愛する人と酒を飲みながら、いろいろ語っているのさ」
「そう。飲んでいるのは何?」
「ヘネシーのジンジャーエール割り。今聞いている2パックの曲の歌詞に出てくるの」
 僕の質問に愛美さんが答えた。音楽は兄のスマートフォンからUSBケーブルでCDコンポに繋がれて流れているようだった。耳を澄ますと、「シャンパン」と「ヘネシー」と言う言葉が聞こえた。
「本当はシャンパンとヘネシーなんだけれど、シャンパンは高いからこいつって訳。お前も飲むか?」
「いやいい。大学進学を控えた身分が未成年飲酒はダメだろ」
 僕が当たり前の事を言うと、兄はクスクスと笑った。
「父さんと母さんは?」
 僕は兄にまた聞いた。
「今夜は帰りが九時半頃になるそうだ。さっきLINEで連絡があった。お前晩飯はどうする?」
「自分でカップ麺でも食べるよ」
 僕はそう言って部屋を後にしようとした。両親が返ってくる前に宴を終わらせてくれよ、と心の中で吐き捨てると、ある事がまた雷光の様にひらめいた。兄と愛美さんを見て杉山と二人で何か話したい。と言う気持ちが僕に芽生えたのだ。
「なあ、兄貴」
「何さ?」
 兄はすっかりアルコールに濡れた唇でそう返した。
「また、奥多摩の先の丹波山村まで送ってくれないかな?」
「なんでまた」
「行きたいから」
 僕はそう即答した。消えていた筈の杉山への思いが今ここで現れるとは思わなかった。
 兄は暫く考えたあと、こう答えた。
「自分で帰ってこれたんだ、今度は一人で行ってみろよ。交通手段は分かっているんだろ?」
「まあね」
 僕は曖昧に語尾を濁らせた。
「それなら、行って来いよ。俺には俺の都合もある」
 兄がそう答えると、僕は何か言おうとした言葉を飲み込んで兄の部屋を後にした。ドアを閉めると、それまで流れていた曲が変わって、「Don't Sleep!」という凄みのある言葉が繰り返される曲になった。
 今度の休みに、杉山の元へ行こう。僕はそう決心した。





 それからその週の土曜日、僕は電車に乗って奥多摩に行き、駅からバスに乗って東京を超えて山梨に入った丹波山村に向かった。三日前に杉山に送ったメールによれば、今週の土曜日なら大丈夫だとの返信を貰ったので、僕は午前六時半に家を出る事にした。父と母に受験期間中だから勉強しろと苦言を呈されたが、僕は推薦入試で入る大学が第一志望だから大丈夫だという、誤魔化しの言葉を並べて黙らせた。
 僕は東京土産にと思って買った、有名洋菓子店の一番大きいクッキーの詰め合わせが入った紙袋を片手に、奥多摩駅に降り立った。奥多摩は積雪こそなかったが、冷たく重たい空気が僕の上に圧し掛かってきて、電車の暖房で温まった僕の体温を容赦なく奪っていった。
 僕は丹波山村に向かうバスに乗り込み、フロントタイヤ近くの空いている席に座った。カーマニアの兄によれば、ここは慣性モーメントの関係で乗り物酔いになりにくいとの事だった。
 バスが走り出し、奥多摩から山梨方面へと国道四一一号を進む。落葉樹の赤茶色のグラデーションと常緑樹の深い緑が作り出す天然のモザイクアートが、僕の目に飛び込んでくる。奥多摩湖を超えると、もう少しで杉山に会えるという気持ちが僕の胸を高鳴らせた。僕はもうすぐ着くというショートメールを送ったが、山間部で電波が悪いのか中々送信完了の文字が出なかった。彼女は過去の一件がきっかけで、LINEで連絡を取る事をしなかった。
 やがて僕を乗せたバスは東京から山梨県に入り、丹波山村にある道の駅の駐車場で止まった。道の駅と併設された日帰り温泉はまだ開いておらず、地元の車が一台停まっているだけだった。
 僕はバス停に降り立つと、奥多摩で感じた以上の寒さを肌で感じた。上半身はフリースとダウンジャケットを着こんだお陰でそれ程寒くは無かったが、ジーンズとスニーカーの下半身は冷えた空気と舗装された地面から伝わる冷気を防ぐには役不足だった。おまけに風が吹くと、ジープ帽で覆った部分以外の肌がピリピリと痛む。最悪だったのはネックウォーマーやマフラーなどの類を忘れたが故に、襟元が寒すぎる事だった。僕は東京の初冬くらいの陽気だと思っていたが、関東と甲信地方の間はほぼ真冬だった。
 僕は寒さに震えながら、杉山の家に向かった。路面は凍結していなかったが、湿度が低く乾燥した空気が吹いているせいでとても冷たい感じがした。恐らくサーモグラフィーカメラで見れば、摂氏零度に近い温度を示すだろう。未舗装の土がむき出しの部分は、霜柱が降りているはずだ。
 村役場前を超えて川に掛かる橋の所で、僕は防寒着に身を包んだ杉山を見つけた。
「ああ、芦川。もう村まで来ていたんだ。メール見たよ」
「ああ、久しぶり」
 僕は寒さに震えながらなんとか言葉を絞り出す。どうやら先ほどのメールは送信完了したようだった。
「もっと早くメールを送ってくれたら、奥多摩駅まで車で迎えに行こうと思ったのに」
「迎えに?」
 杉山から出た意外な言葉に僕は訊き返してしまった。
「自動車の免許を取ったのかい?すごいね」
「私も取ったけれど、運転するのは別の人。祐樹さんよ」
 杉山がそう答えると、彼女の背後から一人の体格の良い一人の男が背後から迫って来た。黒い土木作業用の所謂ドカジャンに身を包み、程よく日に焼けた、二十代半ばらしきその男の人は、都会で生まれ育った僕とは全く異なる世界に住む人間に思えた。その男の人は駆け足で僕の側に寄ると、寒さなど慣れた様子で「やあ」と短く声を掛けてくれた。
「この人がそう。日高祐樹さんよ」
 杉山がそう言うと、祐樹さんは笑顔でこう答えた。
「日高祐樹です。はじめまして」
 祐樹さんはそう僕に挨拶をしてくれた。


 それから僕は杉山の住む家に上げてもらい、ジープ帽と上着を脱いで出迎えてくれた貴美子おばさんに挨拶をした。貴美子おばさんは「寒かったでしょう」と言って僕を出迎え、茶の間の炬燵に通してくれた。茶の間の炬燵は暖かく、石油ファンヒーターも作動して暖かったが、急な寒暖の差に都会育ちの僕は根を上げそうになった。
 僕は炬燵に深く入り、体が温まるのを待った。だが体の芯にある体温調節の機能が上手く働かないらしく、金属疲労のたわみとも古いパソコンの処理落ちともいえない不快な感覚が、僕の首筋辺りに襲ってきた。
 僕の座る炬燵の向こうでは、陶器で出来た火鉢の炭で温められた鉄瓶の湯が沸き始めていた。僕が持ってきた東京土産のクッキーを、鉄瓶で沸かしたお湯で入れたコーヒーで飲もうという事らしい。テーブルにはインスタントコーヒーの瓶と色とりどりのマグカップが四つ並び、コーヒーを淹れる準備が整いつつあった。
「芦川はスティックのお砂糖入れる?」
 杉山は僕に質問してきた。僕は普段コーヒーに砂糖は入れない主義だが、今回は杉山の厚意に甘える事にした。砂糖とバーボン以外のウイスキーをインスタントコーヒーに入れると、体が温まるアイリッシュコーヒーもどきになると兄が言ったのを思い出したが、ウイスキーを入れてくれとは口が裂けても言えなかった。
 やがてインスタントコーヒーを入れた四つのマグカップにお湯が注がれ、甘ったるい香りを漂わせながら鉄瓶のコーヒーが入った。そして杉山が一つのカップにスティックシュガーの袋を破って入れると、ティースプーンでかき回して僕に出してくれた。
「はい、どうぞ」
 その言葉が僕には女神の声の様に聞こえた。僕は小さく「ありがとう」と漏らして、コーヒーを一口飲んだ。水のせいか鉄瓶で沸かしたせいか、それとも杉山が砂糖を入れてくれたお陰なのか、今まで飲んだどのコーヒーよりも美味しく感じられた。
「遠いところをわざわざありがとう。有名店のクッキーまで用意してきてくれて」
 口を開いたのは貴美子おばさんだった。僕は軽く一礼すると、視線を僕の左に座る祐樹さんに移した。
「東京の様子はどう、もう寒くなって受験シーズンが来た?」
 杉山が僕の右側から尋ねた。
「後もう少しすれば来るかな。まだ平穏な空気だよ」
「大学受験か、俺も貴美子さんも高卒だから受けた事なかったな」
 祐樹さんが口を開く。どうやら高卒で地元の企業に就職したのだろう。
「日高さんは何をされているんですか?」
 僕が祐樹さんに質問すると、彼は僕の方を見てこう言った。
「俺は一番近い塩山の高校に通ったあと、この丹波山村に戻って就職したよ。仕事は林業。森と一緒に生きる仕事。この村で自然に囲まれて育ったから故郷に愛着があるんだ」
 僕は無言で頷いた。自分を育ててくれた故郷とそれを囲う自然を愛するのは、都会で生まれ育った僕には中々思い浮かばない。恐らく僕とは別の景色を見て育った人なのだろう。
「そう。ずっと故郷を想い続けているなんてすごいよね。私も見習いたい」
 杉山は嬉しそうに答えた。彼女の放つ一つ一つの言葉に、祐樹さんに対する敬愛と羨望が混じっているのを僕は聞き逃さなかった。
「美佳ちゃんにも出来るよ。誰にでも持っている気持ちだよ」
 祐樹さんは優しく包み込むような声で杉山に返した。二人の会話を聞いて、僕にはもう取り付く島が無くなったような疎外感を味わった。
「芦川君はどうだい。生まれた故郷に愛着は有るのかい?」
 余裕を持った声で祐樹さんが僕に質問する。僕は故郷と聞かれていつも通学で利用する駒込駅東口を思い浮かべたが、次が浮かばなくなった。それに代わって真っ黒で頭に響く痛みが僕の中を支配してゆく。
「芦川、平気?」
 杉山の声が、僕の中で水の波紋の様に広がって消えて行く。


 結局僕は体調を崩し、一日杉山の家に厄介になる事になった。貴美子おばさんが布団を敷いてくれたので横になり、熱を測ると三十八度の熱があった。僕は身体を暖かくされて、用意された市販の風邪薬を飲んだ。体調を崩した事はLINEで連絡を入れたのと、貴美子おばさんに僕の家の電話番号を教えて連絡をして貰った。今日はとても山梨から東京まで戻れそうにないので、ここで一泊すると連絡してもらった。帰ったら父と母のお叱りがあるだろうが、今はそれどころではなかった。
 布団の上で横になる僕は風邪をひいて学校を休む田舎の小学生みたいだった。もうすぐ大学生になるのに、山奥の民家で子供っぽいシチュエーションを体験するとは思わなかった。
 横になってしばらくすると、杉山と祐樹さんは車で買い物に出かけると言って家を出て行った。僕は杉山が遠くに行ってしまうので心細くなったが、引き留める立場に僕は居なかった。杉山は僕の世界から離れて、祐樹さんと二人だけの世界に行ってしまうのだ。僕はそんな心細い気持ちを忘れようと思い、瞳を閉じた。
 それから僕は深い眠りに落ちた。古井戸の底に溜まった濁り水みたいに、僕の意識は暗く静かな場所に沈んでいた。そして目が覚めると、僕は家に杉山と祐樹さんが戻ってくる気配がした。
 暫くすると玄関のガラス戸が開いて、二人が上がり込んできた。廊下を歩く足音が聞こえて襖が開くと、杉山が顔を覗かせてこう言った。
「芦川、気分はどう?」
「さっきよりはいい」
 僕は布団に寝たまま答えた。寝汗をかいたお陰で気分は優れたが、まだ完全に回復した訳ではなさそうだった。
「塩山の街ではちみつとレモンを買ってきたよ。お湯で解いたはちみつレモン飲む?」
「貰う」
 僕はそう答えた。汗のせいで喉が渇き、体がミネラルとクエン酸を求めている気がした。
 四分程布団の上で待つと、杉山が湯気と一緒に甘酸っぱい香りを放つマグカップを持ってきてくれた。杉山は膝をつき、傍らにマグカップを載せたお盆を置いた。インディゴのジーンズに包まれた杉山の足はなだらかな曲線を描き、古代の女性を象った土偶の曲線に通じる柔らかさがあった。
 僕は身体を起こして、杉山が用意してくれたはちみつレモンのマグカップを受け取った。中を覗くと、半月切りにされたスライスレモンがうっすら濁ったお湯の中に浮かんでいた。
「ありがとう。頂きます」
 僕はそう断ってはちみつレモンを飲んだ。柔らかい炭火で沸かしたお湯の口当たりの後に、はちみつの甘味とレモンの酸味が来る。レモン汁を絞って入れてくれたのだろう。
「どう?」
 杉山が僕に尋ねる。はちみつレモンのうまみは絞り切った雑巾みたいだった僕の中に沁みわたって、弱った細胞をよみがえらせてくれる。
「ありがとう。すごく美味しい。沁みるよ」
 僕はそう答えた。まだ自分でも体力が回復しきっていない言葉だったが、先程よりは身体が軽かった。
「これ、お母さんが教えてくれたレシピで作ったの。ここにきて役に立った唯一のスキル。今年の初めに祐樹さんに出したら、喜んでくれたよ」
 杉山は満足そうに答えた。このはちみつレモンを飲んだのは僕だけではないのかと思ったが、今更何を言っているのだと僕は自分を叱った。
「夕飯は、何か食べられる?」
「あまり味の濃くないものがいい。おかゆとか雑炊みたいなのがいい」
「わかった。もうしばらく寝ているといいわ」
 杉山はそう言って、僕の元から離れて行った。僕は布団脇のお盆に半分残ったはちみつレモンを置いて、また横になった。
 僕は杉山がしてくれた優しさの感触を心の掌で味わいながら目を閉じた。一連の厚意は僕を想っての事ではなく、僕を弱って倒れそうな人間を救う為の厚意なのだ。杉山の中に、僕はもうかつてのクラスメイトでしかない。僕は何回か一緒に行動を共にした間柄の人間で、それ以上の存在ではないのだ。僕は手元に一緒に撮った写真があったから違うと思っていたが、杉山の中には一緒に写っている相手でしかないのだ。現に杉山には想い人が居て、この村でより良い日々を送っているではないか。それに僕が何か意見する事が出来るのだろうか。出来ないししてはいけない。そう思って僕はまた眠りに着いた。
 また目を覚ますと、今度は鼻先に料理の匂いが漂ってきた。味噌汁と野菜の煮物の匂いは分かったが、後は分からなかった。僕は寝返りを打たずに、浅い眠りと覚醒の間を暫く漂った。するとまた襖が開いて、杉山がお盆に乗った小どんぶりを持ってきた。飲みかけのはちみつレモンはいつの間にか下げられてしまったらしい。杉山が僕の元におかゆの入った小どんぶりを置くと、僕は布団から起き上がった。
「卵がゆを作ったよ。食べられる?」
「とりあえず」
 僕はそう答えた。杉山が手渡してくれた卵がゆは程よい暖かさで、息で冷まさなくとも食べられる感じがした。
「ありがとう。頂きます」
 僕はそう断って、蓮華で卵がゆをすくって口に運んだ。程よい塩味が病んだ心身に最高のうまみを与えてくれる。
「美味しい」
 咀嚼した僕はそう答えた。
「よかった。これは貴美子おばさんから作り方を習ったの」
「そう」
 僕はそう答えた。そして卵がゆを食べ終えて心の余裕が生まれた僕は、用意していた言葉を話す事にした。
「ここの生活はどう。高校に通わなくなってからどうなった?」
 僕の言葉に杉山は表情一つ変えずにこう答える。
「こっちに来てから最初は戸惑ったけれど、家の仕事や地域の仕事を手伝うようになってそんな気持ちは消えていった。東京に居た頃は、正直自分の寂しさを紛らわしたいのと誰かに見てもらいたい気持ちが合わさって無理をしていたと思う」
 杉山はそこで言葉を区切ると、神妙な顔つきになってこう続けた。
「だから、中学の同級生とか他の所で仲良くなった男子とよく遊んだけれど、そのせいで結局自分の道を誤らせちゃった。芦川もそうやって付き合っていた相手の一人。私のせいで何か迷惑を掛けたなら謝るわ」
 僕は何も言えなくなった。只の遊び相手に過ぎなかったと杉山から言われた衝撃的だったからではない。杉山が味わってきた苦しさの断片を垣間見た気がして、僕を黙らせたのだった。
「でも高校って言う箱庭を追い出されて、この村に来てそんな考えも変わった。広くて散らばった生活よりも、狭いけれど密集した生活の方が私には似合う気がしたの。学校とは違う、もっと抽象的で深みのある関係に出会えた。だから私は余り以前に執着する事もやめたし、祐樹さんと言う人とも出会えた」
「そうか、良かった」
 僕は小さく相槌を打つ。
「今まで自分はもっと色んなことが出来るって思っていたし、学校とかでもそう教え込まれていたけれど、実際は違った。私にはこの村で小さく生きるのが幸せなんだって。だから、気持ちが向いた相手も一人だけになった」
「好きなんだ。祐樹さんの事」
「ええ。だからね、年が明けて春になったら私、祐樹さんと結婚する」
 僕は何も言わなかった。彼女の気持ちを引き留める事も出来ないし、より良い日々を送れる場所と相手を手に入れる事が出来た彼女の事に意見を言う事なんて出来やしなかった。
「そうか、よかった」
 甘い嬉しさの中に隠し味程度の苦みを僕は味わいながら、僕はそう答えた。
「だから、芦川や他の皆と過ごせた短い高校生活は楽しかった。今日はなんだか高校生活に最後の区切りが着いた気がする。来てくれてありがとう」
 杉山はそう言って空いた小どんぶりを下げ、僕の傍らから離れた。襖が閉じると、彼女は完全に僕の中から別の世界へと移ったのだった。後に残ったのは、スマートフォンに残った写真データと記憶だけだ。僕は満足したような微笑みを漏らし、布団に横になった。
 翌日、体調が回復した僕は杉山の住む丹波山村を後にする事となった。杉山と祐樹さん、それに貴美子おばさんの三人はバス停まで見送りに来てくれた。
「それじゃ、また会う日があれば」
 僕はそう言って、奥多摩方面に行くバスに乗った。バスが丹波山村から遠ざかるにしたがって、僕の中で杉山の事も遠ざかって行き、僕の人生の中で過ごした高校生活も遠く過去の物になるような気がした。
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