四(完)

文字数 3,755文字

 それから僕は東京に戻り、秋を超えて冬を迎えて大学入試に臨んだ。結果は予想通り第一志望の大学に合格し、小川も第一志望の政治経済学部に、加藤も何とか志望の千葉にある短期大学に進学する事が出来た。僕達はとりあえず胸を撫で下ろして、それまでのプレッシャーと精神的束縛から解放された。僕達は三人の合格を祝おうと、三人で池袋のカラオケルームを借りて遊んだ。社会人になればこんなイベントは不定期に訪れるものなのだろうが、まだ飛ぶことを覚えたばかりの若鳥の僕達にはとても楽しかった。
 親に怒られる前に帰宅すると、僕は自分が今までいた場所から別の場所に心が移動したような気分を味わった。これから何がやってくるかは分からなかったが、とにかく自分が前に進んでいる達成感と力強さを感じた。
 この勢いを絶やすまいと僕は学習塾を辞めて、勉強に充てていた時間を使って自動車教習所を探し、群馬県にある合宿免許の教習所に行くことを決めた。進学する大学への入学手続きの際に僕はその大学の生協に入ったので、学生割引で教習費用を安くすることが出来た。
 そうして一通りの準備が整って、僕は高校の卒業式を迎えた。空は澄み切った青空では無かったが、暖かい春の空気が色々な所から舞い込んできて、門出の僕や他の生徒を祝福しているようだった。
 卒業式が終わり、僕達卒業生は予約されたホールで卒業パーティーとなった。アルコール飲料は無かったが、これからの事や今までの高校生活の話題で華を咲かせた。
 僕と同じ席になった小川と加藤は、今後どうするかを互いに話し合った。僕と小川は都内の大学だったが、加藤は千葉だった。
「これから離れ離れだけれど、俺達の中は変わらないという事で」
 小川が音頭を取ろうとすると、加藤がこう挟んだ。
「私は千葉だけれど住む家は東京だし、京成線で往復できる場所だから問題は無いよね。これからもいつもの私達でいようよ」
「それじゃあ、乾杯」
 僕はそう音頭を取って、二人と共に瓶のコカ・コーラで乾杯をした。次に乾杯するときは、ビールかサワーに変わっているだろうから、これがノンアルコールで交わす最後の乾杯になるだろう。僕達三人はここからそれぞれのより良い日々に向かって進んでゆくのだ。
 それから僕は群馬に行き、合宿免許の教習所に行ってマニュアルの普通免許を取り、品川の免許センターで学科試験を受けて免許を交付された。それから一週間で大学の入学式があり、僕は真新しい既製品のスーツに身を包んで入学式に臨んだ。外の気温は暖かく、慣れないスーツ姿は汗がにじんで気分が悪かったが構わなかった。
 僕は新入生歓迎の声を上げる上級生を横目に、一年で履修する科目を選んだ。そして一通り科目を選んで自分の時間割りを作った。後は真面目に勉強するだけだと思うと、僕はようやく高校生から大学生に羽化したような気分を味わった。
 そして迎えた大学生活初めての金曜日、僕は大学から電車に揺られて帰宅し、部屋に荷物を置いてパソコンを開いた。机に向かいネットの動画サイトでも見ようと思っていると、兄がノックもなしに部屋に入って来た。
「よう、居るかい?」
「在室中にその言葉は変だよ」
 僕は突っ込んだが、兄は笑わなかった。そして僕の近くにやって来てこう言った。
「俺の車、保険を書き換えて置いたぞ、これでお前が運転して事故を起こしても保険が降りるようになった」
「ありがとう」
 僕は力なく答え、兄に退室してほしいと思ったが、兄は構わずにこう続けた。
「そこでだ、お前の運転の練習も兼ねて、ちょっと二人して車で出ようや。場所はお前に任せる。ガソリンは満タンにしておいた」
「日程は?」
「明日か明後日。兄弟二人で水入らずと言うのもいいだろう?」
 僕は考えた。確かに明日は暇で、何かしようと考えていたところだ。余計な交通費が掛からないなら、魅力的ではある。
「明日ならいいよ。交代しながら運転しよう」
 僕が答えると、兄は上機嫌で僕の部屋を後にした。意気揚々としたその後ろ姿は、兄の中にある単純さを端的に示している気がした。


 次の日の土曜日、天気はスマートフォンで調べた通りの晴空だった。僕と兄は白いベンツに乗って、朝七時半に家を出た。僕はまだ運転が慣れていない初心者だったので、あまり右左折の多いルートは通りたくなかった。
 僕が運転するベンツ・C200は護国寺を抜けて、目白から新青梅街道を直進した。渋滞が多いので時間が掛かり、ペダルワークで足が疲れそうになる。だが余計な右左折もなくゆっくりしたスピードで進むので、僕には好都合だった。フロントガラス越しに見える遠くの空は暖かな季節らしい澄んだ青色に染まって、人々を柔らかな表情で見下ろしている気がした。
 渋滞にはまりながら杉並区を抜けて、西東京市に入る。信号と信号の間隔が伸びて車線が広がると、横田基地に降りる米軍機の姿が進行方向に見えるようになった。僕は途中に見つけた駐車場付きのコンビニに立ち寄り、紙コップのコーヒーを買った。
「このまま行くと、お前の好きな奥多摩方面だな」
 その兄の言葉に、僕は胸を射抜かれたような不思議な感覚を味わった。
「奥多摩って、丹波山村の手前の?」
 僕はコーヒーを片手にそう言った。
「東京方面から見れば手前だな。時間が掛かるが行ってみるか?」
「ああ、行けるなら行ってみたい」
「なら行こうか、疲れただろうから運転は代わってやる」
 兄が勝手に宣言すると、僕は助手席に兄は運転席に乗り込んだ。兄は駐車場を出る前にスマートフォンからオーディオにつないだ音楽フォルダを再生させて、コンビニから奥多摩に向かう道を進んだ。流れてくる曲は、兄が好きなイージー・Eのデビューアルバムに収録された、歌詞を一つ一つ繋げて編集した曲だった。
 東村山を超え、青梅に入る。道をさらに進んでゆくと、青梅市立美術館のある場所で行き止まりになった。右折した後に左折して、国道四一一号を山梨方面に向かう。行き先を示す表示には奥多摩湖と言う文字が見えた。軍畑駅の辺りに差し掛かると、山々とそれを覆う木々は赤と緑のグラデーションを捨てて、青空から降り注ぐ春の日差しを受けて輝き始めている。暖かな日差しと青空の存在に、草木や地面が喜び分かち合っているのだろう。言葉が無いのに僕は嬉しい気持ちになった。
「奥多摩湖に寄っていくか?」
 兄が提案する。
「いや、スルーで。丹波山村の道の駅に行きたい」
 僕はそう言った。その言葉を受けて兄は奥多摩湖に立ち寄らず、そのまま東京を抜けて山梨に入った。
 一時間弱で車は丹波山村の道の駅に着いた。兄は道の駅の駐車場に車を停めて、車を降りた後併設されている売店へと向かった。道の駅はバイクツーリング客や家族連れで賑わっており、この場だけ騒々しい雰囲気に包まれていた。僕と兄は売店と一緒になっている食堂に向かったが混雑していたので、人が少なくなるのを待つ事にした。
「暫くかかりそうだから、少し散策するか」
「そうだね、十分くらい自由行動にしよう」
 兄の提案を僕は受け入れ、僕と兄は別行動を取った。
 僕は道の駅を離れて、川の対岸を繋ぐ橋に向かった。立ち並ぶ家々には春の暖かな日差しが差し込んで、山の村に春の喜びを伝えていた。
 そんな景色に見とれていると、僕は橋の上に晴れ着姿のまま小走りで移動する村人が居る事に気付いた。僕はその村人の後を目で追うと、杉山が住んでいた家の方向に向かっている事に気付いた。僕はその場に止まったまま、その人が視界から消えるのを待った。そしてその人が視界から消えてその場を離れようとすると、何人かの晴れ着姿の集団がこちらにやって来た。
 その中に、結婚式の着物姿に身を包んだ杉山が居た。白く透き通った着物と被り物の間には、化粧をして目を伏せている杉山の無垢な表情があった。傍らには新郎の祐樹さんが並び、近くには着物姿の貴美子おばさんが目を赤らめながら付き添っている。これから神社で結納の儀があるのだろう。杉山には神秘的で落ち着き払った空気を春の暖かさと共に身に纏っていた。
 僕は杉山の姿を見て居たかったが、すぐにその場を離れて駆け足で道の駅へと戻った。兄を探して見つけ出すと、兄がこう呟いた。
「食堂は三十分待ちだって、昼飯はどうしようか?」
「東京に戻って、何か食べよう。運転は俺がするから」
 僕の提案に兄は不思議そうな顔をしたが、兄は受け入れてくれた。
 駐車場に戻って車に乗り込み、エンジンを掛けて道の駅を後にする。道の駅から国道四一一号に入る時、オーディオに繋がれたスマートフォンの曲が新しいトラックを再生する。曲はラップにしては優しいメロディの曲で聞き覚えがあった。
「これ、なんて曲?」
「これは『ベターデイズ』だよ。2パックの曲」
 兄の言葉を僕は聞いた。そして僕は車を合流させて、東京方面に向かった。僕や杉山、出会った人たちすべてにより良い日々が訪れる事を信じて、僕はアクセルを踏んだ。
                                                    (了)
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