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 高校に入学した時、僕と杉山は同じ一年三組だった。入学したての頃は中学と違う雰囲気、特に留年や退学がある事が僕をひやひやさせたが、一週間もすると学校の校風にも慣れ、一丁前の高校生を気取るようになった。
 杉山と親しくなったのは、そのころだ。入学した時のクラスの名簿に名前が載っており、初めて出席を取った時に顔と名前を一致させたから知っていたが、まだ面と向かい合って話す事は無かった。
 杉山と話すきっかけは、高校に入って初めての校外活動である、鎌倉への遠足で同じ班になったことからだった。その班には、まだお互いに恋人同士になっていなかった小川と加藤も居た。
 僕達四人は教室の一角に集まり、鎌倉観光の具体的な予定を立てた。
「どこか行きたいところはある?」
 集まった四人のうち最初に口を開いたのは杉山だった。無意識に返事を迫られたような感覚を味わった僕は、杉山の顔を見てこう口を開いた。
「川端康成の住んでいた家に行ってみたいよ。日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した」
 その言葉を聞いた杉山は意外そうな表情で僕を見つめた。その際に杉山と目が合い、彼女の顔をまじまじと見る恰好になった。彼女の眼は大きく、黒目の主張が強かった。顔のパーツは彫りが深いわけでは無かったが、形が整っていた。気まずくなった僕は視線を逸らしてこう続けた。
「異論がなくて時間に余裕があるなら、いいよね?」
 杉山を含む他のメンバーは答えなかった。それによって川端康成の家に行くことがほぼ決定した形だった。
「他に行きたいところは無い?」
 今度は僕が皆に質問した。
「私は海岸に行きたい。有名だから」
 杉山は澄んだ声でそう言った。江の島を望む鎌倉の海岸は朝のニュース番組で見ていたから想像がついたが、その場に行って砂浜に佇んだ事は無かった。
「いいんじゃない」
 答えたのは僕だった。すると僕と杉山のペースで物事が決まる事に危機感を覚えたのか、小川がこう口を挟む。
「俺達だって行きたいところはあるよ。少し参加させてくれ」
 その時どうして言葉に複数形を使ったのか僕には分からなかったが、それを言い訳にしてようやく班の議論が始まった。

 やがて議論を終え、僕達は川端康成の家と鎌倉の海岸を訪れる遠足の予定を立てて、当日に臨むこととなった。僕達は集合場所である東京駅に集まり、班ごとに横須賀線に乗って鎌倉を目指した。
 鎌倉駅で電車を降りると、僕達は口頭で伝えられた注意事項を守って班ごとの行動に出た。僕達はまず最初に川端康成の家に行った。だが家は非公開で、ひっそりと本棚の文庫本のように佇んでいた。てっきり記念館的な建物になっていると思っていた僕はがっかりして、他のみんなにどう謝ればいいのか考えた。
「非公開じゃん」
 小川が詰まらなそうに漏らすと、僕の側に居た杉山がこう言った。
「まあ、ノーベル文学賞の空気は味わえたからいいじゃん」
 特に不満もない様子の杉山の言葉に、僕は救われたような気分を味わった。僕が杉山の方を見ると、彼女は僕の方を見て微笑んで見せた。
 それから僕達は鶴岡八幡宮近辺の観光客でごった返す界隈を抜けて、杉山が希望していた江の島に架かる橋の近くにある海岸にたどり着いた。海開きはまだまだ先だったが、良好な波を求めに来たサーファー達が数人、深い灰色の海に出ていた。
「サーフィンの本場は外房だと思っていたよ」
 加藤が漏らした。彼女は父親の転勤に合わせて千葉のいすみから引っ越してきて、東京の高校に進学したのだった。
「季節とか交通費の関係もあるんじゃない?」
 杉山はそう答えた。そして彼女は白く泡立つ波打ち際まで近づいて、深い灰色の海を見た後、白磁の様な空に視線を移した。その風景を移す瞳はまるで、森羅万象を移す水晶玉の様に清らかで、すべての物を丸く包み込むような柔らかさがあった。その姿は少女の持つ清らかさと、彼女の中に育っている女の深い優しさが入り混じっているような気がした。
 とても美しい。と言うのが僕の印象だった。僕が昔の画家――時代で言うなら印象派が隆盛を極めた時期の西洋画家の誰か――ならば、格好のモチーフにしていただろう。晴天でも悪天候でもない浜辺と彼女の組み合わせは、それだけで僕は価値のある物だった。
 それから程なくして僕達は鎌倉と江の島の観光を終えて、帰路に着いた。その日以来、僕達四人は学校や放課後と言った時間や場所を問わず、会って話すような間柄になった。僕達は高校生時代と言う名の、区切られたより良い日々を送っている、そんな実感がした。


 丹波山村を後にして奥多摩駅から電車に乗り、新宿駅で僕は小川と加藤に別れを告げた後、山の手線の外回りに乗って自宅へと向かった。駒込駅で降りると、僕は東口近くのラーメン屋で夕食を取り帰宅した。時刻は午後七時半を回っていて、丹波山村程ではないが涼しかった。もっと日付が進めば、ここも丹波山の様に寒くなるだろう。
 僕は風呂に入り、LINEで他の皆に帰宅した事を知らせた。僕の二階にある部屋の窓の下を覗くと、プラスチック製の屋根の下に父のレンジローバーと兄のベンツ・C200が馬車を引く馬の様に並んでいるのが見えた。
 僕はベッドに寝転がり、受験勉強を少ししようか悩んだ。だが始めて行った場所に疲れたのか、体が重くてやる気が出なかった。僕はスマートフォンを手に取り、写真フォルダを開いて今まで撮影した写真を見た。今日行った丹波山村は写真に撮れそうな対象が多く合ったにもかかわらず、一枚も写真を撮らなかった。失敗したなと僕は軽く後悔しながら、過去に撮った写真を見た。
 その中に以前杉山と一緒に撮った、スターバックスのラテを手に持って写った写真が一枚記録されていた。場所は池袋のサンシャインで、日付は一昨年の夏休みだった。確か夏休みに入って、暇だから一緒にどこかに行こうという話になり、池袋をうろついた日々の事だった。僕はその時の事をやんわりと思い返してみた。


 池袋駅の地下にあるいけふくろうの像で僕と杉山は待ち合わせた。杉山は夏らしい白いTシャツにミニスカートと言う格好で、対する僕はハーフパンツに黒いTシャツと言う、中学時代から変化の少ない恰好だったので、引け目を感じたものだ。
 僕と杉山は地下を抜け、大勢の人々が行き交う地上に出た。空気は排ガスに澱み、コンクリートの照り返しで温められて居心地が良いものでは無かった。
「これからどうする?」
 杉山が僕にそう囁く。どうやら僕も杉山もこの暑さで池袋に来て何をするかの予定を忘れていたらしい。
「とりあえず、外は暑いから建物の中に入ろうよ」
「それなら、サンシャインに行きたい」
 杉山がそう答えると、僕達は歩いてサンシャインに向かい、建物に入った。
 サンシャインに併設された商業施設に入ると、僕達は様々な物を販売する商店達を見て回った。だがこれと言って欲しいものがある訳でもなく、僕達は店頭に入っては何も買わずに出るという事を三回ほど繰り返した。ショッピングが目的でここに来た訳ではないのだ。途中、兄が好きそうなストリート系のファッションを扱うテナントに入った。そこに陳列された商品は極端な色使いで作られた、硬質さと粗暴さを主張するような品々ばかりが並び、軟弱者を自認する僕には少し合わない気がした。
「芦川はこういう感じのファッションとか小物は好きじゃないの?」
 杉山は店舗の壁に掛けられた、化学的な発色で彩られた平つばのキャップを眺めながら呟く。店内には兄が好きな西海岸のアーティストたちが吼える、きわどい言葉遣いのヒップホップミュージックが響き、まだ精神的にお子様である僕を困惑させる。値札を見ると、原料価よりもデザイン料やロゴの版権料が高いのか高額な物が殆どだった。
「俺が身に付けたら、アイテムに人間が負ける気がするよ」
 降参の台詞を僕が呟くと、杉山はそんな未熟な部分に気付いたのか、商品を眺めるだけで僕に薦めるような事はしてこなかった。
 テナント巡りを一通り終えると、僕と杉山はサンシャイン水族館に行くかそれとも展望台に上がろうか迷ったが、夏休みと言う事もあり家族連れで混んでいたので、僕らは喧噪を離れる事にした。
「芦川、喉が乾かない?」
 冷房の効いた吹き抜けから噴水を見下ろしていると、杉山がそう言った。
「ああ、乾いた」
「だったら、入り口にあったスターバックスで何か飲もうよ」
 杉山は以前に川端康成の家で見せた微笑みをまた僕に見せた。僕は反論する余地もなく、杉山に従った。
 僕と杉山は来た道を戻り、広場に面した場所にあるスターバックスコーヒーに向かった。店は休日と言う事もあり混雑していたが、しばらく列に並んで待っていると、僕達の番になった。
「ご注文はお決まりですか?」
 レジに立つ店員は澄んだ声で言った。この人からは僕と杉山はどのような間柄に見えるだろうか。
「僕はアイスのティーラテをトールサイズで」
「私はアイスのソイラテをトールサイズでお願いします」
 僕の注文に杉山が続く。考えてみれば、同い年の女の子と一緒に飲み物を注文するのは初めての事だった。
 会計が終わり、僕は飲み物が渡されるカウンターの位置に移った。飲み物が提供されるまでの間、僕はなんだか腹の内側をくすぐられるような奇妙な感触を味わった。
 やがて飲み物が届き、僕と杉山はカウンターを離れた。店内の席はすべて埋まっていたので、外の階段状になっている場所の日陰を探した。公園近くの木々が見える所に日陰を見つけると、僕達はそこに二人並んで座った。
「芦川は高校を出たらどうするの?」
 杉山が楽しそうな声で不意に訊くので僕は驚いた。将来の事をこの場で話すなど想像だにしていなかったのだ。
「とりあえず、大学には行く。もう少し学生を続けたいし、賢くなりたい」
「私は成績次第かな。大学や専門学校に行けたら楽しいとは思うけれど。高卒で就職出来るならそれでもいい気がする」
 杉山は何処かつまらなそうに漏らした。彼女の意図にそぐわない回答であっただろうかと僕は少し不安になった。だが杉山は僕のそんな繊細な部分に気付く事なく周囲を見回した。僕もそれに合わせて視線を泳がせると、十代から二十代の楽しい時間を過ごすカップルが四組視界に入った。僕と杉山も第三者の視点から見れば、五組目の楽しい時間を過ごしているカップルに見えるだろうか。
「他の人から見れば、私達はどう見えるかな?」
 悪戯っぽい口調で杉山が囁く。
「どうだろう、同じような光景はこの街じゃ普通じゃないかな」
 平静を取り戻した僕に対して、杉山は心を弾ませたままだった。
「こうやって誰かと一緒になるのはあまり無い事だから、一緒の写真を撮ろうよ」
「いいけれど」
 僕は快く答えた。〝一緒に写真を撮ろう〟という言葉を女子の同級生から掛けられるのは初めてだったからだ。杉山は鞄からスマートフォンを取り出すとカメラを自撮りモードした。僕は言われる前に一緒にカメラに写りスマートフォンの画面に自分を収めた。僕と杉山が切り取られた小さな世界に収まると、杉山は僕達二人の写真に撮った。
「後でメールで送るね」
 杉山はそう答えた。そうして僕と杉山が一緒に居た事は目に見える思い出になったのだった。
 それ以降の僕と杉山は、二学期になっても関係が発展する事もなく、ただ仲の良い友人であり続けた。もしあの時に、積極的になっていれば僕と杉山は恋人同士になって、肉体関係の一つでも結んでいたかもしれない。そうなれば僕と杉山の運命の歯車が狂って、今とは違う人生、異なる良き日々を送っていたはずだ。しかしそれはある意味間違いだったのだろう。



 そんな事を考えながら、丹波山村から帰宅した僕は再び日常生活に戻り、新たな月曜日を迎え何時ものように山の手線と地下鉄を乗り継いで千川の高校の門を潜った。教室に入ると、何時ものように馬の合う何人かの生徒がグループを作って談笑している。僕は席に着き、鞄の中から川端康成の文庫本を取り出して読む事にした。
 やがて授業が始まり、授業が一つ一つ過ぎて行く。授業が終わって昼休みの時間になると、担任の黒田先生がやって来て、僕に職員室に来るように言った。
 黒田先生の後について行き、職員室に入ると、僕が第一志望で入る大学の文学部に推薦入試で入れる事を告げられた。僕は嬉しい気持ちになったが、まだ進路が決まっていない親しい友人の事を想うと素直に喜べなかった。
 僕は黒田先生に深々と頭を下げて感謝の念を伝えると、午後の授業を真面目に受けた。普段ならだらしない気持ちで受ける午後の授業が、今日に限って真面目に受けてしまった。
 帰宅すると、僕はLINEで両親に推薦入試の事を伝えた。一時間程しておめでとうの返信が来ると、僕はその日にするべき事をすべて放棄して、心まで裸になりたい気分になった。所謂クライマーズハイ的な感情だろう。
 僕は高ぶる気持ちを抑えるために水を一杯飲み、自分の部屋のベッドに寝転がった。そして目を閉じ、自分が今まで過ごしてきた良き日々を思い出してみた。家族、学校、その他などなど。僕の人生は良い所だけかいつまんでみれば順風満帆そのものだった。
 だがそれだけでは無い事に気付いた。僕の中にある一つの傷跡のような思い出が心の中に有った。杉山が受けた、悪漢に銃撃されるような衝撃と痛みが。


 一年生を終えた僕達は二年生に進学し、高校生活を一番謳歌出来る年齢になった。僕と杉山は同じクラスの二年一組に進学し、小川と加藤は二組になった。クラスが変わっても僕達四人は変わらぬ交友を続け、華美な脚色は無くても、平和で細やかな高校生活を送っていた。
 そして制服が夏服に切り替わったある日、僕と杉山は学校の渡り廊下に居た。別にその場所で愛を育んでいた訳ではなく、単に体育館近くの視聴覚室に用事があって、その帰り道に過ぎなかった。
「ねえ、芦川。今度の休みは暇?」
 不意に杉山が僕に声を掛けた。その声は弾むようで、杉山の表情には笑みが浮かんでいた。
「特に予定はないよ」
「今度さ、私の好きな画家の展覧会が新宿の美術館であるんだけれど、良かったら行かない?」
 僕はハッとした。杉山と二人になるのは去年の夏休みに池袋で過ごした時以来だからだ。
「いいよ。俺は問題ないよ」
 僕は得意気に答えた。新宿で同い年の女子と一緒に居るのは、自分が大人に成長したような錯覚を覚えさせた。
「それじゃ決まりだね。また連絡するから」
 杉山はそう答えた。僕は胸の中に嬉しさと達成感の入り混じった感情を噛み締めて、彼女と共に教室に戻った。
 そして何日か経ち、土曜日の休みになった。幸いにも僕が始めたばかりのスーパーマーケットの夜のアルバイトは土曜日が休みだったので、彼女と待ち合わせることが出来た。
 僕は迷彩カーゴパンツに白地にプリント模様が入ったTシャツ姿で、新宿小田急百貨店前の宝くじ売り場近くに佇み、スマートフォンでくだらない動画を見て待ち合わせまでの時間を潰していた。本当ならドトールコーヒーのようなチェーン店の喫茶に入り、コーヒーを飲みながら文庫本を読むという組み合わせでも良かったのだが、僕は新宿駅周辺のチェーン喫茶店の位置を把握していなかったので、それはやらなかった。
 スマートフォンのバッテリーと時間を消費した僕は、腕時計の時間を見て今の時刻を確認した。午前十時二十八分。あと二分で約束の時間になる。杉山はどんな服装で来るだろうか。長袖から半袖に切り替わる季節らしい、古い物を落としたような美しさと瑞々しさを感じる服装だろうか。僕は何時になく胸を弾ませた。
 それから僕は十五分ほど小田急百貨店前を行き交う人々の表情や服装を見ながら杉山の登場を待ったが、杉山は現れなかった。すると僕のスマートフォンがブルルと振動して、ショートメールの到着を知らせてくれた。
 画面を開くと、そこにはこんな一文が記されていた。

「ごめんなさい。今日は急な用事で行けなくなった。せっかく休みを空けてくれたのにごめんね」

 絵文字も何もない、実に簡潔な文章だった。僕は背景に何か彼女の不幸みたいなものがあるのではと勘ぐったが、聞き返す勇気はなかったし、仮に何か問いかけても返事は帰ってこないだろうと分かっていた。

「わかった。またの機会に誘ってね」

 僕はその短い一文を返信した。結局、僕は何もせず新宿から家に帰った。
 日曜日が過ぎて新しい一週間の始まりである月曜日になった。僕は何時ものように家を出て学校に登校したが、杉山の姿は無かった。担任の教師が来て出席を取ったが、杉山の返事は無かった。
 それから次の日も、そのまた次の日も杉山は学校に来なかった。僕は様子を伺うメールを送ったが、返信は無かった。そうして一週間が終わろうとする金曜日の昼休みに、僕はクラス委員の女子生徒、白岡と菊池が何か噂をしあっている事に気付いた。どうせ下らなくて意地汚い話題だろうと思って、僕は会話を無視する為に持ってきた川端康成の小説を読もうと文庫本を取り出した。だが耳に入ってきた二人の会話に「杉山」と言う言葉が入ったのを僕は聞き逃さなかった。
「知ってる?杉山美佳の事」
 白岡がそう話した。彼女には菊池との二人だけの会話でしかないのだろうが、文庫本を近くで読んでいた僕にはその言葉が耳に入った。
「最近学校に来ていないけれど、何かあったの?」
 菊池が訊き返す。
「なんか、あの子三又くらいかけていたらしいよ。このクラスの男子含めて、中学の同級生と他の男と付き合っていたんだって、そしたらそれが別の男にばれて、先週家に怒鳴り込まれたんだって」
 白岡はそこで言葉を区切った。僕の頭の中に、読んでいた小説の内容がフィルム焼けを起こすように消えて、代わりに玄関先に呼び出された杉山が男に罵声を浴びせられている光景が蜃気楼みたいに浮かんでくる。
「それで?」
「それならまだしも、家に上がり込まれて警察沙汰だったらしいよ。おまけにお母さんがそれで怪我したらしいの」
 白岡はそう続けた。彼女には杉山の紡いだ不幸の物語が三文芝居か何かに思えるのだろうか。
「それで、三又がバレた理由は何なの?」
 菊池がさらに尋ねる。
「別の男と一緒に写って何かしている写真が相手に見つかったらしいよ。間違えてメールを送信したとかじゃない」
 僕は戦慄した。心臓が高鳴り自分が悪い注目を受けている感覚を味わう。杉山と一緒に写っているのは去年の池袋での僕だろうか、それとも僕の知らない他の男だろうか。
「とにかく、悪い噂が立ったらもうこの学校には居られないんじゃない。ビッチとかヤリマンとか言わるの、共学じゃ無理でしょ」
 白岡がそう言うと、四限目の数学の教員が教室に入ってきて、二人の噂話はそこで終わった。僕は放心状態で文庫本を閉じ、机の中に仕舞って数学のノートと教科書を取り出した。
 その日、僕は胸に空いた喪失感を味わいながら学校を終えて、意思を喪失したまま家路についた。別に僕が遊び相手の男だったから辛かったのではない。それまで見て来た杉山の美しい姿形と存在が、すべて全否定されて醜い姿に歪められたのがショックだったのだ。

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