文字数 8,503文字

 十月も今日の月曜日を持って半分になる。
 夏の暑さもすっかり身を潜めて、涼しい風が昼間でも時折吹くようになった。道行く人達の服装もほとんどが落ち着いた色合いの長袖になり、太陽の下で汗を流しながら動き回っていた時期に比べて、街は落ち着きを取り戻したように思えた。
 学校に向かう道は姿形こそいつも通りだったが、木々の色合いが少し深みを増して、枝に付いた葉が夏場より頭を下げていた。あと二か月、クリスマスソングが溢れる頃には葉も色がくすんで、乾いた音をアスファルトの路面から奏でるに違いない。
 そんな事を考えながら、僕は今年で卒業する高校の正門を潜った。校門を抜けて正面玄関に向かう生徒たちは皆長袖の冬服で、空気の冷たさを視覚的に分からせくれる。
 上履きに履き替えて、自分の教室に向かう。僕の通う教室は三年二組で、これは小学校時代と同じだった。
 教室に入り、僕は自分の席に着く。必要な勉強道具を出すと、隣の席の小川が声を掛けて来た。
「おはよう、芦川」
「おはよう」
 僕は小川の挨拶にそう答えた。小川とは入学時に同じクラスで付き合いが長い。だが、最近は受験勉強の為の学習塾通いでお互い放課後に過ごす機会が少なく。朝の時間のホームルームや昼休みくらいしか会話する機会が無かった。
「今度俺と千鶴で、杉山の所に行こうと思うんだけれど、お前はどうする?」
 突然、小川が僕に訊いてくる。僕は小川の傍らに居た、小川の彼女である加藤千鶴の事を思い浮かべた後、小川の顔を再び見る。
「なんでまた?」
 僕は小川に返した。これから大抵の生徒は大学受験か就職活動で忙しくなるのに、他所の場所に行く余裕などあるのだろうか。
「あいつ、二年の途中から学校来ていないじゃないか。千鶴と話したんだけれど、今どうしているのかなって」
 僕は黙って考えた。杉山は一年と二年の時に、僕や小川、そして小川の彼女である加藤と仲が良かった女子生徒だ。だが二年の途中辺りから学校に登校しなくなり、結局三年生への進学を諦めて自然消滅に近い形で学校を退学してしまった女子生徒だ。そんな彼女の元に今更会いに行くなんて、どんな風の吹き回しだろうか。
「俺達が行っても、杉山が嫉妬するだけじゃないのか。俺達は高校生活を謳歌して次に進もうとしているのに、いきなり押し掛けるなんて」
「別に今の自分達を自慢しに行く訳じゃない。あいつの顔をもう一年以上見ていないじゃないか」
 僕は黙り込んだ。確かに今の杉山は辛い境遇にあって、必要最低限の連絡しかしない状況に追い込まれているかもしれない。だが、高校生活を謳歌し大学進学を控えている僕達が彼女の元に行っても、何か助けになるのだろうか。気晴らしにはなるだろうが、本質的な解決にはならない筈だ。
「行ってどうするんだ?」
「知っている顔を見れば、少しは気分が楽になるんじゃないかと思っただけだ。忘れた頃に友達が声を掛けると、気分が楽になるだろ?」
「あいつは今どこにいるんだっけ?」
「奥多摩の先の山梨の村。電車とバスで行ける」
 その言葉を僕は飲み込む。
「無理にとは言わない。お前の自由で構わない」
 小川は僕に言葉をかけて、反応を待った。
「日程はいつなんだ?」
 僕は小川に訊き返す。
「今度の土曜日だ。行く気があるなら、今日中に返事をしてくれ」
「わかった。行くよ」
 僕は小川に即答した。するとチャイムが鳴って、ホームルームの時間が始まった。


 その日の学校が終わり、帰宅部の僕は地下鉄と山手線を乗り継いで帰宅した。そして私服に着替えて、中学時代からお世話になっている地元の学習塾に通った後、僕はコンビニに寄り道し部屋で勉強する時につまむジュースとスナック菓子を買って、二度目の帰宅をした。父と母、それに兄はすでに夕食を終えており、父はテレビのHDDに録画した海外ドラマを見ていた。僕は自分の為に残された夕食のミートソースのスパゲッティを食べながら、父の見ている海外ドラマを横目で見ていた。
 食事をしていると、風呂から出た兄が食事をしていた僕のテーブルにやって来た。兄は今、とある会社でアルバイトをしながら大学に通っており、文学部で外国文学を学んでいた。
「よう、お疲れ。今日はどうだった」
 兄は言った。大学に通い始めてから僕と兄の生活リズムは噛み合わなくなっていたから、今日に兄と会話をするのは初めてだった。
「別になんもないよ。平和だった」
「そうか」
 僕の言葉に兄はつまらなそうに答えた。
「兄貴は明日休みだよね。どうするのさ?」
「新しく買った車でお出かけするよ。そろそろ山の辺りが良い感じになる時期だし」
 兄は答えた。丁度今年の誕生日のお祝いに、不動産会社経営の伯父さんが、気前よく車を買ってくれたのだ。予算二〇〇万円で買ったのは、中古の五年落ち三万キロの白いメルセデス・ベンツ・C200。選んだ動機は昔のアメリカのラッパーたちが初代モデルに当たる車を愛用していたとのと、中古の白いベンツがラッパーの成り上がり映画に登場するのが理由だった。これで我が家の車は父が持つレンジローバーと合わせて二台体制になったのだった。お陰で兄はそれまで所有していたヤマハの四〇〇ccのバイクを手放す事になったが、気にしては居ない様子だった。兄は大学の休みを利用して一人で何処かへ出かけるのが好きな人間で、関東近辺の主要な観光地を巡るのが趣味だった。
 その事が、僕にある事を思いつかせる。
「そういえば兄貴、訊きたいんだけれど、奥多摩方面へ電車で行くには何線を使えばいいの?」
 突然僕に質問されたにも関わらず、兄は平然とした様子でこう答えた。
「確か青梅線で行ける。新宿から出ているはずだよ」
「そう」
「あっち方面に用事でもあるのか?」
「奥多摩の先にある、山梨の村に住んでいる友達のところに行こうと思うんだ。それで兄貴なら行く方法を知っているかなと」
 その言葉を聞くと、兄はこう僕に提案した。
「なら、今度俺の車で行こう。あの辺りは今頃行くと自然が美しいし、冷たい空気が気持ちいんだ」
「俺は友達二人と行くんだよ。それに遊びで行くわけじゃない」
 僕がそう答えると、兄はこう続けた。
「それなら、俺を行くときの運転手代わりに使えばいい。お前を入れて三人なら乗れるよ。どうする?」
 兄の言葉に僕は少し考えた。行きの電車賃は節約できるので悪くないなと思ったが、お調子者の兄に友人を付き合わせたくないのも事実だった。
「それは友達と話して決める」
 僕はそう答えて食事を終えて、部屋に戻った。
 部屋に戻ると僕はLINEで小川と加藤の会話グループにメッセージを送った。内容は目的地近くまで兄が送ってくれるという事、移動は兄貴が買ってもらった自慢の愛車ベンツになるという事だった。
 スマートフォンを放り出して返事を待っていると、小川と加藤から返信があった。ロックを解除して確認すると、二人共そちらの都合が良ければ構わないという内容だった。
 やれやれ、と僕はため息を漏らして、LINEで兄に今度の土曜日に目的の場所まで送ってもらうように連絡した。


 土曜日は曇り空だった。北海道の西、樺太の南辺りから流れ込んできた寒気のせいで肌寒く、普段より一枚多く服を着る羽目になった。僕は山に行って急に冷え込んだ時の為に備えて、マウンテンパーカーを羽織って、アメ横で買った黒いジープ帽を被った。自分の準備が整うと、僕は家の外でベンツ・C200に掛かっていた銀のカバーを剥がしていた兄に声を掛けた。
「俺は準備出来たよ」
「ちょっと待て、俺はこのカバーを仕舞うから」
 兄はそう答えてカバーをスチール製の倉庫に仕舞い、車のドアロックを解除して運転席に乗り込んだ。僕も助手席に乗り込んでシートベルトを掛けると、兄がエンジンを掛けた。アイドリングが安定してエンジン全体にオイルが循環すると、兄はスマートフォンの2パックの曲を、オーディオに接続して再生し、サイドブレーキを解除しギアをドライブに入れて車を出した。高級そうに演出された車内に、2パックのアルバムから記録させた曲がランダムに流れ始める。タイトルは忘れたが、今オーディオから流れている曲は映画のタイトルにもなった、二枚組アルバムに収録されている最初の曲だ。
 家の近くにある二車線の道路に出るための信号で止まると、僕は兄にこう言った。
「この車にはもう慣れたかい?」
「一応な。自分の車だから体の一部にしないと。親父のレンジローバーよりは運転しやすいぞ」
「俺が免許を取ったら、ハンドルを握ってもいいかな?」
 僕は言った。早生まれなので免許取得よりも受験の方が僕にとっては優先事項だった。
「保険を書き換えたらな」
 兄が言うと、信号が青に変りベンツが走り出す。
 暫くして、僕と兄が乗ったベンツは僕の通う高校近くのコンビニに向かった。小川と加藤とはここで待ち合わせをして、車内で飲む飲み物などを調達する事になっていた。
 コンビニの前では、秋に山の方へ行く観光客のような服装に身を包んだ小川と加藤が居た。兄は車をコンビニの前に停めて、エンジンを切って車を降りた。僕も車を降りて小川と加藤を出迎える。
「よう、待ったかい?」
 同じように車を降りた僕は小川に訊いた。
「いや、そんなには待っていないよ」
 小川はそう答え、視線を僕から兄に移した。そして「今日はよろしくお願いします」と言って、加藤と一緒に頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ」
 兄は謙遜して、自分用の飲み物を買う為にコンビニへと入った。
 それから五分程で僕達は車に乗り込み、来た道を少し戻って川越街道に出ると、笹目通りを経由して大泉から関越自動車道に入った。目指すのは圏央道の青梅インター。下道でも良かったのだが、兄が気を利かせて時間短縮の為に高速を選んだのだった。
 三芳のパーキングエリアを通り過ぎると、少し緊張気味の後部座席の加藤が我慢できないように口を開いた。
「これから行く所って、どんな場所?」
「東京と山梨の境目にある村。周囲を山と深い森に囲まれている秘境だよ」
 助手席の僕はそう言った。奥多摩方面には、以前に家族で甲府に向かう時に車で通った事があるだけだったが、緑が豊かな場所だという事は記憶していた。
「なんで美佳は、そんなところに行ったのかな?」
「親戚の人が居るんだよ、仕事を何かをやっている。あいつが一人で引っ越す時に小耳に挟んだよ」
 小川が答えた。東京二十三区を離れているのは知っていたが、一人で引っ越していたのは意外だった。
 暫くして、気まずいような空気が車内に漂いだした。兄のスマートフォンに記憶されたウエストコーストのヒップホップは相変わらず流れ続けて、ドクター・ドレー、ウォーレンG、スヌープ・ドッグにアイス・キューブといった西海岸のアーティストの曲を流したが、もう僕は同じようなリズムの曲に聞き飽き始めてしまった。英語の呪文のような音楽が続いて、何だか宗教的な祈りをささげる場所に来てしまった気分になる。兄は上機嫌だろうが、同乗者の僕はそうでもなかった。後部座席の小川と加藤はどんな気分だろうか。
 流れていた曲が変わり、新しい曲が流れる。ヒップホップの曲だったが、ラップしているのは兄がよく聞く2パックの声だ。
「この曲の歌手は、なんて言う名前ですか?」
 後部座席の加藤が兄に質問する。
「2パックって言うラッパーだよ。二十年以上前にラスベガスで暗殺されたけれど。この曲は没後に発表された曲で、『ベターデイズ』って言う曲なんだ。聞き飽きたなら、別の曲にするか止めるよ」
「いえ、お構いなく」
 加藤はそう答えたが、兄は曲が終わるとインストゥルメンタルパネルの多機能パネルを操作して、スマートフォンに入っている曲を停めて、ラジオ放送を流し始めた。チャンネルはNHKラジオで、番組の合間に流す短いニュースを放送していた。僕は兄の世界から解放された気分になって、身体の中の緊張の糸が解れるのを感じた。


 それから僕達を乗せたベンツは圏央道に入り、青梅インターから下道に降りた。そして新青梅街道を青梅方面に進み、青梅市立美術館の脇を抜けて国道四一一号に入った。新しく建設された市立施設の前を左折して山梨方面に進むと、街並みは都会の雰囲気を一気に削ぎ落として、冷たく深い緑に包まれた山里の景色に切り替わった。緑の景色が目の中に飛び込んでくると、僕の中に溜っていた街の灰色の色が、艶の無い緑色に変色してゆく。
 軍畑駅を抜けると、風景からは街の構成要素と呼べるものが次第に姿を消して、人の気配と密度が急に薄くなった。道端にも観光施設などの看板が目立つようになり、僕達は遠い場所に来たのだと実感した。
「場所はどのあたりだい?」
 運転席の兄が後部座席の小川に質問する。
「この国道四一一号を抜けた、山梨の丹波山村と言う場所です」
 小川はそう答えた。兄は黙ってハンドルを握り続けてベンツを走らせ続けた。
 奥多摩の観光客相手の賑やかな界隈を通り抜け、小河内ダムに繋がる道を抜けた。山の谷間に作られた細い道を進み、橋を超えると山梨県に入った。そこからさらに山坂道を進むと、日帰り温泉が併設された道の駅の看板が見えた。
「もうすぐです」
 後部座席の小川が漏らした。やがて道の向こう、山の開けた辺りに家々の姿が見えると、小川は「あそこだ」と漏らした。
 兄は道の駅の入り口を通り抜けて、道路沿いに家々が立ち並ぶ場所に車を停めた。
「それじゃ、俺はここまで。後は気を付けて」
「助かった。ありがとう兄貴」
 僕は乗せてもらった人間を代表して兄に礼を述べて、手荷物を手に車を降りた。僕達が車を降りると、兄は軽くクラクションを鳴らして甲府方面へ走り去っていった。残された僕達は周囲を見回し、陸続きとは言え自分の知らない土地に来てしまった事を改めて実感した。
「ここから何処へ行くんだ?」
 僕は小川に質問した。小川はスマートフォンの地図アプリを使って、杉山が住んでいる場所を探していた。
「ここから少し歩く、川の対岸の畑の中に有る一軒家だ」
「杉山に連絡はした?」
「さっきショートメールを送ったよ」
 加藤が答えた。杉山が東京を離れて以来、連絡を取っているのは僕達の中では加藤だけだった。その言葉を合図にして僕達は目的地である杉山の家に向かった。
 僕達が降り立った丹波山村は村と言う行政区分だけあって、一軒屋の建物がひしめき合い、その間から山と曇り空が見えて人間の存在が小さく感じられた。改めて山を見ると紅葉はまだ今一つと言った感じだったが、冷たい空気と温かい季節の瑞々しさがなくなった緑からは水墨画のような落ち着きと静寂が漂っていた。
 僕達は細やかな賑わいを見せるエリアを抜けて川に掛かる橋を越えて、畑が広がる場所に出た。その広い畑の中に、昔話に出てくるような古い日本家屋がぽつんと、周囲に流れる時間から取り残されたように建っていた。
「あそこだ」
 小川がそう小さく叫ぶと、僕の気持ちは少し弾んだ。一年半ぶりに会う杉山はどんな表情だろうか、都会のごみごみした場所に住んでいた時より、表情は晴れやかだろうか。
 家の前に来ると、僕は珍しい摺りガラスのガラス戸の隣に設けられた呼び鈴を押した。程なくガラス戸の向こうで人の動く気配がしたあと、目の前に人のシルエットが摺りガラスに浮かび上がる。鍵が解除されると、そこには杉山の姿があった。
「ああ、千鶴に小川君。芦川君も来てくれたんだ」
 杉山は依然と変わらない声――僕達の目の前に表れなくなった時と同じ声で僕達を出迎えた。変わったのは服装が地味な物になったのと、軽く茶色に染めていた髪が艶やかな黒髪になっていた事だ。
「ここまで来るのは大変だったでしょう。中に上がってよ」
「それじゃ、お言葉に甘えてお邪魔します」
 小川がそう答えると、僕達は家に上がった。
 僕達来客三人は居間に通された。広さは六畳ほどの畳敷きで、冷え込みが強くなるのかすでに炬燵が用意してあり、石油ファンヒーターが用意されていた。
「ここには、美佳と誰が住んでいるの?」
 仲が良かった加藤が尋ねる。二人は同級生であった時、中の良い女子生徒同士で通っていた関係だった。
「私の親戚のおばさんと、地元で林業をやっている男の人。ちょっと特殊なルームシェアかな」
 杉山は来客用の湯飲みに急須のお茶を注ぎながら答えた。僕にとって、同級生に緑茶を入れてもらうのは人生で初めての体験だった。
「こっちでは何か仕事をしているの?」
 今度は小川が質問した。
「観光客相手のお店でアルバイトをしている。後は地域のイベントをお手伝いしたりとかもね。ここに居ると、都会に居た自分がいかに詰め込まれた思考をしていたんだなって思うようになった」
 杉山は湯飲みに注いだ緑茶を持ってきて、僕達に出した。淡い薄緑のお茶が、ほのかに甘い香りを放ちながら僕達の前で湯気を立てている。
「とにかく。元気そうで良かったよ」
 僕は最後にそう言葉を添えた。僕達にお茶を用意してくれた杉山からは、来客をもてなし明るく振る舞う余裕が感じられた。
「私は一人でここに来たからね。いつまでも過去の事を引きずっていたら何処にも居場所がないから」
「なんでここに来たんだい?」
 緑茶を一口飲んだ小川が杉山に訊く。
「私の家は片親で妹と弟がいるでしょ。だから、高校に行かないなら働けって言うことになってね。どこか働ける場所を探したの。そしたらこの村に住んでいる親戚のおばさんが来ないかってお誘いがあって、この村に移り住んだの」
「一人で不安じゃないの?」
 今度は加藤が訊く。
「大丈夫。私は高校を出た後短大に行って独り暮らしをしようと思っていたから。ちょっと予定は変わったけれど、気にしてはいない。私なりにいい日々を送っていると思う」
 杉山の言葉を聞いて、僕達は納得したように頷いた。杉山の心は都会の空気や水の様に澱んではおらず、この村の空気や川の水の様に、清らかで透き通っていた。
 そうこうしている内に、昼食の時刻に差し掛かった。振り子時計が正午を知らせる鐘を十二回鳴らすと、杉山は「お昼だ」と漏らした。
「お昼食べていないでしょ、折角だから何か食べにいこうよ」
「家に戻ってくる人は居ないの?」
 僕は杉山に言った。
「大丈夫。おばさんには今日友達が来る事を知らせているから、食事をしてくる書置きを残せば大丈夫だよ」
 朗らかな表情で杉山はそう答えると、炬燵から立ち上がって外出の準備に取り掛かった。
 それから程なくして僕達は準備を整え、家を後にして書置きを残し、観光客向けの料理店に入った。杉山はこの店の人と顔なじみらしく。アットホームな雰囲気が店内に生まれた。
「あら、美佳ちゃん。お友達?」
「東京から来た友達です」
 杉山が紹介すると、僕達は照れ臭い気持ちを隠して頭を下げて席に着いた。
 僕と杉山は隣合わせで席に座った。店内には地元の男性が一人、瓶のビールを飲みながらスポーツ新聞を読んでいた。僕達は舞茸の天ぷらが付いたそばセットを注文した。
「この辺りは蕎麦とキノコ類が美味しいよ。後は川魚とか」
「水が良いんだね」
 杉山の言葉に僕はそう答えた。やがて注文した品がやってくると、僕達は箸を手に取って料理を食べた。
「東京の方はどう?」
 今度は杉山が僕達に質問した。
「まあ、普通かな。就職する奴も居れば進学する奴も居るよ」
 小川がそう答えた。
 食事が終わり、僕達が杉山の家に戻ると、彼女の親戚で家の主である杉山のおばさんが帰宅していた。
「ああ美佳ちゃん。東京の友達と一緒だったのね」
「ただいま、貴美子おばさん。祐樹さんはまだなんだ?」
「ちょっと遅れるらしいわよ。さっき家に電話があったわ」
 貴美子おばさんがそう答えると、杉山は東京から来た僕達を紹介した。僕達はそれぞれ自己紹介をして、頭を下げた。
「遠いところをありがとうね」
 貴美子おばさんはそう答えた。
 それから僕達は、貴美子おばさんを交えて談笑し、僕と小川のメールアドレスを杉山に教えた。そして道の駅を発着する帰りのバス時間が近付くと、僕達は礼を述べて家を後にした。まだ日は高かったが、時間を逃すと帰りが夜遅くになってしまうので、早めに切り上げる事になった。
 帰りは道の駅のバス停まで杉山が見送ってくれた。奥多摩駅行きのバスがやってくると、僕達は杉山と別れの言葉を交わした。
「また何かあれば、こっちに来てね」
 杉山がそう言うと、僕達は「ありがとう」の言葉を口々に言ってバスに乗り込んだ。そして扉が閉まりバスが奥多摩に向かって走り出すと、窓の向こうで手を振る杉山の姿が小さくなっていった。
 僕達を乗せたバスは国道四一一号を奥多摩方面に向かって進み、山梨県を超えて東京都に入った。そして奥多摩駅にたどり着き改札を抜けて電車のホームに出ると、加藤がこんなことを漏らした。
「美佳はいい感じの毎日を送っているみたいだね」
「ああ、幸せそうで良かったよ」
 小川が答えた。そして僕は思い返した。彼女と過ごした良き日々の事を。
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