母:その5

文字数 7,306文字

 日曜日、目を覚ますと小雨が落ちていた。朝方ベッドの中で肌寒く感じたのは、たぶんそのせいだ。倉田百合は窓の外を見て顔を顰めた。雨の日は、ストレートパーマをあてている髪が、思うようにまとまらない。約束はデートではないけれど、恋しい人のところへ出かけるのではないけれど、今日は、きちっとスーツを着込み髪も髭も机の上も清潔にして、世間のイメージを裏切ることこの上ない〈探偵〉に会いに行くのだが、それでも出かける先に小石が転がっているように感じた。つまらない話で躓いたりしなければいいけど……漠然とそんなことを思った。
 バゲットを焼き、紅茶を淹れ、ベビーリーフを摘まむ朝食をとりながら、百合は昨日から繰り返してきた答えの出るはずのない自問を繰り返した――〈池内夏馬〉は私にとってなにものなのか? 答えが出ないと言い切れるのは、このあと探偵の小向に会うまでは、彼がなにものであるかわかっていないからである。佐伯が静岡市に勤務していたとき、「池内」という名の大口(と想像される)顧客がいた。〈池内夏馬〉はどうやらその一族であるらしい。わかっているのは――昨日の時点で知らされたのは――そこまでだ。
 当時、静岡市周辺にいくつの支店があったのか、わからない。地方都市にそれほどの数の支店があるとは思えない。そこは地銀や信金とは違う。ATMならともかく、店舗は大都市に集中している。しかし、佐伯がどの支店にいたのかなど、きっと大きな問題ではないはずだ。彼の訪問は、どのように想像してみても、資金に関わる話ではなかった。そもそも手ぶらでやってきた。一見して、上質な生地で仕立てられたオーダーメイドのスーツであることは見てとれたものの、ネクタイは目についたものを適当につかんで結んできたように感じた。
 それに、佐伯の放つ空気がまるで違った。そちらのほうが重要だ。殊に大宮支店に関係する仕事が始まってから、恐らくあれほどに柔らかな佐伯の顔を見た記憶がない。したがって、彼は

にやってきたのではなく、佐伯稔という

に会いにきたのである。――そう、そこだ。彼のことが気になってしようがない理由は、間違いなくそこにある。
 が、百合の思考はその先へは行けない。しかしもうそれを想像する必要もない。あと数時間で――正確に言えば二時間ほどで――明らかになる。…そのはずだ。あの小向という探偵が、さほどの情報が得られたわけでもないのに、「会って説明したい」とは言わないだろう。そういう人間だと思う。もったいつけて駆け引きに出るようなことをする人間ではない。
 百合はいくらか余裕を見て電車に乗った。
 十時少し前に渋谷に着くせいか――つまり休日が動き出す時間帯であるせいか――京王線も井の頭線もそこそこに混んでいる。傘を差そうかどうしようか、迷うくらいの細かな雨粒が落ちていた。それでも百合はやはり髪のまとまり具合――まとまらなさ具合?――が気になって、少しでも濡れないようにと傘を開いて渋谷駅を離れた。
 246号の歩道橋を渡る。緊張しているのが自分でもわかる。なにか想像もできないような事柄が待っているような気がする。でもたぶん自分を脅かす内容ではない。知らなくてもいいことなのに、知ってしまったがためにいっそう落ち着かなくなる、そんな事柄だ。――しかし、それっていったいどんなことなのだろう…。

「紙に印刷する必要がありますか?」
 初めての訪問時にはデスクに向き合って座った小向だったが、この日はソファーを勧められた。テーブルの上には先日と同じように香りのいいお茶が出され、小向は膝の上にノートパソコンを乗せている。つまり、印刷する必要がなければディスプレイ上だけで終わらせたいという意味だろう。
「お話しを伺ってみないことには判断でき兼ねます」
「ああ、その通りですね。失礼しました。…では、ひとまずこちらで説明させて頂きます」
 そう言って、小向が百合のほうへ向けたノートパソコンのディスプレイには、「池内家系図」と題された横に広い家系図が映し出されていた。横に広いのは、同世代の人間が多いせいだ。いまどき珍しいな…と百合はそんなことを思いつつ眺めた。さっと見たところ、特定の誰かにそれとわかる印が付いていたり、誰かの名前だけが太字になっていたりはしていない。
「その気になればかなり古くまで遡ることのできる家のようです、この『池内』というのは。しかし倉田さんに関係する、あるいは佐伯さんに関係する、あるいは夏馬という名の男に関係するのは、この三世代になります」
「はい」
「いちばん上の〈桔馬(きつま)〉は故人です。十九年ほど前に亡くなった人で、夏馬の祖父に当たります。当時、衆議院議員でした」
 ――衆議院議員…!?
 百合はドクンッと心臓が揺れるのを感じた。……まさか大宮支店に関係しているのか?と思ったのである。佐伯が関心を寄せてきた事案について、どうやらそういう話らしいとは、百合も薄々感づいてはいた。問題の資金は政治家と関係している。だから最重要機密に分類されているのだ、と。
 もしかすると私は本当に知らなくてもいい、いや、知ってはならないことを聞かされるのかもしれない。小向の話をいますぐここで、本当の最初のここだけで中断させたほうがいいのか――しかし、百合には決断がつかず、そうとは知らぬ小向は先に進んだ。
「桔馬には六人の子供がいます。女性が四人、男性が二人。上から順にお話ししますと――」
 と、小向はやや身を乗り出して、家系図の二段目の百合から見て右手を指し示した。
「長女の芙蓉(ふよう)は高校の教師。長男の拓馬(たくま)は県議会議員。次女の華澄(かすみ)は専業主婦。三女の常葉(ときわ)は製薬会社の研究員。四女の茉莉花(まりか)は信用金庫の職員。次男の(かのう)は大学教授です。…ご覧になっておわかりのように、長女、長男、次女、四女には子供がありますが、三女と次男にはありません。三女には離婚歴がありますけれど、次男はずっと独り身です」
 百合の眼は、長男・拓馬から降ろされている線の先を見つめていた。
「はい。夏馬というのは、この長男の一人息子になります。池内家の直系の嫡男ですね」
「括弧の中の三十というのは年齢ですか?」
「そうです」
「なにをしている方なのでしょう?」
「どうやらなにもしていらっしゃらないようです」
「……なにもしていない?」
 思わず顔を上げた百合に、小向は困ったような笑みをつくりつつ頷いた。
「はっきりしたことは申し上げられないのですが――あ、申し上げられないというのは本当にわからないということでして、大学を中退したあとは、本当になにもしておりません。言い方を変えれば、一銭の税金も納めていない、という意味です。そのような形跡が見当たりません」
「どうやって暮らしているんでしょう…」
「この三女の常葉という叔母の扶養に入っています」
「叔母さんに食べさせてもらっている、ということですか?」
「そうなりますね」
 つい先ほど自分の心臓を揺らした夏馬の祖父・桔馬の存在を、百合は一瞬のうちに消し去っていた。頭の中にはふらっと手ぶらで佐伯を訪ねてやってきた、あの見上げるほど長身の男が拡大されている。どこか悪いところがあったろうか…。三十歳になるまでずっと叔母の被扶養者であらねばならない、その理由を説明するなにかを百合は探そうとした。
「どこか悪いのでしょうか? なにか難しい病気に罹っているとか、だから働くことができないとか…」
「それもわかりません。とにかくこの夏馬という人物に関しては、本当になにも出てこないのです。二、三日の机上の調査でそんなことが言えるのか?と疑われるかもしれませんが、私も長くこの商売をやっていますから、そこはわかります。この男からは掘っても手繰っても恐らくなにも出てこない。恐らくではなく、もう間違いないと申しましょう。…しかし倉田さん、実はそんなことよりも――」
「ちょっと待ってください」
 夏馬の話題から離れようとする小向の気配に、百合は慌てて手を上げてそれを制した。
「どうしようもないのですか? たとえば彼をしばらく尾行してみるとか、そんなことも意味がないのですか?」
「そうですね。…たとえば彼がいつどこへ行ったか、どこでなにを買ったか、どこでなにを食べたか、どこで誰と会ったか、そうしたことはわかるでしょう。しかし恐らくそれは、倉田さんがいつどこのスーパーで買い物をしただとか、いつどこのカフェでお友達と会ったとか、そのような類の情報が淡々と積み上がって行くのと変わりません。倉田さんはこの夏馬という人物について、そのようなことをお知りになりたいわけではないのでしょう?」
「わかりません…」
 百合は首を横に振った。
「わからないんです、自分でも。どうしてこの人のことが気にかかるのか、どうして小向さんのところにきてしまったのか、どうしていまここでこんなお話しを伺っているのか――」
「倉田さんのその不可解なお気持ちを、私にはご説明することができると思っています」
「でもいま小向さんは、池内夏馬についてはなにも出てこないと――」
「はい。直接はなにも出てきません。しかし、倉田さんの勘は外れていません。私の勘も外れていません。この人物はもしかするとある重要な役割を担っている可能性があります。この一族にとって、この『池内』という一族にとって。もしかするとそれが彼の存在の意味なのかもしれない。それをご説明させて頂いてもよろしいですか?」
 もちろん百合は頷いた。小向の表情から、その話しぶりから、彼が見かけによらず実は少しばかり興奮しているらしいことがわかる。彼が「会って説明したい」と言ったのは、どうやら池内夏馬の不可解な人生についてではなく、ほかにそうすべき事柄があるという意味なのだ。
 百合は少し冷めてしまったお茶を口にした。淹れ直しますか?と小向に尋ねられ、それには及ばないと断った。頷いて、小向は改めて百合の注意を「池内家系図」に向けさせると、ディスプレイ上で第二世代のところを、ゆっくりと指でなぞった。
「先ほど私は、三女と次男には子供がないと申しました。三女には離婚歴があるけれども、子供はなかった。次男はずっと独り身です。しかしよく見ると、ひとつ捩じれた出来事があったらしいと想像できる点に気づきます。四女の茉莉花です」
 小向は〈茉莉花〉の上に指先を留めつつ続けた。
「この茉莉花には夫がいません。離婚したのではなく、死別したのでもなく、そもそも婚姻していないのです。が、静花という娘がひとりいる。静花はこの春から東京の大学に通っています。住まいは三女・常葉のマンション。恐らくこの静花のために部屋を空けたのでしょう、夏馬は三月にマンションを出ている。そこまでは私のほうで調査が済んでいます」
「はい」
「倉田さん、ここに三つの符牒が重なっていることに、お気づきになりましたか?」
「三つ、ですか?」
「まず、桔馬が亡くなったのは十九年前になります。正確にはあとふた月ほどですね。そしてその十九年前、静岡にはある人物がおりました。そう、佐伯稔です。ふたりは同じ時期に同じ都市にいて、佐伯は池内家のメインバンクの支店に勤務していたわけです。桔馬が亡くなったのはまさに佐伯が静岡のどれかの支店に勤めていたときで、その後、いかにもイレギュラーなタイミングで転勤しています。愛媛の松山です。静岡からは遠いところですね。ちょっと行って帰ってこれるところではありません。なぜそのような措置が取られたのか? ……倉田さん、三つ目の符牒を言い当ててみてください。十八年から十九年前に、池内家で起きたことです。この系図の中にしっかりと書かれています」
 そこまで言われるまでもなく、百合は、小向の話の途中で――佐伯の名前が出てきたところで――その三つ目の符牒に気づいていた。
 簡単な話である。桔馬の四女・茉莉花は、佐伯稔の子を産んだのだ。
 池内夏馬が佐伯を訪ねてきたのは、確か四日か五日のことである。大学の入学式の後だ。もちろん、茉莉花の娘・静花の入学式に違いない。
「この静花という女の子は、佐伯の子だとおっしゃるのですね?」
「はい、その通りです」
「根拠はありますか? なにか証明するものがありますか?」
「いま私の手元にはありません。しかし、池内茉莉花、池内常葉、池内夏馬、この三名の行動を探れば、さほどの手間なく見つかると思いますよ」
「佐伯は?」
「佐伯を探ることに意味はないでしょう。彼は恐らく静花から遠ざけられている。そう考えていい。しかし接点が維持されている可能性は高い。…倉田さん、夏馬が佐伯に会っているとおっしゃいましたね? 先週、いや先々週の木曜日でしたか。恐らく夏馬の訪問の目的は、静花に関わるなにごとかを佐伯に伝えることにあったのではないでしょうか。なにしろ東京に出てきているわけですからね。…夏馬というのは、あるいはそうした役割を担うために存在している、あるいは存在を消しているのかもしれません。私にはそんな気がしています。…祖父の桔馬には、あまりいい噂がありませんし」
 小向はそこで意図的に間を置いた。百合が物事を整理するための時間である。確かに百合にはそのための時間が必要だった。だから小向はいったん腰を上げ、テーブルの上の茶碗を片付けると、改めてコーヒーの支度を始めた。サイフォンが登場したりはしない。コーヒーカップの上に直接被せ、その上からお湯を注ぐ簡易的なレギュラーコーヒーパックである。
 間もなく、狭い事務所内にコーヒーの匂いが漂った。百合は砂糖とミルクを断った。窓辺からさっと陽が射し込んだ。灰色の雲間から射し込む陽で、天候が回復に向かっているのか計り兼ねる。そんな陽射しだが、百合は反応しなかった。小向が淹れてくれたコーヒーを口にして、美味しいです…と微笑んだ。百合に向けられたままになっているノートパソコン上ではディスプレイがロックされていたが、百合も小向も気づいていない。いや、小向には見えていないだけだ。
 いま現在盛んに動かされている資金に、十九年前に亡くなった政治家が関わっていると考えるのは、それこそ考え過ぎというものだろう。自分が知らなくてもいいこと…という予感めいた緊張は、この静花という娘の存在であったに違いない。いつになく柔らかな印象を与えた佐伯の顔が思い浮かぶ。あれが、小向の推定の確かさを告げている。
「私は佐伯のアシスタントをしています」
「ああ、なるほど」
「ご存知でしたか?」
「いいえ。しかし、近いところにいる方なのだろうとは思っておりました」
「そうですか。……間もなく佐伯の大きな仕事が終わります。総会までに終わらせなければいけません。結果がどうであれ、恐らくそれで彼は異動になるでしょう。池内夏馬が知りたいのは、私のほうからの連絡を彼が待っているというのは、そのことではないかと」
「東京から遠く離れることになりますか?」
「そうなるかもしれません。ただ、人事異動だけであれば、私からお報せする内容ではないと思います。佐伯の異動は公開される範囲ですから、わざわざ私から聞く必要はありません。彼はたぶん異動の背景を知りたいのでしょう。理由は……ちょっとわかりませんけれど」
「では、もう少し探ってみますか」
「もう少し…。たとえば、どんなことを?」
「やはり茉莉花と静花という、この母娘の周辺になるかと思いますよ」
 百合は目を伏せ、コーヒーをもうひとつ口にした。
 わからない。それを知ってどうなるというものでもない。単なる興味本位での、ある意味これは覗き見のようなものだ。いくらかドラマチックに映る、赤の他人の人生の成り行きに過ぎない。それが現実であるが故に、映画や小説よりも面白い。ただそれだけのように思う。
 そう、小向に言ってみた。小向は苦笑いを浮かべつつ答えた。
「たとえば結婚を考えている恋人の家庭事情を知りたいというのも、言ってしまえば赤の他人の人生への興味・関心に過ぎません。大切な人であることは確かですけれど、それを知って、我々がなにか合理的な、間違いのない判断ができるというものでもないでしょう。あるいは大切な人であればこそ、そこに合理性の入り込む余地は少なくなる。そこまでの関係ではないにしても、やはり倉田さんにとって佐伯さんは、大切な人なのだと思いますよ。友達の人生を思いやる気持ちと、たぶん同じようなものです。…実際、どのようなお仕事かわかりませんが、佐伯さんに明らかに左遷とわかる異動が発表されれば、あなたはやはり胸を痛めるでしょう?」
 ――ああ、そうか。私はそのことに怯えているのか…。
 小向との契約はまだ三日半ほど残っていた。これ以上のなにかがわかっても、わからなくても、支払ってしまったお金の半分をここで回収したいとは思わない。そうであれば、私は知ることのできる限りを知ってしまおう。おかしな発想かもしれないけれど、それが佐伯への〈はなむけ〉になりそうな気がした。具体的に、なにがどうというわけではなく、ただそんな気がしたのだ。
 百合はいくらか安堵していた。微かに悪い予感を抱えていたからである。もちろん小向が推定する物語を、幸せなものであるとは言い難い。むしろ、つらく切ない物語だ。しかしもし、あの池内夏馬という謎の男が、この三人のつながりを途切れさせないよう働いているというのであれば、そこに小さな温かみの種を期待したくなる。
 調査の続行が決まった。むしろ小向のほうが自分よりもそれを知りたがっているのではないか?と百合は思った。思わぬ物語を拾ったことに、思いもかけぬ鉱脈を掘り当てたかのように、小向の瞳の底が怪しく光っている。百合にはそんなふうに見えた。
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