第二部 娘:その1

文字数 6,380文字

 ゴールデンウイークが終わると、キャンパスの景色は一変する。新入生を迎える躁状態が落ち着きを見せ、それこそ退屈極まりない日常がはじまる。自分でどうにかする能力を持たない人間は、ただ漫然と無為な時間を消費するほかどうしようもない。
 池内静花にはまだ友達がいなかった。同郷の同じ高校からは静花を含めて三人がこの大学にやってきたが、彼らとはそもそも交流がない。オリエンテーションの最初の頃は行動を共にしたものの、学部が違うこともあって、気がつけば一人になっていた。
 連休中に母がやってきて、数日を伯母のマンションで一緒に過ごした。静花には母を連れて行きたい場所がたくさんあったはずなのに、いざ母がやってきてみると、多くの時間がマンションの広いリビングルームでのおしゃべりに消えた。
 ひと月ぶりに顔を見る母はどこか様子がおかしかった。どこがどうと具体的に挙げることはできないのだが、とにかくどこかおかしい。それは伯母の常葉も同様で、静花がちょっと席を外した際、ふたりがなにごとかおしゃべりをしているところに戻るとパッと口を噤み、取り繕うかのように取ってつけたような話題を静花に投げかけてきた。静花は勘の鋭い少女だったから、母と伯母の眼をじっと見据え、ふたりをたじろがせた。
 ――あれはなんだったのだろう…
 母が帰郷してしまったあと、折につけ静花は考える。母は隠し事ができるタイプではなく、本人もそう自覚しているせいか、一緒に暮らしてきたあいだも母の挙動に不審を抱くような経験はなかった。そもそも母と娘の生活は、隠し事が紛れ込む余地などなかったと言ってもいい。毎日は、毎週は、判で押したように昨日と先週を反復した。静花の成長だけが、それを先月や昨年とは異なる景色に塗り変えて行く、ただひとつの要素だった。
 階段状の大教室の上のほうの隅で頬杖をつき、半分ほど埋まった学生たちの後ろ姿を眺めながら、静花はときどき眼をつむり、母の気配のどこに異質さを感じ取ったのかを探ろうとする。いくらか朗らかだったように思う。いくらか高揚していたように思う。いくらか落ち着きのない感じもした。胸になにかを抱えていることは間違いない。――そう、胸だ。あれは胸になにかを抱えている人が見せる様子だ。それも、これから待ち受けるなにかを…。
「池内さん、ずいぶん眠そうだね?」
 気がつくと講義は終わっており、学生たちが入り乱れながら階段教室から捌けて行くところだった。隣の席から声をかけてきたのは語学教室で見たことのある男子学生で、確か、確か……いや、名前は憶えていない。相手は「池内さん」と呼びかけてくれたのに、少し申し訳ない気分だ。
「眠いわけじゃないの。考え事をしてただけ」
「悩ましい問題? 早くも五月病? ママのおっぱいが恋しくなった感じ?」
「お母さんとは連休中に会ったわ。だからおっぱいは現状満たされてる」
「ああ、それは羨ましい限りだなあ…」
「マザコンなの?」
「そう、マザコン。自信をもってそう言い切れるだけの美人なんだよ」
「うちもそう。〈池内家の宝石〉とか言われちゃって。言ってる人は一人しかいないけど」
「君はその血を多分に受け継いでいるわけだね?」
 なるほど、そういうことか。
 静花は急いで脳神経の回路を接続し直した。いま隣に座る男子学生が、この先しばらくの無聊を慰める相手としてその役割を十全に果たすことができるものか、速やかに検分し、値踏みし、評価を決めなければならない。
 ここまでの会話は悪くなかった。マザコンと自覚しそれを抵抗なく口にできるのはいいことだ。見栄えもけっこういい。少し唇が厚いような気もするけれど、許容範囲である。よし、ひとまず合格点をあげていいだろう。
「誰かと約束してる? 一緒にご飯食べない?」
「喜んで」
「それと、ほんと申し訳ないんだけど、私あなたの名前憶えてなくて」
東金(とうがね)聖二(せいじ)。東の金、(ひじり)に漢数字だ」
「珍しい苗字ね」
「どこかで東金さんに出会ったら、ほぼ間違いなく親族だと思うよ」
 二人は同時に席を立ち、大教室を出た。立ち上がると、東金聖二はひょろっと背が高い。小柄な静花とはずいぶん開きがある。大き過ぎるほどではないけれど、少し落ち着かない。長身は反射的に従兄を想起させる。あの従兄と比較するのは東金には気の毒だ。
 学部棟に沿って歩きながら――この日は陽射しが強く、建物の影を探して歩いた――東金が長野北部の雪深い場所に生まれ育ったことを話し、静花が降雪はあっても積雪が観測されることはない静岡の海辺の街から出てきたことを話した。
「雪って素敵よね」
「とんでもない! 僕は絶対に雪のない土地で暮らしたい」
「じゃあ、シンガポールに行けばいいわ」
「そこまで南下する必要ある?」
「わからないけど、雪から逃げ出したいっていうマイナスのベクトルだけじゃないなにかを手に南下して行ったら、結局シンガポール辺りに行き着くんじゃない? 別にクアラルンプールでもジャカルタでも構わないけど」
「どれにも行ったことがあるみたいな口ぶりだね」
「まさか。うちは貧乏な母子家庭だもの。――あ、でもそこは気にしないで。実はお母さんの実家が凄いお金持ちで、私いま、中目黒の超高級マンションに暮らしてるから」
「超高級って、どうイメージすればいいんだろう?」
「十二畳のダイニングルームに二十畳のリビングルーム」
「わおっ!」
「育ったのは2DKのアパート、四畳半と六畳ね。もう別世界過ぎちゃって、私この一ヶ月、ちょっとノイローゼ気味。こういうお話ってたくさんあるでしょ? 王子様に見初められちゃうあの貧乏な女の子たちは、きっとみんな私と同じように苦しんだはずよ」
 この子は同性の友達ができない典型的なタイプだな、と聖二は思った。話している内容はおもしろいけれど、きっと鼻について仕方ないだろう。幸い自分は異性であり、見た目の可愛らしさがそうした問題をすべて解消してくれるけれど、この子は苦労の多い人生を歩みそうだ。
 ちょっと余計なことをしゃべり過ぎてるな、と静花は思った。なにも郷里のアパートが四畳半と六畳のアパートだとか、無用な情報を提供する必要もないのに。どうやらこの男は女の子におしゃべりをさせる能力を授かって生まれてきたようだ。注意しなければいけないだろう。
 学部棟から、食堂や書店やコンビニなどの集まる中央棟にやってきたとき、迷わずカフェテリアを目指した聖二と、迷わず一般食堂を目指した静花は、そこでパッと左右に離れてしまった。二人とも慌てて立ち止まって振り返り、思わず顔を見合わせた。そのあいだを、同じように食事にやってきた学生たちが、立ち尽くす二人を迷惑そうに避けて行く。
 二人はまるで、人々が行き交う駅構内で偶然にも再会した恋人たちが、行く手を遮る雑踏を掻き分けながら歩み寄るヨーロッパ映画の一シーンのようにして離れた場所へと戻り、壁際に寄った。
「なんで高いほうに行こうとするの? ちゃんと人の話聞いてた?」
「いや、ちゃんと聞いていたからこそのカフェテリアなんだけど…」
「氏より育ちっていうことわざ、聞いたことない?」
「だから、いまは超高級マンションなんだよね?」
「だから、それは

のほうだって言ったじゃない」
「ああ、そうか。確かにそうだ」
「まったく。その頭の中には藁でも詰まってるの?」
 苦笑する聖二を引き連れて、静花は比較的安い――そう、カフェテリアも大学生協の運営であり、あくまでも

高いだけだ――混み合う一般食堂、いわゆる学食に向かった。
 静花は唐揚げの定食をご飯を少なめにして注文し、聖二は焼き魚の定食をご飯を多めにして注文した。まさに昼食時であり、隣り合う二席を長いテーブルの中央に見つけた二人は、定食のトレイを手に、犇めき合うように座っている学生たちの頭にぶつからぬよう気をつけながら、なんとか並んで落ち着くことができた。
「この時間にここにくるのは間違った選択ね」
「おにぎりかサンドイッチでも買って広場に行けばよかった」
「うん、今度からそうしましょう」
 今度から?と、聖二は思わず静花の横顔を見た。が、口にした当人には他意も含みもないようで、さっそく箸を使いはじめている。そうして食事の様子を見ると、口の大きな女の子だ。母親はきっと目鼻立ちのはっきりとした、造りの大きな本物の美人なのだろうと思った。
「ねえ、唐揚げひとつもらってくれない?」
「うん、もらう」
 静花が大きめの唐揚げをひとつ、聖二の焼き魚の脇に移した。
「ほんとはお肉よりお魚のほうが好きなんだけど、ここのお魚は臭くてダメ」
「そうかな? ふつうにおいしいと思うけど」
「きっと私、海の近くで育ったからだと思う」
「なるほどね。いつも新鮮な魚に恵まれてきたわけだ」
「いくら物流が発達したって言ってもさ、こんな学食で出るお魚が、今朝水揚げされたものだなんてあり得ないじゃない?」
「うん、冷凍だろうね。安く仕入れられるときに大量に買い込んだんだよ」
 なにごとか、静花がにっこりと笑った。聖二はここでの笑みの意味を計り兼ね、同時に、真横から間近に見せられたその笑顔の破壊力に、これは思っていた以上だ…と胸のうちで唸った。
 語学教室で一緒になってからずっと彼女を見てきたけれど――要するに聖二は静花に一目惚れをしたわけである――これまで笑顔を眼にしたことが一度もない。いつも少し難しそうな顔をして、その大きな瞳をきょろきょろと盛んに動かしながら、この新たな世界の在り様を慎重に探っている様子だった。
 今日も、ここまでのやり取りは軽快ではあったものの、静花は笑っていない。ここへきて、初めて笑った。それも、聖二には意図を計り兼ねるタイミングで。――いや、静花はただ、学食の魚の鮮度問題を聖二が正しく理解してくれたから笑ったのである。静花は聖二が考えるほどに難解な少女ではない。聖二が正しく推測した通り、いくらか厄介な少女ではあるけれど。

 今日は午後にも講義があり、夜には家を出られないと静花に言われてしまい、それでも聖二は翌日の昼食の約束を取り付けて別れた。中目黒の超高級マンションは彼女の伯母の持ち物であり、叔父も一緒に三人で暮らしているという話も聞き出した。恐らく、姪を預かった伯母と叔父が東京での保護者を自任しており、必要以上に優しくも厳しく眼を光らせているのだろう。今後どこかに一緒に出かけるような幸運が訪れたとしても、日が暮れるまでに中目黒へ送り届けなければ信用を失う。狭いアパート暮らしの母子家庭で育った一方で、いまはお金持ちの一族のお嬢様というわけだ。
 しかし、どうしてそんな事情になったのだろう?
 余りの環境の変化にノイローゼ気味だと彼女は言った。ノイローゼという表現が妥当なのかわかり兼ねるが、伝えようとした中身は理解できる。想像できるとは言わない。あくまでも理解できる、だ。想像は難しい。狭いアパートで母子家庭に育った経験も、そうした境遇にある近い友人・知人もいない。東京の超高級マンションなどテレビで見たことがあるといった程度の話だ。そのふたつのあいだを跳び越えた人間の心情を思いやることなど、本当にはできようはずがない。あくまでも理屈として理解できるだけだ。
 聖二の実家は長野でリンゴとブドウを栽培している。このところの温暖化の影響かリンゴの出来が悪く、両親はブドウ畑の面積を年々拡げている。充分に豊かな家庭環境で育ったと思う。兄は大阪の大学に通っており、自分は東京の大学に出してもらった。兄は四年生だから、この一年、両親は二人の息子の家賃を負担し、仕送りをしなければならない。
 子供が余計な心配をするなとか、そうした態度をとる両親ではなかったので、聖二は実際にそれがやりくりできる家計状態にあることを、去年、志望校を決める際に預金通帳まで見せられて納得させられた。地元の国立大学も優秀な学校であり、そこでまったく不満はなかったのだが、兄を大阪に出している両親は、聖二にも都会に出ることを求めた。兄弟いずれにも果樹栽培を継ぐ将来を望んでいない。リンゴからブドウへの切り替えを余儀なくされている現状を、両親は苦々しく思っている。東金さんのリンゴはよそとは違うと言われてきたことのプライドが、受け入れを拒むのだ。
 とはいえ、この一年の家計が楽でないことはわかった。だから聖二はふつうの大学生が皆そうしているように、空いている時間はバイトに充てる考えでいた。それを、兄に制止された。内定をもらったら自分がバイトするからおまえはするなと言われた。時給三千円の仕事ができるならいい。だが、時給千円程度なら時間の無駄だ。だから三ヶ月我慢しろ。そうすれば仕送りが増える。来春からは少しだが自分からも小遣いをやる。だから絶対にバイトはするな、と。
 聖二は遊ぶためのお金が欲しかったわけでもなかったので、兄の言葉に従うことにした。だから、その日の講義が終わると、それが昼過ぎであれ夕暮れであれ、少しばかりぼんやりしてしまう。ここから始まる長い長い時間をどう過ごすべきか、聖二にはまだなにも見えていなかった。そもそもどう過ごしたいかと立てるべき問いを、どう過ごすべきかと立ててきたことに、まず最初の躓きがあった。実はこの日、聖二はそのことを理解した。――池内静花と過ごしたい。それが、いまの真っすぐな想いであり、願いでもある。
 だが、いまそれは禁止されている。もちろん永遠に閉ざされてしまったわけではない。明日の約束は取り付けてあった。明日にはまた彼女と話すことができる。が、明日もまた日が暮れる時分には同じように禁止の札が立てられる。いちばんに埋めてほしい時間を、池内静花は埋めてくれない。
 どのような形でも構わないのだ。自販機で缶コーヒーを買い、公園のベンチに座るのでもいい。できれば彼女の顔をよく見られるように、コーヒーは店内が明るいファーストフードであってもいい。コンビニのイートインだって文句はない。でも、それは禁止されている。彼女を預かる伯母と叔父の意志によって。彼女の母方のお金持ちの一族の手によって。
 アパートに戻るとこんな堂々巡りの煩悶をいつまでも繰り返しそうだったから、聖二は中央図書館に向かった。日が暮れるまでにはまだ時間がある。図書館は八時までは開いている。
 池内静花はどこかの教室で講義を受けているはずだった。自分とは違う教科を選択したことになる。明日はそれも聞き出そう。彼女が何曜日の何時限目にどこにいるのか、それを知っているだけでも心はいくらか休まるものだ。いつものように教室の隅っこに座り、瞳をきょろきょろさせているのだろうか。いや、今日はなにか考え事があるのだと言っていた。いまもその考えの続きを追いかけているのかもしれない。難しい顔をして、ときどき眼をつむり。
 あっという間に頭の中が池内静花によって満たされてしまった。池内静花で充満してしまった。本当にあっという間の出来事だ。あのとき、学食で彼女がふいに笑った、あのときから。
 彼女は講義を終えたら真っすぐ中目黒へ帰るだろうか。図書館に立ち寄る可能性だってあるかもしれない。聖二は一度決めた閲覧スペースの椅子を立ち、入り口のゲートがよく見える、ゲートのほうからも見つけられやすい場所に移動した。
 すっかり日が暮れるまで、間違いなく彼女が中目黒に帰っているはずの時間まで、今日はここで待ちつづけよう。待っている(てい)をつくって座っていよう。これで今日は目的ある有意義な時間を過ごせそうだ。聖二は安堵して、形だけテキストを机の上に置くと、あとは頬杖をついてみたり、いすの背に凭れてみたりしながら、肩の力を抜いて入り口のゲートを眺めつづけた。
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