母:その3

文字数 5,331文字

 朝、出勤するとまずパソコンの電源を入れ、机の抽斗の鍵を開ける。自分の抽斗に、たとえば決済印のような機微な持ち物があるわけではない。ただ、佐伯の机の鍵を預かっている。佐伯の抽斗にはさらに鍵がある。その鍵は行内でも最重要機密に類する文書の在り処へと導くものだ。もちろん、鍵だけではそこは開かない。さらに佐伯か自分の生体認証が求められる。流出すれば佐伯か自分がまっさきに疑われるわけだ。
 そのような役回りが最初から伝えられていたわけではなかった。去年の夏、突然そのような指示を受けた。佐伯が不在のとき、その指示に従って鍵を開けてもいい人間は、井口(いぐち)常務と武藤(むとう)検査部長の二人だけだと言い含められた。仮に頭取がそれを求めてきたとしても、君は自分の右手を切り落としてでも首を横に振らなければいけない。――悪い冗談だとしか思えなかったけれど、それは冗談などではなかった。井口も、武藤も、佐伯も大真面目だった。
 しかし、この一週間ばかり、抽斗を開けた倉田百合の眼に最初に飛び込んでくるのは、佐伯の抽斗の鍵ではなく、一枚の殺風景な名刺である。名前と携帯電話番号とメールアドレスだけが記されている。裏面はまっさらだ。紙は上質で、和紙のような質感がある。
 ――君のほうから連絡したくなったら…
 と、男は言った。自分から連絡することはないと口にしたあとに、である。
 あれから一週間が経ち、百合にはまだ理解できていなかった。男がなにか勘違いをしているのではないか?と疑っていた。百合は確かに機密文書に触れることができる。しかしそれはあくまでも触れることができる文書が一部――恐らくそれも一案件に限って――あるということであり、文字通り手で触れることはできるけれども、なにが記されているかをすべて承知しているわけではない。佐伯が不在にしているときに井口常務か武藤検査部長がやってきて文書ファイルを見せるよう求められる出来事ですら、結局はまだ一度も起きていないのだ。
 もちろん百合はその事案に深く関係する仕事に従事している。そもそもがアシスタントであり、秘書でもなければ庶務でもなく、コピーをとったり会議室を押さえたり、コーヒーを淹れたり言伝を預かったり、それらはちょっとしたお手伝いであって、百合の主業務は、大宮支店を中心としたある資金の流れを常時ウォッチすることであり、他にどの支店がそれに関係している可能性があるかを拾い挙げることであり、それを整理して佐伯に提出することである。しかし、それがどのような性格のお金であるか――どんな色のついたお金であるかまでは、知らされていない。
 したがって、もしあの男が自分に「情報」を求めているのであれば、やはり勘違いをしていると言うほかないのである。なぜなら百合はなんらかの意志を以って動いているわけではないからだ。意志を持っているのは井口であり武藤であり佐伯であって、自分にはなにもない。行内・行外を問わず〈佐伯の秘書〉という立場で振舞うよう指示をされており、その禁を破ったところでいいことなどあるはずもないとわかるから、黙って従っているに過ぎない。――やはり勘違いをしているのだろう。
 それでも百合は、男の名刺を捨てることができなかった。捨てられないばかりか、鍵のかかる抽斗のいちばん上に置き、毎朝欠かさず眼に入るようにまでしている。なぜそうしているのか、自分でもよくわからない。わからないままに一週間が経過してしまったことに、いくらか苛立っている。苛々しているな…と自分でもよくわかる。

「これだけですか?」
 興信所と探偵事務所の違いがどこにあるのかわからないけれど、極めて個人的な興味関心に過ぎない事柄は、なんとなく探偵事務所のほうなのではないか?と思った。興信所というのは、たとえば婚約者の家族について調べたいとか、そうしたある種の公的な要件で訪ねるところだという印象がある。だから百合は退勤後、これと言って当てがあったわけでもなく、なんとなくふらりと渋谷に降り、なんとなくふらりと歩道橋を渡り、桜丘の坂道を登ってみたのだった。
「〇〇銀行本店の佐伯稔という人物を訪ねています。先週の木曜日の午後に」
「あなたはどうしてそれを知ったのですか?」
「お答えできません」
「けっこうです。しかし間違いのないことなのですね?」
「はい、間違いありません」
 テレビドラマや映画や小説で出会うような〈探偵〉の印象とは程遠い、折り目のきっちりと入ったスーツを身に着ける清潔そうな男だった。短髪で、髭も剃っている。事務所の中も片づいており、観葉植物も元気そうだ。年齢は恐らく四十代前半――佐伯とさほど変わらない。
「その〈佐伯稔〉さんのほうに関しては、よくご存じなのですか?」
「いいえ。〇〇銀行に勤めていること以外は、なにも」
「おいくつくらいの方でしょう?」
「四十代半ば――といったところでしょうか」
「それではこの〈池内夏馬〉さんとはずいぶん離れていらっしゃる」
「そうですね」
「学校などを当たってみても、〈佐伯稔〉さんから〈池内夏馬〉さんが出てくることはない」
「そうかもしれません」
「かもしれない…というのは?」
「大学のゼミの先輩と後輩とかであれば、一回りくらい年齢の離れた交流はあり得ます」
「なるほど、確かにそうだ。しかしその程度の関係であればすぐにわかる。お金をかけて調べるほどのことでもない。そうではありませんか?」
「わかりません。その程度の関係に過ぎないという調査結果でもけっこうです」
「とにかく自分で探ることはしたくない、というわけですね」
 百合は答えなかった。小向(こむかい)という探偵も、そこは百合の顔を見ることなく、独り言のように呟きつつ、デスクのパソコンに眼を向けて、なにごとか、パタパタとキーボードを叩いた。
 百合は出されたお茶を手に取って――出がらしではない美味しいお茶だ――なんとはなしにデスクの左右に並ぶガラス扉の棚に目をやった。
 きれいにファイルが並んでいる。背表紙には、アルファベットと年代しか記されていない。ただし、何色かの丸いシールが貼り分けてある。色は事案の性格を表しているのではないか?と漠然とそんなことを考えた。
「先ほどおっしゃった風貌のほかに、〈池内夏馬〉さんの手掛かりになるような情報は、もうお持ちではありませんか?」
「ありません」
「どんな些細なことでも構いません。関係ないだろうとか、気のせいかもしれないとか、そうしたことはいっさい気になさらず、なんでもおっしゃってみてください」
「はあ…」
 そう言われても、あの日初めて会って、ロビーから佐伯の応接に案内し、お茶を出し、エレベーターの前まで送った――ただそれだけの接触で、記憶に残るなにかが得られるものだろうか?
「印象に過ぎないのですが…」
「けっこうですよ」
「ふだんスーツを着慣れている方ではないと感じました」
「たとえばどんなところで?」
「ネクタイの趣味が、なんて言うんでしょうか、自分の持ち物ではなく誰かに借りたような、あるいはショーウィンドウにかかっているような、そんな違和感がありました」
「好んで着けているわけではないと?」
「いえ。お好きなのかもしれませんが、ほとんど着けたことがない、という感じです」
「間近でご覧になったのですね?」
「ご案内をしただけですので、間近にとは言えないかと思います」
「ああ、なるほど。そういうことですか」
 小向の反応に、百合はなにかをしくじったように感じた。
「〈池内〉さんはあなたになにかおっしゃいましたね?」
 やはり、しくじった。そうした交渉はなかったものとするつもりだったのに…。
「もし、私から連絡したくなったら、その名刺の宛先へ、と。でも――」
「でも、あなたには心当たりがない」
「そうです」
「ただのナンパでもない」
「違います」
「わかりました。お引き受けしましょう」
 調査は一日当たり三時間までで一週間分(土日も含む)を前払い、毎日レポートを送るので、中止する際には翌朝十時までに返信する。三日でやめれば四日分は返金される。都内の移動は費用に含まれるが、それより遠方の場合はレポートと一緒に前日に提示するので、不要の場合は取り止めの連絡を入れる。実行した際は実費を精算。調査を継続する際は一週間ごとに契約を更新する。
 百合はすっかり陽の落ちた渋谷の街に出て、いったい自分はなにをしたいのだろう?と首を捻った。いますぐ探偵事務所に取って返し、すべてなかったことにしてください!と叫びたいような気持ちもある。しかし、迷いながら歩道橋を渡り、井の頭線のラッシュに呑み込まれたときには、もう迷いは消えていた。むしろ少しばかり愉快な気分が顔を覗かせている。
 ――私はきっと退屈しているのだ
 そう思った。仕事は退屈ではないけれど、愉しくもない。いまは特に大きなブラックボックスが目の前に置かれてしまっているのだから、尚更だろう。しばらく恋もしていない。その萌芽も見当たらない。本店のあのフロアにいるのは、それこそ井口常務や武藤検査部長のような人たちばかりだ。佐伯はたぶん最も若い一人だろう。ハンサムで、少し落ち着きのない感じはあるけれど、頭は相当に切れる。だからあんなことをやっている。やらされている。
 佐伯は独り身だった。相手はいくらでもいたはずだ。しかし、家族と過ごしている姿を想像するのは難しい。そういうタイプの男だ。恋人がいるようにも見えない。これまで百合を誘うような気配もなかった。そこはちょっと悔しい気もするが、自分に魅力が足りないのではなく、佐伯にその気がないのだと言い切れる。あの人はそういうことはしない。昔は知らないけれど、いまはしない。たぶん、しない。

 小向からの最初のレポートは翌日の十九時ちょうどに届いた。それより前には送らないで欲しい、と百合のほうから申し入れてあった。スマートフォンで受け取ってしまったら、見ないでいるのは難しい。だから、勤務時間を避けてもらった。残業があっても十九時を回ることはない。少なくとも去年の春に佐伯の下についてから、一度も経験していない。
 小向のレポートには、佐伯のこれまでの勤務地(さほど多くない)が記されていた。なるほど、居住地はこんなに簡単にわかるものなのか。これなら自分のいまのデータアクセス権限であれば、そのとき佐伯がどの支店にいたのかを知ることは造作もない。が、確実にログは残る。それは説明のしようがない。
 二日目のレポートも十九時ちょうどに届いた。配信スケジュールでも設定しているのだろうか? それともただ小向というあの探偵が勤勉なだけなのかもしれない。そうした約束はきっちりと履行するタイプに見えたが、見た目通りの人間ということか。
 そして二日目には、早くも「池内」の名前が出てきた。佐伯が勤務した市町村における、「池内」姓のリストである。もちろん決して珍しい苗字ではないから、片端から並べられているわけではない。議員、医師、上場企業役員など、金融機関にとって上客となる可能性を持つ人間だけだ。これによって小向は、可能性のある土地を三か所に絞り込んでいた。広島市、神戸市、静岡市である。
 三日目は土曜日だった。百合は溜まっている一週間分の洗濯をし(この癖は治らない)、狭い部屋に掃除機をかけてから、ベッドに寝転がって本を開いた。お気に入りのミステリー作家の新刊が発売されていて、この週末を楽しみにしていたのだ。
 ところが、昼過ぎに小向からメールが届いた。土日も十九時に送信する約束だったはずで、だから百合はギョッとしてスマートフォンに飛びついた。〈池内夏馬〉の「池内家」が特定されていた。静岡市である。佐伯がその土地に暮らしていたのは、いまから二十年も前のことだった。
 ――お会いしてご説明したい
 明日の午前か月曜の夜とある。百合は迷わず「明日伺います」と返信した。小向からはすぐに「十時にお待ちしております」と届いた。もうミステリー小説を読むのは諦めざるを得ない。どう考えたって頭に入ってくるはずがない。
 どうして明日なのだろう? どうして今日これから会えないのだろう? 先約があるか、他の調べもので出かけるか、なにか小向のほうに事情があるのだろうけれど、土曜の午後から日曜の朝までなんて、なにかを待つには最悪の時間帯だ!
 この長大な時間を自分で潰さなければいけない。自分でそれを見つけなければならない。でも、映画館に行っても美術館に行っても表参道を歩いても、きっと頭の中は〈池内夏馬〉と「池内家」のことでいっぱいになってしまうだろう。
 まだ自分はなにも情報を得ていないのに、どうやっていっぱいになるのか? 空虚で虚空を埋めるのか? 小向はきっとイジワルをしているのに違いない。そう言えば彼にはあのとき「ナンパされたわけでもない?」なんて尋ねられた…。
 私が知りたいのは、〈池内夏馬〉は独り身なのかとか、恋人はいるのかとか、そんなことではない。あんな見上げるほどの大男なんて、あんなゴツい顔をした大男なんて、まったく私の趣味ではない。私の「知りたい」はそういう「知りたい」ではない!
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み