9 矛盾の様な真実

文字数 2,699文字

9 矛盾の様な真実
 梶井が色を通じて発しているのは巧みさではなく、病気と健康の対立を超える丈夫な強さである。「健康である前に、まず丈夫でなきゃいけませんですよ。健康と丈夫は違うんでございます。健康であるためには、正しい食事のとり方、睡眠を十分に規則正しくとるなどと言いますですが、立って食事をしたり、夜中どころか朝まで働いて、こういう厳しい状況に、耐えられるには丈夫でなければなりません」(いかりや長介)。「丈夫」とは、反復しても、磨耗したり、疲労したりしないことである。子どもは繰り返しを厭わない。むしろ、繰り返しを肯定的に望み、そこから喜びを感受する。反復に耐え得る成熟を子どもは持っているのである。「世界の運行は駒を動かして遊ぶ子供である。子供の王威よ」(ヘラクレイトス)。

 梶井はアポロ的な形象をディオニュソス的である「丈夫」な色彩によって破壊する。梶井の作品を覆っているのは、くすんだ地味な色彩でもなく、エスニック調の色彩でもなく、ドロドロとした暗い色彩でもなく、淡いパステル調の色彩でもなく、ギラギラと光る華やかな色彩でもなく、この「冴えかえった」色彩である。近代認識論に基づく遠近法的な時間・空間はその色彩によって無効になる。

 梶井は、日本近代文学において、最も色や光に敏感に反応した作家である。ピアジェは、『知能の誕生』において、幼児ローランを観察したケースを紹介しているが、「生後一週間の終わり頃から」、光るものに対して強い関心を示すようになるが、「一ヵ月の終わり頃になると」、「視線のやり方に進歩が見られ、状況が変わる」、と報告している。梶井は幼児のように光に反応する。「檸檬」が破壊するのは近代認識論的な時間・空間だけではない。梶井の用いる色そのものがすでに近代遠近法批判を帯びているが、そこには危険性をはらんでいる。

 それは、梶井の作品がさまざまな色に覆われ、それらはある種の幾何学的な配置にあり、梶井の色の幾何学は近代認識論的ではないが、色はそれぞれの色どうし互いにアポロ的関係を構築しているという危うさである。アポロ的なるもののみによるスタティックな世界把握は近代認識論からもたらされた認識にすぎない。ディオニュソス的なるものを隠蔽し、アポロ的なるものだけをギリシア文化として認定してきたのは、ニーチェが『悲劇の誕生』で明らかにしたように、近代認識論の歪曲である。色そのもののみでは近代認識論批判は不十分である。梶井の冴えかえった色彩はそうしたすべての色を飲みこみ、その幾何学を解体する。「冴えかえった」色彩はディオニュソス的なるものである。

 さらに、「小児は一度は玩具を放り出すが、やがて無邪気な気まぐれに取り上げる。しかし築くとなれば、子供は、法則に従い内なる秩序に従って結び合わせ、接ぎ合わせ、形づくってゆく」(『ギリシア人の悲劇時代における哲学』)。なぜ梶井がつみあげた本をディオニュソス的に破壊するのかと言えば、あまり深刻に物事を思いつめることを斥けるためである。人は深刻に、それも道徳的に考えすぎる。

 梶井は子どものように無邪気に世界を築きあげ、破壊する。「不快」に始まり「調和的気分」で終わるに志賀直哉と違って、気分ではなく、それはあくまでも内的秩序に従っている。子どもが遊ぶのはただ楽しいからであって、それ以上の理由は不要である。遊ぶことのできないことは、子どもにとって、言いようのないほどの苦痛だ。志賀は不快だから他者に八つあたりするが、梶井は楽しいから構築した世界を壊す。

 梶井は、子どもと同様に、生きたいのだ。梶井は肯定的な、すなわち自己規定的な原理に基づいて価値評価を行うのに対して、志賀は否定的なものの反動として基準をうちたてる。不快という受動的・否定的なものに対する反動が志賀の行動のすべてである。私小説家たちは創造することもせず、破壊だけをする。一方、梶井には、破壊は創造と同じくらい楽しい。それは陶酔の状態にほかならない。つまり、梶井の檸檬はプロメテウスの火である。

 子どもの生は肯定的であるが、青年期のものは、その頃への反発があるため、否定的である。梶井は子どもの時代に感受していた現実の感触を想起させる。その感触の反復から、過ぎ去ったすべてのものを破壊という陶酔によって忘却し、現にある一瞬一瞬を全力を尽くして「丈夫」に生きるようになる。

 梶井の作品は、『檸檬』に限らず、「檸檬」の爆発のヴァリエーションによって終わりを告げる。梶井の作品はアポロ的なるものへの違和によって幕を開け、ディオニュソス的なるものによる破壊=一体化によって幕を閉じる。梶井の作品が日本近代文学に対して奇妙な違和感を漂わせてしまうのは、それが日本近代文学をアポロ的なるものとして把握することを拒むディオニュソス的なるものとして機能しているからである。梶井の作品に失敗作は一つとして存在しない。と言うのも、彼は能動的・肯定的なものを価値基準とし、それを貫徹しているからである。

 梶井の作品は日本近代文学をある特定の起源から始まり、そこからの連続的な記述とする解釈を相対化する。日本近代文学を個体化・秩序化しようとすると、彼の作品は、「檸檬」のように、「カーンと冴えかえった」色彩を放ち、それを「粉葉みじん」に爆破してしまう。

 梶井は、カフカと同様に、文学的だけでなく、哲学的にも非常に重要な書き手であるが、その可能性が十分に汲まれているとは言いがたい。梶井の作品は、文学を自立したパースペクティヴにおしこめる企ても破壊する。梶井の作品は日本近代文学への総体的な批判へと導く手引きとなる。それは、彼の作品のタイトルを拝借するなら、「矛盾の様な真実」だ。梶井の作品は日本近代思想史における「檸檬」にほかならない。
〈了〉
参照文献
梶井基次郎、『梶井基次郎全集』全1巻、ちくま文庫、一九八六年
『日本の文学』33、中央公論社、一九七〇年
『ニーチェ全集』全19巻、ちくま学芸文庫、一九九四年

柄谷行人、『批評とポスト・モダン』、福武文庫、一九八九年
同編、『シンポジウム』、太田出版、一九九四年
川のぼる、『いなかっぺ大将 立志編』、ゴラクコミックス、一九七六年
スポーツグラフィック・ナンバー、『豪打列伝』、文春文庫ビジュアル版、一九八六年
竹田青嗣、『ニーチェ』、現代書館、一九八八年
玉木正之、『プロ野球大事典』、新潮文庫、一九八九年
森毅、『まちがったっていいじゃないか』、ちくま文庫、一九八八年
シャルル・ボードレール、『ボードレール批評1』、阿部良雄訳 ちくま学芸文庫、一九九九年
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