一 青花夕莉

文字数 17,944文字

 今日も頭痛で目が覚めた。寝返りを打っても頭は痛くなる一方なので、あきらめて起きる。時計を見た。深夜二時半。家族を起こさないようにゆっくりとベッドから下りて、自室を出る。ズキズキと痛む頭に手を当てながら、夕莉(ゆうり)はリビングルームへと向かった。
 冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで飲む。分厚い遮光カーテンを開け、マンションの上階から見える東京の夜景を眺めた。ベランダに出ようかとも思ったが、まだ肌寒い四月の始めの夜なので部屋の中で見ることに決めた。
 頭痛がひどい時には、街の夜景を見ると落ち着いた。下には人工的なネオンの輝き。ミニチュアのような車。上を見ると、ほんの少しの星と黄味がかった真ん丸の月。こんな時、東京の空はなんてきれいなのだろうと思う。すべてが幻で、すべてが飾り物。これくらいがちょうどいい。親戚の家に行った時の田舎の夜空は怖かった。こちらを見下ろしてくる星たちの大群。天の川。音もない世界。静寂に満ちた闇。あれは人間が知ってはいけない世界だ。現地の人たちは、毎日あの底のない得体の知れなさと触れ合っていて、気でも狂わないのだろうか。彼らは何を思い、何を考えているのか。東京の空を見るたびに思い出す。
 窓のそばに椅子を引いて座り、じっとネオンの光を見ていると、ふいにリビングのドアが開く音がした。夕莉は振り向く。兄がいた。苦しそうに咳をしながら、先ほど夕莉がやったみたいに麦茶を飲み、テーブルに着く。
「夜景見ないの? お兄ちゃん」
 夕莉が問いかけると、兄の翠(みどり)はだいぶひどい咳をして、しゃがれた声を出した。
「どうせ見たって治らないから」
 本当の翠の声は渋みのある低音で、十代の男の子の中ではとても大人びた落ち着いたものなのだが、今の彼は持病の喘息のせいでひどい有様になっている。
「気休めでも見たほうがいいよ」
 夕莉はそう言うと兄に手招きをした。翠は少し面倒くさそうな顔をしながらも、黙って椅子を動かして彼女の隣に来た。
 二人は何を話すでもなく、ただじっと真夜中の都会の街並みを眺め続けた。

 小さい頃の記憶は、あまりよく覚えていない。ずっと頭が痛くてどこでも泣き喚いていたということしか思い出にない。五歳の時に大きな病院へ行かされ、そこで慢性的な片頭痛だということを知らされた。それ以来、定期的に病院へ行き頭痛薬をもらう日々を繰り返している。
 頭痛は、いつどこで起こるかわからない。学校の授業中でも頭が痛くなったし、家でも突然襲ってきた。痛み止めの薬を常備していて、それがないと気が気でいられなかった。一番困ったのは夜寝ている時だ。頭が痛くて目が覚める。そういう時はたいてい涙が出ている。とある日の夜、母が寝室から夕莉を連れて行ってリビングルームから街の夜景を見せてくれた。その時、不思議と頭痛が和らいだ。心も落ち着いた。母は夕莉を抱きしめて、背中をさすってくれていた。外は綺麗だね。そう言いながら、一緒に夜を過ごしてくれた。
 そして、隣には、いつも翠がいた。
 夕莉と同じように喘息で苦しみ、同じように母に寄り添って窓の外の風景を眺めていた、双子の兄。
 あの頃、唯一心が安らいだのは、母と兄の三人で夜を眺めている静かな時間帯のリビングルームだけだった。

 明け方近くになって、ようやく頭痛は治まった。翠も同じタイミングで調子を取り戻し、ふらふらと自室へ戻った。夕莉はその姿を見送りながら、あと二時間は眠れるだろうかと壁時計を見た。四時二十分。コップを注ぎリビングを出る。父と母の寝室の隣にある六畳の部屋が夕莉の自室だ。翠は少し離れた玄関側の自分より少しだけ広い部屋にいる。物置部屋になっている三畳ほどのスペースを挟んで、二人の自室はある。夕莉はドアをそっと閉めるとベッドに仰向けになり、目を閉じた。痛みでこわばっていた身体がゆるみ、眠気がさざ波のように押し寄せてきた。
 携帯のアラームが鳴っていた。寝ていたというよりは気絶していたという状態に近い身体を何とか起こして、アラームを止める。七時だった。朝日は完全に昇り、カーテンの隙間から眩しい光が漏れていた。頭痛は治まっていた。朝の支度を済ませ、パジャマ姿のままで朝食を食べに食卓へ向かう。両親に朝の挨拶をして翠の隣に座る。朝食はスーパーで買ったパンと牛乳で、共働きの両親は出勤前の身なりを整えるためせわしなく動いていた。
「洗濯物干しておいてね。食器洗い機かけてね」
 母から発せられる怒涛のような指示に、夕莉と翠はまだ寝ぼけまなこで適当な相槌を打つ。「あとルンバかけて! 埃たまってるから!」と母は言い残すと最後に「行ってきます!」と叫んで父とともに出て行った。しばらく二人は無言のままパンを頬張ると、どちらからともなく皿を洗って食器洗い機にかけ、翠は全自動掃除機のルンバを起動し、夕莉は洗濯籠に洗い立ての服を入れた。二人が一番遅く家を出るため、朝の家事は二人の仕事だった。
 ベランダに出ると日差しは温かかったものの、ひんやりとした空気が頬に冷たく当たった。まだ本格的な春まで少し遠い、どこか冬の気配が残る青空を見た。白い半月がちょうど夕莉の視線の上にあった。
「……お月様はいいなあ。ただ浮かんでいるだけで皆に美しいなんて思われてさ」
 自分の赤みがかった茶色いセミロングの髪をいじりながらそれだけつぶやくと、夕莉はせっせと洗濯物を干し始める。十分ほどで仕事を終えると、自室に戻って制服を着る。髪をブローしてリップだけを塗り、学生鞄を持って玄関に出た。先に支度を終えていた翠が「おせーぞ」と言いたげな視線をやるとドアを開けた。夕莉は翠のあとに続いて、マンションの共有廊下に出た。
 あんたたちは持病があるのだから、お互い助け合えるようになるべく二人でいなさい。
 それが両親の口癖だった。夕莉と翠は必ずと言っていいほど同じタイミングで具合が悪くなるため、よく一緒の部屋で寝かされた。忙しい両親の代わりに父方の祖母や母方の祖母が交代制で二人の面倒を見ていた。しかし二人の祖母は年のせいで今は介護福祉サービスを受けている。
 中学生となった今でも、二人は一緒に登校している。親からのいいつけがいまだに身体の奥底に染みついているからか、それとも自分に理解のある接し方をしてくれるのは互いしかいないということに気づいているからなのか、夕莉と翠は離れ離れになったことがなかった。しっかりと互いにくっつき、寄り添い合い、今日から通学することになった新しい学校へ特に何の感慨もなく向かうのだった。
 夕莉たちのような子どもを集めた隔離学級―『デイケア学級』のある中学校へと。

 モノレール線に乗って停車駅で降りたところで、自分たちと同じ制服を着た子どもたちを見た。しかしその子たちは健全的な雰囲気を身にまとっていて、『普通学級』の子たちなのだとすぐに察しがついた。入学式の時に一度行ったきりなのでこの辺の土地感覚が今ひとつわからず、二人はとりあえずその生徒たちのあとをついていった。駅を出ると最近発展したと思われる賑やかだがどこか素朴な店が立ち並び、そのアーケード街をどんどん進んだ。そこを抜けるとアスファルトの照り返しがきつい傾斜の道があり、その道に入ったとたん嘘のように先ほどまでの人ごみがなくなった。静かな空気が流れるアスファルトの小高い道を、二人と同じ制服の子が歩いていく。夕莉と翠も懸命に足を動かし、坂を上っていく。いつの間にか同じ制服の子どもたちがほかにも大勢歩いていた。皆は楽しそうにおしゃべりを交わしながら、坂道をぐんぐん進んでいく。夕莉たちは何人もの生徒に追い抜かされて、ようやく学校へ着く頃には軽く息が切れていた。
「新学期早々、死ぬっての」
 翠がぼやいた。その投げやりな感じが何とも彼らしくて、夕莉は苦笑した。
 二人の下駄箱は、一般の生徒たちから離れた隅のほうにあった。上履きに履き替え、入学式の時に指示された教室へ向かう。そこは坂の傾斜の関係上、渡り廊下を通った地下へと続く場所だった。下り坂のところに構えている教室で、そのため地下といっても太陽の光は届く。窓の外からは見渡す限りの東京の街並みとその向こうの小さな山々が見える。    
地下一階。一年生の教室へ入る。クラスの名は『デイケア組』。夕莉はだいぶ緊張して足が一瞬すくんだが、翠のほうは大胆にずかずかと足を運ぶ。あわてて兄のあとをついて、自分と同じ赤みがかった茶髪を目で追う。一番前の席に座り、夕莉と翠は再び無言で時が経つのを待った。
「兄妹?」
 ふと声がかかった。二人は条件反射で同時に振り返った。
 艶のある長い黒髪をハーフアップに結い上げた、優しげな雰囲気の女子生徒がいた。
 夕莉と翠は目を見合わせた。「他人」に声をかけられた時の対処法を、翠が瞬時に見つけ出した。
「うん。そう」
 翠が突き放したように言った。夕莉は黙って目の前のそばかすの浮いた少女を見つめている。若干怯えるように。
「えっと、お兄さんで、妹さんかな?」
 女子生徒はふんわりと問いかけ、微笑んだ。この「他人」は果たして敵か、そうではないのか。夕莉にはまだわかりかねていた。
「ああ。双子」
 翠が言う。少女は「ああ、そうなんだ。そんな気がしてた」とまた笑った。
「私は伊織佳純(いおり かすみ)です。青花(あおはな)、さん?」
 佳純と名乗ったその少女は入学式の時に配られたプリントを広げた。
「そう。俺が青花翠で、こっちが妹の青花夕莉」
 翠が自分の名を言ったので、夕莉はビクリとした。「他人」にここまで話していいのかと、心配そうに兄のほうを見る。翠は、多分こいつは大丈夫、と目で言った。
「よろしくお願いします」
 佳純はうっすらと浮かんだそばかすでにっこりと爽やかに笑った。夕莉も決心して、ぎこちない笑みで返した。
「……よろしく」
 自分とは程遠い、艶やかな黒髪が記憶に残りそうなほど綺麗だった。

 新学期一日目の授業は、国語、数学、英語、情報だった。このクラスは午前授業のみで、午後は『生活体験クラブ』というデイケアサービスに変わり、音楽鑑賞をしたりDVDを観たりする。一番多いのは『ふれあいトーク』という自己紹介のようなスピーチで、自分の好きなものやはまっている趣味などを披露するのである。一般クラスよりも一時間早めに学校は終わり、生徒たちはほとんどどこにも寄り道せずにまっすぐ帰る。中には親が車で迎えに来てくれるケースも少なくない。夕莉と翠は両親が働いているので、夕方の家事をするために家に直帰する。誰かと遊んで帰るなどという発想は今まで一ミリもなかった。
 それが今、二人のそばに歩いている女子生徒が一人。
「青花さんたちはどこに住んでいるの?」
 佳純がふんわりと笑って当たり障りのない質問を口にしていた。
「モノレール線のところ」
 夕莉が黙っていると、翠が代わりに答えてくれた。
「わりと遠いね」
「でも三、四十分くらいだから」
 翠が佳純に話を合わせているのを見て、夕莉はますます縮こまってしまう。佳純は空気を察したように
「私はバスなの。また明日ね」と爽やかに答えるとバス停のほうへ歩いていった。
 佳純の後ろ姿が遠くなると、翠があきれたように夕莉を振り返った。
「お前、もっとシャキッとしろよ」
「……うん」
「うじうじオドオドしているから、皆に舐められるんだよ」
「……ごめん」
 翠は溜め息を一つ吐き、「まあ今回は大丈夫だと思うけど」と言って先を歩いた。夕莉も後ろについてくるように足を運ぶ。二人は肩を並べて真昼の春の日差しに照らされながら帰り道を進んだ。伊織佳純は悪い人間ではなさそうだと、夕莉は自分の心に言い聞かせていた。

 翌日の体育の授業はバスケだった。
 夕莉はいつものように見学で、体育館の隅っこに正座していた。翠と佳純は出席している。この授業も一般クラスのような本格的なものではなくて、仲間とパスの練習をしたりシュートを入れる回数を競ったりする程度だった。しかしそのレベルの運動も夕莉はこなせない。昔から身体を動かすと決まってひどい頭痛に襲われるからだ。
 今もズキズキと鈍い痛みがうずいている。体育館の中は熱が溜まっていて、埃臭くて暑いくらいだった。夕莉は制服のブレザーを脱いで膝にかけ、ベスト姿になった。あらかじめ持っていた保冷剤を側頭部に当て、時間が過ぎるのを待つ。翠は華麗にシュートを決めていた。佳純もほかの女子と楽しそうにパスを回している。
「おい青花、大丈夫か?」
 体育教師がちらりと視線をやって夕莉に声をかけた。かなりひどい顔色なのだろう。体育教師は心配そうな表情をしていた。
「すみません、保健室行ってもいいですか?」
「そうしなさい」
 夕莉は一言断わり、プレイ中の皆の邪魔にならないようにそろそろと動いた。体育館を出て、廊下を渡り一階の保健室へ向かう。移動教室に使う施設はデイケア組と一般クラスに分かれていない。すべて一緒だ。今日のように体育館や保健室など使う場合は一般クラスの生徒と出会うことになる。それが緊張したが、使わないわけにはいかないので仕方なく行く。一階に着いてデイケア組の教室の道にある保健室の扉を開いた。微かな薬品の匂いと落ち着いた色合いの部屋にどことなくほっとした。
 ここの保健室はかなり大きい。ベッドが全部で五台あり、間隔も広く開けられている。休憩スペースは十人ほどが座れる長方形の真っ白なテーブルがあり、女性の保険医二人が受けつけのように入り口付近のデスクに座っている。
 保険医の一人が「頭が痛いの?」とすぐに夕莉の状態を察してくれた。「はい。ちょっと」と言うと同時に右側頭部がズキンと激しく痛んだ。「一年の青花です。あの……。頭痛もちで、これからたくさんお世話になると思うんですけど」言葉を濁しながらそう告げると、保険医は「実はベッドが空いてなくてね。どうしましょう。ソファーで横になる?」と困ったように視線をうろつかせた。デイケア組の子が使っているのだろうかと思いながら「じゃあそうします」と言ってソファーに座った時だった。
「ベッド空きましたよ」
 翠の声とよく似た低温ボイスが聞こえた。ふと後ろを振り返ると、何やらきつそうな外見をした背の高い男子生徒が立っていた。寝癖のついた黒髪を手串で直しながら、ふわ~と間の抜けた欠伸をしている。
内海(うつみ)君、具合は直ったの?」
 保険医が「まだ三十分も経ってないけど」と戸惑ったように訊いた。内海と呼ばれた男子生徒は目をこすりながら「俺、眠くてサボっていただけだから。この人のほうが具合悪そうだし」とぼやけた声で言った。そして「あと俺の勘なんだけど、その人、デイケア組でしょ?」と何の悪気もない調子で暴露した。
「まあ、あなた、そうだったの」
 保険医がやけに優しい顔になった。夕莉は気まずくなって思わず内海をにらんだ。内海のほうも「あ?」と威圧的な視線を向けた。しばらく両者はにらみ合った。
「せっかくベッドが空いたんだし、青花さん、しばらく寝ていましょう」
 保険医があわてたように夕莉を促した。ふんと鼻を鳴らして内海のほうをすり抜け、彼がいたベッドに横になる。保険医がカーテンを閉める際、ちらりと内海のことを再び見た。彼はすでに背中を向け「じゃあさよなら~」と扉を開けひらひらと手を振っていた。まだ成長途中の夕莉とは対照的に、程よく筋肉もあり大人びた身体つきだった。その広い背中を一瞬だけ見つめ、ふと兄の翠も成長したらこんな感じになるのだろうかと思った。カーテンが完全に閉まると、すぐに夕莉は寝る体勢に入った。内海の体温が少しだけシーツに残っていた。
 横になっているうちに授業が終わるチャイムが鳴った。結局眠れなかったが頭痛はだいぶ治まり、夕莉はゆっくりと起きて制服のスカートを整えた。外していたリボンタイをつけ、枕元に畳んでいたブレザーを羽織ってカーテンを開ける。「具合はどうかしら?」保険医の言葉に「よくなりました。次の授業は出られそうです」と返してソファーに座った。「兄が迎えに来てくれると思うので、ちょっと待っていていいですか?」
 そう言うと保険医は「お兄さんがいるのね。仲が良いのね」と穏やかに笑った。夕莉は誇らしい気持ちになるのを抑えられなかった。そう、いつだって兄は迎えに来てくれる。弱くて情けない自分をビシッと叱ってくれる。同じ日に同じ時間帯で生まれて、まるで運命のように持病を患って、それでも自分よりはいくらか丈夫な兄。兄が導いてくれるから、さっきのようにデイケア組だということを暴露されてもかろうじて負けなかった。あとで兄に言いつけよう。そういえばあの男子、なぜデイケア組だということを知っていたのだろうか。
 悶々としていると体育の授業を終えた翠がやって来る気配がした。不思議と、翠の迎えはすぐにわかるのだった。足音や歩き方で判断するのではなく、直感で察することができるのだ。
「夕莉」
 扉が開いて、翠が顔を出した。夕莉は立ち上がって体操着のままの兄のそばに行く。
「次の授業はちゃんと出ろよ」
「うん」
 自分と同じくらいの背丈の翠を見て、あの男子は上級生なのだろうかと考えた。そして保険医に「ありがとうございました」と挨拶をして教室に戻る。渡り廊下を渡って地下へ降りる時、翠に内海のことを話した。すると翠は「それ、多分ボランティア部だろ」と答えた。
「ボランティア?」
「うちの学校、デイケア組があるくらいだからそういうことに力入れてるんだよ。ボランティア部は一年から三年までいて、そいつは多分、二年か三年だな。今年入ったデイケア一年の名簿でも見たんだろ。青花って名字は珍しいから」
「ふうん」
 夕莉が納得したように相槌を打つと、翠は続けた。
「ボランティア部は週に一度、俺たちのクラスに来て親睦会みたいなのするんだってよ。ふれあいトークに一般クラスが入ってくるような感じ」
「えぇ……?」
 夕莉は顔をしかめた。「一般人」という丈夫で健康で遠慮がない無粋な人間が自分たちの世界に入ってくるということに、夕莉はまったくと言っていいほどいい印象を抱けなかった。
「いつから来るの?」
「今週だろ」
「早……」
「お前、何も知らなすぎ」
 翠はまたあきれたように妹を見た。「入学式の日に全部説明されただろ。ガイダンスにも書いてあったし。ちゃんと見ろよな」と深い溜め息を吐く。夕莉は「えへへ」と誤魔化すように笑った。一度も告げたことはないが、翠に叱られるのは好きだった。両親が怒る時はひたすら怖いが、翠の怒り方はどこか可愛げがあって嫌な気持ちにならなかった。
 更衣室で別れて先に教室へ入ると、着替えを終えた佳純が「頭が痛くなっちゃったの?」と遠慮がちに訊いた。
「うん。実は私、かなり重い頭痛もちで。またこれからも迷惑かけるかもしれないけど……」
 さらりと自分の持病を話せたことに、夕莉は内心驚いていた。佳純と出会ってまだ間もないのに、ここまで告白できるのは、彼女がお人好しを絵に描いたような見た目だからか。それとも「デイケア組」という安全な檻に囲まれた中で、ある種の心地よさを抱き始めたからか。どちらにせよ、すっきりしたことは確かだった。
「そっか。それは大変だね」
 佳純の言い方は丁寧で、気遣いが感じられた。彼女はどんな事情でこの学級にいるのだろうと問いかけたくなったが、向こうから言いだしてこない限りは詮索しないほうが優しさだろうと思い、やめた。夕莉は佳純と他愛のない話をしながら次の授業の教科書を準備した。翠も制服に着替えて戻ってきて、そばにいた男子たちと楽しそうにしゃべり始めた。お互い友人ができたことで、余裕が生まれた。今日の帰りはそれぞれ別かな、と考えた。
 内海が双子の姉を連れて夕莉たちのクラスに来たのは、それから三日後のことだった。

 あの保健室のにらみ合いなどすっかり忘れた頃、夕莉は初対面する一般クラスの生徒たちにかなり緊張していた。担任教諭が「今日のふれあいトークはボランティア部の人が来てくれます」と滑舌のいい話し方でそう告げた際、クラス中に緊張のような張りつめた空気が伝わった。皆、一般人に対して悪い印象しかないようだった。もともと大人しい人たちが集まった教室はますますしんと静まり返ってしまった。
「そんなに怖がるな。皆、誰かを助けたいという気持ちを持った子たちなんだから」
 担任は苦笑しながら言った。それは理解しているつもりなのだが、どうしてもあの明るすぎる空気感が苦手だった。それは夕莉だけでなく、皆も思っていることのようだった。
 そうこうするうちにいよいよ時間が来てしまい、廊下に人だかりができた。一般クラスの生徒たちだ。夕莉は思わず身構えた。周りのクラスメイトも不安そうに顔を見合わせている。
「ボランティア部の二年生が来てくれました。どうぞ」
 担任が教室のドアを開けた。七名ほどの男女合わせた生徒たちがぞろぞろと入ってきた。その中で一人、ぽっと背の抜きん出たスタイルのいい男子生徒が「あっ!」と突然声を上げた。夕莉たちはビクリと飛び上がった。
「青花!」
 重厚感のある低温ボイスに、夕莉は「あ……」と思い出した。
 あの時の「ベッド空きましたよ」と席を外した目つきの鋭い黒髪の男の子が、夕莉のことをまじまじと見つめていた。

 ボランティア部は、デイケア組の時間割に合わせて午後の授業を立て替えて行われるため、夕莉たちが帰ったあとにはその分の授業を巻き返さなければいけない。つまりほかの生徒たちより帰りが遅くなるのだ。放課後に部活動を行っている者と同じ時間帯に帰るので、週に一度このような活動をするのはその名の通りボランティアだった。
 内海夏央(うつみ なつお)からこのことを聞かされた夕莉は、彼のとうてい親切そうな人柄には見えない鋭い目つきを見て、どうしてこんなことをしているのだろうと不思議に思った。
「俺、下の名前、夏央な」
 彼が自分の名前を教えたので夕莉も簡単に自己紹介をした。「青花ってあまり見ない名字だから、すぐに覚えたな」と夏央が笑うと、意外と愛嬌のある表情になった。翠が言っていた「デイケア組の名簿でも渡されたんだろ」という台詞を思いだし、問うと、夏央は「ああ、そうだよ。一通り覚えてくださいって」と答えた。
 離れたグループにいる翠を見る。兄はすらりとした背の黒髪ショートヘアの女子生徒と何やら話し込んでいる。夕莉の視線に気づいたのか、夏央が「あれは姉の冬華(ふゆか)」と指を差した。そういえば背の高さとスタイルのよさが似ていると思っていると、「お前ら双子だろ? 俺らもだよ」と夏央から意外な共通点が出された。
「どっちが上なの?」
 兄妹構成を訊かれているのだと気づいた夕莉は「兄の翠のほうです」と簡潔に答えた。
「ふうん。夕莉が妹で、翠が兄か。こっちは姉と弟だし、双子同士だな」
 さらっと下の名前で呼ばれたが、嫌な感じはしなかった。
「な、夏央先輩」
 自分も思い切って名前で呼ぶと、夏央は特に表情を変えずに「ん?」と視線を合わせた。
「先輩たちも、同じ時期に具合が悪くなったりしませんか?」
 これは夕莉が前から誰かに問いかけたかった質問だった。翠と夕莉はそれぞれ喘息と頭痛を抱えているため上手く身体を動かせない。一般クラスにいる夏央たちはどうなのだろうと、今まで周りに双子がいなかった夕莉は前から感じていた疑問をぶつけることにした。
「私たち、大体同じタイミングで体調を崩すんです。あの時は体育の授業だったから私だけでしたが……」
「翠のほうは運動できるのか?」
「あ、はい。お兄ちゃんは運動している時は調子がいいんです。激しい運動はできないけど。私の場合は身体を動かすだけで頭が痛くなっちゃって。たいていは季節の変わり目と梅雨の時期に身体が弱ります」
 夏央は「へえ」と興味深そうにつぶやいた。そして「俺らはめったに風邪ひかないからなあ」と頭を掻いた。夕莉は「……丈夫なんですね」としか返せなかった。
「双子は学問的にもまだまだ解明されていないことが多いから、謎だな。お前らのそれも、何か通じ合っていたりして」
 夏央は少し楽しそうに言った。自分と同じ双子という存在がいたことが嬉しいのは、どうやら夕莉だけではないらしい。
「一卵性の人たちは、通じ合ったりするんでしょうか」
「どうだろうな。あまり自分と似ているのも嫌な感じがするかもしれないな」
 夕莉たちは性別が違うため二卵性である。今まで自分の世界には翠しかいなかったが、佳純や夏央たちと出会ったことで、何かが変わるかもしれないことを夕莉は実感していた。
 Aグループの夕莉と夏央は、司会を行っている一般クラスの生徒から少し離れるように距離を置き、こそこそと話していた。トークのテーマが決まり、デイケア組の子が話し始めたところで夏央は「まあ、これからよろしくな」と椅子を引いて周りの人たちの会話に参加した。夕莉も椅子の位置を直して隣にいる夏央の横顔を見た。切れ味の鋭い目つきとは裏腹に大らかそうな雰囲気を纏ったその男子生徒は、「敵」ではないかもしれないと思い、夕莉は警戒を解くことにした。
 Bグループのほうで朗らかな笑い声が起こった。佳純が口に手を当てて上品に笑っている。ボランティア部が何か洒落た冗談でも言ったのだろう。Cグループの翠は夏央の姉である黒髪ショートヘアの女子生徒―冬華とぴったり寄り添ってずっと何かを話している。ふいに胸の奥をじりじりとした日焼けのような痛みが走った。嫉妬だろうか。だとしたら自分は相当嫌な女だ。
 ボランティア部の生徒たちは、明るく話し上手で常にこちらをリードしてくれていた。夕莉たちも少しずつ口を割るようになり、まだどことなく緊張感があったが大きなトラブルもなくその日の午後のふれあいトークは終了した。

「お兄ちゃん、冬華さんと何話してたの?」
 帰り道、夕莉は翠に尋ねた。二人はいつものようにモノレール線までのアーケード街を寄り添って歩いていた。
「ん、別に」
 翠の返事はそっけない。昔から無愛想なところはあったが、最近は特にそうだ。感じたこともなかった不安がこの日、種となって夕莉の心に植えつけられた。
「あのね、夏央先輩と冬華先輩は両方とも丈夫でね、あまり風邪をひかないんだって」
「うん、聞いた」
 翠の声はどこか上の空だった。夕莉は懸命に口を動かした。
「夏央先輩は、世話好きな親分肌って感じがした。冬華先輩はどうだった?」
「同じ。姉御肌な女。同性から慕われている感じだった」
 翠は温度のない声で言う。彼はいつも面倒くさそうに夕莉に接していたが、目はきちんと妹の視線を捉えて真っ直ぐだった。綺麗な二重のラインがスッと横に伸びて、その芸術的なほど美しい目の形が夕莉は好きだった。しかし今は、ぼんやりと膜の覆ったような虚ろな瞳で、少しも妹の話に耳を貸していなかった。
 夕莉は不安を抱えたまま、それきり黙って兄の横を歩いていた。心地よかったはずの二人の沈黙が、重苦しくて暗いものになった。
 その日の夜、翠は両親に「話がある」と言って夕ごはん後のダイニングテーブルに居座り、夕莉を部屋から追い出して親と長い相談を始めた。自室に戻った夕莉は寝るまでの時間、ひたすらベッドに座り込んで膝を抱えていた。何かが動く気配がした。自分ではどうすることもできないほどの、大きな運命のようなものが。唯一わかるのは、兄が何か大きな秘密を抱えているということだった。助け合って生きていくことを理念としていたのは、自分だけだったのだろうか。
 真夜中のことだった。また頭痛に襲われた。それは今までとは何かが違う、粘っこくてしつこい痛みだった。自分の無力さを嘲笑しているかのような激しい痛みが襲った。リビングルームに行って水を飲みながら窓の外の夜景を見た。兄が来るのを待った。しかし翠は一向に来なかった。いくら待っても頭痛は治まらず、嫌な予感がした。兄と自分の波長がずれている。どのように修正したらいいのか、夕莉にはわからなかった。
 ソファーに横になりながら、空を見る。濃い黄色の三日月が光っていた。空は晴れているらしい。星を一つ見つけた。一人で見る夜の街は、頼りなく儚かった。それでもまだきれいだと思える自分に安堵して、夕莉はリビングのソファーで朝まで眠った。

 両親に心配されながらも、夕莉はがんばって学校に通った。どんなにつらくても学校へ行く。それが家族と交わした約束だったから。
 隣にはいつものように翠がいた。昨日のような地に足のつかない感じはもうなくなっていて、しっかりとした兄に戻っていた。そのことにひどく安心しながら、夕莉は翠にもたれかかるようにして這うように学校へ行った。
 肌身離さず持っている頭痛薬を教室で飲み、机に突っ伏して時が過ぎるのを待った。佳純が「大丈夫?」と優しく声をかけてくれるが、返事をする気力もなかった。
 ようやく薬が効いてきて、昼になる頃には佳純とともに弁当を食べる準備ができていた。
「ごめんね。いつも心配かけさせちゃって」「ううん、平気。夕莉こそご飯食べられる?」佳純は弁当箱を広げながら気を使ってくれる。ふと、彼女は一体どこが悪くてこのクラスにいるのだろうと再び思ったが、まったく健康そうに見える彼女には身体が弱い人間特有の「隙」というものがなくて、質問することも夕莉にはできそうになかった。
 教室のドアが開いた。その瞬間、クラスの気配がピリッとした張りつめた空気になった。何だろうと思い振り返ると、そこに見慣れない顔があった。
 一般クラスの女子生徒だった。人工的に染めた明るい色合いの茶髪が、肩のあたりで綺麗にくるくる巻かれていた。猫目を思わせる愛らしい瞳が、その場の緊張感にも動じずきょろきょろと辺りを見回していた。その女子生徒は物おじせずに夕莉の兄の名前を呼んだ。
「青花翠君、いますか?」
 女の子らしい軽やかな甘い声で、その女子生徒は言った。翠はトイレにでも行っているのか、教室にいなかった。
「いないのか。じゃあ誰か、青花君に早くアレ返してって伝えてくれる?」
 女子生徒は堂々と振る舞っていた。皆は顔を見合わせて、その気の強そうな女子生徒に怖気づいている。夕莉は兄のことが気になって、勇気を出して席を立った。
「あの、私が伝えます」
「おー、サンキュー」
 夕莉はおずおずと近づいて、相手の名前を尋ねた。女子生徒は「飯塚(いいづか)舞(ま)衣(い)。二年。顔似てるね。兄妹?」と軽い調子で言った。
「妹です」
「双子か。あいつ、何も言ってないぞ。むー」
 舞衣と名乗った少女は口を尖らせた。
「名前、教えてくれる?」
 そしてすぐにパッと表情を変えた。
「青花夕莉、です」
 そう答えると、舞衣は「ああ、ここデイケア組だっけ。ごめん、ごめん。怖がらせちゃったね。でも取って食いやしないよ」と笑って「伝言よろしくねー」と去っていった。一般クラスの舞衣が姿を消すと教室に張っていた緊張が一気に緩んだ。佳純がそれとなく近づいて「翠君と知り合いなのかな?」とつぶやいた。夕莉は、あの日、翠が冬華と何か話し込んでいたのはこの子と関わりがあるのかと思い当たった。
「……ちょっと派手な人だったなあ」
 口からそんな言葉が漏れていた。とりあえず兄が戻ってくるのを待とうと、夕莉は伝言を告げるために席に戻った。
 帰ってきた翠に舞衣のことを伝えると、渋い顔をされた。「ったく、あいつ、せっかちだな」と不機嫌そうにブツブツ言いながら翠は学生鞄を探り、一冊の本を取り出した。いわゆる自己啓発の書物らしい。カバーがかけられているので完全には読めなかったが、『……の方法』という字体がでかでかと印刷されているのが見えた。
「それ、何の本?」
 試しに訊いてみたが、翠は「借りてたやつだよ」という曖昧な返事をしただけだった。舞衣という少女とどのようにして知り合ったのか推測して、夕莉はそれとなく尋ねた。
「……冬華先輩を通して借りたの?」
 蚊の鳴きそうな声になっているのに自分でも驚いたが、翠が一瞬、物悲しい顔になったことに何かがパチンと弾けた。
「他人は敵じゃなかったの?」
「お前こそ夏央先輩と仲良くなっただろ」
「約束したじゃない。互いしか必要としないって。親からも言われていたじゃない」
 声がかすれて、泣きたくもないのに涙声になってしまった。情けなく思いながらもあふれた思いは止まることを知らず、夕莉は一つの真実にたどり着いた。
「……一般クラスに移るの?」
 翠は答えない。茶色がかった瞳だけが事実を述べていた。
「いつから? どうして? ここを捨てるの? せっかく見つけ出した場所なのに」
 本当は、こんなところどうでもいい。ふれあいトークとか馬鹿馬鹿しい。コミュニケーションの勉強をしたって、心のケアをしたって、救われない時は救われないのに。
 あの時から、自分の唯一の味方は兄の翠だけだったのに。
 夕莉は周りの視線も構わずに大きな声で問いかけていた。翠が淡々とした声で言った。
「二学期から一般クラスに編入する。そのための参考書とかを冬華先輩たちに借りていた。ずっと前から決めていた」
 昨日の今日で知り合ったばかりなのに、どうやって参考書を借りる仲まで行ったのだろう。翠はフットワークが軽いほうではない。夕莉ほどひどくないが、かなりの人見知りだ。それなのにこの親密度は不自然だ。
「……最初から知っていたの? 先輩たちのこと」
 合点が行くのにそう時間はかからなかった。翠はおそらく、夏央たちに名簿を渡す係を頼まれたのだ。いや、自分から志願したのかもしれない。夕莉に気づかれないように一般クラスのボランティア部と接触し、「一般人」の仲間入りを果たすために関係を築いた。
 デイケア組の入学式の日、翠は「ちょっと待ってて」と夕莉を一階のホールに待たせていた。
 待った時間はそれほど長くなかった。きっと忘れ物でもしたのだろうとしか思わなかった。職員室はホールから少し遠い。しばらくすると翠が何事もなかったかのように帰ってきた。夕莉は何も疑問に思うことはなく、翠と帰路に着いた。
 あの時、すでに翠は決心していたのだ。一般クラスに移ると。そしてその頃には、とっくに親と話し合いがついていたのだ。昨日の晩の相談とは、最終的な確認のことだろう。翠は夕莉を置いていく。妹から離れていく。夕莉は一人ぼっちになる。そのことに本人が一番耐えられなかった。
「夏央先輩も、冬華先輩も、皆グルだったんだ」
 身体が震えている。これは怒りか、悲しみか。夕莉はキッと兄をにらんだ。翠は無表情だった。能面のような顔でまた淡々と言葉を紡いだ。
「先輩たちは、お前を騙していたわけじゃない。俺たちが双子だということまでは話していないし、俺は単にいずれあなたたちの学級へ編入するつもりです、と言っただけだ」
「でも、私に隠し事していたじゃない」
 わなわなと震えながらそれだけを言うと、もうそれ以上の台詞が口から出てこなかった。言いたいことは山ほどあるのに、言葉のサインを送る脳の部分が麻痺して喉から音にもならない喘ぎが出ただけだった。
「……バレたの意外と早かったけど、そういうことで、俺はもうここには来ないから」
 翠は鞄を下げて席を立った。夕莉のことを振り返ることもなかった。
「午後はただのトークだから俺サボるわ。もっといっぱい勉強したいし、担任にも頼んで編入試験のための課題もらっているから。じゃあな」
 まるで逃げるようにして翠は教室を出て行った。周りのクラスメイトがざわざわと翠のことを話し始めたが、夕莉の耳には兄の「じゃあな」という別れの言葉だけが響いていた。周りの声が聞こえない。佳純の顔も見えない。気がつくと夕莉は放心したように涙だけを流していた。
 ズキリと頭が痛んだ。とたんに猛烈な痛みが襲った。夕莉は頭を抱えてその場に泣き崩れた。もう自分たちは同じように体調を崩さない。一緒の部屋で互いを気遣いながら他愛のない話をすることもない。寄り添い合って学校への道を歩くこともない。帰ることもない。すべてが突然終わったのだった。
 誰かが夕莉の腕を取って、立ち上がらせた。細い指先から女子生徒だと思い、佳純の顔がぼやけて見え始めると夕莉はふいに泣き止んだ。頭は変わらずひどく痛んだが、佳純がそっと背中を撫でながら夕莉を連れて行ってくれたので、絶望のような感情はふと薄まった。佳純はそのまま夕莉を外の世界へと連れ出した。
 四月の半ばの空気は爽やかだった。日差しが燦々と降り注ぎ、昼間のこの時間帯には若葉の匂いもした。人気のない中庭へと行き、授業中のクラスの死角に入るように隅っこへ寄ってベンチに腰かけた。すると不思議と落ち着いた。
「ごめん……。私、また馬鹿やっちゃって……」
 夕莉がぐずると、佳純は母のように背中をさすり続けた。
「……私たちね、小さい頃は特に仲良かったわけじゃなかったの」
 佳純が「うん」と相槌を打ってくれる。その優しさにすべて委ねようと夕莉は洗いざらい話した。
 二人は手のかかる子どもだった。四六時中泣くしすぐにお腹を壊すしミルクは吐くし、双子だったせいか両親は軽い育児鬱になりかけていた。
 父方か母方か今ではもう覚えていないが、祖母が「こんなに泣くのはおかしい。どこかが悪いのかもしれない」と言って二人を病院へ連れて行き、検査を受けた。そこで初めて夕莉は慢性的な頭痛、翠は喘息発作と知らされた。五歳になる頃だった。
 夕莉の頭痛と翠の喘息は、たいてい夜中に起こった。両親が電気をつけて二人の看病をした。母が夕莉たちに街の夜景を見せた。すると二人とも大人しくなり、なぜか症状も治まった。それ以来、両親は子どもに言い聞かせた。「あなたたちはほかの子より身体が弱いのだから、お互いに助け合って生きていきなさい」と。
 小学校に上がった時、二人はいつどんな時でもくっついていた。相手に何かあった場合、すぐに助けられるようにと。
 しかしクラスは、別々になった。
 一年生の二人は頻繁に体調を崩し、まったく同じタイミングで保健室へ行ったり学校を欠席したり遅刻、早退を繰り返した。朝八時半から昼の三時まで体力が持たないのだった。二人はだんだんと衰弱していき、二年生になる頃には「病弱兄妹」と学年の名物にされて有名になってしまった。二人は―少なくとも夕莉のほうは、ますます互いに依存していった。代わりにノートを取ってくれる友達も教科書を見せてくれるクラスメイトもいなかった。勉強に遅れが生じた。もう何もかもどうでもよかった。
「お兄ちゃん、もう死んじゃおうよ。そのほうが楽だよ」
 熱にうなされて一つの部屋で布団にくるまっている時、夕莉は隣のベッドで寝ている翠に助けを求めた。「死」とは、助けだった。
「こんなポンコツの身体、捨てたいよ。生まれ変わりたい」
 他人はいつだって冷たかった。夕莉と翠に理解のある接し方をしてくれる者などいなかった。生徒も教師も同じだ。自分をわかってくれるのは親とこの片割れだけだ。
「うん。いいよ」
 翠が苦しそうに咳をしながらもそう答えたのが聞こえた。夕莉は翠と見つめ合った。彼の目にはちゃんと自分が映っていた。
「いつか死のう。絶対に」
 翠は、はっきりと言った。
「……いつがいい?」
 夕莉が泣きながら問うと、翠は天井を見上げた。
「小学校を卒業したら」
「……わかった」
 二人は死ぬことを誓い合った。具体的な日にちは特に決めなかった。ある日ふと、兄が「そろそろ死のうか」と言ってくれるのを今日に至るまで待っていた。
 中学生になれば死ねると思った。卒業式には出なかった。まるで運命のように二人とも病状が悪化したからだった。
 両親が学校を下調べして、このデイケア学級がある場所を突き止めたのは、二人が死を決意してからしばらく経ってからのことだった。
 デイケア組には受験勉強がない代わりに、面接と診断書が必要だった。「ここに入れば生きるのも少しは楽になるよ」と両親が優しく諭してくれるのを、夕莉はただただ申し訳なく思った。自分たちはもうじき死ぬ。兄が合図を出してくれる。だから他人などいらない。自分たちに未来などないのだから。
 しかし兄はいつの間にか変わっていた。生きる決意をしていた。夕莉にも気づかれないほど、一人で生きようとし始めた。
 私は一体どうなるの?
 叫びたくなった。この激しい感情をどこにぶつければいいのかわからなかった。怒りなのか悲しみなのか憎しみなのかもわからないまま、夕莉は佳純に昔の話を打ち明けていた。
 話が終わると、佳純はギュッと夕莉の手を握った。
「いい天気だね」
 そう言って、空を見上げた。夕莉もつられて顔を上げると、筋状の白い雲が薄く伸びた真っ青な空が、きらきらと日の光を落としながら一面に広がっていた。
「今が一番いい時期だね」
 佳純の手は温もりがあった。
 夕莉の目にまた涙がにじみ出てきた。もう何度泣いたのかわからない。どんなに泣いたところで現状がよくなることもないのに。それでも泣かずにはいられなかった。
「助けてほしいわけじゃない」
 夕莉はしゃくり上げながら、精いっぱいの抵抗を言った。
「たとえ助けられても、私は何もできないポンコツな人間だって、わかるだけだから」
 佳純の手を強く握り返す。彼女もそれに応えるように手の力を強める。
「同情なんか、いらない。かわいそうって言葉が、一番嫌いだ」
「うん。私も」
 佳純は落ち着いていた。夕莉の泣き声が大きくなった。
「こ、これから、生きなきゃいけない。私一人じゃ死ねない」
「うん」
「でも、どうしよう。どうやって生き残ればいいの」
「私もわからない」
 佳純がボソッと言った。夕莉は小さな子どものように泣きじゃくる。
「お、お兄ちゃん、いつか話してくれるかな。どこで変わったのか、教えてくれるかな。もう会えないかもしれないけど」
 佳純は何も言わなかった。
「わ、私、もう行かなくちゃ。お兄ちゃんに追いつかなくちゃ。今さら遅いけど」
 佳純の掌が汗ばんでいた。それともこれは自分の手汗かもしれない。
「が、がんばらなくちゃ。そう思わないと、勝てないよ」
 私は、何に勝てるのか。私に勝つ手段が残されているのか。
 空を見上げた。佳純の言う通り、本当にいい天気だった。進まなければいけない。夏央や冬華たちを、もっと知っていかなければいけない。知ることは、繋がることだ。
 自分が何の役に立てるのかはまだわからない。ただ掌に佳純の体温があった。柔らかくて湿った、小さな手だった。この手を握ることに、意味があるのだろう。
 呼吸を整える。空に浮かぶ飛行機雲を見上げる。夕莉は立ち上がって、佳純と一緒にもっと日の当たる場所に出た。
 大きく伸びをした。なぜだか急に身体を動かしてみたくなり、ストレッチをした。佳純も気持ちよさそうに太陽の光を浴びている。
 一般クラスの授業が見えた。窓際の生徒たちがこちらに気づいて怪訝そうな顔をする。夕莉は、あそこに兄が行くのか、と教室を見つめた。一人と目が合った。すぐに視線をそらされた。思わず佳純と笑い合った。
「案外ビビリだね」
「皆そんなもんだよ」
 夕莉は歩き出した。デイケア組の教室へ。「もうふれあいトーク始まっちゃったなー。今から行くの気まずい」「じゃあサボっちゃおうよ」佳純が楽しそうに言うので、夕莉も「どこにしようか?」と笑った。
 ホールへと続く中扉を開けて、夕莉は一歩を踏み出した。まだ若干震えている身体を佳純に悟られないように、足を踏みしめた。
 隣では、佳純が微笑んでいた。
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登場人物紹介

青花夕莉《あおはな ゆうり》

引っ込み思案でオドオドしている女の子。依存性が高く、まだ情緒が不安定。

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