三 青花翠

文字数 18,383文字

 記憶の中の妹は、いつも泣いていた。厳格な祖母に叱られ、両親も働いていて家を留守にしていたため、泣きつく先は必ず兄の自分のところだった。翠はその時、この無力で小さな妹を突き放したら、置いていったら、どうなるのだろうという思いにかられた。それは唐突で、現実味のない邪念だったけれど、やけにリアルに翠の頭にこびりついていた。
 祖母は、妹のほうをよく叱っていた。泣きわめく頻度が自分より多かったからだ。翠は身体の具合の悪さでだるく沈んでいたことはあっても、喘息が起こる夜以外はわりと静かだった。悪目立ちしていたのはたいてい妹だった。
 翠の記憶に鮮明に残っているのは、大学病院の診察室だ。
 大人の男の先生が、聴診器を翠の胸に当てて真剣な顔で考えていた。診察台のベッドに寝かされ、何やらごちゃごちゃした機器をつけられた。あの時の母の不安そうな顔は、ずっと翠の脳裏に焼き付いている。妹も一緒に連れられて、父の付き添いで診察を受けた。
「ぜんそく」という言葉は、当時の自分にはまだぴんと来なかった。診察を終えて会計待ちの座席に座っている時、母が妹の手を握って父の横顔を果てのない悲しみのような表情で見つめていた。父は、一言、「嘆いても何も始まらんぞ」と言い切った。それは突き放しているようでどこか温かみのある言葉だった。翠たち四人家族は、黙り込んでいた。
 帰り道、母がレストランで昼食を取ろうといいだした。「だってこんな時間になっちゃったじゃない」と明るく言い、近くの大型ファミリーレストランを見つけた。その声はどこか無理のある明るさだったが、父も合わせて「お前たち、何が食べたい?」と優しく問いかけた。翠は妹の手を握って車道側を歩きながら、「ラーメン」と言った。すると両親はおかしそうに「もう少しほかのものも食べなさい」と笑った。翠はどことなくほっとした。妹は頭が痛むのか、翠の手をギュッときつく握りしめて俯いていた。
 昼時が近い病院からの帰り道は、車が頻繁に走っていて、翠は気をつけて歩行者の白線の内側に妹を歩かせた。親からのいいつけで、それはもう身に沁み込んでいたことだった。
 空の色は、まだ思い出せない。

 三学期が始まった真冬の雲一つない晴天。翠はジャージのファスナーをしっかり締めて持久走の準備運動をしていた。周りの生徒たちは適当に身体を動かしながら、仲間と気だるげな会話をしている。日光が気持ちいいのか、寒い寒いと言いながら女子たちは互いの手をさすり合っている。翠は一人外れたところで身体を温かくさせるために勢いよく手や足をのばしていた。準備運動さえしっかりやっていれば、少なくとも倒れるようなことはいい加減ないだろう。
 体育教師が合図をして、皆は一列に並んだ。翠は一番端の位置に行き、深く息を吸った。笛が吹いた。わっと皆が一斉に走り出した。友達同士と並びながら、三十人の生徒たちは思い思いに固まって校舎一周の持久走に励んだ。
 真冬のランニングは気持ちがいい。冬は早朝がいいものだと枕草子が書いていたが、長い時を経た今の日本でもそれは当てはまるようだ。しんと冷えた空気に風が頬を撫で、吐く息が白く見える一時限目の授業。翠は皆に遅れないように走るスピードを調整しながら、夕莉のいるデイケア組の校舎の裏を周るため、生徒たちの後ろをついて行った。
 下り坂に差し掛かり、草木の生い茂る裏道を慎重に走る。下りの走りは勢いがつくが、スピード調整が難しい。ここでバランスを崩す者も少なくない。自分もその一人なのだが。
 今日は大丈夫。そう言い聞かせて、翠はチラッとデイケア組の校舎を見た。窓に目をやると、窓際の生徒たちのほぼ全員がつまらなそうに頬杖をついて外を眺めていた。よっぽど退屈な授業なんだな、と翠はふと笑いたくなった。夕莉を探していた。無意識に。名字は最初だから、席替えをしていなければ最前列の窓際の席のはずだ。注意深く視線を動かしたが、夕莉の姿は見えなかった。学校を休んでいるのだろうか。自分は今、実家にはいないので彼女の事情は分からない。
 自分は彼女を捨てた。そのはずなのに、今もなお面影を追っている。自分の片割れを。分身を。
 校舎を過ぎ、坂を下り終え、Uターンして上り坂に差し掛かる頃、息が切れ始めた。とたんに呼吸が苦しくなり、ゴホッと嫌な咳が喉から出た。徐々に失速する。だめだ。倒れてはいけない。迷惑をかけてはいけない。自分はもう普通の人間なのだから。翠は懸命に自身に言い聞かせた。けれど足がもたつき、重くなった。汗が噴き出ていた。ジャージのファスナーを開けて半そで姿になる。腰にジャージを巻き付け、息を大きく吐いて吸ったりしながら、緩やかな傾斜を進む。上り坂は皆にとってもきついらしく、すでに歩いている生徒がいた。せめてこの人には負けたくないと思い、走る速度を落とさずに坂を駆け上がる。先まで、あと少し。上り坂を超えたら次は本校舎に戻るだけだ。できる。もう何度も失敗したのだから、今度こそは走り切る。
 それでも、息は途切れ始めていた。翠の意思とは裏腹に、身体は悲鳴を上げている。急に、目の前が暗くなった。大きな黒い丸穴が点々と視界に見え始めた時、景色がぼうっと色を失くし、頭が非常に熱くなった。坂を上り切ったと思った瞬間、体重を支え切れなくなって、翠はガクンとそのまま地面に倒れた。

「保健係、あとは頼むぞ」
 体育教師に背負われて本校舎の校門に着き、クラス全員の目に見つめられながら翠はよろよろと二人のクラスメイトに腕を引かれて保健室のほうへ歩いた。体育教師が自分を探している間、クラスの皆がどんな話をしていたのか簡単に想像できた。あいつ、まただよ。もう体育出ないほうがいんじゃないの? 何で出るの? 迷惑かけんなよ。彼らはこういう会話を翠に直接聞かれないように陰でかわすのが実にうまい。巧妙に翠のいない隙を狙って、翠がどれだけ自分たちのクラスの足を引っ張っているのか語り合うのだ。笑顔だけ取り繕って、他愛のない日常会話を混ぜ、翠に愛想笑いをしながら口裏を合わせて貶める。こんなクソみたいなクラス、早く無くなってしまえばいいのにと翠は仕返しに思っている。それが態度に現れているようなので、翠の周りから人が消えるのは案外早かった。もともといたわけではないが。
 体育教師のもとに集まる皆の楽しそうなざわめきから外れて、翠は二人の保健委員に支えられながら下駄箱で上履きに履き替え、ホールを通って保健室へと入った。
「青花、やっぱりデイケア組に戻ったほうがいいよ」
 扉をノックする間際、普段は温和な性格で知られている控えめな顔立ちの男子が、つぶやいた。
「それ、喘息だろ? 今日だけじゃなくて普通の授業でもしょっちゅう発作起こしてるじゃん。俺はよく知らないけど、喘息って深刻なやつって聞いたし、お前の場合はまさか死にはしないだろうけど、やっぱりさ、無理だよ。ハンデを抱えた人が、その、普通の人と一緒に……ていうのは、まだ難しいんだと思う」
 男子生徒は丁寧に、それとなく言葉を濁して言った。左側についているだいぶ背の高い男子のほうも、黙って相方の話を聞いている。そして同意するようにうなずく。
「せめて体育だけでも休んだら?」
 男子生徒は気遣うように声色を変えた。
「……普通学級に、体育は必須科目だろ」
 翠はだいぶ整った息で、言葉尻を強めた。
「でも身体の弱い人は大体が見学しているよ」
「俺はそんなやつらと一緒のカテゴリーに分けられたくない」
 男子生徒はあきれたように溜め息を吐いた。
「お前は普通の人間じゃないじゃん」
 じゃあ、お前たちは? お前たちは何をもって自分たちを普通の人間だと思い込んでいるのか。いつ俺たちが「普通以下」の人間だと区別したんだ。デイケア組のことを知りもしないで、よく面と向かって自分たちは優しい人間ですと言えるな。喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、何かに熱く燃えたぎっている頭と心臓の鼓動を感じながら、翠は保健室の扉を開けた。保険医がすぐに来て「青花君ね。そこに座って」と的確な指示を出した。「保健係さん、いつもありがとう」と若い保険医が笑いかけると、男子生徒二人は照れたように頭を掻いて「じゃあ、またな」と去っていった。大人の前で一瞬まるで友達のように振る舞った二人に軽く殺意を抱きながら、翠は指定された奥のベッドにドサッと倒れ込んだ。「まずは水を飲みなさい、水を」と年配の保険医が小さな冷蔵庫から水を取り出し、コップに注いで翠の前に持ってきてくれた。だるく身体を起こして水を飲み干す。「二時限目はここで休みなさい。私あなたの制服持ってくるから」と年配の保険医がカーテンを閉め、早足に保健室を出た。若いほうの保険医が「今日の昼休みの当番は一組の飯塚さんと的場さんです」と柔らかく告げた。翠は目だけで了承の合図をし、布団をかぶって壁側を向いた。若い保険医が察したように静かにその場を離れ、タイプライターらしきものを打つ音だけが部屋に響いた。今日は舞衣が来る日か。あいつに借りた本、まだ読み終わってないや。うつらうつらとしながら彼女のことを思っていると、年配の保険医が帰ってきた気配がした。保険医はそっとカーテンを開けて、眠りに落ちかけている翠のベッドの端に制服を置くと、自分の持ち場に戻っていった。母親のような深い優しさに包まれているような気がして、家族のことを思い出した。父、母、そして妹。あの三人は自分のいない家でもいつも通りに過ごしているのだろうか。決まった週に必ず三人からの手紙が来るが、翠は両親にしか返事を書かなかった。たった一度、最後の別れのつもりで一冊の愛読書とそれに沿った一行の文章を当てて出したことを除いては。
 妹は、いつになったら自分のことを忘れてくれるのだろう。

 十時半頃に起きてカーテンの中で制服に着替え、体操着袋を引っ提げながら休み時間に一度教室に戻った。クラス全員分の視線が一瞬そこに止まり、すぐにもとの友達のところに戻って何でもないように話し出す。この光景もだいぶ慣れた。ロッカーに体操着を戻して次の授業の教科書を出し、机に着いてノートを開くと、デイケア組時代に夏央たちから熱心に聞き取ったメモの殴り書きが残っていた。そっか、このノートにも書いてあったっけ。あちこちの授業ノートにいろいろなことを書いてきたせいで、どのページを切り取ってクリアファイルに入れたのか今ではすっかり忘れてしまっている。大人の男性向けのデザインがされているペンケースからカッターを取り出し、メモの欄を切り取る。多少ガタついてしまったが割ときれいに切り取れると、鞄に毎日入れているクリアファイルに新しい一枚を入れた。大人になればきっと変わるよ。いつか誰かが言っていた。誰の台詞だったのか、もう記憶が定かではない。子どもと言わると腹が立つが、大人と言われても少しむっとする。自分はそんな完璧な存在じゃない。でもポンコツとも言われたくない。結局、自分はどっちに転ぶのだろう。大人か、子どもか。またはそのどれでもないのか。翠はぼやけた気持ちで次の授業の予鈴が鳴るのを聞いていた。

 教室に自分の居場所はないので、昼休みになるとさっさと弁当箱を持って保健室へ向かった。舞衣に返すための本も準備して、職員室の対面にある大きな間取りの部屋の扉を開ける。すぐそこに彼女の姿があった。「保険委員」とネームプレートを胸に下げて、二人の保険医と一緒に仕事をしている。もう一人の的場(まとば)という保健委員の女子生徒は、壁の本棚の整理をしている。「舞衣」と声をかけると、飯塚舞衣は翠の差し出した本を受け取って「おもしろかったでしょ?」と得意げに言った。
「実は全部読む時間がなくて、飛ばして読んだ」
「えー、ちゃんと読めよー」
 舞衣は唇を尖らせた。
「だって今の俺ほとんど一人暮らしだもん。部屋の掃除も洗濯も自分でしなきゃならないし」
「学生寮はコインランドリーとクリーニング屋が備えられているし、食事も三食ちゃんと作ってくれるでしょーが」
「それでも家にいる時と違うんだよ」
 翠が多少むきになると、舞衣は「まあ、学校の課題もあるしね」とあっさり引いた。彼女のいいところは、言葉の駆け引きが上手いところだ。相手の感情を敏感に感じ取り、その場の空気が悪くならないように最善の注意を払う。翠に限らず誰に対しても態度を変えないので、きっと彼女を信頼する仲間は多いのだろう。
 飯塚舞衣は、一つ年上の二年生で、夏央と同じ保健委員だった。週に二日保健室で作業をこなし、夏央と入れ違いにここへ来る。毎日のように保健室で昼休みを過ごす翠は、頻繁に出会う夏央や舞衣などの上級生たちとだいぶ話せるようになっていた。舞衣と同じクラスであり友達の的場という女子生徒も、優しくて気遣い上手な先輩だ。同じ学年のクラスメイトより、余裕のある落ち着いた上級生たちと関わるほうが楽しかった。彼らは一つ学年が違うだけで、見違えるほどに大人な対応をしてくれた。年が一つ上になると、これほどまでに成長するのかと、翠は彼らをまぶしく思った。自分もいつか、こんな風になれるのだろうかと。
 広いテーブル席で食堂の料理担当のものが作ってくれた昼ご飯を食べていると、舞衣がすっと横に座った。
「あまり意気地になりなさんな」
 一時限目の体育の騒動のことを言っているのかとすぐに気がついた。
「お前らみたいな人間にはわかんねーよ」
 ふんと鼻を鳴らすと、舞衣は困ったように笑って「まーた、そういうこと言う」と頬杖をついた。
「あんたは普通扱いしてほしいのか気遣ってほしいのか、どっちなのよ」
「どっちでもねーよ」
「曖昧だなあ」
 舞衣はそう言うと話題に興味を失くしたらしく、再び保険医の机のところに戻った。そして的場と一緒に楽しげな会話をしながらチェックリストらしきものを作成している。翠は無言でご飯を口に入れた。
 舞衣は綺麗な女の子だ。
 芯の強そうな、それでいて愛嬌のある目をしている。今日はストレートに伸ばした長い髪を、仕事のため一つに縛っている。はきはきした物怖じしないしゃべり方で、周りからの信頼も厚い。夏央や冬華とは腐れ縁だと言っていた。この二人と彼女はどこか似ているので、波長が合うのだろう。三人で仲良く廊下でしゃべっていたのを見たことがある。
 入学式の日、翠はデイケア組の名簿を一般クラスのボランティア部に渡す係を自ら志願した。そして一般クラスに接触した。ボランティア部のメンバーに先に会いに行き、できたらあなたたちのところへ行きたいと申し出た。皆は一瞬きょとんとした顔になったが、部長の三年生が「いつでもおいで」と言ってくれたのを合図にそれぞれ優しい言葉をかけてくれた。あの時に思い込んでしまった。普通の人はちゃんとわかっていると。けれど実際移った先に待っていたのは、無知という名の遠慮のない視線だった。
 舞衣とは夏央姉弟を通して知り合った。彼女の分け隔てなく接してくれるやり方に、すぐに翠も心を開いて、気がつくと参考書や本を借り合う良き相談相手になっていた。彼女はボランティア部ではなかったが、しょっちゅう部室に遊びに来ていた。「お前、暇人かよ」と投げかける夏央に「どこの部も入ってないもん」とからかうように返す彼女は、いつでも楽しそうで、親しみ深い雰囲気があった。そしていつも周りに人がいた。取り巻きというほど熱狂的なファンではなくて、友達という言葉がピッタリな関係の仲間が。舞衣は時々友達を連れてきたりもした。その一人が的場である。的場は比較的おとなしい女子で、あまり多くを語らない人だった。舞衣の後ろをついて歩いて、適度に盛り上がった現場を崩さないような引き際を知っている者だった。「そろそろ戻ろうか」と的場が言うと、舞衣も素直に従った。この二人の関係が理想だった。
 ご飯をすべてたいらげて弁当箱をしまうと、チラッと舞衣を見た。的場と何やら話し込んでいる。委員の話だろうか。それとも何気ない会話だろうか。翠はテーブルから二人の姿をじっと見つめていた。
「ん、どうした、翠? 寂しいのか?」
 舞衣が気づいて、椅子の背もたれから振り向いた。
「馬鹿か。俺はちびっ子じゃねえよ」
「でもあんた、『かまってちゃん』でしょ」
「はあ!? ちげーよ! どこがだよ!」
 翠が顔を真っ赤にして怒ると、舞衣が「だって、あんたは何か言いたいことがあると、後ろからじっと見つめるじゃない。熱い視線を」とおもしろそうに言った。
「いつ俺がそんな女々しいことしたよ!?」
「……自覚ないのかよ」
 今度はあきれたように溜め息を吐く舞衣に、ああ、全然勝てない、と翠は思った。いつだって彼女のほうが一枚上手だ。悔しいような心地いいようなぼやけた感覚に揺られる。
「仲いいわねえ、あなたたち」
 年配の保険医がほんわりと言った。もう一人の保険医もニコニコと微笑ましそうに見ている。
「そりゃあ、こいつ、かわいいですからねえ」
 舞衣がしれっと言い放ったので、翠は口にしていた売店の麦茶を吹き出しそうになった。
「ねえ、的場、この子かわいいよね」
「うん。弄りがいがあるわ」
 舞衣と的場がクスクス笑い合って、翠は次に口にする暴言を考えていたが、沸騰した頭は見当はずれの台詞しか出てこなくて、わなわなと震えるばかりだった。スッとした控えめな目もとと奥ゆかしい顔立ちとは裏腹に、的場は少々からかい好きのようだった。
 食べ終えた弁当箱を抱えて、席を立つ。「あ、図書室?」と声をかける舞衣を無視して、保険医二人に頭だけ下げると、翠はバタンと扉を閉めた。
 教室に戻り、他人の笑い声であふれた中にある自分の机に行き、鞄に弁当箱をしまって上の階へ上るため南の階段に向かうと、舞衣が先に待っていた。
「図書室でしょ?」
 舞衣は当然のように翠の行きたい場所を言い当てた。
「……神出鬼没かよ、お前」
「先輩に向かってお前呼ばわりしない!」
 また無視してスタスタと階段を上ると、舞衣はさっと駆け上がって翠の前をずんずん進んだ。相変わらず自分が主導権を握りたがる女の子だ、と翠はあきれ気味に思った。
「図書室が地下じゃなくて上にあるっていいよね。やっぱりお日様の光、浴びたいし」
「ふーん」
「三階なのもポイント高いなあ。上過ぎず下過ぎず。窓見るとちょうど空と地面が絶妙なバランスでさ」
「確かに景色はいい。落ち着く」
 何気なく口にした言葉に「だよね!? この感覚わかってくれる人ほかにいないと思ってた!」と舞衣は異様に喜んだ。「はしゃぎ過ぎだろ」ぴしゃりと言い放っても彼女は「最近、私はファンタジーにはまってるの。あんたはミステリーだったね」と明るく返す。とことん自分のペースに巻き込みたいらしい。翠も観念して彼女に歩幅を合わせた。
 三階に着き、南側の廊下に面している木の色をした大きな扉を開く。日の光が当たって少しだけ明るい色合いに染まったドアノブを下げる。カチャン、と軽やかな音がした。中に入ると昼休み中の図書室はけっこう生徒がいて、周りに注意してささやき合いながら静かに本棚を探す者であふれていた。この部屋は一階の保健室の次に広い大部屋で、蔵書数はちょっとした自慢になるほどアピールできる数だった。
 文庫本のコーナーに寄ると、二人は自然と各々好きに行動し始めた。翠は巨匠と名高いミステリー作家の列へ。舞衣は外国のファンタジー文学のところへ。しばらく本棚を眺め、適当なものを物色し、受付カウンターで図書カードに貸出しのデータを入れてもらうと、空いているテーブルに着いてそれぞれの持ち出した本を見比べた。
「アガサ・クリスティーか。王道だね」
「まだ読み始めて間もないから。もう少ししたらマイナーなのも読んでみるつもり」
「ミステリーって、本格派とそうじゃないやつって区別されているけど、あんたはどっち?」
「どっちもいいところがあると思うから、両方だな」
「そうなんだ。私はこれにしたー」
 舞衣の差し出した本は、外国でベストセラーになったシリーズものだった。
「それ、どっちかっていうとSFじゃね?」
「え、マジ? ハイファンタジーかと思ったんだけど」
「俺、SFとハイファンタジーって、あまり区別がつかないんだけど」
「私もー。読書家から見たら私たちって本のミーハーかもね」
 舞衣がおかしそうにクスクス笑う。その横顔を見て、鼻筋のラインがきれいだな、と思う。別のテーブルで勉強している生徒たちがいるので、ひそひそささやくような声で言葉を交わしていたが、知らず盛り上がっていたようで、ちらりと視線を向けられた。あわてて声を落として作家のプロフィール欄のページをめくる。翠も舞衣も、壮大な物語を紡いだ作者の著作歴を見るのが好きだった。どこで生まれたのか、どんな学歴だったのか、どのようにして作家デビューしたのか、それこそ一人の人生の物語を見るみたいで、わくわくした。最初にそのことを舞衣に告げた時も「こんな趣味持ってるの、私しかいないと思ってた」と彼女はパッと花が咲いたように笑った。気がつけば、二人は一緒に図書室へ行く仲になっていた。
「この作家、遅咲きだったんだね。四十代でデビューだって」
 舞衣がこっそりとささやいた。生まれ年とデビューした年を計算していたらしい。
「この人のほうは三十代デビューだな」
 翠も手にした作家のデビュー年を数えた。
 楽しいと思った。彼女といる時間が、いつしか癒しになっていた。自分一人きりで図書室に通って本を物色していたあの時が、まるで遠い過去のように思えた。無理にしっかりしなくてもいいというのは、飾らないでいいということは、翠にとって大きなことだった。
 あら、かわいい子ね。
 初めて会った時、彼女はそこらへんにいる野良猫を見つけたかのような調子で言った。特に何の感慨もなく、けれどお世辞というほどの嫌味でもなく。
 デイケア組?
 彼女が何の気なしに尋ねたので、翠はこくりとうなずいた。ボランティア部に遊びに来ていた彼女とは、その日は二言三言交わしただけで終わった。しばらくしてまた会い、日常会話のような他愛のない話をして、別れ、そして数日後、再び会って少し深い話をして、気がつけば自分の隣に彼女は歩いていた。そして同時に、妹はどこか遠くへ行った。自分が遠ざけた。後悔はなかった。むしろ清々しかった。それなのになぜ、時々胸がつぶされそうに痛むのだろう。
 本を開き、文字を追うことに集中し始めた舞衣を邪魔しないように、自分も読書にふける。お互いがお互いのペースを乱さないこの関係が何よりも心地よかった。
「保険係になんかならなきゃよかったなあ」
 ふいにその言葉だけが翠の耳に大きく響いた。周りを気遣うひそひそささやくような声だったのに、なぜか矢を放つようなスピードで突き刺さった。
「うちのクラスにさあ、移ったやつなんだけど、これが大変で」
 今朝、翠を保健室まで連れて行った彼の声だった。男子にしては少し抑え目な声が、溜め息交じりに吐き出された。
「体育なんかできるわけがないのに、聞かん坊みたいに出まくってさ、それでお約束のように倒れるの。笑っちゃうだろ」
 彼の友達が一笑した。
「女子たちがさあ、もう、かわいそうって感じで、優しくしてて。皆が皆そいつの面倒見てくれてるの。どこの箱入り息子だよ」
 まあ、顔がいいから。女は面食いだしな。まさか一番楽そうだった係がこんなことになるなんて思わなかったよ。二人の男が笑い合っている。翠のすぐ後ろで、翠と同じように本棚を眺めている。そして一冊の本を取り出して、翠のすぐそばを気づかずに通り過ぎていく。一瞬、彼の持っていった本の背表紙が見えた。研究資料のようだった。
「外に出ようか」
 舞衣の声が聞こえた。聞き心地のいい柔らかな甘い声。
「今日、いい天気だし」
 翠が答える間もなく、舞衣は席を立ってスタスタと歩いていった。翠は凍りついて動かなくなっている全身を何とか動かして、強い衝撃を受けたような痛みに揺れている頭を抱えながら、彼女に追いつこうと小走りで図書室を出た。
「あのさ」
 翠は言葉を整理して、一階に下りて中庭へ出た舞衣の背中に声をかけた。
「別に、あの男のこと何とも思ってないから。好きでもないやつに勝手なこと言われてもどうでもいいから」
 舞衣は翠のほうを振り向いて、つぶやいた。
「嘘ばっかり」
 彼女の目は真剣だった。
「他人の言葉が一番怖いくせに」
 翠は、ぐっと黙った。舞衣の甘い声が一段低くなって、重みのあるトーンになった。
「本当は、恋しいんでしょ? あのデイケア組が」
 舞衣は文庫本を抱えて、再び翠に背を向けて日の当たる場所に出た。
「私には虚勢はらないでよ」
「虚勢なんかじゃない」
 意識せずに出た声は、情けないほどかすれていた。
「強くなりたかったんだ。できる人間だって思いたかった」
 俯いて、地面に生えている芝生を見つめる。人工的に植えた草。人の手で作り出された草。
「あそこは、ぬるま湯みたいで、気持ち悪かった。だから出て行きたかった。逃げたいわけじゃなくて、先に進みたかった」
 その進んだ先に何があるのか、考えもしないで。
 翠は顔を上げた。舞衣がこちらを見つめていた。舞衣の茶色い髪が、太陽の光を浴びてふと透けたような色になった。
「変わるよ」
 舞衣の声は力強かった。
「一学年上がれば、きっと皆、大人になる。一つ年を重ねるだけで、こんなに違うんだから。だからこんなことで悲しまないで」
「悲しくなんかない」
 翠は懸命に否定した。こんな些細な悪口でショックを受けている自分が許せなかった。
 舞衣は眉尻を下げて笑った。しょうがないなあ、と翠に近づき、手を取った。
「昼休み終わっちゃうから。今日はここまで。明日また会おうね」
「……うん」
 舞衣は翠の手を強く握った。そして合図をするようにニコッと笑うと、手を離し、中庭からホールに入る中扉を開け、校舎へ戻った。
 五時限目の予鈴が鳴るまで、翠はしばらくそこに佇んでいた。

 学生寮の食堂で、翠は隅のテーブル席に座って一人きりの夕飯を過ごしていた。野菜がたっぷりと入ったビーフシチューを口に含みながら、家族からの手紙を読んだ。午後七時から九時まで夕食の時間が決められているので、翠はいつも一番乗りでがらんと空いている食堂に足を運んでいた。夕方に風呂を済ませ、スウェットに着替え、食堂のテーブルに両親の綴った手紙を置く。料理担当の先生が作ってくれるものはどれも美味しかったが、やはり母の少し薄味気味の味付けがこの料理を食べるごとに思い出されてしまうのだった。
 父と母の文面は似ていた。寒い日が続くので体調に気をつけることと、たまには家に顔を出すということ。そして学校に馴染めたかということ。翠はその文に決まった返事を書く。学校では何も問題なく日々を過ごせています。友達もできました。寮ではその友達と一緒にくだらないことで笑いながら生活しています。だから何も心配しないで。まるで演劇のようにすらすらと返事の内容を嘘で固めることに、もう感じるものは一切なくなっていた。
 妹からの手紙が来ていた。花柄プリントの便箋。翠はそれをグシャリと丸めて、ポケットに押し込んだ。夕飯を食べ終え、トレイを返却カウンターに戻し、両親の手紙だけを大事に持ってワンルームの部屋へ行った。廊下の突当りにある大型のゴミ箱に妹の手紙をビリビリに引き裂いて捨て、二通の便箋だけを手に持って階段を上った。二階に着き、角の部屋へと入って、勉強机に手紙を置いた。父と母それぞれ内容が被らないように先ほど用意した言葉を文字にして綴った。あくまで両親にあてた手紙として。妹のことだけは、絶対に書かないように。
 夜の真ん中に差し掛かった。返事を書き終えて、続けて明日の授業の課題をやり終えていた。予習も復習もまんべんなくして、完璧に準備を整えると、もう寝る時間だった。ベッドに寝転がりながら今日借りた本を第一章の部分だけ読んで、電気を消した。周りの皆は、一階の談話室のテレビでこっそりと持ち込んだゲームでもしているのだろう。周囲の部屋にまだ誰の気配もなかった。寮に通う生徒は、何かの推薦で地方から来た人がほとんどだった。互いに出身地を言い合い、夢を語り合い、あっという間に仲間になった。翠はその輪には入れなかった。初めからわかっていたことだったが、胸を締め付ける何かが緩むことはなかった。一瞬でも油断をすれば、深い悲しみの落とし穴に突き落とされてしまいそうだった。名前もない誰かに。
 二重に重ねた布団に頭まで入り、翠は身体を丸めて早く眠気が来ることを願った。真っ暗な部屋の中で目をつむると、押し寄せる何か底のない感情が漂ってきた。その言いようのないモヤモヤは、翠を囲って離さなかった。そこから逃れるために、周りの皆に負けないように、成績だけは上げたかった。
寝つきの悪い体質のせいでなかなか眠れなかったが、何とか朝を迎えた。

 定期試験の年間成績表が、生徒たちに配られた。
 まだ三月の期末が残っているが、春から二学期の終わりまでの総決算が一月末に送られるのがこの学校の小さな行事だった。プリントをめくると、上位十名までの成績優秀者が学年ごとに表紙に乗っていた。翠の成績は七位だった。全科目の点数を見ると、理系の科目が足を引っ張ったようだった。やはり苦手分野をもう少し克服しないとな、と嬉しさよりも悔しさのほうが勝った。いつか一位になりたい。学年トップの成績を収めたい。できるならオール五の成績表をここにいるこいつらに見せつけたい。芽生えた野心は消えることなく翠の内を燃やしていた。
「このクラスで一番の成績は、青花です」
 ざわめきに満ちたクラスの中で、担任教師が誇らしげにつぶやいた。その言葉は思ったより大きくクラスメイトの中に鋭く響いたようで、教室は一瞬時が止まったかのように静かになった。
「へえ、青花、すごいじゃん」
 昨日、翠の悪口を言っていた彼が、今日は人当たりの好い笑顔で遠くの席から話しかけていた。それを合図に、周りも声をそろえて、すごーい、えらいなー、と偽りの笑顔を向けた。
「馬鹿みたいだな」
 何かに非常に苛立っていた。ここにいる生徒全員に、翠は一瞥をくれた。プツンと切れた糸は今まで溜めてきた怒りをせき止めることがもうできなくなっていた。
 糸が一度切れると、あとはなだれ込むようにむき出しの感情が露わになった。
「そうやって上品な顔して、綺麗な言葉だけ並べて、俺がいなくなったらくだらない話で盛り上がるんだろ?」
 教室の空気は、翠の掌の上にあった。翠が動き出せば、皆は注目する。この異物を、絶対に受け入れないという固い意志が、今ここにいる生徒全員の目に映っていた。
「くだらねえ。本当にくだらねえな。俺がそんなに面白い生き物かよ。あちこち固まりを作って動物の群れみたいに集団行動するお前らのほうがよっぽどおかしいわ」
 翠のすぐ後ろの席の男子生徒が、身体を乗り出して翠の顔を殴りつけた。翠も傾いた身体を起こして相手を殴り返す。「始めからこうすればよかったんじゃねえかよ!」翠の叫びは誰にも聞こえず、生徒たちは怒りの表情を露わにして野次を飛ばした。担任教師があわてて男子生徒の身体を掴んで翠から離す。保健係の彼は、ああ、やっぱりね、というように心から見下したような視線を投げていた。翠は言葉にならない叫びを口に出し、吠えるように何事かを怒鳴って教室内を走りだして、外へ出た。広い世界へ出たかった。こんな狭くて、誰かが誰かを格付けして噂するばかりの部屋に、愛着なんか一ミリもなかった。翠は走った。力の限り走った。反射的に手にした学生鞄と成績表だけを持って、どこへ行くのかもわからず衝動のまま走り続けた。

 通学路を走り抜けて、駅を通ってだいぶ離れた場所にある広い公園にたどり着いた。こんなところまで行くのは初めてだった。公園があったことなど知らなかった。走り疲れ、息が途切れ始めて何度経験したかわからない例の喘息発作が起こった。なだれ込むように木陰のベンチに倒れ込んで、胸を抑えた。呼吸が苦しかった。あまりに息ができないので涙が出てきた。これは悔しさからではない、発作の反動で出たやつだ。必死に自分に言い聞かせる。近くにいる主婦らしき人たちの視線を感じた。好奇の目。異物を見る目。どこへ逃げても、翠を追いかける無遠慮な視線はなくならず、広がる一方だった。
 息切れが治まると、今度はひどい咳が出た。喘ぎ声だけが喉から情けない音を出して空気に触れた。背中を丸めて、身体が落ち着くのを待つ。こうしていれば、何とかその場をしのげたものだった。じっとしていると、咳は止んだが、震えるほどの寒気が襲ってきた。身体の芯から冷えて、このまま消滅してしまいそうな気持ちに陥った。学生鞄を抱きしめて凍えるように身を縮めた。誰か助けてほしいと、切実に身体が欲していた。
 やがて少しずつ動けるようになり、抱えていた鞄のチャックを開けてアイフォンを取り出した。
 舞衣、お前に会いたい。俺を見つけて。
 震える指でアイフォンをタップし、メールを送信すると、翠はようやく身体を起こすことができた。喘息発作のような息切れと、そしてもっとひどい症状は、一応止まった。最悪な事態を招いたにもかかわらず、心はなぜかすっきりとしていた。
 ぼうっと空を見上げていた。真っ白な砂漠のような、あるいはあの世の海で泳ぐ舟のような長く伸びた雲が、どこまでも白く空を覆っていた。雲の向こうから太陽が真上で光を注いでいた。太陽の位置がまだあんなに高い。朝なのか、昼なのか。腕時計を見るのも面倒くさかった。
 アイフォンがメールの振動を伝えた。授業中であるはずなのに、彼女はすぐに返事をくれた。
『すぐに行く。どこにいるの?』
「……返信、はえー」
 翠は思わず吹き出した。ああ、愛されている、と実感した。公園のネームプレートを見つけ、名前と場所を特定して送信すると、ふいに彼女を試したくなって、『何でそこまで俺を庇うの。こんなに馬鹿な生き物なのに』と送った。するとまたすぐに受信メールが届いた。
『あんたのことが好きだからっていう理由じゃ駄目なの?』
 舞衣の文章は、迷いがなかった。きっと彼女は、言いたいことを言いたいだけ好きなように伝えられる力を持っているのだろう。
 意地で何か洒落た台詞を送りたかったが、ありがとうとか、嬉しいとか、そんな使い古された言葉では納得できなくて、どんな文章を送ればいいのかしばらくアイフォンを握りしめて考えていると、影が下りた。
「翠」
 舞衣が、息を切らして帰りの支度の姿で自分を見つけ出してくれた。
「……本当に、神出鬼没、だな、お前。ここ探すの、大変じゃ、なかった?」
「この公園、地元じゃ有名ですぐにわかったから。よかった、すぐ会えて」
 彼女はそう言うとはっと気づいたように翠の顔中に滴る汗を見て、ハンカチを取り出して翠の顔を拭いた。
「大丈夫? あんた、まさかここまで走って……」
「……うん」
 翠が俯くと、舞衣が背中をさすってくれた。隣に座り、呼吸を整える翠を手厚く介抱した。ずっとこうしてほしかった。同情ではなく、理解を示してほしかった。
「だいぶ落ち着いてきた?」
 舞衣の甘く響くアルトの声に耳を傾けながら、翠は「もう、平気」と精一杯の強がりを見せた。舞衣はほっとしたように息を吐いた。
「ああ、なんか安心したら喉渇いた。ジュース買ってくる」
舞衣はそう言うと公園内の自動販売機で飲み物を購入した。翠の分まで缶ジュースを渡すと、再び隣に座った。
「ジュース代、払うよ」
「サンキュー。じゃあちょうだい」
 百三十円を渡すと、二人は冷たい風を頬に受け止めながら、冷たい飲み物をごくごく飲み込んだ。「温かいほうがよかったんじゃね?」「いやあ、だって走ったら暑くなったんだもん。あんたもでしょ?」そう会話しているうち、あの教室にいた時の震えるような怒りはいつの間にか治まっていた。今の自分は、驚くほど落ち着いていた。
「俺、家出したんだ」
「うん」
 二人は同時にジュースを飲み終えた。
「どこにも居場所がなくて。家が嫌で、学校が嫌で」
「うん」
「どうしてだろう。あんなにあいつのことが嫌いだったのに、あいつのいるあの家が息苦しかったのに、あいつと同じようにウジウジいじけている。自棄になっている。やっぱり血の繋がりは無視できないのかな」
「嫌いってレベルじゃなかったでしょ」
 舞衣は翠を見つめた。翠もまた舞衣を見つめる。どくどくと心臓が静かな鼓動を立てている。彼女は言うつもりだろうか。翠のうちで眠っていた真実を。
「妹さんを殺したいと思ったこと、あるんじゃないの?」
 舞衣の挑むような瞳が、翠を捉えた。
「……いつから」
 翠は問い返した。
「いつから気づいた」
 声がかすれていることに自分でもわかった。目の前の少女が知らない大人の女に見えた。
 舞衣が答える。
「文化祭の時。保健室送りになったあんたを迎えに来たあの子を見た時の表情で。派手に暴れていたわね。目つきイッちゃってたわよ」
 翠は目を伏せた。一呼吸おいて、青白い顔をしながらぽつぽつと話し始めた。
「あいの存在は、俺には重すぎた」
 しんと静まり返った空気の流れる中、翠の声が死の翳りのように陰鬱な色を伴って舞衣の耳に届いた。
「小学生の頃、俺たちは周りの子どもについていけなくてしょっちゅう身体を壊しては一緒の部屋で寝かされていた。あいつはそれが嬉しかったらしい。俺のそばにいる時はいつも饒舌になっていた。四年の時だった。あいつが訊いてきた。私のことを好き? 急に白けた気分になった」
「あなたたちに友達はできなかったの?」
 舞衣の素朴な質問に、翠は苦笑した。
「世の中、他人を助けてくれる人間なんてそんなにいるものじゃないんだよ。俺たちは特に人間関係を築くのが下手だったから」
「妹さんは、友達ができないままあなたに寄りかかり始めたのね?」
 舞衣が言葉を選びながら慎重に訊くと、翠の苦笑はさらに歪み始めた。彼の美しい顔立ちが忌まわしい過去のせいで険しい色になっていた。
「俺もまたあいつに依存していた。嫌ならさっさと友達を作って距離を取ればいいのに、それができなかった。俺たちは家でも学校でもくっついていた」
 あの年は厳しい寒さだった。三学期の学校で、真冬の冷たい風を受けながら、妹と久しぶりに出た体育の授業。
 持久走だった。四年生になって初めて受けるもので、二人はとりあえず参加してみた。スタートラインに立ち、走り始めて数分も経たないうちに妹の息が荒くなった。それに合わせるように自分も息が苦しくなった。結局二人は完走できずに途中で倒れて保健室送りになった。
 先生が二人を捜し出してくれて見つかった時、すでに時刻は終了ベルが鳴ったあとだった。クラスの皆は待たされていて、露骨に嫌な顔をしていた。
 保健室に運ばれる時、クラスメイトの声が聞こえた。はっきりと。
「足引っ張るくらいなら死ね」
 翠はその言葉を聞いて確信したのだった。自分たちは社会の足枷なのだと。自分たちこそが社会のゴミなのだと。まともに学校へ行くこともできない。役目を果たすこともできない。与えられた仕事もきちんとこなせない。翠はすべてを理解した。
 いつか死のう。こんな思いをするくらいならこの世から消えたほうがよっぽどましだ。社会のためにもなる。
 妹を巻き込んだのは、一人で死ぬのが心細かったからだ。しょせん自分は一人では生きることも死ぬこともままならないのだ。
 それから彼女はたびたび翠に愛を問うてきた。私のこと好き? 私は一人じゃない? 翠は何も言えず、適当な返事だけをした。妹をこんな風にしたのは、自分だ。
 育ててくれた親に対する罪悪感はあったが、自分が立派な大人になる瞬間はまったくと言っていいほど想像がつかなかった。年を取ってぶくぶくと肥えても、親のすねかじりの身分に甘んじている未来は容易に想像できた。
 自分は、あまりにもポンコツな人間だった。
 それから翠は、なるべく親に迷惑をかけない自殺のやり方を調べ始めた。首を吊るか、腕を切るか、ほかにもいろいろな方法を学んだ。妹にどの死に方が一番いいのか相談したりもした。二人は死の世界に夢を見始めた。
 妹の参考になればと思い、五年生になる時、一人で腕を切った。すぐに発見されて病院に運ばれた。大事には至らないという医師の言葉を聞いて、翠は、死ぬことはそう簡単にできるものではないということがわかった。妹は翠に問いかけた。私のこと好き? ともに死んでくれることを待ち望んでいる目だった。
「……そこから、どうやって一般クラスに編入する決意に至ったの?」
 舞衣は静かに問うた。翠は淡々と返した。こわばっていた表情はいくらか和らいでいた。
「単純に、死にたくなくなったからだよ」
「……気持ちが変わったの?」
「ああ」
 翠は地面の砂を足でいじくりながら、思い返すように言葉を紡いだ。
「親に泣かれたんだ。両方とも泣いていて、すごく叱られた。もう二度とこんなことするなって言いつけられた。その時、俺はわかったんだ。戦うしか道はないって。死を夢見ることは絶望なんだって。俺はまだ絶望しちゃいけない。生きるしかない。この身体で。そう決めた。でも、あいつはまだ夢を見ていた」
「……それから、妹さんを憎むように?」
 舞衣の声がどこか寂しげに聞こえたのは気のせいではないと思った。
「あいつが邪魔だと思うようになった。俺は、あいつの、首を絞める夢さえ見たんだ」
 何も疑わない妹。死の約束のことをいまだに信じている妹。翠の目に暗い光が宿った。
「あいつをあんな風にしたのは俺だ。でも何もしてやれない。あいつを救うのは俺じゃない。俺はこのままだとあいつに喰われる。もう離れなければいけないんだ」
 翠はベンチの上でうずくまった。こんなことを誰かに話すのは今までになかったことだった。
「一体いつになったら楽になれるんだろう。俺はどこへ行けばいい」
 最低な人間だということはわかっている。自分だけ成長して、妹を置いていった。今だってこんなにも震えている。周囲の冷たい態度に、普通の世界へ足を踏み入れたことに後悔している。けれど今さら戻ることはできない。帰る家はない。自ら捨てた。この世の中で本当に一人ぼっちだった。
 人の体温を感じた。舞衣が翠のことをきつく抱きしめていた。翠は腕を回して、舞衣の細い身体を引き寄せ、衝動のままに頬に口づけをした。
「ごめん。無力で」
 舞衣の肩に顔をうずめて、翠は謝った。ずっと誰かに許しをもらいたかった。舞衣は何も言わず、翠の頭を撫でた。そして首筋に柔らかいキスをした。
 くすぐったくて、温かかった。
 胸に何かが迫ってきた。
 俺は生き残れるのか、のたれ死ぬのか。
 未来は俺に対して優しいのか、残酷なのか。
 すべてはいまだ混沌としていて闇の中だった。ただ、舞衣が優しく微笑んでいた。嬉しそうに翠にキスを返し、翠のことを包んでいた。この優しさは、きっと過去にもあったのだろうが、いつしか記憶から抜け落ちていた安心感だった。女とは、安心させてくれる生き物なのだと翠はこの瞬間、わかった。本当に優しいのは、女なのだった。
 母でも妹でも祖母でもない、赤の他人の女。
 込み上げてくるものがあった。翠は上を向き、泣きそうになるのをこらえた。自分の女となった舞衣を抱きしめながら、いつまでも甘く柔らかい沈黙に浸っていたかった。
 空の真っ白な色がもうぼやけて見えない。やっと掴んだ居場所を離さないようにきつく抱き寄せるのが精いっぱいだった。
 夕莉。お前ももう、大丈夫だよ。
 翠は手の甲で涙を拭った。そして、舞衣と手を繋ぎ、白い雲の海を軽くにらんで、その場を去った。
 舞衣の手は小さくて華奢だった。けれど翠の手を握る力は強かった。翠もまた痛いほど握り返し、鎖のように繋がった掌は誰の介入も許さなかった。
 公園を出て、街の中に入った。誰も追いかけてこなかった。自分たちに気づかなかった。他人であふれた人ごみの中を、翠と舞衣は歩いていった。驚くほど気持ちがよかった。ここが、故郷だった。
 翠はふいに馬鹿笑いをしたくなった。ちゃんと満たされていたことに気づけなかったあの日々を、生まれて初めて愛しく思った。自分がそう思っていられるのなら、あの子もきっと生き返るだろう。そう信じている。
 気がつくと舞衣も笑っていた。街中のざわめきが心地いいリズムのように身に浸透していった。翠は、確かめるように足を踏みしめて、彼女と一緒に家へと帰っていった。

 ただいま。待たせてごめん。

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登場人物紹介

青花夕莉《あおはな ゆうり》

引っ込み思案でオドオドしている女の子。依存性が高く、まだ情緒が不安定。

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