四章 多目的研究センターの殺人事件

文字数 12,391文字

「最初に、左脚を見つけた人はいますか?」
 パトカーのサイレンが徐々におおきくなっていた。群集はへりつつあった。みな、厄介事を避けようと、立ち去ろうとしていた。
 このままでは、警察が来るまえに、目撃者が全員、いなくなる恐れがあった。

 成海は、立ちあがった。
「十分もすれば、機動捜査隊があらわれます。彼らの到着まで、待ってもらえないでしょうか? ほんの少し、話をきくだけです。手早く、現場検証をする刑事たちです。時間はかかりません」
 人間は見まちがえるものだ。誤認を真実だと思いこむこともあった。正確な情報をえるためには、複数の目撃者が必要だった。ひとりでも遺棄した人物を見ていれば、身長、性別、格好を知ることができるはずだ。最初に左脚を目撃した者、逆に左脚を目撃していない者がいれば、死体を遺棄した時刻を限定できるはずだ。
 成海は目撃者を含めた、現場の維持に努めた。
 しかし、成海の訴えに、耳を貸す者はいなかった。みな、苦笑いでとおりすぎていった。街の治安は市民の協力があってこそだ。それを理解していても、疑われることへの恐怖がうわまわってしまうのだ。成海は、自分自身の無力さを思い知った。

 ――警察四一の成海与一がいる。それだけで住民が協力的になるんだ。

 成海は、ふと、藤堂のことばを思い出した。
 藁にもすがる思いで、ことばを紡ぎ出した。
「わたしは成海与一と言います。警察四一という本を出しています。いまから、捜査に来る者は、わたしの知人です。実直な警察官です。みなさんの不利になるような行動はとりません。わたしも便宜を図ります。十分だけ、待ってくれないでしょうか」

「成海与一? 警察四一の作者ですって?」
 主婦の目が猫のそれにかわった。全身に好奇心を走らせていた。
「読んだことないけど、成海与一って、ビッグサイトで活動していたんだよな。葛西のとなりだ。偶然、居合わせたのか?」
 会社員のふたりが談笑していた。
「じゃあ、警察の知人って、作中に出てくる藤堂平助じゃない? 実在したんだ。本物を見られるかな」
 女子高生も立ちどまっていた。藤堂は警察与一に出てくる男性キャラクターのなかでも、とくに人気が高かった。じっさいに、男前だ。期待には応えられるはずだ。みな、捜査に協力する意志よりも、好奇心がうわまわったようだ。
 経緯はともかく、警察への義理を果たすことはできた。
 成海は安堵した。

 二分ほど経ち、ちかくの交番から警察官が到着した。彼らはブルーシートで左脚を隠した。時間稼ぎするように、市民に話しかけていた。
 五分後、パトカーがとまった。機動捜査隊のスカイラインといっしょだった。車道によせる。最後尾のスカイラインからふたりの刑事がおりてくる。ひとりは藤堂平助だ。もうひとりは所轄の刑事のようだった。藤堂よりも年上だ。
「また、事件に巻きこまれたのか?」
 藤堂は開口一番、揶揄した。
「第一発見者は、ぼくたちじゃない。すでに発見されたあとだった」
 成海は事情を説明した。機動捜査隊は慣れた作業で、ききこみをはじめた。成海と藤堂は、聞き耳を立てた。
「どうやら、この左脚は、午後三時三十分から四時のあいだに、遺棄されたようだな」
「葛西駅の風とともにといっしょだね」
「ああ。斬りとった死体の一部だけを置いている。いっしょだ。同一犯にちがいない」
「それだけじゃない。遺棄された時間帯も似ている」
「時間帯?」
「ああ。一般的に、人通りの多い時間帯は三つある。通勤ラッシュの九時まえ、昼食の十二時、夕食の十八時になる。遺棄された時刻は、そのあいだ、人の少ない時間帯に行われている」
「犯人も姿を見られるわけにはいかない。ピークを避けようとするのはとうぜんだ」
「でも、それじゃ、説明がつかない」
「どうしてだ?」
「深夜に置かなかったことがおかしくなるんだ」
 藤堂はうなずいた。
「たしかに。遺棄するだけならば、姿を見られる心配の少ない深夜のほうがいい。しかし、だったら、ますます、おかしい。どうして、犯人は深夜を選ばなかったんだ?」
「きっと、ほかに目的があるんだ。愉快犯じゃない。計画性を感じる。右腕は葛西駅のまえ。左脚はショッピングモールのまえ、どちらも目立つ場所に置いている」
「右腕は風車の羽にむすばれていた。左脚は銅像の手のうえだ。見つかりやすくしているようだ」
「遺棄した目的はまだわからないけど、ほかの部位も同じような場所、ちかしい時間帯に置かれる可能性は高いんじゃないかな」
「モニュメントのある場所か?」
「言い換えれば、通行人や観光客がとおるところだ」
「わかった。所轄に連絡して、パトロールの数をふやしてもらおう。夕方四時からは学生の帰宅ラッシュになる。会社員の帰宅ラッシュは五時半だ。比較的、人の少ない時間帯は五時まえになる。また、遺棄されるかもしれない。沼田さん!」
 藤堂は沼田という刑事に駆けよった。所轄の刑事らしい。敬語で、お願いしている。年齢は四十歳ごろだ。柔道経験のある耳をしている。ベテラン刑事のようだった。
 警視庁の藤堂と所轄の沼田で、共同捜査をしているにちがいない。
 藤堂がもどってくる。
「右腕の発見から五時間、経った。なにか、わかったことは?」
 成海はたずねた。
「残念ながら、個人の特定に繋がるような手掛かりはないな。手術痕や指輪跡はなかった」
「身長と性別は?」
「片腕が35センチほどだから、160センチから164センチらしい。体毛は薄いようだ。指は細長い。細身の体格だろう」
「小柄だ。男性でも女性でもおかしくないね」
「ああ。科捜研の検査待ちだ。すぐにはわからない。胴体が見つからないかぎり、性別の即断はできないらしい。頭蓋骨、胸部、骨盤、いずれかを発見できれば、べつだがな」
「こんかいは左脚だから、あたらしい情報は出ないか」
 警察官への指示を終えた沼田が引きかえしてきた。
 左腕を一瞥した。
「ひさしぶりだな。おおがかりな事件が葛西で起きるのは……」

「過去にも凄惨な事件があったのですか?」成海はきいた。
「ああ。五年まえにな。葛西を本拠地にしていた暴力団があったんだ。相川会と呼ばれていた」
「暴力団?」
「広域暴力団だ。ほかの街や他県にも進出している暴力団だ。一般の企業の皮をかぶって、あちこちのビルを借りていた。五年まえ、相川会は、葛西で活動していた半グレ集団と抗争になったことがある」
「区内の警察署では、流血の金魚祭りっていう名称で、認知されている。死人ひとりを含めて、三十人ちかい死傷者が出た。相川会の幹部たちを根こそぎ逮捕した事件だ」
 藤堂が言った。
「初耳だ」
「暴力団関連のニュースは、あまり出さないようにしているからな。住民の不安を煽ることになる。このバラバラ死体の事件も、口止めしている。時間の問題だろうが」
「でも、たしか、暴力団はいないって言っていたよね」
 葛西駅で右腕が発見されたとき、藤堂は暴力団の介入を否定していた。
「三ヶ月まえに、暴力団が使っていた貸しビルをすべて、洗ったんだ。すみからすみまで潰した。警視庁と所轄四課の合同捜査だった。いまは一般の企業が借りている」
「当時の幹部たちは、どうしているのですか? まだ、刑務所ですか?」
 沼田にたずねた。
「五年まえの事件に関与した幹部は、先月、出所している。葛西に逃げこまれたくないから、三ヶ月まえに潰したんだ。おそらく、他県の二次団体に向かったんだろう」
 藤堂は茶色い封筒を成海にわたした。分厚い。五十枚は、はいっている。
「これは?」
「資料室のファイルだ。葛西で起きた事件をまとめている。流血の金魚祭りの記事もある。廃ビル、工場、駐車場、河川敷といった怪しい場所もいれている。なにか気がついたら、意見が欲しい」
 成海は見出しに目をとおした。
「夜に警察署で捜査本部がひらかれる。刑事たちに配られる資料も含んでいるが」藤堂は目配せした。「内部情報は省いている。外で見られても、問題ない」
 成海は封筒から流血の金魚祭りのファイルをとった。



「名前から想像はついたけど、行船公園の金魚祭りか。二万匹の金魚がならべられる有名なイベントだ。金魚の販売だけじゃなくて、金魚すくい、展示会、屋台も出ている。地元民が大勢、集まるなか、死傷者が出るほどの惨事が起きてしまった……」
「……流血の金魚祭りは、わたしが担当した事件だ」
「沼田さんが? どういう事件だったのですか?」
「数人同士の乱闘がはじまりだった。葛西を根城にしていたふたつのグループが衝突した」
「ひとつは相川会ですね。もうひとつは?」
「海外の組織とつうじている半グレだ。百人以上の規模がある」
「……厄介ですね」
「ああ。半グレは世間的には暴走族の延長に思われているが、じっさいは、まったくべつだ。若者ばかりでもない。暴力団は代紋をかかげるが、半グレは一般人に紛れこむ。実体がつかみにくい。いわゆる、マフィアだな。暴力団とやることはかわらない」
「両グループは水と油です。人の来る場所はお金も動く。金魚祭りで、シノギがぶつかったのかもしれない」
「そうだろうな」
「不運にも、相対してしまったわけですね。お互いの存在に気がついてしまった」
「ちいさな小競り合いで終わってくれたら、よかったのだが、時間が経つにつれて、お互いの仲間がふえていった。大乱闘になった。死傷者の大半は、この乱闘に巻きこまれた一般人だ」
「被害総額もかなりものになった」藤堂が言った。
「乱闘だけでは終わらなかったのか?」
「ああ、混乱にじょうじて、万引き、窃盗、強盗が起きた。どうせ、逮捕されるならば、利益をえようとしたのだろう」
「行船公園のちかくには、ショッピングモールや宝石店もあった。とくに宝石店は丸ごとだ。被害総額は五千万円にのぼると言われている」
 成海は五年まえの事件を脳裏に浮かべた。
「彼らが資金源にかえていれば、現在でも活動しうる金額ですね。半グレと暴力団……。沼田さんは、流血の金魚祭りとこんかいの事件、かかわりがあると思いますか?」
「いいや。わたしは考えていない」
「どうしてですか?」
「切っ掛けがないからだ。前兆がない。さいきんは、半グレ集団の姿すら見ていない。音沙汰がないのだ。相川会も、三ヶ月まえに潰した。幹部連中は他県に移り、動きがない」
「別件の可能性は高いということですか?」
「いまのところは、無関係と踏んでいる。いまのところだがね」
「とにかく、情報がたりないんだ。ばらばら死体の遺棄だけでは、手掛かりが少ない。所轄の刑事たちと情報を共有しているが、彼らも心当たりがないらしい」
 藤堂は左脚に視線を向けた。
「せめて、犯行のあった時刻、殺された場所、被害者の特定ができれば、捜査方針もきまるのだが……」
 成海も身体を横に向けた。
 藤堂と同じように両目を細めた。女性の銅像、しぼんだ左脚、骨の断面、黒ずんだ肌、徐々に下腿部へと焦点が移っていった。そのとき、成海の足が勝手にまえに進んだ。一気に目を見開いた。
「藤堂! 左脚の膝裏になにか、付着している!」
「なんだ? かさぶた……。いいや。できものか? ちいさい。一ミリほどの突起物だ。複数、飛び出している」

 成海はセントラルを手にもった。裏側に書きいれた。三回目だった。
「――左脚の膝裏についているのは虫の卵に見える。でも、死んでいる。孵化していない。普通なら、一日で孵化する。さいきん、産み落とされた卵じゃない」

「ああ。膝の裏は銅像の下側だった。緑道にいるハエじゃないだろう」
 藤堂は冷静に指摘した。
「卵のおおきさを見ても、半日は経っている。死体は二日、三日は経っている。孵化しなかったんだな。そうなると、犯行現場で付着した卵にちがいない」
 だからこそ、おかしかった。
 右腕にしても、左脚にしても、運ばれるときは、密封されていたのはまちがいない。
 古い卵が付着していることが、おかしかった。

 卵の存在そのものが矛盾している。
 犯人が最初から死体を分解して、葛西にばらまくつもりだったら、すぐに、密封されたはずである。虫の卵が産みつけられる機会はなかったはずだ。

「しかし、死んだ卵が付着している」
「まさか、外で殺されたのか?」
「考えられるね。外に置いてあった死体に、ウジ虫が湧かないようにするのは、不可能だ。森のなかで、蚊に刺されないくらいむずかしい。でも、それだけだったら、卵が死んでいることに説明がつかない」
 成海は死んだ卵の付着に、矛盾をおぼえていた。
「偶然でも、皮膚のなかにある卵を駆除できる可能性はかぎられている」
 三秒、思案したあと、ふたたび、シャーペンを動かした。
 成立する状況はひとつだけだった。

「――犯人は殺害後、死体を屋外に放置していた。そこで、虫の卵が付着した。けれど、半日以内に生育環境が激変した。きっと、犯人は死体を回収し、分割することにしたんだ。虫の卵は熱湯に弱い。犯人は斬り刻むとき、死体をお湯に浸からせた」

「血を洗い流すためだな。熱湯を使った。だから、皮膚のなかの卵は死んだ。孵化しなかった。説明がつくな。犯行現場は、屋外に繋がっている場所で、浴室のあるところだ」
 藤堂のうしろで、沼田が感嘆の声を漏らしていた。
「だが……」藤堂はうなった。「あてはまる場所は、いくらでもある。一軒家すべてに、あてはまる。まだ、手掛かりは少ない」
「ああ、そういえば、ほかにも手掛かりはあったよ。左脚の内股に、白いタトゥーが彫られていた。蠍のタトゥーだ」
「白い蠍のタトゥーだと!」
 沼田と藤堂は、同時に驚いていた。成海のうしろで、見合わせている。

「どうしたんですか?」
「半グレの名前だ」
「えっ?」
「彼らは自分たちを白い蠍と呼んでいたんだ」
「まさか、ふたたび、白い蠍の名前をきくとはな……。被害者は白い蠍の一員だったのか」
 ふたりは捜査の見直しについて、話し合っていた。
 パトロールに加えて、白い蠍のアジトを探す新班を考えているようだ。
 藤堂と沼田は、とおくで、話している。小声だった。興奮した口調は怒気に似ていた。ときおり、白い蠍という名前が出た。
 既視感があった。さいきん、同じ光景を目にしていた。
 葛西臨海公園だ。
 成海は、ようやく、思い出した。
「藤堂、白い蠍という名称は、一般的に知られている?」
 たずねた。
「いいや。所轄の捜査員くらいだ。新聞記事にもあげられていない。半グレ集団は暴力団とことなり、身を隠しながら、犯罪をする。自分たちの名前をおおっぴらにしない」
「目立たないタトゥーをいれているのも同じだな。内股にいれる。白い色で染める。ズボンを履いていれば、一見して見えない。一般人に紛れこむためだ」
「いっぽう、タトゥーをいれることで、構成員の結束力を高めている。勝手に脱退できないようにもしている。白い蠍に参加していた過去を、脅迫に使えるからな」
 白い蠍は、仲間内だけで呼び合う符牒である。
 そう判明した途端に、成海の顔が曇った。

「……ぼくは白い蠍という名前を、少しまえにききました」
「なんだと?」
「沼田さん。もしかしたら、前兆はあったのかもしれません」
「いつ、どこできいたのだ?」
「葛西臨海公園です。きょうの午前中です。多目的研究センターの研究員と清掃員が話していました。あわてていたようでした。白い蠍の名前を出していました。口論だと思って、駆けよりましたが、不自然に誤魔化されました」
「だれが話していた?」
「三浦真さんという男性です。もうひとりは犬飼と呼ばれていました。ぼくはいまから、その三浦さんの部屋に行く予定になっています。多目的研究センターの室長に取材するためです。三浦さんもいるときいています」
「おれもいっしょに行こう。どんな事情があるにしろ、さいきん、白い蠍の話は出ていない。その三浦は重要参考人だ。沼田さん、あとをたのんでもいいですか?」
「わかった。わたしも白い蠍の情報を集めなくてはならない。所轄の刑事にしかできない仕事だ。捜査本部のひらかれる二十時までに準備しておくよ」
「よろしくお願いします。成海、おれの車にのれ」
「わかった。あ、待って」
 成海は歩道で心配そうに見つめている葵を呼んだ。藤堂はようやく、葵の存在に気がついたようだ。彼女も車へと誘導した。
「だいじょうぶだ。観光本の仕事をしていてもいい。成海には、あくまでも、協力してもらっているだけだ」
 微笑みを向けた。
「おれも有明第三小学校の同級生だ。少しの時間くらい、輪に加わってもいいだろう?」
 後部座席のドアをあけた。へんな気遣いをしていた。
「藤堂、多目的研究センターは、工藤さんの働いていた職場だったんだ。三浦さんとも顔見知りだったらしい」
「ああ、そういうことか」
 藤堂はミラーごしに彼女を見る。葵は消沈していた。
「わかっている。問いつめたりはしない。なんだったら、成海にききたいことをたのんで、外にいてもいい。念のために、顔と経歴だけは確認しておきたいんだ」
「経歴か」成海はたずねた。
「工藤さん、橋口さんは、まだ事務室にのこっているかな?」
「ええ。わたしたちが来ることも知っているから、待っていると思う」

「だったら、本人より橋口さんにきいたほうがいいかもしれない」
「やれやれ、よっぽど、信頼がないらしい。恐喝めいたことはしないよ」
「信頼していないわけじゃないよ。ただ、一般人は、必要以上に刑事を怖がるからね。ぼくはいっかい、話している。むずかしい事情だったら、歩みよれると思うんだ。情報を引き出しやすい」
「いいや。それだけじゃないね」
 藤堂は不敵な笑みを浮かべた。
「さては、小学四年生のころを根にもっているんだろ? 隠し缶蹴りで、おれと三郷が成海を騙したときのことだ」
「また、古い話を……」
「気になる。何があったの?」
 葵は身をのり出した。藤堂は暗い話題を避けるように、意図的に思い出を語りはじめた。愛車のスカイラインのアクセルを踏む。
「女子は知らないか。男子生徒のなかでは有名なんだがな。有明小学校の男子内で、流行っていたんだ。隠し缶蹴り。昼休みにいつも遊んでいた」
「隠し缶蹴りって遊び、はじめてきいた」
「普通の缶蹴りとちがって、鬼は缶の場所を移動できる。缶を隠すところからはじまる」
「隠れ鬼に似ているかもね。ただ、隠れているのは缶だ。仲間は鬼から逃げると同時に、缶を探すんだ。蹴り飛ばせば、勝ちになる。いっぽうの鬼は、相手を見つけたあと、本人にさわるか、全員を見つけて、缶を踏めば、勝ちになる」
「校庭のなかだから、缶を隠す場所はかぎられている。この隠れ鬼、追いかけるほうでも、逃げるほうでも、成海が強くてな。缶の置いてある場所を簡単に探してあててしまうんだ。鬼のほうでも上手い。いつも隠す場所に、虚を突かれる」
「でも、あるときから、ぼくがまったく勝てなくなった。三週間は、負けつづけたんじゃないかな。あたりまえだけどね。ぼくが負けるように仕組まれていたんだ。主犯はふたり、いま、スカイラインを運転している藤堂平助と……」
「工藤さんの雇い主だな」
「三郷算利くん?」
「ああ。おれたちは途中で、気がついたんだ。成海の土俵で勝負するべきじゃないってね。自分たちの能力を発揮できる状況をつくったほうが、確実だとわかった」

「鬼はひとり、逃げる仲間は複数の協力者、これは理解していた。でも、意識の外に、罠を張られるとは思っていなかった。当時のぼくには想像もつかない手段をとられたんだ」
「べつに、ルールは破っていないぞ」
「わからない。どうやって、成海くんに勝ちつづけたの?」
 藤堂は笑った。成海は仏頂面で、外をながめた。
「有明第三小学校は生徒数が少ないだろう。すべての学年で、ニクラスしかなかった。おれは集団をまとめるのが得意だった。三郷は交友関係が広かった。みなの顔と名前を知っていた。どちらも、成海が不得意とすることだ」
「校庭には、ぼくたちだけじゃなくて、たくさんの子どもが遊んでいたんだ」
「まさか」葵は勘づいたようだ。
「信じられないだろ。ぼくが缶を隠すところを、校庭にいる子ども全員に見張らせていたんだ。缶を隠しているあいだ、藤堂たちは校舎内にいるきまりになっていた。見られることはないと安心していた」
「成海の準備ができて、おれたちが缶を探すとき、まったくべつの遊びがはじまる。成海が缶を置いた場所をききこむという遊びだ。はははっ。いまとなっては、刑事の仕事といっしょだな」
「よくみんな、協力してくれたわね」
「先生が校庭をローテーションで遊ばせていたからな。その順番のなかに、仲間をいれるのは簡単だったよ。協力のかわりに、かわるがわる隠し鬼に混ぜたんだ。成海は十人ほどの隠し鬼だと思っていたのだろう?」
「ああ。まさか、四十人ローテーションで、隠し鬼をやっていたとは思わなかった。しかも、鬼は、ぼくひとりだ」
 スカイラインの速度が落ちる。
「なにが土俵で勝負しないだ。おかげで、ぼくの一人相撲だ」
 成海は口をとがらせた。
「そういえば、どうやって、気がついたんだ?」

「ローテーションのおかげだよ。三週間も鬼をやれば、流石に、わかったよ。校庭にいる全員と遊んだことがあるってね」
 藤堂は笑い声を噛み潰していた。スカイラインは、京葉線の線路のしたを走る。葛西臨海公園の駐車場エリアへとはいっていった。
「小学校のころの成功体験や失敗経験は、強い影響を与えるものだ。おれは自分の行動力に気がついて、刑事になった。三郷は人付き合いのよさを生かして、会社をつくった」
「ぼくがえたものは、ふたりへの不信感だったわけだ。撤回するよ。根にもっているかもしれないと、思い直すね」
「わかった。わかった。すまなかった。成海の言うとおり、おれは外で待っているよ」
 藤堂は支給されている携帯電話を見た。
「上司に電話もしたいからね。その事務員と話す機会をつくってくれるだけでいい。白い蠍の件は、成海から探ってくれ」
 ふたりの冗談は、車をおりると同時に終わった。
 藤堂は一瞬で、捜査一課の刑事の顔にもどった。
「小学校のころの失敗経験ね……」
 葵は思うところがあったようだ。離れた場所でひとり、沈んだ顔をしていた。
 海のにおいが、彼女に苦い思い出を蘇らせていた。
「どうかした?」
 成海は声をかけた。

 葵は口をひらいては、とじていた。成海に言いたいことがあるようだ。しかし、ことばとして、あらわれなかった。葵の目には、成海が自分よりも背の低い少年に見えていた。
 十数年が経ち、大人になった彼女の顔に、水の色はなかった。彼女はいま、氷の檻のなかにいた。内側からあけられない檻だ。
 冷たい檻は、葵を内向的にかえていた。
 成海のまえで、押し黙り、なにも話せなくなるのだ。
 少女のころとかわらず、一歩、二歩、さがりつづけた。
「ううん。なんでもない」
「ふたりとも急ぐぞ」



 多目的研究センターの入り口をあける。受付にいた亜紀が立ちあがった。カウンターガラスのなかを右往左往している。
 手にもった受付のプレートを終了のプレートに交換した。事務室をまわりこむように姿を消した。廊下へと向かっているようだ。
「彼女が橋口さんか?」
「ああ。まちがいない」
「おれは彼女と話しているから……」
「うん。ぼくは三浦先生のところに行くよ。それとなく、白い蠍の件をきいてみる」
「たのむ。わかっていると思うが、死体の遺棄事件にかかわっているようなら、おれに交代して――」
 藤堂は最後まで言わなかった。
 着信音で遮られた。スーツの胸ポケットから響いている。
「沼田さんからだ。おかしいな。捜査本部の時間には、まだはやい。なにかあったのかもしれない。外で電話してくる」
「いまのかたは?」亜紀がたずねた。
「藤堂と言って……」
 刑事だとは伝えなかった。
「ぼくと工藤さんの同級生です」
「そうなんだ。あとで挨拶しなくちゃね」
「約束の時間には、少しはやいですが」
 時計の針は十八時を示していた。
「宇田川さんはいらっしゃいますか?」

「室長はまだ展示ホールで、シンポジウムの途中みたいね。でも、三浦さんなら、いるはずよ。受付のまえをとおっていないから」
「お邪魔して、よろしいでしょうか?」
「もちろんよ。ついてきてね」
 亜紀は自分のカギをとり、オートロック認証のガラスドアをあけた。
「すべての部屋がオートロックなんですか?」
 成海は玄関口のドアをとおった。
「いいえ。各部屋は普通のカギよ。まわしてあけるタイプね。出入り口、四つのドアだけが共用のオートロックになっている。成海くん、宇田川さんからスペアキーをわたされていたでしょう?」
 ヘッドの厚いカギをとり出した。
「そのカギでも共有玄関をあけられる。どの部屋のカギでも、共用玄関のドアはあけられるようになっているからね。三浦さんの部屋は、室長も使っている。内鍵はかかっていないと思う」
「ぼくは、もう使いません。橋口さんにわたしておきます。室長にかえしてもらえますか?」
「ええ。わかった。まかせて」
「橋口さんは、ぼくたちを待っていてくれたんですか?」
「ええ。ついでに案内しようと思って。スペアキーをもっているのだから、ほんとうは必要ないんだけどね」
「いえいえ。スペアキーの使い方がわからなかったら、どうしようと不安に思っていましたので、助かりました。ありがとうございます」
「礼儀正しい。うん。合格ね」
 亜紀は成海ではなく、葵の顔を見た。うんうんとうなずいていた。
「あとで、お茶をもってくるからね。室長の話、長いのよ」
 いっぽうの葵は懐かしそうに廊下を見まわしていた。
「部屋の場所はかわらないままですか?」
「ええ。いまはシンポジウムでごたごたしているから、二階の部屋に、荷物がふえているくらいね」
 亜紀は西側の通路へと向かった。両面に八室ずつ、部屋があった。一部屋ごと距離がある。元病棟だったのもうなずける。
 亜紀はもっとも奥の部屋へと向かった。
 理化学部門、三浦真という札がかかっている。
 亜紀は二回、ノックした。おおきい音だった。成海は、亜紀の力加減がとれなくて、ヨガ教室にかよっていた話を思い出して、少し笑った。
「橋口です。失礼しますね」
 彼女はドアノブをまわした。
「あれ、珍しい」
「どうしたのですか?」
「内側からカギがかかっている」
「外出中なんじゃないですか?」
「うーん。おかしい。それでも、部屋のカギはかけていないはずだけど」
「向かいの展示ホールで、シンポジウムをやっているのでしょう。部外者がはいると思って、用心したのかもしれませんよ」
「そうね。三浦先生は、慎重なところがあるからね。スペアキーを使いましょう」
 亜紀はスペアキーを鍵穴に差しこんだ。箱錠から音がした。亜紀はドアノブを捻り、力強く、前方へと押した。ドアがわずか、十センチほどひらいたとき、異変は起こった。

 ドアに衝撃が走り、続け様、室内からガラスの割れる音が響いた。
 金属音だ。家具や機材が倒れた音だった。
「ああ、なにか置いていたのかもしれない。どうしよう!」
 亜紀はあわてるように室内へとはいった。目線をさげている。彼女は床に弾き飛ばされているガラスの破片ばかり見ていた。正面には目を向けていない。
「ほうきとちりとりをもってきますね」
 葵は部屋にはいらず、奥にある共用ドアへと向かった。掃除用具をいれるロッカーが置いてあった。廊下奥のガラスに、藤堂の姿が見える。多目的研究センターにもどってくるようだ。葵がドアをあけている。
「藤堂にも手伝ってもらうか」
 成海は散らばったガラスを片づけるつもりで、三浦の部屋に足を踏みいれた。ドアの裏側から亜紀の溜め息がきこえてきた。そうとうな惨事になっているらしい。
 成海もあとを追うつもりで、ひらいているドアのさきを二歩、進んだ。しかし、ドアの裏側に、向かうことはできなかった。成海の息が一瞬、とまった。

「な、なに……」
 成海は空中の異変にふれてしまった。
 目のまえをサンドバックのようにゆれている。左から右へ。右から左へ。おおきな、てるてる坊主がゆれはじめた。実験用の白衣、首元の縄、引きずりこまれた襟、異変の正体が視界にはいった。急速に、戦慄がのたうちまわった。
 成海の思考は固まり、四肢は総毛立ち、身体は混乱している。
 血液が驚きのあまり、沸騰しているようだった。
 はげしい動悸は成海の肺を圧迫した。あらあらしく、息を吐きつづけた。

「成海……」
 藤堂が背後から声をかけた。小声だった。だれにもきかれたくない内容らしい。しかし、藤堂の声よりも、成海の意識は、前方に集中していた。
「左腕が見つかった。江戸川区の教習所のまえだ」

 キィ、ギー、キィ。

 成海の口唇はふるえっぱなしだった。返事ができない。
「成海の予想どおりだった。人の少なくなった夕方五時ごろに置かれたらしい。最悪の事態はつづくものだな」
 藤堂はドアの仕切りを跨いだ。
「これ以上、死体が出ないことを願いたいよ」
 成海は首を横にふろうとしたが、動かない。
「ばらばら死体の件を、いつまでも隠し切れるとは思えない。遺棄事件として発表するにあたって、少しでも、被害者の情報をえておきたい。白い蠍の話だ」

 成海は麻痺した足をどうにか、説得する。
 ゆっくりと、横歩きした。
「重要参考人の三浦といったか、彼から話をききたいんだ。室長に取材をしているあいだでいい。構わないか?」

 成海はことばではなく、動作によって、返事をした。
 人差し指を正面に向けた。
 そして、ゆっくりと、うえのほうへと動かしていった。

 藤堂も天秤のように、前方へと比重を軽くしていった。藤堂の瞳孔がひらきはじめる。後ろ足の比重がおもくなった。一気に、腰がさがった。
 成海と同じ衝撃を味わっているのだ。

 キィ、ギー、キィ。

 逆向きに身体が生えている。地面に足がついていない。
 男性の首が天井に突っこんでいるのだ。太い縄で吊されている。
 上衣は天井に吸いこまれ、丸くなっていた。
 頭だけが袋のようにつつまれている。
 彼の身体は、成海にふれられたことで回転し、あしたの天気を占っていた。

「えっ?」
 亜紀が縄の軋む音に気がついた。ふたりと同じ異変を目にする。
「きゃァァァ!」
 けたたましい悲鳴がはなたれた。全身に口がついているかのような大声だった。
 多目的研究センター中に響きわたった。
 亜紀の悲鳴をきいて、葵が駆けつけた。
 ちょうど、回転がとまった。
 白い袋から男性の顔が出ている。葵と目があった。
「み、三浦先生!」

 ――三浦真……。

 藤堂が白い蠍について、話をきこうとしていた重要参考人だった。
 三浦はすでに、永遠に話すことのできない死体へとかえられていたのである。
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登場人物紹介

成海与一……本シリーズの主人公。有明単探社に勤めているライターである。二十代前半のころに出版した警察四一がベストセラーとなり、一般市民にも広く認知されている。成海の活動は警察のイメージアップ戦略にも使われており、本庁、所轄ともに大々的な協力体制が築かれている。

現在、成海は東京アルカディアという観光本を出すために、東京中を取材している。

本作の舞台は江戸川区葛西周辺である。葛西駅に到着してすぐに、ばらばら死体の遺棄事件に巻きこまれる。スケジュ―ル帳に手掛かりを記入する癖がある。この示唆急文が二十項目、そろったとき、犯人へといたる三つの推理が完成される。

藤堂平助……成海の古くからの友人。本庁刑事部の機動捜査隊に新設された遊撃連携係の巡査部長である。解き手の成海に対しての助手役。機動捜査隊の一員ながらも、初動捜査のあとの別行動・連続捜査が許されている。

父親の秀一郎は遊撃特別警ら隊の制度を高く評価しており、それを本庁の刑事部機動捜査隊にとりいれた。所轄の刑事と合流し、捜査本部がひらかれるまで、協力体制をととのえる役割がある。

工藤葵……成海と同い年の異性。有明第三小学校では、三年生のころの同級生だった。成海と葵はお互いに恋心をもっているが、進展はしなかった。葛西臨海公園の多目的研究センターで働いていたこともあって、葛西周辺の案内役となる。序章で起きた騒動がトラウマとなっており、成海に対して、負い目をもっている。

宇田川信哉……多目的研究センターの室長をしている。施設内でもっとも偉い人物。第一生物系産業機構で働いている。事件当日は、二回目のシンポジウムに参加していた。

秋田進太郎……水質環境研究所で働いている研究員。水質環境研究所は葛西市内にも本部があり、ふだんから行き来している。事件のあった日、秋田は鉛濃度のチェックをしていた。

加古勝巳……多目的研究センターの前身である病院に勤めていた。交通事故によって、足に怪我を負っている。本人の性格に問題があり、カルテ整理室での仕事を命じられている。

橋口亜希……多目的研究センターの事務員をしている。元同僚の工藤葵とは親しい間柄。三浦の死体の第一発見者となる。

桐生邦夫……葛西臨海公園の清掃仕事を担っている。公園内にある池の水質を改善するために、多目的研究センターの研究員と協力していた。

三浦真……第二生物系産業機構・上席研究員。宇田川室長の部下にあたる。葛西臨海公園の広場で、犬飼と口論していた。成海と葵が事情をきいたときに、追求を誤魔化し、どこかへと消えていった。

寺崎恭吾……緑川大学付属イノベーション室主任研究員。ちかごろは、多目的研究センターで目撃されていない。作中では意外な形で登場し、認識されることになる。

犬飼洋太……葛西臨海公園の清掃員。不審な行動が目撃されている。新聞を片手に、公園内を歩きまわっていた。

武部秀……水質環境研究所の所長であり、秋田進太郎の上司にあたる。面倒見がいい。事件が起きた直後、多目的研究センターに顔を出し、秋田の心配をしていた。

今岡小百合……緑川大学付属イノベーション室の教授であり、寺崎恭吾の上司にあたる。真面目な性格。かつて、多目的研究センターで起きた盗難事件に、唯一、気がついた。

桜井三津留……白い蠍の現リーダー。五年まえは副リーダーだった。半グレ集団、白い蠍を率いている。武闘派だが、弁護士を呼ぶ悪知恵もある。

安藤剛……白い蠍の構成員。桜井の忠実な部下。外ではフードをかぶっている。

沼田平治……葛西署の刑事。五年まえの未解決事件、流血の金魚祭りの捜査を担当していた。大学生を殺害した犯人を捕まえることができず、いまも後悔している。沼田は、藤堂が外回りの捜査をする際の相棒である。

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