第肆話 おむすびころりん

文字数 4,486文字

 静まり返る京都の夜。雲が風に流され、月の明かりに照らし出されるのは清水の舞台。そしてその下の清水坂に、慎太郎と稲荷は立っていた。
 日中はたくさんの観光客で賑わうこの場所も、今では鳴りを潜め、それがまた一層に不安を掻き立てられる。
「はあ……はあ……あの……すごい疲れたんだけど……」
「うむ……流石に多かったかのう。じゃが――」

 意図も簡単に、誘われたようじゃ。

 清水坂の下の方、建物の影から黒い塊がワラワラと一つに集まっていく。それはやがて人の形へと変化し、黒い塊からはあの日の不気味な男が現れた。

 鼠の神使――ネヅ。

 インターホン越しだが、あの時と同じの顔と漆黒の瞳。不気味な瞳に美しく輝く月の光が、反射されることなく吸い込まれている。さらに全身を包む黒い靄に、ただ見ているだけの慎太郎の手の震えが止まらない。
 ネヅは深く深く被ったフードをゆっくりと外すと、相変わらずの口だけの笑みで、稲荷に対して小馬鹿にしたような視線を向けていた。

「フフフ……また会いましたねえ、稲荷さん。傷はどうやら癒えたようですねえ」
「お陰様でのう。しかしまた、貴様も随分と酔うておるようじゃな」
 すると稲荷とネヅの間、何もない空間がまるで蜃気楼のようにゆらゆらと揺らめき出す。
 それは強い神気と神気のぶつかり合いによる、この世の揺らぎ。だが、稲荷は険しい顔をしながらジリジリと僅かに下がっていた。
 慎太郎にもまたネヅの神気が浴びせられて、ずっしりとした重さと、ピリピリとした痛みに膝を付いていた。
 そうか、あの時の身体が強張る感覚は――これだったんだ。
「――にしても、そこの人間……人間とは思えないその神気。いいですねえ、どうです? 蛇神様を信仰しませんかあ?」
「僕は絶対に信仰しない! お前たちの好き勝手にさせないぞ!」
 押さえつけられているような神気を、無意識に払い除けネヅを睨みつける。それに合わせて稲荷も一歩全身し、胸を張って慎太郎の隣に立った。
 
 この世を恐怖に陥れるとか、信仰とかは正直どうだっていい。ただ、一人の小さな女の子を騙して……大切な物を奪っておいて――。

 何が神だ。 

 
  

 時を少しだけ遡る。



 慎太郎と稲荷は、来る決戦の前に伏見神社へと足を運んでいた。すべて上手くいくようにと、手を合わせて願掛けするために。
 完全な神頼みでは無く、あくまで自分の背中を押すようなもので、少しだけ心が軽くなった気がしていた。
 その時、不意に背後の気配に振り向く。
 するとそこには小学生くらいの女の子が、物陰から恐る恐る慎太郎と稲荷を覗いていた。
 こんな夜中に――女の子が一人で一体?
「君、ダメじゃないか。こんな夜遅くに――」
「だ、だって……お父さんの……形見が……」
 その声を聞いて、単に怖くて震えているのかと思っていたが、女の子はその顔に悲しみを、涙を浮かべて震えていたのだ。
「形見とな? どれ、この優しい狐が其方の話を聞こうかのう。ほら、噛みなどせぬぞ?」 
「き、狐さんが!? え、ええと……狐さん、お話でき――わっ!」
 稲荷はいつの間にか女の子の足元にいて、頭をスリスリと擦りつけていた。それがくすぐったかったのか、嬉しかったのか女の子は笑顔を取り戻し、稲荷を抱えて抱きしめていた。
 稲荷の行動によって恐怖と緊張が解れたようで、女の子を境内の石段に座らせて、屈んで女の子から話を聞く。
「そっか、リナちゃんって言うんだね。お父さんとお母さんはどうしてるのかな?」
「お父さんはね、リナが幼稚園の時に病気で死んじゃったの……。それでね、お母さんそれからずっとエンエンって泣いてるの……」
「これ慎太郎、もっと聞き方があるじゃろうて。悲しい思いをさせたのう、ヨシヨシ」
 確かにデリカシーが無かった。反省しないと……。
 しかしリナは膝で横になる稲荷を撫でながら、首を横に振るった。
「寂しいけど、リナは悲しくないよ。だって、お母さんがいるもん!」
 幼いながら随分と逞しく、強い女の子だろうか。この子を見ていると、無気力でいた自分に嫌気が差してきて、情けなくなってくる。
 それでも子どもは子ども。そうとはいっても、ヒシヒシと寂しさが伝わってくる。
 稲荷がそれとなく優しく、詳しく事情を聞くと――。
 リナの父親が病で亡くなった後、残された母親は悲しみに暮れながらも、リナと二人で一生懸命生活していた。
 そんなある日、リナが大切にしていた父親の形見であるハンカチが無くなってしまった。すると母親はタガが外れたように怒り、そして突然現れた蛇神を崇拝する男に言い包められて、いつの間にか家に帰って来なくなってしまったという。
「お父さんのハンカチが無くなっちゃったのは悲しいけど、お母さんもいなくなっちゃうのはもっともっと、悲しいよ……」
 その言葉に「そうか……」と答える、稲荷の身体は震えていた。
 慎太郎もまた沸々と湧き上がる怒りを抑えようと、震える拳を強く握り締める。
 小さくてか弱い女の子が全てを奪われ、深夜にたった一人、怖い思いをしてでも……神に縋ろうとしているんだ。
 泣きそうになるのを頑張って堪えようとする女の子の思いを――父親を失った悲しみを乗り越え、母親と一緒に幸せを掴もうと伸ばした、この小さな手さえも振り払おうというのか。
「でもね、蛇神様ならきっと……平気だってね、大丈夫だってね……いっく……言って……ひって……」
 堪えきれずに、ボロボロと大粒の涙がリナの頬を伝っていく。



 大丈夫って――言ってたのに。



「プ……プククク……ヒッ……ヒヒヒ……」
 その話を半笑いで聞いていたネヅは、堪えられなくなったのか腹を抱えて笑い出した。
「ヒーッヒヒッヒヒーッ……ハァハァ……。そんな真剣な顔してさ……いいよいいよ、実に間抜けだよねエィヒヒヒヒィーッ!」
 馬鹿にしたように慎太郎を指さしながら笑うネヅは、何度も涙を拭い、何度も腹を叩き、何度も何度も笑い転げる。
 居ても立っても居られない慎太郎が思わず坂を下ろうと踏み出した時、稲荷が袖を噛んで引き止めた。
「落ち着け慎太郎。あれが奴のやり方じゃ。怒りに身を委ねてはならぬ」
「で、でも――っ!」
 言葉を返そうとした瞬間、稲荷は噛んだ袖を思い切り良く引っ張り、その勢いで尻もちをつく。
 予想外のことに驚く慎太郎を後目に――稲荷は振り返ることのないまま、ネヅを睨んだまま口を開いた。
「よく目にしておけ慎太郎。あれが邪神(ヨコシマノカミ)……その、神使(イイナリ)じゃ」
 そう言いながら全身の毛を逆立たせている稲荷もまた、冷静を装っているだけで、慎太郎から見える稲荷の横顔には、怒りに混じった――悔しさが滲んでいた。
 それ見て慎太郎はハッとし、自分の両頬を両手で叩いて気合を入れ直していた。
「慎太郎、準備は良いな?」
「うん、行こう稲荷!」
「ヒャヒャヒャヒャア――あん?」
 ガラガラと音を立てながら、慎太郎が持ってきたもの――それは、たくさんの【おむすび】が積みに積まれた大きな荷車だった。
 この荷車を坂の上まで持ってくるのは相当辛かった。途中で何度もおむすびが転がりそうになったり、石段で上手く進めなかったりと散々な目を見た。
 ――まさか稲荷の神気で簡単に運べるとも思わず。
 怪奇よりも奇怪なその様子に、ネヅもただ呆然とするしかなかった。そして何より、次に何が起きるのかまったく想像も付かない上に、兎に角訳が分からない。
「け、けっ……な、何だよ。俺様にその握り飯でも投げつけようって魂胆じゃ――」
「黙れおむすびじゃ!」
「ええ……」
 頭ごなしに上から正され「おむすびも握り飯も一緒だろ」と言うタイミングが無くなった。
 握りめ――おむすびの大きさは人間の手のひらサイズで、三角形ではあるものの投げつける分には丁度いい大きさ。しかし、神使であるネヅにおむすびを当てたとしても、何の効果にもならないのは明白。
 それでも、稲荷は自信満々におむすびをこれでもかと見せつけていた。
「そうか……テメェら、俺様を馬鹿にしてんだな? こっちが下手に出てりゃ付け上がりやがって!」
「む、来るぞ慎太郎!」
「それきた!」
 ネヅが一歩足を踏み出した途端、全身がバラバラと崩れて肉塊がその場に積み上がる。さらにその肉塊がウネウネと動き出しかと思えば、次第にねずみの姿を変わっていく。
 そして肉塊からは大量のねずみが生まれ、坂を飲み込むように勢いよく駆け上がってきた。
 まさにねずみの大波である。
 そうであるというのに、稲荷は相変わらず得意気な顔をしたまま。
「けけっ。ほらほらあ、投げられるもんならさっさと投げてみろよ!」
「誰が投げるもんか!」
「ならどうするってんだ、あ?」
 たくさんの蠢くねずみの、そのどこからか聞こえるネヅの声。おそらくネヅ本体は大波の中のどれか。
 しかしそれを探す必要は、既にない。
「フフッ、どうするかって?」



 ――【転がす】に決まっておろう。




「へ?」
 その声とともに慎太郎が積みに積み上げた大量のおむすびを、荷車から放出した。
 駆け上がってくるねずみの群れに対し、駆け下りてくるのは、海苔もつけていない、シンプルに塩のみで味付けしたおむすびの群れ。
 その形も相まって、転がる度に勢いを増していくおむすびの大波。
 雪崩のような凄まじさに、先頭にいるねずみたちが臆して引き返そうとするも、何も分かっていない後ろのねずみたちは止まらない。
「ばっ――も、戻れえ!」
 だが彼らが気づいた時にはねずみの大波は、おむすびの大波に飲まれ、駆け上がる事なく転がり落ちていく。
「よし、最後のひと押しじゃ! 喉の調子は良いか!?
「バッチリだよ!」
 押し戻されていくねずみたちの中、ネヅは咄嗟に神気で全身を覆って、おむすびの波に飲まれないよう必死に堪えていた。
 だが、神使であるネヅであれば、ただのおむすびくらい何とでも無かったはずだった。だが、現にねずみたちはおむすびに押され、為す術もなく転がり落ちている。

 どうして、どうしておむすびに――神気が纏わりついてんだよ……。

 そう、おむすび一つ一つが神気を纏っていたのだ。だが、慎太郎はただおむすびを握っていただけで、特に何もしてはいない。
 確かに慎太郎は強い神気を持っているが、有効活用はできない。つまり、神気を纏わせたのは慎太郎ではない。だからといって、稲荷が纏わせた訳でもない。
 おむすびが自ら纏っているのだ。そしてその答えは形にあった。
 おむすびの三角の形は山を表し、その角には神の力が宿り、やがてその形こそ――神の形となる。故に、おむすびに神気が宿る。
「クソ……こんなおむすび如きで……俺様を止められるかよ……クソッ、何なんだよ……」
 押し寄せるおむすび、おむすび、おむすび。一つ一つ神気を纏ってはいるが、分裂したねずみをもとに戻しさえすれば、おむすびの神気など大したことはない。
 大したことはないはずが、何故かネヅは動かなかった、いや――。
 
 動けなかった。

 おむすびころりん、すっとんとん。
 ころころころりん、すっとんとん。


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