第漆話 酔明けの刻

文字数 4,826文字



 逃げ場のないネヅに向かって、朱之大剃刀を振り下ろした慎太郎と稲荷。だが、慎太郎には僅かな躊躇いがあり、その隙にネヅは咄嗟に横杵を持ち替えながら足を踏ん張り、斬撃を受け止めようと構えた。
「ヘヘッ、甘いぜ人げ――っ!」
 安堵の笑みを浮かべるネヅ。しかし朱之大剃刀による斬撃は易易と横杵を斬り裂き、腹部が完全にがら空きとなった。
 慎太郎と稲荷はその勢いのまま手首を翻してさらに一歩を踏み出し、切っ先を地面に擦りつけながら、空いた腹部に朱之大剃刀を振り上げ――。

「ちょっと待ったぁああああ!!
「なっ!?

 振り上げて斬ろうとした瞬間、ネヅの大きな声に驚いて斬撃を止めた慎太郎。カタカタと腕を震わせながら止めた刃は、ネヅの腹部をほんの少しだけ斬ったようで、そこからは薄くジワッと血が滲み出していた。
「な、何をしておる慎太郎!」
「ダメだよ、待つんだ稲荷!」
 振り斬ろうとしている稲荷と、それを必死に堪える慎太郎。力と力が拮抗し、なんとか刃が止まっている危険な状態。しかし諦めたように力がスッと抜けたことで、慎太郎は大きく息を吐きながらゆっくりと朱之大剃刀を背中に納めた。
「あ、危ねえ危ねえ。押っ死んじまう所だったぜ」
「君は――一体?」
 驚きを隠せない慎太郎の目の前に立つのは、紛うことなくネヅそのもの。ネヅはネヅであるのだか、つい先程まであった邪気の気配が何事も無かったかのように消え去っていて、酒の匂いすらも感じない。
 全身を針で刺されるような圧も無く、辺りはただただ風とともに静けさが流れるだけで、そこに立つのはなんとも頼りげのない男――一応神使のネヅ。
 拍子抜けしそうなものの、何が起きるかは分からない現状に警戒は怠らない。
「いやいやいや、そんな顔しないでくださいなあ! ほら肩の力を抜いてえ――」
「いや、まだ僕は君を信用できない。君の目的はなんだ?」
 朱之大剃刀の柄を握ったままで、近づいてくるネヅを手で制す慎太郎。敵意は感じられなくとも、急激な変化は怪しさ満点。それにまだ何もかも解決していない以上、いつ寝首を掻かれるか不安が付き纏う。
 するとネヅは突然地面に手を付いて、深々と土下座をした。
「ほんとこの通りでさあ! あっしはただ、大蛇が怖かったんです! もう悪さはしねえですから!」
 人が変わったように必死に謝るネヅが言うには、理由は分からないが、他の酔わされている神使とは違ってネヅだけは素面だったらしい。それが大蛇にバレたら何をされるか分からない――その為、ネヅは酔ったフリをしていたようだ。
 つまりネヅは仕方なく怪奇現象を起こし、仕方なく慎太郎と稲荷を殺そうとしていたとのこと。
 それにしてはやたらノリノリで口調や性格を偽っていたように思えるが、それも全て大蛇のせい――本当にそうだろうか?
「此奴、相も変らず胡散臭い奴じゃ」
「そ、そうだ……稲荷も分かるだろ? 大蛇の恐ろしさをよお!」
「戯け! 恐怖に屈した貴様などと共に括るな!」
 慎太郎の意思とは関係なしに、身体を動かして朱之大剃刀を構えようとする稲荷。だが、慎太郎はそれをぐっと堪えて抵抗する。
 たしかにネヅのしたことは許せない。小さな女の子の大切なものを奪っておいて、自分だけは許されようというその思いも気に入らない。 
 そして稲荷と心を一つにしているから分かることがある。

 ネヅ自身が殺生石の――大蛇の封印を解いた張本人であることを。

 何か不吉で嫌な事が起きたとき、それを誰かのせいにすることで――誰かを悪者にし犠牲にすることで、事態を上手く収めようとする輩はいくらでもいる。
 だがそれは何の解決にもならない、ただ無意味な選択に他ならない。
 残るのは、解決への思考を破棄した単なる怠惰と、そこから生まれた怒りや憎しみだけ。だからこそ今、怒りに身を任せることなどあってはいけない。

 そう、ネヅが殺生石の封印を解いた訳では無い。永きに渡る、時代の流れが封印を解いたのだ。

「怪奇現象は君が好きでやった訳じゃないんだね?」
「慎太郎っ、お主……」
 真剣な顔で、頭を下げるネヅに問う慎太郎。その意図を察したのか怒り心頭だった稲荷は落ち着きを取り戻し、その考えに従うように黙り込んだ。
 稲荷も同胞を手に掛けるような真似は、出来るのならしたくは無かった。
「へい……もう二度とあんな真似は致しやせん」
 地面に頭を擦りつけてまで謝罪する姿を見た慎太郎は、ニコリと笑ってネヅの肩に優しく触れた。
 その手から伝わるのは、とても暖かな慎太郎の神気。心が洗われるような清々しいほどの清らかな神気は、いつかのあの日に感じた幸せな日々のようで――餅をついて歌をうたって、飲んで踊ってたらふく食べたあの日の思い出が蘇る。
 自ずと涙が溢れ出すネヅが促されて顔をあげると、慎太郎から笑顔でおむすびを手渡された。
「それなら僕は、君をもう責めたりしない。酷いことをしたのなら、これからはたくさん良いことをしよう」
 その笑顔は、あの日のおじいさんのような優しい素敵な笑顔だった。
「慎太郎の旦那ァ!! あっし、目が覚めやした! これからは心入れ替えて精進しやす!」
 そう言うと、涙を拭いながら一心不乱におむすびを頬張るネヅ。ほんのりと塩味が効いたおむすびは、神気で作られたものではなく、お米でできた本物。
 その様子を見て「調子の良い奴め」と悪態をつく稲荷だったが、言葉とは裏腹にほんの少し嬉しそうだった。
「ウメェ……ウメェ……」
「アハハ、ゆっくり食べなよ?」
 慎太郎が懸命に握った、形が不揃いなおむすびは、時間が経って冷めてはいたものの、とても暖かく――。

 とても美味かった。

 良縁を結ぶはおむすび。
 おじいさんの手から溢れて転がってしまった、おばあさんの愛がこもったおむすび。そして転がったその先で、偶然出会ったのは愉快な鼠たち。
 歌えやさわげやの後、鼠たちから「おむすびのお礼に」ともらった、小さなつづらの中からは金銀財宝の数々。
 おじいさんそしておばあさんは、一緒に村の人たちと財宝を分け合い、豊かに幸せに暮らしたそうな。
 その豊かな村を訪れた旅人たちは、村人の皆々が、やたらとおむすびを振る舞ってくれたことに困惑したと言う。
 やがてその村は【おむすび村】と呼ばれ、鼠とおじいさんの物語は、伝承として後世に語り結ばれていったとさ。



 結ぶのはお米だけではなく、【心と心】なのかもしれない。











 なあぁぁぁあんて言うとでも思ったかバカめ! 何がおむすびだ!

 背中を向けてシメシメと不敵な笑みを浮かべるネヅ。他の神使と違って酔っていなかったことは本当だが、心を入れ替えるつもりなどサラサラない。
 たしかに慎太郎と稲荷はネヅに勝利? はしたが、大蛇の圧倒的な力を感じたネヅにとって、勝敗など取るに足らなかった。
 所詮は信仰を失ったことで、弱体化したカミノイイナリ。人間と力を合わせて大きな神気を纏ったとはいえ、大蛇には到底及ばない。

 たががそれっぽっちの力に、屈するネヅではない。
 
 ニシシ……適当にこのバカ共に愛想振りまいて、油断した所をこの俺様がズバッ――っとやってやる。ケケッ、見えるぜえ浮かぶぜえ……唖然とするバカ人間と、バカ狐のバカ面がなあ!!
「何笑っておるのじゃ、気色悪い」
「んぶっふ!?
 良からなぬ悪巧みに耽っていたネヅの目の前には、いつの間にか慎太郎と稲荷が座っていた。驚きすぎておむすびを喉に詰まらせて、青ざめるネヅの背中を急いで叩くのは慎太郎の方。
 叩く力がちょっと強いのか、苦しさとともに背中の痛みにも暫く悶えながら、ようやく解放される。
 稲荷に「バカ面じゃのう」と鼻で笑われた事は頭に来るが、それもこれもこれから先の未来の為に我慢する。

 今に見てやがれ……バカ共!!

 

 戦いが終わり、階段に腰掛けてようやく一息つけた慎太郎と稲荷。特に慎太郎は自分の変わり果てた姿、そして背にある朱之大剃刀を見ても、あまり驚かない自分に驚いていた。
 稲荷と出会い、会話をしたときもそうだったが、立て続けに摩訶不思議が起きているというのに、当然のように受け入れられているのだ。

 さも、端から知っていたかのように。
 
 それを稲荷に聞こうとしても何故かとてもリラックスしていて、とても嬉しそうな顔をしている気がして聞くに聞けなかった。
 「考えても仕方ない」と、大きく息を吐いてから立ち上がろうとしたその時。
「――っ!?
 どこからか、こちらの様子を伺うような気配を感じた。しかし、辺りを見回そうとした途端にフッと消えたかと思えば、ネヅの大きな噯気(げっぷ)の音が響いた。
「神使と在ろうものがもっと優雅に振る舞えんのか!」
「こんなにたらふくを食ったんだ、ご馳走さんって言ったんだよ」
「言葉で直接言えば良いのじゃ、言葉で!!
 気配の正体が何なのかは気になるが、喧嘩しそうな稲荷とネヅを宥めていると突然、慎太郎と稲荷の身体が眩い光に包まれ、消えた頃にはいつもの慎太郎、稲荷は白狐の姿へと元に戻っていた。
 稲荷が言うには、互いの心の向きが別々となった事で、神羽織が綻んでしまったらしい。
 また稲荷の腹部の傷は気付けば癒えていて、不思議なことではあったものの「良かった」とホッとしたのも束の間――。

 慎太郎は急激な目眩に襲われ、目の前が真っ暗になり――意識を失った。

「し、慎太郎っ!? おぶふぇ……」
「慎太郎の旦那ァ!?
 稲荷の咄嗟の判断により、稲荷がクッションとなったお陰で頭を打つことは無かったが、代わりに慎太郎の下敷きとなった。
 慣れない力を使ったせいか、慎太郎の身体にはかなりの負担がかかっていたようで、安堵によって疲労が一気に押し寄せていた。
 ネヅがゆっくりと背負うと、「スースー」と気持ち良さそうに寝息を立てる慎太郎。
 
 良くぞ、良くぞ頑張ったのう――。

 
 我が友よ。


 優しく微笑む稲荷が慎太郎に寄り添うようにネヅの背中に乗ると、またまた怒りだすネヅ。しかし、気持ち良さそうに眠っている慎太郎を起こしてしまいそうで、仕方なく稲荷をも背負いながらゆっくりと坂を下っていく。

「ムニャ……稲荷…………ムニャムニャ」
「フフッ……儂はここにおるぞ、慎太郎」

 清水坂から見える遠い空は曙景に染まり、漆黒の空は()明けを迎える。



 いつの間にか自分の部屋のベッドで寝ていたリナは、鳴り響くインターホンの音で目を覚ました。眠気眼のぼんやりしたまま、玄関の戸を開けたその先。
「リナ……リナっ!!
「……お……お母さ…………お母さんっ!!
 嬉しさに大粒の涙を溢しながら、母親を強く抱きしめる。母親も大粒の涙を流して、膝を擦りむきながら、小さな我が娘を強く抱きしめた。
「ごめんね……ごめんねリナ……」
「ううん……リナがね……お父さんのハンカチ……失くしちゃったから……」
 すると、明るくなりつつある地平線から太陽の光が顔を出した時、空からはヒラヒラとリナの頭の上に何かが舞い降りてきた。
 
 それは、失くしたはずの――父親の形見のハンカチ。

「リナ……それ、お父さんの!」
「ううっ……狐さんだあ……」
「……狐さん?」
 記憶が曖昧で上手く思い出せないけれど、どうしてかそれは白い狐のお陰だと思った。少し寂れた小さな神社にいた白い狐――それだけはたしかに覚えていた。

 
 ありがとう狐さん……ありがとう。


 その姿を屋根の上からこっそりと眺める影。陽の光を背に受けて、薄っすらとしか確認出来ない。


「これで五分五分――ってね」
「随分と粋なことしたものだな」
「ウフフッ、こんなの今回だけよ」
 そう呟く影から見えるのは、若葉のような瞳。その青々とした美しい瞳で空見上げて微笑む。
 
 今回は貴方達に譲ったげる。だけど、次はアタシと【葵狸(アオダヌキ)】の出番なんだから!

「貴方達にもう出番なんてないわよ?」

 そして影は白い煙に包まれて、ヒラヒラと舞う小さな木の葉だけを残し、その場から消え去った。

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