第伍話 神之衣

文字数 4,583文字



 おむすびころりん、すっとんとん。
 ころころころりん、すっとんとん。

 ああ……何なんだ、この不思議な感覚は? 

 おむすびころりん、すっとんとん。
 ころころころりん、すっとんとん。

 何で俺様は今、おむすびと一緒に転がっているんだ? 

 おむすびころりん、すっとんとん。
 ころころころりん、すっとんとん。

 やめろ……やめてくれ……。
 頭が、頭が割れるように痛い。

「お前さんたちを見てると、元気になるよ」
 おむすびに巻き込まれて転がるネヅの耳に、誰かの声が響いてくる。柔らかくて優しいその声はどこか懐かしくもあり、身体の力がみるみる抜けていくよう。
 ふんわりとした心地良さに見えるのは、美しく輝く古き記憶の幻。

 あれ……俺様は……何をするんだっけ?

 その様子を上から満足そうに眺める稲荷。まだとっておきも披露してはいないが、弱まっていくネヅの神気に慎太郎もホッと息を溢していた。

 ――だが、それはほんの一時。

「ぺったん――っ――ん。ねこっ――んたら――どや――――」
 心地良い声が、次第に雑音へと変わっていく。美しい幻もみるみる黒い靄によって覆われて、気がつくとネヅは暗闇に一人佇んでいた。
 見渡してみても、延々と続く闇。端の見えない、底の見えない永遠の闇。
 その異様さに気が付いた瞬間、背後からの淀んだ声に、ネヅは思い出した。
「よもや忘れた訳ではなかろう、ネヅよ」
 お前は我の神使(イイナリ)。我に屈し、その身を捧げ……そして――。

 
 恐怖(信仰)せよ。


「……ちと、まずいのう」
 突如としてネヅに纏わりついていた黒い靄が辺りに広がっていき、転がるおむすびの勢いがピタリと止まってしまった。まるで靄が――神気を受け止めているかのように。
 それと同時にネヅが放つ神気とは別の、強大で冷たい神気が溢れ出し、辺りがカタカタと音を立てて揺らぎ出す。信仰心の極度なる高まりによって生み出される、膨大な神気によって清水坂が揺らいでいる。
「違う、これは神気ではない――これを神気と呼んでなるものか!」
 嫌悪と怒りに叫ぶ稲荷。その矛先はネヅに対してでは無く、不気味な黒い靄へ向けられたもの。
 そう、この黒い靄は神気などではない。

 邪を帯びた神の力――まさに邪気(ジャキ)

 ネヅから放たれる邪気はウネウネと蠢き、それはまるで蛇の如く。神使が持つはずのない、邪神大蛇の強大な力。
 神使も酔いしれる恐ろしい力。
「さあ、刮目しろ。信仰しろ……」
「お、おむすびが!?
 邪気は大きく形を変えて一つの大きな蛇の頭となり、ネヅごとおむすびたちを一飲みした。そして蛇の頭は弾け飛び、再び収束して集まった邪気は【黒き羽織】となり、ネヅは不敵な笑みを浮かべながらそれを羽織ろうとしたその時。
 慎太郎の隣にいた稲荷が動いた。
「これ以上神を侮辱することは許さぬ!」
「うるせえな……雑魚は黙ってろ」
「んなっ!?
 ネヅに近づこうとする稲荷の真下から黒い邪気が溢れ出し、蛇の頭となって稲荷の腹部に噛み付いた。柔らかな腹部の肉に牙が食い込み、宙を舞う稲荷からは赤い鮮血が散る。
「稲荷!!
 黒い邪気――蛇はそのまま稲荷を投げ飛ばしたが、階段に衝突する寸前に慎太郎が抱えた。
 あまりに酷い出血であるものの、稲荷は慎太郎の腕の中でジタバタと動き回り、腕を振り解いて階段に落下した。
「ダメだよ稲荷!! そんな出血じゃ――」
「ならぬ……あってはならぬぞ!!
 慎太郎の声を遮ってまで自らの足で立とうとするも、上手く力が入らないのか立とうにも立てない。
 くそぅ……儂では――儂ひとりでは、何も出来ぬというのか? 其方がいなければ、儂はどうにもこうにもならぬというのか?
「ククッ……見るに堪えねえな稲荷。悪いがその醜い姿のまま、死ねよ」
「やめろ……やめるのじゃネヅ……」
袖通(ソデトオシ)――いや、神通(カミドオシ)か」
 呆然と立ち尽くす慎太郎と身動きのとれない稲荷の前で、黒き羽織に手を通すネヅ。その瞬間膨大な邪気がネヅを覆うように飲み込み、次に形となって現れた時には――。
 
 漆黒の羽織を装着し、その手に大きな横杵のような武器を持ったネヅが立っていた。



 神狩装束(カガリショウソク)――黒鼠(クロネズミ)



 膨大に溢れていた邪気はネヅに収束し、圧倒的な力によって静まり返る空間が、ゆらゆらと揺らめく。
 息を呑むことさえままならない、ピンと張り詰めた空気は真冬のように冷たく、そして全身に幾千本の針が食い込んでいるかのようだ。
「あの姿は一体……?」
「し……慎太郎……ハァハァ……き、聞こえて……ハァ……お……おるかの……?」
 荒い息遣いとともに腹部から滴る鮮血。全身を震わせながらも神気を纏って立ち上がる稲荷。その苦しそうな表情には怒りだけでなく、何故か哀しさが混じっていた。
 そんな姿を見ていられなくなった慎太郎が、抱えようと手を伸ばすも稲荷は、ネヅから視線を逸らすことなくそれを前足で断った。
「よ、良いか慎太郎……。最早奴にはおむすびでは到底太刀打ち出来ぬ」
「……」
「儂が何とか奴の気を引く。その間に慎太郎は逃げ――」
 稲荷は言葉を詰まらせた。それは僅かな一瞬――ほんの僅かに瞬きをしたたった一瞬の出来事。
「誰が誰を――なんだってぇ?」
 すでに稲荷の視界、そこにいるはずのネヅの姿は無く、不気味な声が慎太郎のいるはずの場所から響いてくる。

 たった一回の瞬きの僅かな時間に、ネヅは稲荷のすぐ隣に立っていたのだ。

「し、慎太郎……?」
「ああ、あの人間なら――」

 もうソロソロだぜ?

 上を指差すネヅの視線の先を追って空を見上げると、赤い鮮血を散らす慎太郎の姿があった。そして、鈍い音ともに階段へと落下して力無く転がり落ちていく慎太郎。

 それは、あまりに速すぎた。

 神狩装束を纏ったネヅは瞬きと同時に動き出し、手に持つ横杵を振るって慎太郎を殴り飛ばしていた――それを今になって理解した稲荷。だが今稲荷の目に映るのは、ぐったりと倒れたままでピクリとも動かない慎太郎。

 ああ……儂が愚かだった。
 
 グチャッと音を立てて横杵がめり込み、慎太郎と同じように為す術無く宙を舞う。
 慎太郎は確かに強い神気を持っている。だが、それ以外は他と何ら変わりのない、ただの普通の人間。強い神気を持った、ただの人間にすぎない。
 慎太郎と会った時、そしてその強い神気を見た時、初めて運命というものを身にしみて感じた。
 再び自身のもとに【彼】が現れたような気がして――【彼】が、そこにいるような気がして――。
「オレたちがいりゃあ、恐いものなしだ相棒!」
「お前には守ってもらってばっかりだな。よし、今度はオレが絶対にお前を守ってみせる!」
 そんなはずはないのに、そうであって欲しいと思う浮ついた心が、判断を鈍らせてしまっていた。
 血をまき散らしながら、倒れて動かなくなった慎太郎の隣にまで階段から転げ落ち、口から血を吐き出す。
 もう立ち上がる気力は残っていない。

 慎太郎――すまなかった。儂が巻込みなどしないでいたなら、傷付くこともなかったというのに。

 最後の力を振り絞ってゆっくりと慎太郎に覆いかぶさった稲荷。その時、慎太郎の胸が僅かに動いているのが分かった。
 ネヅの強力な一撃を受けたものの、慎太郎は無意識に神気を集中させたことでダメージを緩和させたことで、致命傷には至らなかったようだ。
 だが、それを見逃すほどネヅは甘くない。
「ん……なんだあ? あの人間、まだ生きてんなあ」
 息をしていることに気が付いたネヅがゆっくりと階段を降りてくる。
 もはや稲荷の力では神狩装束を纏ったネヅに対抗する手段は持ち合わせていない。だが、抵抗することくらいなら出来る。 
「せめて……お、お主だけは……」
 慎太郎に覆いかぶさったままにネヅに向けて前足を伸ばし、残り全ての神気を自身と慎太郎を覆うように球状に展開する。
「守れ――抱稲(ダキイネ)盾紋(ジュンモン)!」
 展開した神気の盾にはネヅを阻むように抱稲の紋が現れ、その他を寄せ付けない強力な神気を放っていた。だがそれも長くは持たず、すぐに全体にヒビが入り、稲荷の思いとは裏腹にボロボロと崩れ落ちてしまった。
 呆気にとられる稲荷を後目に、馬鹿にしたように笑うネヅ。
「ケッ、期待させんなって――ん?」
「そ、そんな……あり得ぬ! 残りの神気を見誤るなど、断じてあり得ぬ!」
 崩壊した抱稲の盾紋の残骸が、再び神気へと戻り稲荷へと戻って――いや、戻らない。
 それは、長年生きてきた稲荷でさえも見たことがない光景だった。
 稲荷は決して、神気残量を見誤った訳では無い。確かに強力な抱稲の盾紋を展開できるだけの神気は残っていた。しかし、抱稲の盾紋が上手く展開出来ずに崩壊したのは、稲荷が覆いかぶさる慎太郎へと神気が流れていた為だった。
 慎太郎に触れている稲荷の神気が、混ざり合うように慎太郎に流れていく。
「あ……暖かい……暖かいよ、稲荷」
「な、何が起きてやがるっ!?
「慎太郎……これは一体何な――っ!?
 倒れて動かなかったはずの慎太郎が、稲荷を抱えて立ち上がった。全身は神気に包まれ、真夜中の暗闇の中で白銀の光を放つ。そして稲荷に優しく微笑んだあと、何かを決心したような真剣な面持ちでネヅの前へと足を踏み出す慎太郎。

 その心強い面持ちはまるで――遠い昔のあの日、共に手を取り合った兄妹、相棒……そして友のようで。

「何なんだよその力は――何モンなんだテメェ!?
「僕が何者で、この力が何なのかなんて分からない。分からなくても、稲荷が命をかけてまで、守ろうとしてくれた事くらいは僕にだって分かるさ」
 溢れ出す力とともに、ネヅの前に一歩足を踏み出す度に輝きが増していく。

 今のお主を見ているだけで、その力に触れるだけで思い出してしまうのは何故じゃ……? 
 目や鼻や口や、顔の形――声も性格も何もかも違うというのに、何故お主と友が重なるのじゃ?

「たかだか貧弱な人間如き、そんな力を持てる訳ねえんだ!」
「稲荷は僕に生きる意味をくれた! 消えそうな僕の心に、光をくれたんだ!」
 慎太郎の輝きと神気がさらに増し、抱えられた稲荷まで包まれていく。暖かな温もりとともに心が落ち着いていく不思議な力が、とても懐かしく思えて――思わず涙が溢れだしていた。
「うるさいうるさいうるさい! 何かは知らねえが神使ごと殺してやる!」
「いいや、お前には出来ない……やらせはしない!」
 煩わしそうに頭をボリボリと掻きむしってから乱暴に横杵を持ち上げ、地面を抉るほどの脚力で慎太郎に向かっていくネヅ。それに対して慎太郎は動くこと無く、ただ優しく稲荷にそっと語りかけた。

 今度は僕が絶対に君を――。
 
 

 守ってみせる。



 ボサッとすんなよ相棒――さあ、やろうぜ!
 お主――そうか、そこにおったのじゃな。

 
 突如として眩い光が溢れ出す。力強く、優しく――懐かしいその光は稲荷と慎太郎を包み込み、黒鼠を弾き飛ばす。



 慎太郎、準備は良いな?
 うん、行こう稲荷!




 神衣(カムイ)――神羽織(ジンバオリ)!!




 眩い光は真っ直ぐに空まで伸び、引き裂かれた雲の隙間から射し込むのは美しい月の輝き。
 邪気を払い除け、月明かりの下に佇むのは闇夜に浮かぶ白銀の煌めき。夜風に靡く髪に獣の耳、白絹のような伸びた睫に透き通るような白肌。伏せた瞼の中から現れるのは朱の瞳。
 背に負うは抱稲の紋。その姿はまさに白狐そのもの。

 神之装衣(カミノイデタチ)――白狐(ハクコ)

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み