第捌話 新たな怪奇

文字数 4,702文字



 あれから数日が過ぎた。

「ただいま稲荷!」
「お帰り慎太郎。今日はやけに早いではないか?」
 リビングの戸を開けた先で、慎太郎の帰りを待っていたのは神使の稲荷。ゆらゆらと嬉しそうに尻尾を振りながら、帰宅してすぐの制服姿の慎太郎を抱きしめる。

 


 清水坂の壮絶な戦いのあと、目を覚ました慎太郎は自分のベッドに横たわっていた。
 いつもの見慣れた、何気ない部屋の天井。何故かそれを見ているだけで胸が締め付けられるような――今までの出来事が「夢だったのでは?」という思いが慎太郎を苦しめる。
 言えようのない虚しさに耐えきれずに身体を起こすと、慎太郎のすぐそばには心配そうな顔をした美しい女性の姿があった。
「……よく眠れたかのう、慎太郎」
 白銀の髪に、絹のような白肌。朱く染めた艷やかな瞳はまるで、咲き誇る彼岸花のよう。
 何も知らないその女性を一目みただけで、慎太郎はその女性が【稲荷】だと気がついた。
 現代において白狐の姿では何かと不都合が多く、変化の術で人間に近い姿で溶け込む方がいいらしい。
 相変わらずすんなりと受け入れられた慎太郎は、思わず稲荷を抱きしめていた。
「やっぱり、夢なんかじゃ無かった……良かった……」
「安心するのじゃ、儂は何処にも行かぬぞ」
 優しく微笑みながら抱きしめ合っていると、まだ疲れが残っていたのか、再びスヤスヤと眠りにつく。
「あの……あっしも――」
「黙っておれ。慎太郎が起きてしまうではないか」
 プルプルと体を震わせながら肩をガックリ落とす男――ネヅは行く宛が無い為、今は稲荷専用の椅子として四つん這いで背中に乗られていた。
 あれからネヅは、自らの起こした怪奇の行いを反省し、全てを元通りにしたことで、付近での騒動を誰も話題にすることは無くなっていた。
「それにしても、なんだかあまりに気の毒じゃねえか? この歳で一人で生きているなんてよ」
「うむ、どうやら慎太郎の心の闇は深々と――して、混沌に満ちておるようじゃな……それも、儂らが思う以上にのう」


 


 稲荷の優しさと匂いに包まれていると、慎太郎の鼻先を稲荷の匂いとは別の香りが掠めた。台所では神使のネヅが口笛を拭きながら、炊きたてのご飯に合わせ酢を全体に行き渡るように振りかけ、うちわで仰ぎながら切るように混ぜている。
 すぐそばに出汁、砂糖に醤油で甘く味付けされた油揚げがあるのを見れば、今日のご飯が何か用意に想像がつく。
「ただいまネヅさん。なんだかいい匂いがするね!」
「おっ、お帰りですねえ旦那! 今日はあの女狐が『どうしても』ってんで、オイナリさんを拵えてんでさあ」
 手元を覗いて見ると、作っているのはただの酢飯では無く、味付けされたシイタケやニンジン、ゴボウや水煮のタケノコが入っていて、今から白ゴマを加えるようだ。
 具沢山でボリュームのあるオイナリさんに仕上がりそうで、なんとも楽しみで仕方ない。
 それを後目に、そっと近付いてオアゲをこっそりつまもうとする稲荷の手の甲を、持っているうちわでペチンと叩くネヅ。
 「あいたっ!」と僅かに赤くなった手を擦りながら、ネヅを睨みつける。
「おいおいおい、俺から盗ろうだなんて百年早いってもんだ」
「何じゃ、たったの百年くらい! それに大して減るものでもなかろうが!」
「テメェのソレはつまむ範疇越えてんだよ! 旦那の分が減っちまうだろ!」
「居候の分際で……お主が食う分を減らせばよいのじゃ!」

 あれからやたらと賑やかになった部屋。いつも薄暗くてシンと静まり返っていたことがまるで嘘のようで――そして嬉しくて。
 そんな慎太郎の思いをつゆ知らず、互いの頬を引っ張り言い合いする神使の二人。

 だが、その賑やかさは――テレビからの会話によって掻き消されることとなった。

「視聴者の方からのリアルタイムでお届け! えーとなになに……島根在住の方からですね。『観光の名所であります島根の【龍頭が滝】で、不可解なことが起きています』とのこと。ええと……」
 いつの間にか取っ組み合っていた神使たち、そして慎太郎は何か嫌な予感がして、ジッとテレビを見つめていた。
「それでですね――」
 龍頭が滝を訪れた観光客が言うには、龍頭が滝の後ろの洞窟から、滝の音に混じって何かの鳴き声のような声が響いてきたらしい。不思議に思っていると近くで赤ん坊が大きな声で泣き出し、それも相まってとても不気味な雰囲気を放っていた。
 さらにふと気が付くと持っていたカバンや服の裾、さらにはカメラやスマートフォンでさえまるで【獣に噛み千切られたかのように破損している】といった怪奇現象とも言える不思議な事が起こっているようだ。
「ふむ、また怪奇現象とな」
「随分と物騒な話じゃねえか」
 何も知らない様子のネヅに対して「何でお主が分からんのじゃ!」とネヅの腹部を叩く稲荷。
 そう――これは以前にネヅが起こした怪奇現象の時と同じで、こんな振る舞い人間が出来るような事ではない。
 カバンや服の裾くらいなら何とかなりそうなものの、固いカメラやスマートフォンを噛み千切ることが出来るのは、動物たちでも限られている。
 
 それに邪神大蛇が酔わせた、酔いどれ神使たちはネヅを除いてまだあと十一体も存在しているのだ。
「あっ……思い出したぜ旦那!」
 すると突然声を張りあげたネヅは、テレビに映る龍頭が滝の映像を見ながら話し始めた。
「間違いねえ……島根といやあ、腐れ縁のアイツでさあ!」
 鼠の神使であるネヅは、他の神使と違ってシラフだった。その為今回の怪奇現象を起こす、その原因となる神使の名を知っていた。
 

 その名も――【丑の神使――ウシオ】。


 はるか昔のこと。神によって選ばれた十五匹の動物たちは神使と成る儀式の為、正月の朝に天界へ足を運ぶよう伝えられた。
 そこてネヅは、誰よりも先に到着しようと夜に出発したウシオにこっそりと乗り、天界へ到着する寸前に降りてウシオから一番を奪い取ったことがある。
 それからというもの、ネヅとウシオは顔を合わせる度に喧嘩ばかりしていたという。
「いやそれは腐れ縁でなく、ただただお主が悪いのう」
「おかしいと思わねえか? 皆々そう言うんだぜ?」
 本気で首を傾げるネヅに呆れたのか「やれやれ」と首を横に振って、ツッコむことを諦める稲荷。
 何はともあれ、ウシオは大蛇から出雲大社にある【素鵞社(ソガノヤシロ)】を破壊する命令を受けており、おそらくはその道中で龍頭が滝に隠れている可能性が高いらしい。
「素鵞社を破壊するためって――どうしてその必要が?」
 名前だけ聞いたことはあるが、そこを破壊しようとするならば素鵞社は大蛇にとって相当都合が悪いことが分かる。だが、果たしてそこに何があるのかさっぱり分からない慎太郎に、難しい顔をしながら稲荷が答えた。
「儂と慎太郎が神之装衣となったとき、儂らの手には失われた神器である、朱之大剃刀があったのう」
 それは邪神大蛇を退治するための、朱い彼岸花のような神器。邪神大蛇――またの名を【八岐大蛇(ヤマタノオロチ)】の首を斬り裂き、朱い炎とともに大花を咲かせる神の一振り。
 そして、朱之大剃刀は失われた神器――【三朱(サンシュ)の神器】のうちの一振りである。
「して、そのうちのもう一振りが、素鵞社に祀られておるのじゃ」

 つまり、その一振りを素鵞社ともども破壊することを目的にウシオは行動していると推測できる。

 そんな大変な事態にも関わらず、居ても立っても居られない慎太郎に対して、ゆったりとソファに腰掛けている稲荷。
 神器が破壊されれば、大蛇に対抗する力を一つ失うというのに、どうして余裕でいられようか。
「落ち着け慎太郎。急いだところでどの道夜更けじゃ。それに、忘れたのか?」

 儂の同胞がいることをのう。

 そう――以前に稲荷から話された事の顛末の中で、宇迦之御魂神が遣わした神使は、稲荷を合わせて三体だった。
 どうやらすでに稲荷の同胞が向かっており、その同胞が「今回は休んでいろ」とやたら言ってきたらしい。
 信仰心が失われた今、稲荷と慎太郎でさえ困難を極めた戦いだったというのに、まるで「手を出すな」と言われているようで余程の自身があると見える。
「で、でもっ!」
「お主の気持ちも分かる。じゃが、奴ならばなんとでもなるじゃろうて。なにせ、【葵狸(アオダヌキ)】じゃからな」
 どこか面倒そうな稲荷の言葉の中には、偽りは感じられない。稲荷が認めるだけの実力をきっと持ち合わせているに違いない。
 しかし、それでも慎太郎は何か嫌な予感がしてたまらなかった。
「でしたら旦那、あっしたちは明日に島根へ向かいましょうぜ! 味方は大いに越したことはありゃせんよ!」
 意気揚々とするネヅに「お前が言うな」と釘を刺す稲荷。
「それなら――」
 そうして、夜が明けるのを待ってから島根へ向かうことを決めた慎太郎たち。

 なんだ――この拭いきれない嫌な予感は?

 
 
 暫くして、夜も更けこむ闇夜の世界が訪れる。



 慎太郎が眠りについたその頃、龍頭が滝に稲荷の同胞たちが足を踏み入れる。
 静まり返る世界に触れた途端に、全身が針で刺されるような痛みにヒシヒシと襲われる。
「ちゃんと伝えたんでしょうね?」
「ああ、たんと念押ししておいてやったぞ」
「流石は狸の総大将――隠神刑部(イヌガミギョウブ)ね」
 月夜の明かりに照らされてその姿を現すのは、慎太郎と同い年くらいの少女。
 【館林(タチバヤシ) 美彩(ミサ)】。
 そして、若葉のような瞳を輝かせるスラッとした葵狸の神使――【隠神刑部(イヌガミギョウブ)】だった。
「さてと……サクッとやるわよ、刑部(ギョウブ)!」
「フッ、よかろう」
 強力な邪気を肌で感じながらも美彩が神気を集中させると、いつの間にか葵狸は神羽織へと姿を変えていた。
 青く美しい輝きに包まれた神羽織。
 美彩は隠神刑部と声を合わせて神通す。
「神衣っ!!
 闇夜に浮かぶは青い神気、青々とした若葉の煌めく瞳。黒髪は腰まで伸び、茶色に染められる。頭に生えるは狸の獣耳。
 その背に負う【葵の御紋】は実に猛々しい。

 神之装衣――葵狸。


 すると、美彩と刑部の放つ神気にあてられたのか、滝の後ろの洞窟の奥から気味の悪い唸り声が溢れ出し、その大きな響きに、カタカタと石ころが震え、水面がウネウネと蠢き出す。
 青く輝く刀、剛刀(ごうとう)同田貫(どうだぬき)を構え、流れ落ちる滝のその先を睨みつける。
「忌々しいなモォ……オラの邪魔をしよってんだから……」
 気怠そうな声とともに滝が真ん中から二つに割れ、その間からズシンと音を立ててながら、大きな一本角の牛頭に、まさに鬼のような巨体が姿を現した。
 
 丑の神使――ウシオ。

 見上げるほどの巨体から放たれる邪気は、やはり大蛇から与えられたもので、合わせて漂う酒の匂いが辺りを埋め尽くしていく。
「これまた見事に肥えたようだな、ウシオよ」
「その声は――そう、狸。隠神刑部だなあ」
「うっ、酒臭いったらありゃしないわ……」
 鼻をギュッとつまんで、首を横に振るう。ウシオにわざとらしく聞こえるように大きめな声で嫌悪を表す美彩。その挑発的な態度に、ウシオは鼻息を強めたことで霧状になった水を吹き飛ばしていく。
 怒りによって強まった邪気がユラユラと空間を歪ませ、美彩と刑部の全身を押しつぶすようにのしかかってくる。
「ムカつくなあモォ……いいよ、そんなに死にたきゃ踏み潰してあげるよお」
「来るぞ、油断するな美彩」
「分かってるわよ。それじゃ、さっさと終わらせましょ」
 ウシオから放たれる邪気が、青い神気によって掻き消された。
 滝の音だけが木霊する世界で、神気と邪気が激しくぶつかり合い、水面が揺らめく。

「夜更かしは、美肌の天敵――ってね!」

 酔いどれ丑の酔い醒まし。
 葵狸と丑の戦いが、今始まる。
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