第4話「季違いの竹落葉」
文字数 13,762文字
たすけてください。
帰りがけの学校の廊下で、突然そう言われてから、はや一時間が経とうとしていた。
ストローで吸い上げたアイスコーヒーは、一口目に飲んだ時のキレがない。グラスは随分と汗をかいていて、中身も最初より薄く、ぬるくなっていた。
鎌倉の夏は短い。九月ともなると、朝は肌寒く感じる程度に気温が下がる。昼間は夏でも、朝晩は秋。ここ最近は昼でも三十度を超えることがなくなっていたが、この日は久しぶりに夏日を迎えていた。
「ドッペルゲンガー?」
コーヒーを嚥下させた
くりかえされた言葉に、こくりとうなずいて返した相手は、うつむいた姿勢のまま、ぽつりと吐き出した。
「最初に見たのは、一ヶ月前くらいだったと思います。髪が長い子なんていっぱいいるし、気のせいか…毎日暑いからきっと軽い幻覚みたいなものだと思ってて」
テーブルに落ちたままの目線は、切りそろえられた前髪に隠れて見えない。しかし、肩がだんだんこわばっていくのがわかる。きっと、テーブルの下ではスカートを握っているのかもしれない。
「でも、それから一日か二日おきくらいになって、最近では毎日、しかも一回だけじゃなくて、一日に二回三回って見かけるようになって…! もう、訳がわからなくて……」
そう言葉を絞り出す肩は、わかりにくいが小刻みに震えている。
彼女の名前は、
帰りのホームルームを終え、帰宅部である風夜が、今日はどこに寄り道していこうかと考えていた時のことだった。
あの。
自分への呼びかけなのか、判断に迷うほど小さな声だった。そのあと、ややボリュームがあがった声がもう一度聞こえたことで、風夜はやっと振り返ったのだ。
青のワイシャツにストライプのネクタイ、しっかりと折り目のついたプリーツスカート。焦げ茶色の髪は長く、癖なのかパーマなのか、ゆるやかなウェーブがかかっている。
奥野のことは、はっきりといえば知らない。廊下ですれ違ったことはあるだろうが、知り合いですらない人間の顔を覚えているか、と言われると微妙だろう。呼び止められた意図がわからず、首をかしげる風夜に、奥野はこう告げたのだ。
たすけてください。
風夜が「視える人」だという噂は、学校内ではかなり広がっている。術者であることは、
何より、興味本位で近づいてくる人間をあしらう方法は、いくらでもある。
土地柄のせいなのか、
しかし、たまにこうして、まったくの初対面が声をかけてくることもある。いわゆる「依頼者」としてだ。
奥野はその依頼者だ。思いつめた表情を認めた風夜は、まずは話を聞きます、と駅前のチェーンカフェに入って、今に至る。
「見えるのは、どういう時に?」
「普通に歩いてて、向かい側からやってきたり、部屋で一人いる時に窓にぼんやり映ってたり…」
「いままで、そういう怪奇現象に遭ってきたことは?」
「ない、です。私、そういうのまったくわからない
奥野の肩がさらに縮こまる。
ドッペルゲンガー。
一般的にも名の知れた超常現象のひとつだ。自分とそっくりな人物に出会ってしまう現象で、その人物に会ってしまうのは、自身の死の前兆だと伝えられている。
その正体は、脳腫瘍などを患った人間が見る幻影、
目線の上がらない奥野に、風夜はすっと目を細めた。
何かにまとわりつかれている気配はない。
通常、彼女が言うとおり一日に一回以上、そのドッペルゲンガーが起きているのであれば、その原因になっているモノの気配が残っていても、おかしくはない。たとえばそれが彼女自身の生霊だったとしても、何かしらの
「事情はわかりました。うーん、どうすっかな」
あごに手を当てて、ふむと思案のポーズをとる。
目の端で、そろそろと奥野の顔があがるのがわかった。一度向き直った風夜は、不安げに揺れている目を見ながら告げる。
「そのドッペルゲンガーが、俺の専門範囲内であれば、力になれると思います。でも、正式に俺にどうにかしてほしいってなったら、相応にお金がかかります」
「え…?」
思わずこぼれた、吐息のような声だった。
「ごめんなさい。依頼である以上、同じ高校生だからとか、例えば友達だからとか、そういう『よしみ』っていう理由で、無償で仕事は請け負えないんです」
「どのくらい、かかるんですか?」
言葉を理解した奥野の眉根がひそまり、顔に影を落とす。対して風夜の返答は淡々としていた。
「程度によります。お守り程度で済むか、それとも俺が命はらなきゃいけないか。そのドッペルゲンガーを引き起こしている原因を取り除くのに、かかるリスク分で変動します」
「命って…」
思わず呆気に取られているという様子だ。
彼女自身が語ったように、奥野は霊力、霊感のない
しばらく続く沈黙の中で、彼女は再びうつむいてしまった。
「お話聞くだけじゃ、俺の専門なのか専門外なのか、正確な判断がつかないんです。でも、だからってなんもしないのも悪いんで、これあげますね」
そういって風夜が差し出したのは、リュックの中に忍ばせていたお守りだった。白地に麻の葉文様が入っており、形状が巾着のようになっている。
両手でそれを受け取った奥野は、まじまじとそれを見つめている。
「中に、紫の水晶玉が何個か入ってます。肌身離さず、ずっと持っててください。それでそのドッペルゲンガーに遭うことがなくなったら、問題解決です。でも、水晶玉が割れたり白く濁ったりしたら、お守りじゃどうにもならないことなんで、神社とかお寺とかでのお祓いをおすすめします」
おはらい、と音にならないくらい小さなつぶやきが、奥野の口の中で消えた。
店内のジャズと、食器がぶつかる音に、誰かの話し声。雑音が交差する午後の、少しやかましくもどこか落ち着く雰囲気の中で、このテーブルだけが妙な異質さを放っている。
「俺にご依頼いただけるなら、もちろんできる限りの対処をします。見積りも出すんで、どうするかはそのあとに決めてもらえればいいです」
そう口にはしたものの、彼女は奥野からの依頼を確信していた。術者の直感は、いやなものであればあるほど当たるのだ。
さて、あのお守りで
そんなことを思いつつ、風夜は暗い顔をする奥野から視線を外して、ずず、とアイスコーヒーを飲み干した。
「それで、何日保ったんだ?」
「ちょうど一週間。まぁ、あのお守りの
そんな気はしてたから、別のお守りと交換してきたけど。
バターケーキの中に、大きくカットされた無花果、荒く砕いた胡桃が入ったもので、
お供の飲み物はブラックコーヒーでもいいが、ケーキの重さとくどさ、しかしそこにある無花果の甘さを殺さないお供として、あえてここは紅茶、特にディンブラかアッサムがよいだろう。ダージリンだとこのケーキに負ける。
風夜自身の好みと経験からの選択肢だが、そんな思考はお見通しとばかりに、飛龍が差し出してきたのはディンブラだった。渋みが強く、口にした時の味わいも深いが、舌を過ぎ去ると余韻は軽い紅茶である。
「アッサムを切らしていてな」
風夜が一番好んでいるアッサムを出してこなかった理由を、あっさり投げてよこした青年に、ディンブラも好き、と返す。
舌に紅茶独特の渋みが行きわたり、鼻孔に香りが抜けていく。それにほぅ、と息をついた風夜は、椅子の背もたれに背中を預けた。
「あぁ、こうやって俺肥えていくんだな…」
「体力と筋肉の為に走るしかないな。いざという時に困る」
「たとえば?」
「この前の、蛙みたいな
「あんなんもうやだわ! 一跳ね約五メートルの蛙と歩幅頑張っても一メートルちょっとの俺! 歩幅が違いすぎて何度追っかけるのやめようと思ったか…」
「最期は丸焼きにしてただろう」
「よくやったと今でもあの時の俺を褒めたい」
先日のことである。廃屋に棲みついた妖怪の退治を任された二人は、そこで棲みついた主の
その対価として、翌日脚どころか下半身すべてが筋肉痛で地獄を見た。
風夜は、嫌なことを思い出した、と顔をしかめた。しかしケーキを口にすると、途端にそれはほころんでいく。
百面相だな。
無表情でそう思いつつ、青年はディンブラのおかわりを風夜のカップに淹れ、残りを自分のマグカップに注いだ。
飛龍も紅茶は基本ストレートで飲むのだが、彼はディンブラの渋みがあまり好みではない。ぽちゃん、と角砂糖をひとつ転がし、ティースプーンで溶かしていく。それを持って風夜の向かい側に座ると、彼女の皿にあった無花果のケーキは、ひとかけらしか残っていなかった。
「うまいか?」
「だいぶ俺の好み」
「ならよかった」
ケーキが皿から消え、二杯目の紅茶がなくなろうとしたタイミングで、
「終わったのか」
「うん。お茶を淹れてもらってもいいかい?」
「希望はあるか」
「おや。じゃあミルクティーで」
「アッサムがないから、ディンブラだが」
「是非」
マグカップを持って席を立った飛龍が、戸棚からディンブラの茶葉の入った筒、冷蔵庫から牛乳を取り出し、その中身をコンロにかけたミルクパンに入れていく。時間がないときは、マグカップに牛乳を入れ、そこにティーバッグを落としてレンジで温めれば、簡単ミルクティーができあがる。
手際の良さに感心していた風夜を煉樹が呼ぶ。
「はい、これ。新しい紫水晶」
「ありがと。対話終わったんだ」
「やっとね。
「一応科学的には無機物なものと対話できる親父がやばいんだと、俺思う」
「術者がそんなことでどうするんだい。物には心が宿る。特に石は『意思』に通ずるからね。あと何年かすれば、お前も自分の石と対話するようになるよ」
「マジかよ」
「マジだよ」
にこにこと笑う父親に口をひきつらせていると、ミルクティーを淹れ終えた青年が、ことりと煉樹の前に彼専用のマグカップを置いた。
ほどよく色づいたミルクに、ほわりと香る蜂蜜。
自分の分も淹れたらしく、風夜の隣に座った飛龍のカップからも、同じ香りが漂っている。
「え、俺の分は?」
「夕飯が入らなくなるだろう。今日はエビフライなんだが」
「文句言ってすいませんでした。ありがたくエビフライいただきます」
深々と頭を下げると、よろしい、と言葉が返ってくる。
そのやり取りに煉樹は思わず、ふふ、と笑ってしまう。
はたから見れば、この二人は兄妹に映るのだろうか。本性を龍とする青年が、ここまで人間くさくなったことは、いいことであることを願うばかりだ。
アカシアの蜂蜜が舌にやさしく絡む。喉から胃へ落ちていくと、たまらずほっと息をつく。おいしいものを作れるようになったな、と過去へ思考をめぐらせようとした時、娘の声がそれを制した。
「そういえば親父殿。ドッペルゲンガーと対峙したことある?」
「ドッペルゲンガー? あの自分とそっくりな人物と会うっていう、あれかい」
首をかしげる父親に、こくりと頷く。
「そのドッペルゲンガー。実は学校で、ドッペルゲンガーに遭ってるって人に相談持ちかけられてさ。原因の気配探ろうとしたんだけど、薄いのかなんなのか、とりあえずわかんなかったんだ」
「なるほどねぇ。経験の話でいうと、私の場合はドッペルゲンガーとの対峙というより、狐とかが多いかな。あれらは化けるのが得意だし」
「あー、そっちの可能性もあったか。最近人に化ける妖怪とやりあうことなくって、忘れてた」
はぁ、と額に手を当てて大げさに息をつく。
確かに、妖怪がその人に化けて出てしまえば、立派なドッペルゲンガーだ。ドッペルゲンガーという単語に思考が引きずられていた。
名前はこの世で一番短い
人に化ける
人に化ける理由は様々だ。人に紛れ込み、危害を加えるために人の形をとるものがいるのは確かだ。しかし、生きるために人の形をとり、人と同じように社会で働き、人の作った世界に
「かといって、逆にそれに
「りょーかいです」
そう返事をすると、皿とカップを持って立ち上がる。
夕飯までにはまだ時間がある。新しい水晶玉の具合も確かめておきたい。
蛇口から水を出すと、煉樹が問いかけてくる。
「その人の依頼は、正式に受けるのかい?」
「うん。一週間前に持たせたお守りで、一応信用してくれたみたいだし。あ、そうだ飛龍。俺、明日帰りにその人の家行ってくるから、よろしく」
「夕飯はいるんだろう?」
「いる。食べる」
食い気味に風夜はそう返した。
一週間ぶりに会った奥野から返されたお守りの水晶は、
昨日の夜、家でまた見てしまった。
対面した奥野は、震えた声でそう言っていた。しかし学校での彼女は、七日前と変わらず、それらしい気配をまとっていなかった。
たまたま、そのタイミングで水晶玉が霊力切れになってしまった、というのは十分にありえる。だが、原因が彼女の家にあるということも、また十分に考えられる。手がかりもない、ならばと代わりのお守りを渡すのと一緒に、家に行く約束を取り付けたのだ。
何か出てくるといいねぇ、と笑う父に、そーね、と娘も軽く返すのだった。
金曜日。
風夜はバスに揺られていた。隣には奥野が座っている。心労がたたっているのか、彼女の目には隈ができており、痛々しい。ぐっと力の入った手の中には、風夜が昨日与えた巾着守りがある。危ういなと思いつつ、それを
向かっているのは、
アナウンスに従って停車ボタンを押す。やがて止まったバスから降りたのは、風夜と奥野、あとは三人程度だった。向かい側を見ると、鎌倉駅行きのバスを待つ人が六、七人ほど。このバス停は、観光地の一つとしても挙げられる竹寺、報国寺が近く、土日になるともう少し人が増える。
奥野に半歩先を先導されて着いたのは、山にほど近いところに建つ一軒家だった。築二十年前後と見受けられる。塀と門があり、玄関までは飛び石が点々と続いている。
とん、と足を敷地内に踏み出すと、風夜は立ち止った。
妙な気配がする。どこからか、というより全方位から見つめられているような、そんな気配だ。
立ち止った風夜に気づいて振り返った奥野は
「ただいまー…」
「お邪魔します」
奥のほうから、おかえりぃ、という
「茜音ちゃん、おかえりぃ。おや、そっちは……彼氏さんかい?」
柔和な笑顔を浮かべる老婆だ。おそらく、奥野の祖母だろう。
「かれっ、違う違う! こっちの人は友達の
「あら、違ったの。ちょっと変わってるけど、それでもこんないい男捕まえてきて、茜音ちゃんも隅に置けないわねぇと思ったのに」
「おばあちゃん!」
先ほどとは打って変わって、顔を赤くした奥野が叫ぶ。彼女のうしろにいる風夜は苦笑いだ。
奥野と同じ制服ではあるが、風夜は女子指定のスラックスをはいている。男女でネクタイの色が違うため、女子がスラックスだろうと性別の見分けはつくのだが、色の違いを知らなければ、風夜は十中八九男と間違われる。時にはネクタイで判別がつく教諭や生徒にすら勘違いされるのだから、この展開はもう慣れた。
「はじまして、煌道です。お邪魔します」
「いえいえ、ゆっくりしていってね」
奥野の部屋は二階のようだ。階段を上り、左手のドアを開けられると、アイボリーでまとめられた部屋があった。クッションやぬいぐるみが色を挿しているが、全体的な印象は清楚である。
ローテーブルのそばにあったクッションをすすめられ、遠慮なくそこに座ると、向かい側に奥野も腰を落ち着かせた。
「あの、ごめんね。おばあちゃんが、失礼なこと…」
「あぁ、あれ。いいよ、男に間違われるのは慣れてるし」
「あ、やっぱりそうなんだ」
納得の顔をされるが、それはそれで複雑だ。
だいぶ顔色が戻ってきたところに、この話題を再び持ち出すのは気が引けるが、それでは本末転倒だ。瞬く間に奥野の声のトーンが下がり、おとといと昨日の様子を話し始めた。
曰く、おとといは一度だけ、庭先に現れたという。一週間見ていなかった安心が油断となり、部屋にお守りを置き忘れていたそうだ。
その言葉に風夜はぴくりと眉を動かすが、とがめることはしなかった。
次いで昨日。お守りの効力あってか、一度も会っていないようだ。しかし、おとといお守りを持っていない時に出くわしてしまったのが、だいぶトラウマになっているらしく、話をしている今も、お守りを固く握りしめている。
「じゃあ、こわいかもしれないけど、まずはその庭まで案内して」
うん、とうなずいた奥野に先導されて着いた庭はそこそこ広く、
毎年秋薔薇が咲くのを楽しみにしているのだが、一ヶ月前からの出来事のせいで、すっかり頭から抜けていたそうだ。しかし、お守りをもらってから怪異に遭うことがなくなり、花を愛でる余裕ができた、その矢先にというわけである。
なるほどなぁ、と庭を見渡す風夜は、ふと視線を下に向けた。わずかだが、地面が盛り上がっている。よく見れば、それは一箇所ではなく、何本も血管のように土が山を作っている。それがなんなのか思いつく間もなく、奥野のひっという引きつった悲鳴が耳に届く。
ちょうど対角線になる位置に、それは立っていた。
ゆるいウェーブのついた、長い焦げ茶色の髪。ブラウスにプリーツスカートを着た奥野茜音が、向かい側に立っていたのだ。
風夜は反射的に固まっている奥野を背後に庇い、
祓いの呪文が完成するや否や、それはわずかに苦悶を浮かべながら体勢を崩し、そのまますぅっと消えていった。
刀印を解き、奥野の形をした何かが立っていた場所まで歩を進め、しゃがみこんだ。靴跡どころか、何一つ残っていない。風夜はぐっと眉根を寄せた。
奥野の悲鳴を聞くまで、まったく気づかなかった。それどころか、あれを目にしていた時ですら、気配がなかった。
いや、違う。
「煌道さん…」
背中に向かって、弱々しく声がかけられる。思考の沼から我に返った風夜は、立ち上がってそのまま踵を返す。
「やっつけられたの?」
風夜は首を横に振った。
「一時的に退けただけ。あの程度でどうにかなってくれるやつなら、苦労しないんだけどさ。多分、あれじゃだめ。でも、少なくとも明日までは出てこないと思う」
ずっと感じていた視線のような気配が消えている。うっとうしくて仕方なかったが、これではっきりした。怪異は奥野に
長期戦になるかもな、と風夜は小さく舌を打った。
翌日、午前十時。
飛龍を伴って、風夜はまたバスに揺られていた。目的地は浄明寺前。秋晴れの空は、朝から日差しが強い。日焼け止めを塗ったか、と出発前に保護者よろしく確認してきた青年自身は、日焼けという概念を知らない身体だ。風夜よりもよほど日焼けのダメージが残りそうな色白の肌は、しかし人間とは違うのである。
浄明寺前で下車した二人は、風夜が先を歩くかたちで奥野家のあるほうへと進んでいく。
昨日、ドッペルゲンガーを一時退散させたあと、庭を中心に元凶を探ったが、明確なものは出なかった。化け狐などの動物妖怪である線も消えた。あれらは特有の匂いがある。稲荷神の
「でも、一つだけ気になったのがあった」
「気になったもの?」
繰り返された青年の言葉に、こくりと頷く。
土の下を走る、血管のようなもの。
家の周辺を見回ると、至る所にその盛り上がりが確認できた。奥野に聞くと、それは
竹はその成長の早さと、天までまっすぐ伸びる姿から
「竹害は数年前からで、竹藪を駆除しようにも、土地の所有者がわからないから、手の出しようがない。敷地内のものは薬品使ったり、掘り返したりして対処してるらしいけど、焼け石に水なんだと」
「それで、その竹害とやらがどうして気になる?」
「いや、勘。ぶっちゃけ、本当にドッペルゲンガーに繋がりそうなものがなかったんだよ。家に憑いてんなら、相手の腹の中に入ってるようなもんなのに、あれ一回きりで気配は消えたまんま。もう謎すぎてわかんねぇのよ」
唸る風夜をどうどう、と頭を軽くたたいて静める。
「馬みたいにすんな」
「お前はじゃじゃ馬だろう」
「やかましい!」
噛みつく様子は子犬である。
昨日訪れた奥野家を通り過ぎ、裏手の道に入り込む。道を外れると、生い茂る葛の蔓が行く手を阻んでいた。ナイフを自身の霊気で生成した飛龍が、それを
一歩踏み入れると、そこは鮮やかな黄緑色の世界だった。木漏れ日がきらきらと輝き、さらさらという葉擦れが耳に心地いい。ここが、あの無数の目で見られているような気配に満ちていなければ、荒廃していても美しく感じられただろう。
「当たりか」
「やっぱ勘は信じねぇといけねぇわ」
左手を軽く振って、じゃら、と数珠を鳴らす。
大立ち回りをできる広さはない。するにしても、今日愛刀は留守番だ。
一方、飛龍は
「あー…昨日もだけど、この腹ん中に自分から入ってく感覚、まさに飛んで火に入る夏の虫って感じでぞわぞわする」
「そのときは一寸法師よろしく、腹の中で暴れまわればいいだろう」
「お前、時々顔出すよな、その脳筋思考。いったい誰に似たんだか…」
「多分蓮霞だ」
「だよな」
飛龍を先頭に奥に進むが、気配はあれど姿は見せない。言い得て妙だったが、事実腹の中の可能性が頭をよぎる。
「飛龍ストップ。このまま闇雲に進んでても
「大丈夫なのか、こんなところで」
「最悪俺のこと担いで逃げてくれな」
返事を待たずに、風夜は刀印を結び、目を閉じた。
すぅ、と意識を深く沈めていく。
身体は深く深く、暗い水底に。冷たい、と感じる透明な水に、肉体が
この形は、いったい誰のものか。
れ。………は、だ…。た、……はだ…れ。
捉えた。
瞬間、一気に意識を浮上させ、荒い呼吸を始める。予期していた飛龍は、体勢を崩す風夜を自身に寄りかからせて、背中をさする。
「大丈夫か」
「へーき。……思ったより、事態は複雑かもしれねぇわ」
ふぅ、と息を吐き出して飛龍から身体を離すと、彼の肩越しに奥野茜音が立っていることに気づいた。
風夜の様子に気づいた飛龍が、方天戟を構え直す。だが、それを制して風夜が一歩前に出た。
近づいても、抜け落ちた表情は動かない。よく見れば、茜音の姿をしたそれは、裸足だった。
「あなたは誰だ?」
わ、たし。わたし、は、だれ。
「あなたは、誰だ?」
わ、わた、しは、だれ。
「あなたは、なにもの?」
なに。わから、ない。もう、わからない。
「あなたは、だあれ」
わからない。もう、わからない。わたしは、だあれ。わたしは。
奥野とは違う声だった。
笹の葉擦れのように、細く高い声。澄んでいるとすら思える。
だれ、という言葉を残して、それはすぅと消えていく。女が立っていた場所まで近づいてしゃがみこむと、そっと右手を伸ばし、指先で地面に触れる。
「飛龍、シャベル。シャベル作って」
「…………シャベル?」
「シャベル」
「シャベル」
しばし沈黙の後、飛龍の霊気が見事なシャベルに形成された。作った本人が複雑そうな目でそれを見つめているが、瞬きを二つすると風夜にそれを差し出す。礼を言って受け取り、さっそく足元を掘り始めた。
地面にはびっしりと竹の根が張り巡っていて、シャベルの先ががつがつと当たる。時間にして五分ほどだろうか。シャベルを置いて、手で土を払いのけた風夜が、これだ、と呟く。
飛龍がそこを覗き込むと、珍しく目を見開く。
露出した
「これは?」
「……多分、骨」
竹に取り込まれた、人の背骨。
同調して見えたのは、暗闇の中、うつ伏せで横たわる死体だった。
肉は腐り、目玉が転げ落ちていて、背中からは骨が見えていた。おそらく、奥野や風夜と同じくらいかもう少し年上の少女だろう。
「何十年も前の死体だ。なんでこうなったのかは、この人も憶えてない。もう自分が誰だったのかすら、あんな感じで、わからなくなってる」
「取り込まれて、長いのか」
「おそらくな。なんで何十年も経ってから出てきたのかは、まだわからん」
ボディバッグをあさり、大きめの巾着を取り出す。中身は紫水晶のさざれ石だ。数珠玉のものと比べれば質は落ちるが、使い勝手がいい。一掴みすると、ばらばらと根茎の上にそれをばらまき、土をかけ直す。
ぐっと眉根を寄せた風夜は、握っていた拳を緩めて、両手を合わせた。
ここまで混ざってしまうと、もう手の施しようがない。彼女の魂は、この竹藪と
藪を抜けると、飛龍と手分けをして、竹藪を囲むようにさざれ石をばらまく。手元にある分はすっかりなくなったが、この量で済んだことに安堵する。もう少し範囲が広ければ、出直す必要があった。
柏手がふたつ、響き渡った。
封印を施す呪文を唱え、結界が成される。これでしばらくは大丈夫だろう。あとは、竹を枯れさせるだけだが、そこは専門外だ。
「済んだか」
「おう。帰りがけだ、奥野さんちに行って報告。あとは清算だな」
くるりと
出迎えてくれた奥野は、うしろの飛龍にぽかんとしていたが、我に返ると頬を赤くして、どうぞ、と部屋まで
ドッペルゲンガーの原因はなんとか封印したこと、竹藪が媒介になっていたため、早めの駆除をお勧めすることを報告し終える。死体のことはあえて伏せた。知らなくていい事実もある。
その後、風夜は勾玉の入った巾着守りと、先ほど金額を書き入れた、手書きの請求書を奥野に差し出した。
「今回、命を張ることはなかったから、基本料金とお守り分。その新しいのはおまけ。このドッペルゲンガーに関しては、もう現れることはないぜ」
「ありがとう…! ほんとに、ありがとう!」
「いんえ。そっちの料金は、銀行振り込みで。口座はある?」
「うん。自分名義の口座持ってる」
高校生にしては、高い買い物だったことだろう。二万八千円、バイト代が入り次第、振り込むことを約束し、部屋をあとにする。
玄関まで見送ってくれた奥野に、また月曜日と言って別れると、庭で水やりをしている奥野の祖母が、お帰りですか、と声をかけてきた。
「はい。ちょっと茜音さんに渡すものがあっただけなので」
「そうですかぁ。茜音ちゃんに、こんなかっこいい彼氏がいたなんて」
「ははは、俺は茜音さんとは友達ですって。……ところで、茜音さんのおばあさま」
「おばあさまなんて。ふふ、何かしら?」
朗らかに笑う老婆に、風夜はにんまりと口端を釣り上げた。
「俺の髪色、何色に見えますか?」
「え? ちょっと不思議な色よねぇ。銀色かしら」
やっぱりな。
内心そうほくそ笑んで、風夜はなんでもないです、さよなら、と奥野家を後にした。
あのおばあさん、
帰り道、風夜は飛龍にそう語った。
破邪特化、つまりはその存在自体が破邪のお守りのようなもので、悪しきものを寄せつけない体質なのだ。おそらく本人は、幽霊や妖怪とは無縁の人生を歩んできているはずだ。なにしろ、寄ってこないのだから。
ちなみに、茜音にその霊力が受け継がれている様子はない。本当に彼女は徒人、言葉を借りるなら「零感」だ。
何十年も前に取り込まれた例の少女が、何年もあの家に現れなかったのは、偶然もあるかもしれないが、あの老婆の存在があったからだ。
「だが、なぜ今になって?」
「憶測の域を出ないが、あのおばあさん、若干認知症の気がある。俺、昨日顔を合わせてるんだけど、憶えてなさそうだった」
霊力は、精神面に大きな影響を受ける。記憶は人格形成につながり、精神形成にも紐づく。精神が不安定になれば、霊力もまた不安定になる。認知症の症状が始まったことによって、霊力の強さに波が発生し、結果破邪の力が弱まり、今回のドッペルゲンガーの侵入を許してしまったのだろう。
また、あの少女が「奥野茜音」の姿をしていたのは、もう自分の姿すら思い出せないほど、竹と同化しているからだ。しかし、人間であったことは憶えていたのだろう。茜音の姿を写したのは、死んだときの歳が近く、精神的に同調しやすかったからかもしれない。
埋めてきたさざれ石が、土地を内部から浄化をしていくことで、最終的にあの竹藪は早めの寿命を迎える。人の血肉を知った竹は、もう清浄なものにはなりえないのだ。
「思ったよりも早く終わったし、久しぶりにカフェ・ロマーノ行かねぇ?」
「却下。俺はやることがある。お前も課題があるんじゃないのか」
「昨日のうちに終わらしたって。まぁ、いいか。
乗っていたバスが鎌倉駅に到着する。お昼に差し掛かる時間帯なこともあり、改札前はかなり混雑していた。
「今日の昼飯なーに?」
「何にしようか。パスタでいいか」
「おう」
騒音轟く改札を抜け、二人は北鎌倉行きの電車に乗り込むのだった。
◆ ◇ ◆ ◇
風がすっかり冷たくなった、晩秋のある日。
奥野家の裏にあった竹藪で、一斉に花が咲いた。青々とした竹に咲く花は小さく、美麗さは欠片もないものであった。
竹の春は過ぎ去り、また竹の寿命も、もうすぐ終焉を迎えることだろう。
◆ ◇ ◆ ◇
初掲載:カルチェラタン2020年9月号
書 籍:『北鎌倉の
シリーズ表紙
キャラクター原案:
イラスト・編集 :
掲載されている小説は、上記書籍に収録されている「