第1話「蜜腐れ」

文字数 11,739文字

 
 買いすぎじゃないだろうか。
 そう思ったが、口に出すことはしなかった。
 いっそここのホールケーキを買ったほうが、安上がりになることは理解しているだろう。だが、そういう問題ではないということも、わかっているつもりだ。
 こうしてあれもこれもと目移りしながら選ぶ時間も、おいしいものを「味わう」時間の一つである。
 幸いなことに、時間はある。
 今日は気が済むまで悩ませてやろう、と思っていたところで、店員に次々と告げられる商品名の多さに、青年は思わず買いすぎではなかろうか、と思ったわけである。

「盆栽が二つ、シャンティと抹茶ロール、タルトショコラが一つずつ。マカロンの十個入りが一つでお間違いないでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
「お持ち帰りのお時間はどのくらいですか?」
「んーと、一時間くらいで」

 持ち帰りの時間をある程度盛って伝えるのは、常套句だ。
 鎌倉駅から北鎌倉駅まで、横須賀線で隣駅。時間にすれば五分程度で着くし、そこから家まで歩いたとて十五分。待ち時間を追加しても一時間はかからないはずだ。
 ただの常套句か、それともここからさらに寄り道する気なのか。
 背中から(にじ)み出るご機嫌さを眺めつつ、青年はその無表情の裏でそんなことを思っていた。しかし、勘繰りすぎか、と考えを霧散させる。

 鎌倉駅東口を抜けてすぐ、名物である鳥居から始まる小町通りを鶴岡八幡宮のほうへ歩いていくと、とあるパティスリーが店を構えている。
 パティスリー「雪乃下」鎌倉本店だ。
 マカロンやケーキ、マドレーヌなどの焼き菓子が売られており、マカロンとケーキは、店内のワンドリンク制のイートインで飲食可能になっている。中でも「盆栽」と名付けられている抹茶ティラミスは絶品らしい。鉢に見立てた容器に、何層にもなっている抹茶クリームとクリームチーズ、表面は苔を模した抹茶の粉末に、緑に映える小さなピンクのマカロン。栄養剤の形をしたスポイト状の容器には、香り高いラム酒が入っていて、それを中に注ぎ込むもよし、表面にかけてもよし。そんなことをいつだったか、熱く語られたことを思い出した。
 出入口であるドア越しに見える通りは、人の流れに途切れがない。だが、この店は通りと少し離れているからか、人の気配がやや薄く感じられる。

「おまたせ」
「ん」
 頭半分ほど目線を下げる。目線の先の相手は、ケーキとマカロンが入ったビニール袋を片手に上機嫌だ。
 銀灰色(ぎんかいしょく)の、やや外はね癖のあるショートヘア。吊り上がった大きな猫目は、暗い灰色の虹彩を持っている。相貌が秀麗であるかどうかの判断は人によるだろうが、この中性的な顔立ちは決して悪いものではないだろう。両耳につけられた紫水晶のピアスと、開けたばかりのヘリックスが髪のなかで見え隠れしている。
 キャラメル色のピーコートに、藍色のスヌード。その下から見えるのはスラックスに黒地のスニーカーと、やや活発的な印象を受ける。
 名前は煌道風夜(こうどうかざよ)
 数学とは一生お友達になれないと豪語する高校生だ。この姿のまま視える人間からすれば、素行の悪さを真っ先に想像されるタイプだが、成績自体は中の上。ピアスは校則上問題なし。高校全体ではその他大勢に部類されている生徒だ。視える人間からすれば、絶対嘘だろうと言われるだろうが。
 風夜を待っていた青年、飛龍(ひりゅう)もさらりと音がしそうな、腰まで伸びるプラチナブロンドをしている。本来なら他人の目を相当引くだろう。だが、風夜同様そう視える人間のほうが少ない。徒人(ただびと)の目には、(とび)色に映っているからだ。
 そんなやや特殊事情の二人に血縁関係はない。しかし帰る家が一緒なのは、飛龍が十年ほど前から煌道家に居候しているからだ。今では家事全般を請け負い、すっかり主夫化している。

 パティスリーを出て、鎌倉駅に向かう人の流れに乗った。
 平日なこともあり、土日に比べて人同士の間に隙間はあるが、それでもやはり観光地。ゆったりとした波の速さに合わせて、歩調を緩やかにしていく。
「今日はまたずいぶん買ったな」
「おう。この前の依頼でちょっと財布があったまったからさ。親父そろそろだって、今朝母さんが言ってたし」
「あぁ、そういえば、煉樹(れんじゅ)がこもって、今日で三日目だったか」
 煉樹とは、風夜の父親だ。
 本業が小説家ということもあり、年に何回も書斎に引きこもる特性を持っているのである。実の子どもたちにすら変人と思われているのだが、それとは別の側面のせいで、風夜には「くそ親父」だの「たぬき親父」だのと呼ばれている人物だ。
「お前、俺より家にいる時間長いのに、忘れてたのかよ」
「あまり気にしていないだけだ。蓮霞(れんか)がいるんだ、栄養失調で倒れるようなことはないだろう」
「あー、ちげぇねぇや」
 はは、と気の抜けている笑いをした。
 蓮霞は、煉樹の伴侶だ。風夜からすれば母親にあたる。大らかなだがたぬき親父な父と、ほわりとした陽だまりのような母。どこか人として掴みどころがない夫婦だが、二人のうち本当に恐いのは蓮霞のほうである、というのは子どもたち全員および居候の共通認識だ。

 改札口を抜けて、電車を待つ列に並ぶ。電光掲示板には、あと二分後の時間が表示されていた。
 冬至は過ぎたが、まだまだ日は短い。日の傾きによってもたらされる景色は、体感時間よりも一、二時間進んでいる。時は黄昏(たそがれ)。またの名を逢魔(おうま)(どき)という。
 ホームに飛び込んでくる車両は、鈍い悲鳴のようなブレーキ音とともに止まった。箱の中は、たいした会話もないのに、他人(ひと)の気配だけはみっちりと圧縮されているせいで、妙に騒がしい。
 北鎌倉駅は、実にレトロな造りをしている。
 色褪せたホームの屋根に、小さな車掌室。大人ひとりが座れるくらいのスペースしかなく、一瞥(いちべつ)で息苦しさが想像できた。ここが古都ゆえの観光地でなければ、おそらく無人駅だっただろう。なにしろ、切符売り場は線路を挟んだ西口にしかない。しかし、この不便さすらひとつの風情になっているのだから、不可思議なものだ。ここでの異物は、間違いなくピッと鳴くICカード専用改札機のほうだろう。
 北鎌倉駅東口改札を抜けてすぐに、円覚寺がある。山門と、本尊宝冠釈迦如来を祀る仏殿、そして仏殿の天井絵である白龍図が有名な、鎌倉観光名所のひとつだ。
 そこから線路沿いに歩いて、明月院通りの手前の道を山のほうへ進んでいく。周辺に民家は多いが、舗装された道を進んで、少し山の方へ入ってしまうと、途端に人の気配が薄くなる。時刻も相まって、薄気味悪ささえ感じる者もいるだろう。
 そんなところを気にした様子もなく、すたすたと歩いていく二人の先には、これまた雰囲気のある屋敷が建っている。大正時代の和館のような二階建ての屋敷だ。門にある表札には「煌道」と書かれている。
 山との境が近い庭は、四季折々の草花に樹木に溢れている。見頃を迎えているのは、紅、薄桃、赤紫、白の寒牡丹だ。鶴岡八幡宮にこの時期咲くものと同じ品種もある。閑散とする侘しさが粋でもある庭の中に、これらの花がほんの少しの色を落とす。
 その近くには、まだ若い蝋梅(ろうばい)が、ぽつぽつと健気に蕾をほころばせ始めていた。

「ただいまー」
「ただいま」
 がらりと引き戸を開けると、(あが)(かまち)の向こうから、おかえりと返される。
 風夜と揃いの銀灰色の髪はまっすぐ腰まで流れ、こちらを見つめる目もまた、風夜とそっくりな暗い灰色の瞳をしている。手には湯気の立つ湯飲みが二つのった盆を持っていて、玄関先からほど近い客間に入ろうかというところだったのがうかがえた。
 三十代半ばほどに見えるこの女性は、煌道蓮霞、風夜の母である。
「母さん、お客?」
「青柳さんよ。一度気分転換させようと思って、さっきあの人をこっちに引っ張ってきたの」
 柔和な笑顔を浮かべる蓮霞に、ややひきつった声で、あ、そう、と返す。
 柔らかく抱擁感のある女性で、実際に母として優しい。が、そんな彼女は時に物事を物理的な力で解決するくせがある。蓮霞が引っ張ってきた、というのだから、おそらく首根っこ引っ掴んで引っ張ってきたのだろう。煌道蓮霞という女性は、そういう人だ。
 そんな首根っこを掴まれていた人物は、一応この一家を支えている大黒柱で、世間的には小説作家として名高い人物、煌道煉樹であり、青柳は担当編集者の一人だ。

「あ、ならケーキ買ってきたから、親父たちに出してよ。俺の分、青柳さんに出してやって。俺はマカロンひとり占めするから」
「あらあら、ありがとう」
 ビニール袋からマカロンの箱だけ取り出すと、袋ごとケーキの箱を手渡す。そのまま客室に入っていった蓮霞のうしろから、風夜はひょっこりと顔を出した。
「青柳さん、こんにちはー」
「お、風夜くん、こんにちは。今帰りかい?」
 癖のある栗毛に、黒ぶち眼鏡をかけた男性が顔を上げた。年のころは二十後半くらいで、前に見た時より少し痩せたように見える。
「そうです。青柳さん、親父がまた迷惑かけててすいません。ケーキ買ってきたんで、好きなの食べてください」
「風夜、そのまたってなんだい」
 猫っ毛な鳶色の髪に、ややたれ目な目の下には、くっきりとした隈ができており、黄色を含んだ翠の瞳も翳って見える。聞き捨てならない、と口をとがらせている父親は、しかし数日前よりも確実に生気が薄くなっていた。
「うっさい親父。また進捗的に締め切りぎりぎりかオーバーのどっちかだろ。てか、青柳さん来てるってことは、ほぼオーバー確定じゃんか。雪乃下のケーキ食って、早く進めろよ」
「風夜もやってみればわかることだけど、進めようと思って進むもんでもないんだよ……」
 煉樹は、執筆速度にかなり波がある。だめなときはだめ、進むときは進む。わかりやすい傾向としては、筆がのっているときほど規則正しい生活になっていき、詰まっているときほど寝食を忘れて書斎にこもる。普通逆だろうと言われるのだが、そこは変人の特性と思っていただきたい。行き詰っている状況が、籠城の末に打開する場合もあるため、一定期間そっとしておくが、だいたい三日目になると蓮霞が天岩戸から引きずり出してくるのが常であった。

「盛り上がってるところ失礼する。今日、ぶり大根にするが、食べていくか?」
 風夜同様、ひょっこりと顔を出したのは、いつの間にか姿を消していた青年である。流れていたプラチナブロンドは首のうしろでくくられていて、先ほどまで着ていた黒のセーターを覆い隠すように、真っ白な割烹着をまとっていた。
「ぜひご相伴にあずからせてください!」
 青年の言葉に、青柳は食い気味で答えた。
「飛龍くんのご飯、今日食べれるかなと思ってたんだ。嬉しいなぁ」
「青柳くん、私の尻を叩きに来たんじゃなくて、それが目的じゃないのかい?」
 途端に嬉々とした笑顔を見せた青柳に、煉樹がげんなりとした声でそう問いかけた。
「いえいえ。先生がこもっていると奥様から聞き、叱咤激励のために参った次第です」
「本当かなぁ…」
 弱々しい声だ。寝不足なのだろう、鳶色の髪が若干ぱさついている。
 ふーっ、と深呼吸を一つした煉樹は、はたと思い出したとばかりに、ぴくりと瞼を上げた。
「そういえば風夜。ちょっといいかい」
 煉樹は先ほどとは違い、少し芯のある声で、そろそろ自室にいこうかと思っていた風夜を呼び止めた。
「…………なに?」
 呼び止められたほうは、呼吸二つばかりの沈黙のあと、やや胡乱げにそう応えた。
「また、お遣い頼めるかい。そう難しいものではないと思うよ」
 おそらく、蜜腐れだから。
 美しい微笑だった。そして、いつもの食えない笑みでもあった。
 それに思わず顔をひきつらせた風夜は、蜜腐れとはなんぞやと、訊くことを忘れていた。




◇  ◇  ◇  ◇




 蜜腐れとは、林檎の芯近くの蜜が、茶色に変色し、腐っている状態のことを言うらしい。蜜褐変(みつかっぺん)とも呼ばれ、外見上の判断はつかず、実を切って初めてわかるそうだ。
 それがいったい何を示すのか、風夜にはいまだわからずにいた。
 鎌倉市内の高校に通う風夜は、部活動もアルバイトもしていないため、土曜日の本日は惰眠をむさぼれる休日だ。しかし、そんなことさせるかと八時に飛龍に叩き起こされた風夜は、まだぼんやりとする頭を抱えながらホットカフェオレを飲んでいた。ノンシュガーで、挽きたての香ばしい豆の香りと、ミルク独特のまろやかさが舌に心地いい。
 飛龍の淹れるカフェオレは、いつも優しい味がする。
「ほら。これ食べて、行くぞ」
 ことり、と目の前に皿が置かれる。
 ブラックペッパーと塩で味付けされた半熟の目玉焼きに、カリカリベーコンが三枚。そのふたつがのった特製トーストは、休日の朝ご飯によく作られる。
「おう…。あんのくそ親父、わざわざ朝早くに行くとか言いやがって…」
「午前十時は朝早く、ではないだろう。恨みごと言う前に、とっとと食え」
 二人が向かう先は、煉樹のお遣い先である。
 場所は極楽寺駅から徒歩十分ほどの一般宅だ。煌道家からは、北鎌倉駅から鎌倉駅、そして江ノ電に乗り換える。極楽寺駅は、周囲に住宅が密集しているが、木々も多く、田舎な雰囲気を持つ場所である。駅のすぐ近くに建立された極楽寺は、駅名の由来であるとともに、紫陽花寺としても有名だ。
 朝食を終えて準備を整えると、電車に揺られながら目的地を目指す。
 今の時季は、葉をなくした木々が目立つ。耳鳴りすら起こしそうな、わずかな呼吸ばかりがそこかしこに溢れている。寂しい枝の向こうに見えるのは、薄く高い空ばかりだ。
 この季節は、すべてが遠くて、世界がより広く感じる。

 極楽寺駅を降りて、地図アプリに導かれるままたどり着いたのは、ごく普通の木造二階建ての一軒家。表札には「川部」とある。
 インターホンを鳴らすと、ほどなくして、はい、と返答がある。
「こんにちは。ご依頼で来ました、煌道です」
 お待ちください。
 声から怪訝(けげん)な雰囲気が伝わる。風夜がこの件で訪問すると、いつもこうなのだ。それがなぜなのか、詳しい理由を依頼者に訊ねたことはない。少なくとも風夜は、声の若さのせいではないかと思っている。
 ドアが開く。隙間からそろそろと半身をのぞかせたのは、三十後半から四十前半と見受けられる女性だった。一七〇センチの風夜の視点からすると、頭一つ分小さい。セーターに緩やかなフレアのロングスカートで、上品な印象を受ける。
「えっと…」
「こんにちは。ご依頼いただきました、煌道です。直接ご依頼を受けたのは父になるんですが、私がその代理として参りました」
 そう告げると、少しの驚きと懸念が入り混じった表情が浮かぶ。できる限りの営業スマイルのまま、またか、と内心ごちた。
 代理人が行く旨を記したメールは、風夜にも届いている。だが、依頼人もまさか高校生が来るとは想像していなかったのだろう。
 しかし、風夜のうしろに控えていた青年を見つけると、なぜか少し安堵した表情を見せた女性は、ドアを開け放って二人を中へと促した。
「どうぞ、お上がりください」
 そこそこ年季の入ったお宅である。
 通された部屋は、畳に革張りのソファが置かれた和洋折衷の部屋だった。やや毛足の長いラグマットの上に、木目が美しい木製のテーブルがのっかっている。
 床の間や床棚には、水仙の壺に、水墨画の掛け軸、木彫りの熊、大きな紫水晶の原石などが並んでいる。随分バリエーションに富んでいると思う反面、まとまりのなさも感じられた。
「どうぞ」
「ありがとうございます、いただきます」
 そっとティーカップをつまんで持ち上げると、ふわりとほのかな柑橘の香りが鼻孔をくすぐる。白磁に描かれた水彩画調の黄水仙が美しい茶器で、顔を近づけると、その香りがまるでその花から漂ってくるような錯覚を起こす。大変甘美な心地よさだ。
「すみません。重複してしまって申し訳ないんですが、今回の件、もう一度内容を伺ってもよろしいですか?」
 紅茶で口を湿らせた風夜は、申し訳なさそうに眉をひそめる。
 それを見た川部は、そっと顔を伏せてから、かちゃり、とカップをソーサーに置いた。



 音がするんです。
 音?
 はい。
 ぺたぺたって、誰かが歩いているような音だったり、何かが割れるような音だったり。
 昨日の夜は、何かが天井を這ってる音もして。私ひとりだけの時だけじゃなくて、主人や子供たちも…。
 ポルターガイストなんてばかばかしいと思っていたんですが、こうもずっとだと……。
 なるほど。それで一度お祓いを受けたけれども、よくはならなかったと。
 はい…。
 音がするのは、どこですか?
 家全体からなんです。この部屋もですし、寝室や廊下からも、もうどこにいても音がするんです。



 べちんっ。
 突然、なにかが貼り付いた。
 二人の向かいに座っている川部にも聞こえたのだろう。はじかれたように、肩をびくんとさせて、小刻みに震えている。
 風夜がすっと左に目線を移すと、外に通じるガラス戸に、それはいた。
 眼窩(がんか)全体がゆらゆらと波打つ灰色に埋め尽くされていて、白目も瞳孔もわからない。切り揃えられたおかっぱ頭は、直角に曲がった首のせいでだらりと下がっている。
 服はやや薄汚れたTシャツに、ジーンズ。暖房の効いた部屋ならともかく、その格好で外にいるのは、この時季相当堪えるはずだ。生身であったなら、の話ではあるが。年の頃は七つ程度といったところか。
 風夜は遠くの景色に焦点を当てて、それを直接見ないようにしながら、ちらちらと存在を確認する。
 正面に座っている川部はまだ震えている。それも仕方ないか、と紅茶を一口含んだ。それを嚥下(えんげ)するかしないかのタイミングで、もう一度ガラス戸に両手を叩きつける音がする。
 その度にびくりと川部が怯えるのを一瞥して、風夜は両手を二度打ち鳴らした。柏手(かしわで)である。その音の波紋に呑まれるようにして、おかっぱ頭のそれは姿を霧散させた。
「怯えさせてすみません、川部さん。今みたいな音が、ずっと?」
 こくこくと、首が上下に振られる。まだ震えは止まっていない。
「そうですか。失礼なんですが、お庭とおうちのなかを一通り、見てもよろしいですか?」
「え? あ、はぃ……」
「ありがとうございます。時間短縮のために、お庭は彼だけで見回ってもよろしいですか? もちろん、お気になさるようでしたら、部屋のあとでご一緒にお願いします」
 あんなことがずっと続いていて、もうノイローゼ寸前なのだろう。震える声でほぼ吐き捨てるように、お好きにどうぞと答えがあった。


 やっぱりここだな。
 飛龍に庭を見てくるようお願いし、家の中を川部の案内で見回っていた風夜は、最初の客間に戻ってきていた。
 音があったという寝室や廊下を含め、家中に妙な気配が漂ってはいるが、一番濃いのはこの客間だ。
 飛龍は庭でそのまま待機している。何かあれば対応してくれるだろうと、風夜は川部に向き直った。
「川部さん、この紫水晶は昔からあるんですか?」
「え、あぁ、それは主人の持ち物で、三年前くらいに買ったものです。それがなにか?」
「ちょっと拝見してもよろしいですか?」
「えぇ」
 にこっと営業スマイルを浮かべてすぐ、川部に背中を向けた風夜は、そのまま片膝を折ってしゃがみこんだ。
 紫水晶は、ブラジルや南アフリカ等を主な産地とする水晶の一種だ。直射日光に弱い特色がある。
 母岩のなかで輝くそれらの中に、いくつか大きな六方晶の結晶が突き出ている。そのうちの一つ、下の方にある結晶とその回りが、薄茶色に色褪せているのが確認できた。
 思わず眉根を寄せた風夜は、そっとその部分に手をかざす。
 石は、厄介なのだ。良いものにも悪いものにも転じやすい。
 すぅ、と鼻からゆっくり呼吸する。吸気に合わせて(まぶた)を下ろし、そのまま意識を下に落としていく。

 ど……して、…………も、…だ
 勝手に、……だ
 あなたが……い、………よ。わたし、は

 耳の奥から脳内に響くようなそれらに、風夜は眉間のしわを深くした。
 よくある話だ。よくある話ではあるが、それゆえに面倒でもある。
 立ち上がると、右の尻ポケットに入れていたスマートフォンをタップする。ワンコールで出たのは、庭先にいる青年だ。
「おう、そっちは?」
『さっきのやつが、まだうろついていた』
「了解。原因っぽいもんは見つけたから、処理したらまた連絡する」
『わかった』
 外のほうは問題ないだろう。柏手で一度形を失う程度の亡霊だ。飛龍ひとりでも対処は容易に済む。
「川部さん」
 ぎゅっと握られた左のこぶしをさすって、自分をなだめていた川部は、風夜の呼びかけにいささか驚いた様子で返事をした。
「原因と思われるものが見つかりました。これですね」
 変色している紫水晶を指さす。それを凝視した川部は、これですか、と語尾に疑問符を付けた。
「色が、変わったから……とかですか?」
 風夜は半分正解です、と告げた。
「アメジストは、もともと紫外線に弱くて変色しやすいんです。経年劣化で色は簡単に褪せますし。こういう変色は管理不足が大概なんですが、他にも、しっかり役目を果たしたから、というものもあります」
 信じるかは別として。
「石は『意志』に音がつながるので、人がその石に願う想い、まぁ、石言葉とか、そういうのが宿りやすいんですよ。そんな石の役目は、持ち主の身代わりだったり、危険を知らせる警告だったり。今回の場合は警告かな」
 じっと色褪せの石を見つめていた風夜は、そこまで言い切ると、川部のほうに目線を移す。
 警告、の言葉に彼女は怪しげに眉根を寄せている。
「アメジストは霊性が高い石で、魔除けでもありますけど、別の面では『真実の愛』という意味を持たせられた石です」
 ぴくりと、川部の指が動いた。
「おそらく、自分に科せられた想いを全うできずにいて、それでもなんとか頑張ってるんでしょう。色褪せてるのは、目に見える警告と、単純にこのまわりに力が残ってないからです。で、この空っぽ状態になったここに、よくないものがこれ幸いと棲みついて、そのよくないものの気配につられて、いろんなものがこのお宅に集まっている、というのが現状です」
 こうなってしまっては、このアメジストは魔除けの意味をなさない。魔除けになるはずの自分自身の中に、邪が入り込んでいるからだ。
 川部は言葉をうまく呑み込めていない様子だが、気にせずに続ける。
「ということで、この変色している紫水晶が、ポルターガイストの原因です。ここに入り込んでいるものを追い出して、浄化と力の充填(じゅうてん)をしてやれば大丈夫でしょう」
 この母岩付きの水晶は、(から)の水瓶でもあるが、腐りかけの果実により近い。
 力の残っている部分の石も、このまま放置しておけば腐食されていき、よくないものの格好の住処(すみか)となってしまう。
 果物だったら切り取るしか方法はないが、これは石。入り込んでいるものが若干厄介ではあるが、対処自体は難しくない。

「これから修祓(しゅばつ)を行います。私がいいと言うまで、一応これ持っていてください」
 そう言って、風夜は左手につけていた紫水晶のブレスレットを川部に渡す。
「そう時間はかかりませんから」
 くるりと川部に背を向けて、風夜はもう一度母岩の前に膝を折った。
 左手から川部に渡したブレスレットと同様のものを外すと、茶褐色部分を取り囲むように、それをそっと置く。次に、右手の人差し指と中指を立てて、残りの指を折り曲げる。刀印(とういん)という印だ。
 指先を唇に当てて、音にすらならない程度に呪を唱えていく。すると、ブレスレットに囲まれた結晶から、じわじわと滲み始めてくる。
 それは、香りだった。
 甘い香りだ。いや、甘いというには過ぎた香り。腐りすぎた匂い。
 その芳香から脳裏に浮かぶのは、つついた指がそのままずぶりと呑み込まれてしまうほど、ぐずぐずにふやけた果物だ。
 不快感が鼻をつき、くっと眉間にしわが寄る。
 それは呪文が進むほどに強くなる。風夜のまわりは、むせかえりそうなほどの腐臭がただよっているが、川部にそれを感じ取ることはできない。
 自分に身近な香りは、わからないものなのだ。
 なるほど。確かに、蜜腐れだった。

「…………満ち給へ」
 自身の霊力がブレスレットから結晶へ移りきったことを認めて、呪文を完成させた。のせていたブレスレットを左手に戻してから立ち上がると、そのまま川部に向き直る。
 彼女の顔は若干青ざめていて、握りしめているブレスレットの珠が、いくつか白く濁り、ひびが入っていた。
「終わりました。あとは、あなたが見たものと決着をつければ、もう大丈夫です」
 旦那さんと、今の恋人と、ね。



 茶褐色になっていた石にもぐりこんでいたのは、川部の主人の情だ。
 川部とは再婚で、前の女房との離婚理由は、相手の浮気。
 その浮気の原因は知る由もないが、旦那のほうに何かがあったな、と直感的に感じた。
 依頼人、川部由紀子との再婚は三年前。あの母岩を買ってすぐらしいが、その由紀子もまた、新しい男の影があった。
 石が風夜に聞かせたのは、二人の男の声と、それぞれと話す由紀子の声。そして、妻の背後にいる自分とは別の男に対する、旦那のひどい劣等感の念だった。
 また、愛した女に選ばれなかったという劣等感だ。
「表面上は普通の夫婦だったんだと思う。寝室、ダブルベッドのまんまだったし。けど、あの匂いが劣等感と愛情が混じったもんだったとしたら、相当やべぇ旦那だと思うわ。隠して隠して、最後爆発するタイプの」
 念から感じたのは、圧倒的に劣等感のほうが強かった。妻を、由紀子を愛しているという気持ちよりも、由紀子を愛さなければという意地。そんなものがあった。
「そうだねぇ。お前の(たま)にひびを入れたんだろう? 旦那さんの生霊(いきりょう)に出くわさなかったのかい?」
「出くわしてたら、報酬三割増し要求してたっつーの」
 生霊は、亡霊よりもエネルギーが強い分、扱いが面倒なのだ。
 しかし、もう少し遅ければ、石に宿っていた念は、間違いなく由紀子に牙をむく何か、それこそ生霊に近いものになっていただろう。最悪、死に至るほどの。人の情念は恐いのだ。
「その程度で苦労するような娘に育てた覚えはないんだけどなぁ」
「それとこれは話が別。ちゃんと仕事内容に応じて、相応の金額はいただきます!」
 ふんっとそっぽを向いた風夜は、しばらくしてから、はぁ、とひとつ息をつき、再び煉樹に向き直った。
「浄化した石には俺の霊力を込め直したし、香りにつられて寄ってきてたおかっぱの(亡霊)は、飛龍がせっせと斬ってたから、請け負った分の仕事は完了。あとは当事者たちの問題だから、帰ってきました」
「はい、報告ご苦労様」
 青柳が急かしていた原稿を終え、娘の報告を聞いていた煉樹は、ほがらかにそう言った。
 彼の書斎は、仕事用の資料がたんまりと積みあがっている。本棚に所狭しと詰まっているのに、それ以外にも本が積み上がってできた竹が何本も生えている。

「入るぞ」
 そう言うのと同時に書斎のドアが開いた。現れたのは、盆を持った飛龍である。
「茶を持ってきた」
 盆の上にあったのは、茶菓子と透明の耐熱ガラスでできたティーセットだった。スコーンとマーマレードがのった皿から、甘酸っぱい匂いがほのかに香る。
「気が利くねぇ。ちょうど終わったところだよ。今日のおやつはなにかな?」
「アップルティーとスコーンだ。蓮霞の希望でな」
 目の前に置かれたガラスのティーカップには、薔薇細工が施された林檎が花を咲かせている。そこにざく切りの皮付き林檎がぎっしり入った紅茶がとぽとぽとと注がれると、林檎の薔薇がゆっくりと花開いていく。
「カップの林檎は蜂蜜漬けになっているが、甘さが足りなかったら、蜂蜜を追加してくれ」
「凝ってんなぁ」
 舌を巻いた様子の風夜は、紅茶に手を伸ばすと、ゆっくりと一口飲み込んだ。
 ふぅ、と鼻孔の内側から甘酸っぱい林檎と蜂蜜の香りが立ちのぼり、最後に紅茶の芳香が過ぎていく。
「…腐っちまう前は、こんなにいい香りするのにな」
「蜜腐れの時点じゃ、腐臭はしないらしいがな」
「やかましい」
 ぱかりとスコーンを半分に割って、口に放る。口の中でほろほろと崩れていく食感がたまらなくて、思わず口角が緩んでいく。
 その様子を見ていた飛龍が、ふ、と息を漏らした。
「しばらく林檎は受けつけないかと思ったが、やっぱりお前図太いな」
「飛龍、お前そういうとこよくないぞ」
 半分になったスコーンに、べったりとマーマレードをつけて、ずい、と彼の口に突っ込む。しばらくもごもごとしたあとに、うまいな、と青年は自画自賛の言葉をつぶやいた。



 脈々と受け継がれている「祓い屋」を家業とする一族があるという。
 現在その嫡流は、北鎌倉に居を構えている。夫婦とその子ども三人、そして居候の青年がひとり。
 その一族の名は「煌道」という。




初掲載:カルチェラタン2020年1月号
書 籍:『北鎌倉の祓屋家業(はらいやかぎょう) 花影(はなかげ)(つづり)』収録

シリーズ表紙
キャラクター原案:久遠蓮(くおんれん)
イラスト・編集 :不二宮央(ふじみやひさ)

掲載されている小説は、上記書籍に収録されている「蜜腐れ」を加筆・修正したものです。


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