第2話「梅花の影」

文字数 11,143文字

 ※若干、虫と爬虫類の描写があります。



 煌道風夜(こうどうかざよ)は、コーヒーも紅茶も大好きである。
 しかし、紅茶好きになったのは、さかのぼること二年ほど前。相棒である飛龍(ひりゅう)が、紅茶に凝り始めたころにつながる。
 それまでなんとなく苦手意識のあった紅茶だが、彼の淹れたアッサムに心奪われてから、以来コーヒーが若干劣勢になった。それでも苦手意識のあったフレーバーティーを克服してからは、出される紅茶の幅もぐっと増え、出される機会も増えた。
 今目の前に出されているのは、飛龍の最近のお気に入りである、トワイニングのレディグレイだ。アールグレイに似ているが、ベルガモットよりもさわやかなレモンの芳香が特徴的なお茶である。その特徴性から、煌道家では朝の一杯として出ることが多い。
 ちなみにその一杯は、紅茶、カフェオレを含むコーヒー、緑茶の中から彼の気分で選定される。ちなみに今の一杯は夕飯のあとのものだ。回鍋肉(ホイコーロー)に生姜たっぷりの手作り餃子、棒棒鶏(バンバンジー)、そして絶妙なとろみがついた中華玉子スープという中華尽くしの夕飯は、それはもうおいしかった。濃い味付けがまだ口の中の記憶として残っている。それをさっぱりさせようという意図があってのチョイスだろう。
 鼻から抜けていくレモンピールの香りに、ほう、と息をつく。
 ゆったりと背もたれに身体(からだ)を預けていると、向かい側から棘のある言葉が飛んできた。

「お姉ちゃん、顔が悪い」
「ちょっと待て莉舞(りむ)、顔が悪いってなんだ」
 がばりと姿勢を正した風夜は、間髪入れずに噛みつく。じとりと半眼で紅茶を飲む三つ下の妹、煌道莉舞が視界に入る。
 ツインテールの髪は、癖の強い鳶色。三人兄妹のなかで一番大きい瞳は、風夜と同じ灰色をしている。
「顔の造形のこと言ってるんじゃないからね? お姉ちゃんの顔の良さは、身内どころか顔見知りなら誰だって知ってるんだから」
「そりゃどーも」
 ぶすりと口を尖らせた風夜の斜向かいでくすくすと笑うのは、二人の兄の悠嘉(はるか)だ。
 莉舞と揃いの鳶色の髪に、黄色を含んだ翠の瞳。柔和さがにじむ目許は、三人の中で一番母に似ている。風夜とは三つ、莉舞とは七つ違いの大学生だ。
「で、いきなりどうしてそんなことを?」
 笑いを殺しきれないまま、悠嘉が莉舞に問うた。
(そう)がよくない気がするの。はっきりとした感じじゃないから、そう気にしなくてもいいものだとは思うんだけど」
 その言葉に、風夜はあからさまに顔をゆがめた。
 ここ、北鎌倉の一角に居を構える煌道家は、その昔、鎌倉に政権があったころに京から移住した陰陽師(おんみょうじ)を源流とする術者の一族の直系筋にあたる。世の中には小説家として名を馳せる煌道煉樹(こうどうれんじゅ)は、この一族の現当主であり、三兄弟の父親にあたる。今は久しぶりの締め切り明けで、妻である蓮霞(れんか)外食(デート)中だ。
 そんな血筋の一員である莉舞は、一族の中でも直感が鋭く、占いを得意とする。それゆえ、人相から何かを感じ取ることも多い。
「妖怪がらみか?」
 風夜の右隣りで静観していた飛龍だ。
「多分。まぁ、お姉ちゃんの場合、他人(ひと)がらみよりもそっちのほうが圧倒的に確率高いし。でも、お姉ちゃんの相に嫌な感じがするって滅多にないから、一応言っとこうと思って」
「心当たりは?」
「ねぇよ。あったらさすがにお前には言っとくよ」
 顔をゆがませたままの風夜は、こちらを見つめている飛龍に苦々しく返した。
「何事もなかったって程度で終わればいいんだけど。頭の片隅にでも置いといて」
「りょーかい。ありがとな、莉舞」
 話が一段落したところで、空気を変えようと悠嘉がテレビをつけた。画面が映ったところで、女性アナウンサーが新しいニュースを読み上げ始める。

 今日午後四時半頃、千葉県〇×市で、女性が通り魔に襲われる事件がありました。
 女性は左腕を刃物で切りつけられ、全治二週間の怪我を負いましたが、命に別状はないとのことです。
 通り魔は、女性を切りつけたあと逃走しましたが、近くにいた複数の男性にとり抑えられました。

 殺人未遂として逮捕されたのは、と続く中、悠嘉が口を開いた。
「春になると、やっぱり多くなるね。こういうの」
「特に今日は啓蟄(けいちつ)だ。ああいう(むし)が動き出すころだろう」
「そーいやそうだったわ。梅も咲き始めてるし、もう春だなぁ」
「今朝見たら、庭の梅も咲き始めてたよ」
 早く満開にならないかなぁ、と顔をほころばせた莉舞は、梅の香りが大好きで、毎年庭に植わっている梅が咲くのを楽しみにしている。
 そんな中、通り魔の顔が画面いっぱいに映し出された。虚ろな目に、ひょろりとした細長い骨格。やや不健康そうな印象の男だった。
 その右目の下、あご、左頬のあたりに、ぽつぽつと羽虫がついている。視えるものには視える羽虫だ。
 その羽虫は、総称して「ヤドリ」と呼ばれている。


 戸の向こう、敷居の向こう、結界の向こう。
この世では、良いものも悪いものも、容易に内側に入れないように、様々な線を引いてきた。それは人というものが本来、何かに寄生されやすいからだ。病にはじまり、感情、価値観、自分以外の人間、その他もろもろ。その中にはもちろん、妖怪も混じっている。
 そんな妖怪の中には、宿木(やどりぎ)のように人間に()き、最後には宿主に成り代わるものが存在する。それに寄生された人間の大半は、そう長く生きられずに死ぬ。宿主がいなければ死ぬとわかっていながらも、完全に宿主に成り代わることをやめない。本能として、やめることができないのである。
 春はそのヤドリが特に多く行動する。理由としては、()える人間がヤドリを「ヤドリ」として認識する姿のほとんどが、昆虫類や爬虫類だからではないか、と言われている。
 啓蟄。二十四節気のひとつで、冬眠していた蟲たちが春の日差しを受けて、眠りから覚める時季とされている。ヤドリが啓蟄の頃に活発化するのは、ひとに認識される姿に影響を受けたからだろう、と言っていたのは煉樹だ。
「ヤドリは何かに憑くまで実体が(おぼろ)げだから、いにしえの術者が『お前たちはこうあるべきものだ』とヤドリに(しゅ)をかけて、習性化させたって説もあるみたいだよ」
 ありがとう、とおかわりのコーヒーを飛龍から受け取った悠嘉は、父さんの受け売りだけどね、とまだ湯気が立っているマグカップを傾けた。
「そういや、ネットが一般化したあたりから『成り代わりすぎない』ヤドリが増えたって、親父言ってたっけ」
 ヤドリは、自己否定からできる心の裂け目に憑く。その裂け目から魂と(身体)剥離(はくり)が起き始め、やがて宿主の自我を乗っ取る。
 だが、ネット社会でいくつもの顔を得やすくなった現代では、ネット上での顔を住処にするヤドリも出始めたのだ。
 今までは身体そのものを乗っ取る形で寄生していたものが、現実の自分とネットの向こうの自分、そんなわずかな境界にある隙間に目をつけて、宿主を生かしながらも、ヤドリ自身もひとつの人格として生きる。いわば、共存型に進化したわけだ。
「人が変わっていけば、隣人もそれに順応していくんだろうさ」
 向こうも生き物だからね。
 そう笑う悠嘉に、そういうものか、と二人の妹は揃ってカフェオレを嚥下させた。


◇  ◇  ◇  ◇



 その日は大根おろしののった和風ハンバーグに、油揚げと大根の味噌汁、ほうれん草の白和え、玉子焼き、いかと里芋の煮物という夕飯で、料理人である飛龍に感謝しながら各々舌鼓を打っていた。
 しかし、箸が進んでいない様子に気づいた飛龍が、向かいの少女に声をかけた。
「莉舞、どうかしたのか?」
 いつもは好物のハンバーグが出ると、喜々とした顔で礼を言ってくるのだ。
 割烹着を身にまとい、おかんよろしく食事を作る青年は、食べてくれるときの嬉しそうな顔を見るのが好きだ。表情の変化に乏しい飛龍の場合、顔どころか声色にも、その感情が出ることはあまりないが。
 飛龍の声に我に返った様子で、ぱっと顔をあげた莉舞は、周りから注目されていることに気づいて、ふるふると頭を振った。
「なんでもないの、ごめんね、ぼーっとしちゃって」
「気分でも悪いのか?」
 そういうわけじゃないんだ、と、隠しきれない影が落ちている。家族全員から注目された莉舞は、しばらくすると、一度視線を落とし、姉に向き直った。
「お姉ちゃん、あとで、ちょっといいかな。相談したいことがあって…」
「もちろん。食べ終わったら、俺の部屋に行くか。それとも、お前の部屋のほうがいい?」
「お姉ちゃんの部屋でいいよ」
「決まりだな」
 にっと笑う姉を見て、末妹の顔がほんの少し緩んだ。
 無理しなくていいぞ、と気遣う飛龍に、莉舞は吹っ切れた様子で言い放つ。
「ありがと、龍にい。でも、これ残したら絶対後悔するから食べるの!」
 そのまま大きく箸で切り分けたハンバーグを頬張る。おいひぃ、とこぼれた言葉に、青年はようやく自分の食事を再開した。

 夕飯を終えて少し経った頃、一足先に自室に戻っていた風夜は、ノックを聞いて返事をする。ひょこりと顔を出した妹に続いて、食後の飲み物を持った飛龍と悠嘉が続いた。
「兄ちゃんまで来たのかよ」
「莉舞に言われてさ。俺も心配だったし」
 自分のマグカップを受け取り、ローテーブルを囲むようにして、全員がラグマットの上に座る。
 いつ切り出そうか、という表情の莉舞を横目に、ふわりと鼻腔をくすぐる香りの正体を青年に問いかけた。
「飛龍、これなんのお茶?」
「カモミールだ。蜂蜜は入れなかった」
 和名をカミツレ、というキク科のハーブだ。白く小ぶりな花で、その香りは青りんごのようだと言われる。鎮静効果に安眠、冷え性の改善、鎮痛効果がある。
 この青年のおかげで、煌道家には様々な紅茶やハーブティーが常備されている。夕飯の時といい、彼は顔や声より、行動に自分の感情が出るのだ。
「で。俺に用があるんだろ、莉舞」
 うん、と頷いた妹は、両手に持ったマグカップの水面を見つめながら、ぽつぽつと話し始めた。
「……実はね。…実は、学校の友達に、ヤドリが憑いてるの」
 莉舞以外の全員の眉根が寄る。
 ローテーブルにマグカップを置いた風夜が、胡坐(あぐら)をかいた右膝に頬杖をつく。
「穏やかな話じゃねぇな。程度は?」
「憑いたばっかり。実体もまだちゃんと見えないくらい」
「それなら、お前でも(はら)えるんじゃないのかい?」
 風夜も悠嘉と同意見だった。
 蟲の姿をとることが多いヤドリだが、完全に人間に寄生するまでには、短くても一年、長くて数年かかる。根付き具合によって、気配程度で姿すら持たなかったものから、(もや)へと変化し、最終的にははっきりとした形を持った蟲になる。完璧な蟲になってしまう前なら、比較的に祓うことはたやすい。反対をいえば、根付いてしまうと難易度はぐっと上がる。
「そう思って、この前の月曜日に梅の匂い袋をあげたの。でも、全然離れていく気配がなくて…」
 マグカップを持つ両手がわずかに震えている。うつむいた妹の話に、兄姉はさらに眉間にしわを寄せた。
 煌道一家の中で、呪具作りを得手としているのは、現当主である煌道煉樹その人だ。実践による退魔は、どちらかというと不得手だが、煌道家の傍流で退魔を得手とする蓮霞と婚姻したことで、現当主になっている。
 その血はしっかりと受け継がれており、莉舞は三兄妹の中で、もっとも父親に似た術者だ。つまり一族のうちでも一、二を争う「物に心を宿す」ことを得意とした術者なのだ。
 良い匂いのするものは破邪の効果があるうえ、それを作ったのが莉舞となれば、その匂い袋を身に着けるだけで靄程度のヤドリなら、瞬時は無理でも数日で消え去るくらいの効果がある。
 ちなみに風夜は呪具作りが苦手だ。そのため、いつも左手に自身の霊力と相性がいい紫水晶のブレスレットを身につけている。常時霊力に触れさせることで、石に霊力を蓄積しているのだ。
「その子視えないし、私あんまり退魔の実戦経験がないから、自分でやりたくても不安で…。それでお姉ちゃんに、なんとかしてもらいたくて…」
 声がだんだん尻すぼみになっていく。
 概要を把握した兄姉は、なるほど、と各々納得した。
「それで元気がなかったんだね。ヤドリに憑かれた人間は、だいたい短命になっちゃうから…」
 悠嘉の言葉に、莉舞がぴくりと反応した。
 完全に寄生された人間は、長くて四十、短ければ十代、二十代で命を落とす。そのほとんどが自死だ。
 どこまで続くかわからない縁だとしても、目の前の友人を見て見ぬふりができないのは、人の(さが)だろう。
「わかった。一度見てやるよ」
 間接的な退魔は苦手でも、直接ならば、なす(すべ)がある。



 そんなやりとりから数日後。
 週半ばの今日、学校帰りに莉舞がその友人、木村を連れてくる予定になっていた。
 高校側の都合で午前授業だった風夜は、すでに制服からオーバーサイズのTシャツとスキニーに着替えている。今は、青年とともに風夜を出迎えた悠嘉と一緒に、ダイニングテーブルの椅子に座って、なにやら手を動かしている割烹着の後ろ姿を眺めていた。
 あたりには、独特の甘いバターの香りが漂っている。飛龍が焼いているのは、市松模様のアイスボックスクッキーだ。焼く前の生地をラップに巻いて冷凍しておけば、包丁で切って焼くだけで食べられる。市販のものより甘さ控えめに作られたそれは、莉舞からのリクエストだった。
 末妹には、兄姉居候そろって甘いのである。
「ただいまー」
 このくらいでいいか、と二回目の焼きが終わり、粗熱をとっていたところに、莉舞が帰宅した。声色に動揺や不安は感じ取れない。打ち合わせで先陣を切ることになっていた風夜が、兄と相棒に軽く目配せし、玄関へと向かった。
「おかえり莉、舞……」
 思わず声がかすれた。
 ぺこりと頭を下げてきた木村の肩を凝視したまま、風夜はびきりと音を立てて固まった。
「ただいま! 由夏(ゆか)ちゃん、こっち、私のお姉ちゃん」
「えっ? え、あ、おじゃま、します。木村です」
 二度見された風夜は、もう一度頭を下げた木村の声で我に返った。
 男なら女顔、女なら男顔。まさに中性的な顔立ちは、風夜の服装の好みも相まって、男に間違われる確率が高い。見慣れた反応だな、と軽く受け流した。
「こんにちは、ゆっくりしてってね。莉舞、あとでクッキー持ってくな」
「あ、龍にいのクッキーね! ありがと。じゃ、行こっか」
 二階へ上がっていく二人の背中が見えなくなってから、悠嘉と飛龍がいる台所へ戻った。既に粗熱がとれた分が、白い皿に小山を作っている。味見をしているのか、風夜の姿を認めた二人の口が、もごもごと動いている。
「どうだった?」
 ごくりと口の中のものを呑み込んだ悠嘉が、目をすがめている妹に問いかける。
「…………あれがほんとにヤドリだったら、もう完全に寄生されてる。首に尻尾があった」
 木村の首にぐるりととぐろを巻いていたそれは、規則正しく並んだ小さな鱗を持つ、爬虫類のそれだった。心臓の鼓動のように、びくりびくりと脈動してもいた。
「本当に、っていうのは?」
「尻尾だけで、胴体がなかった。それに、実体を持つのが早すぎる」
 靄だったものが、たった数日で実体を持つ例は聞いたことがない。聞いたことがないだけで、例外はあるかもしれないが。
「どうするんだ?」
 無表情のままの青年が、イレギュラーの事態に考え込み始めた相棒に問うた。あごに手を当てて、しばらく考えていた風夜は、よし、と顔を上げる。
「ヤドリじゃない線を考えて、いこうと思う。まずは物理的に引き剥がせるか試してみるわ」
「なんというか、脳筋すぎやしないかい、その対処」
 苦笑いを浮かべる兄に、がう、と妹が噛みつく。
「うっさい。札貼り付けて退散してくれりゃ御の字だろ」
 木村は、あんなものがしっかり首に巻きついていたのに、息苦しいと感じているようには見えなかった。人体に影響が出ていないのに、突然オカルトじみたことをすれば、不審に思われるだけでなく、妹の交友関係にひびが生じてしまうだろう。できるだけ気づかれずに対処せねばならない。いつもとは違った難易度に、風夜はため息を漏らした。

 飛龍から託されたクッキーと紅茶をのせた盆の下に札を仕込み、風夜は莉舞の部屋のドアをノックする。応えがあってからドアを開けると、二人は宿題をローテーブルに広げていた。
「クッキー持ってきた。木村さん、紅茶飲める?」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「ならよかった。ちょっと片づけてくれな」
 わたわたとテーブルを片付ける木村の首には、相変わらず黒いそれが脈打っている。ちらりと妹を確認すると、先ほどはわからなかったが、表情がわずかにこわばっていた。
「うちのクッキーめっちゃおいしいよ。ね、おかわりもある?」
「欲しいって言ったら、追加で焼いてくれんじゃねぇか?」
「じゃあ、おかわりするから今のうち焼いといて」
「はいはい。飯食えなくならない程度にしろよ」
 ぽん、と頭に手をのせる。それに安心したのか、莉舞はほんの少しだけ目線を下げた。
「邪魔してごめんな、ゆっくりしてってね」
 木村にそう言った風夜は続けて、あ、と何かに気づいたような声を上げる。
「木村さん、ちょっとそっち向いて。糸くずみたいなのついてる」
 正確には糸くずなんかじゃなく、爬虫類の尻尾らしきものなのだが。
 やや戸惑いつつも木村が背中を向ける。すると、薄紅色をした生々しい肉と、象牙色の骨の断面が、風夜の眼前にお目見えした。一瞬思考が固まったが、忍ばせていた破邪札を素早く貼り付ける。瞬く間に消えるかと思われたそれは、実体を失うことなく、代わりに反発するようにびくびくと動き始めた。
 まずい、と思うや否や、風夜はその札の上からむんずと尻尾を掴み、ぐっと手前にそれを引っ張った。抵抗するかと思われたそれは、あっけなく木村の首から離れていく。反射的行動に思考が追いつかないまま、自分の手の内に来てしまった尻尾に、風夜は小さく、え、と声を漏らした。
「? どうかしたんですか?」
 振り返った木村が見たのは、友人とその姉が、何かを握ったような形をした右手を呆然と見つめている姿だった。


 札越しから伝わる、鱗のざらりとした感触と、指がわずかに沈み込む独特の柔らかさ、そして人の体温より低い温度。でかい爬虫類の尻尾である。
 あの場をなんとか誤魔化した風夜は、右手に尻尾を掴んだまま、そそくさと部屋をあとにした。そのあとのことは莉舞がなんとかするはずだ。
 祓うはずの(あやかし)を右手一本で生け捕ってきた妹に、兄はぽかんと口を開けた。
「……なにがどうしてそうなったの」
「俺が訊きたい」
 木村が部屋から出てくることも考え、奥にある畳部屋へ移動した兄妹は、生け捕られた尻尾をまじまじと観察し始めた。
「ヤドリじゃないね」
「うん。ヤドリなら、こんなに実体化してるやつ、そう簡単に離れないし」
 ヤドリではない線を踏まえたうえでの反射的行動ではあったが、もう少し手間取ると思っていた。やや嬉しい誤算だ。首から離れず、逆に首を締めあげていたらと思うと冷や汗が流れるが、今は結果がすべてである。
 つんつんと尻尾をつついた悠嘉が、なるほど、と笑う。
「普通の化け蜥蜴(とかげ)の尻尾だね」
 蜥蜴の尻尾切り、と言われるように、大概の蜥蜴には自切という決死な自衛方法がある。切り離した尻尾はしばらくの間、びちびちと生きているかのように動き、敵を引き付けておくのである。
「残留思念みたいなものが、実体を得たってところだな。なんで胴体じゃなくて尻尾なのかはわからんけど」
 腕を組む風夜に、ふむ、とあごに指をあてた悠嘉が言う。
「それこそヤドリの習性と同じ、(しゅ)じゃないかな。残留思念だからこそ、残される蜥蜴の尻尾で現れたとも考えられるよ」
 なかなか見ない事例だけどね。
 一理あるか、とうなずいた風夜は、さてどうするかと尻尾に目線を落とした。
「これ、祓っちゃうかい?」
「とか言いながら、その折り紙見せてくるあたり、答え決まってんじゃねぇかよ兄ちゃんや」
 悠嘉が右手に持っているのは、蜥蜴の形をした折り紙だ。丁寧に尻尾は切り落とされている。まったくいつ作ったんだか、と兄の用意周到ぶりに、じとりと目を細めた。
「靄からここまで実体を得たわけだし、その根性に免じて未練を晴らしてやるのもいいんじゃないかなって。式にして指揮下に置いておけば、おいそれと悪事はできないし」
 危ないことになったら、抹消すればいいし。
 父の狸っぷりと母の柔らかい微笑を受け継いだ悠嘉は、時に煉樹すら化かすほどの狐なのだ。血も涙もない、と思うことはままある。
 はぁ、と大きくため息をついた風夜は、わかったと口にした。
「俺が式にするから、兄ちゃんは手出し無用な」
「え、いいのかい?」
「言い出しっぺが何をいまさら。それに、兄ちゃんがやるとまた面倒引き起こしそうだし」
「本当に信用がないんだね、俺」
 悠嘉から折り紙を受け取った風夜は、肉がのぞく断面と、尻尾が切り落とされた胴体を接着させた。動く尻尾を左手で押さえつけ、右手で印を結び、呪文を唱えた。


 追加のクッキーを焼いていた飛龍の耳に、風夜の蛙が潰れたような声が届いたのは、ちょうど切り終えた生地をオーブンに入れた時だった。
 何事かと足早に畳部屋の戸を開けた飛龍は、人の大きさほどもあるヤモリの下敷きになった相棒の姿を認めた。
「……うちはペット飼わない方針じゃなかったのか」
「ちげぇよ! てか早く助けてくれー!」
 救出された風夜の術で、発現時の大きさから手の平サイズにまで小さくなったヤモリは、きょろきょろとあたりを見回している。
 妖怪には人の言葉を理解するもの、人の言葉を理解し同時に話せるもの、まったく理解できないものに分かれる。
 もともと普通の生き物であり、それが猫又のように長く生きた末に化けたものは、大概人の言葉を理解するまでには至る。このヤモリは風夜の式となったことで、少なくとも言葉を理解することはできているはずだ。
「帰りたい、っていう漠然とした願望(もの)は感じるんだけど、それ以外のものが何一つ見えてこないんだよなぁ」
「ヤモリって帰巣本能あったんだね」
「普通のヤモリにあるかどうかは知らんけどな」
 ぽつん、と小さな雫が水面に垂れるように、ほんの少しばかり見える「帰りたい」という願い。指揮下に置いている風夜がその程度しか拾えないのだから、残りは推して知るべし。
「人じゃないから同調も難しいだろうしね」
「できないことないけど、あれ感覚を対象にあわせるやつだから、俺しばらく人間やめかねない」
 緊急時ならばまだしも、一銭にもならないことにそこまではできない。
 にっちもさっちも行かなくなったところに、木村を見送った莉舞が入ってきた。
「お姉ちゃんあのヤドリ…って、どうしたのそれ」
 部屋まで聞こえた風夜の救助依頼を、木村にどう誤魔化そうかと四苦八苦した莉舞は、悩みの種だったものを取り払ってくれた感謝と、それとは別に一言物申しに来たのである。
 瞬間、風夜の鼻腔をかすかな甘い香りがくすぐった。しかし、それは実際に香ったものではなく、ヤモリの記憶だと悟ったとき、ヤモリはすでに莉舞に向かって飛びついていた。
「きゃあ!」
 悲鳴を上げた莉舞の服に飛びついたヤモリを、一瞬遅れて動き出した風夜は、そのまま右手を伸ばしてむんずと掴んだ。四肢をばたばたとさせるヤモリに、風夜は言い放つ。
「お前の帰るところに連れてってやるから、大人しくしてくれ」
 すると、ヤモリはぴたりと動きを止め、そのまま風夜の手の平の上で動かなくなった。


◆  ◆  ◆  ◆


 外は日が落ちたものの、西のほうがまだほんの少し明るい。東はすでに一番星が輝き、夜の始まりを告げていた。
 手の平にヤモリを乗せた風夜は、庭の一角で花をほころばせている梅のもとに来ていた。もう満開に近いため、あたりは透明感のある甘い香りに包まれている。
 その見事な枝ぶりのなかにそっと手の平を近づけると、乗っていたヤモリがするするとそちらへ移っていった。枝先までやってくると、紅く染まった梅花をひとつ、ぱくりと喰らう。同じように三つ腹におさめると、その場でじっとして動かなくなり、そのままゆっくりと瞼が閉じていく。すると、尻尾の先からさらさらと砂のように姿が霧散していき、やがて依り代となっていた折り紙が、力なくぽとりと地面に落ちた。
「結局、あれはなんだったんだ?」
 風夜のうしろで様子をうかがっていた飛龍が問うた。
「化け始めてた家守(やもり)だよ。完璧に化ける前に、死んだみたいだけどな。あいつが住み着いていた家にも、梅があったんだ」

 長年、鎌倉のどこかにあるのであろう古い家に住み着いていたヤモリは、いつもその家に植わっていた梅の香りがする頃に、冬眠から目覚めていた。化け始めていたヤモリはその年も、梅の香りで目が覚めるはずだった。しかし、甘い香りはやってこない。暖かさを感じ、動き始めたヤモリが見たのは、紅梅ではなく、ぼとりぼとりと白い花を落とす白木蓮だった。
 おそらく、紅梅は何かしらの理由で伐採され、そこに白木蓮が植えられたのだろう。あのとき脳内を駆け巡った情景は、まばたきひとつのうちに、大事な梅が白木蓮に取って代わられたと思うものだった。
「多分、それが原因で住み着いてたとこから移ろうとして、猫かなんかにでも襲われたんだろ。それで、死んだ」
 木村に憑いていた理由はわからない。だが、残留思念の靄だったそれが突然力を得たのは、莉舞の匂い袋に宿った霊力を吸ったからだ。
 ヤモリは家守であり、古来より家を守るとされた縁起のいい存在だ。化けていたとはいえ、破邪札がさほど作用しなかったのも、そのせいだろう。
「今の時季、梅なんてそこかしこで咲いてるのに、どうしてそっちにつられなかったのかな」
「尻尾だけ実体化しちまったからだろうな。感じ取る器官がなきゃ、梅があることも、咲いてることもわからねぇよ」
 莉舞の匂い袋で力を得なければ、十中八九そのまま消えていたものだ。仮初(かりそめ)の身体で感じた梅の香りに満足して、もう跡形もない。
「あの家守がいたかった家は、梅の香りのする家だったんだろうな」



 昼下がりの午後。
 盛りも終わりを迎えようとしている梅を見ながら、四人は縁側で茶を楽しんでいた。
 今日のおやつは、江ノ電の長谷駅のすぐ近くにある「鎌倉するがや」のどらやきだ。ふっくらとした粒あんの「大納言どら焼き」に、大粒のいちごがまるまる一つ入った季節限定の「いちごどら焼き」である。
 このどら焼き目当てに長谷までいくこともある風夜は、そろそろ出始めるであろう、桜餡のどら焼きを今から楽しみにしている。いつもより濃いめに淹れられた緑茶が、またおいしい。時折鼻をかすめる梅の香りはだいぶ弱くなったが、茶請けのひとつとしては十分だ。
「梅の次は桜だな」
「そうだねぇ。今年は暖冬だったから、咲くのも早いかもしれないな」
「早く見たいけど、早く散っちゃうのがなぁ」
「少しでも、長く咲いてくれることを願うしかないな」
 いつもより穏やかな声色の飛龍に、莉舞はそうだね、と返した。
「あ、段葛(だんかずら)観に行くのと一緒に、ロミのクレープ食べに行こ!」
「おいおい、咲く前から花より団子か?」
「いーでしょ!」
 青みの増した空の下、今日も北鎌倉の一角で笑い声が響く。
 なんだかんだで、今日も煌道家は平和だ。  




初掲載:カルチェラタン2020年3月号
書 籍:『北鎌倉の祓屋家業(はらいやかぎょう) 花影(はなかげ)(つづり)』収録

シリーズ表紙
キャラクター原案:久遠蓮(くおんれん)
イラスト・編集 :不二宮央(ふじみやひさ)

掲載されている小説は、上記書籍に収録されている「梅花の影」を加筆・修正したものです。



  
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