第15話 右か左か 下

文字数 3,831文字

 小さいころから言われてきた「早く決めなさい」「どっちでも一緒でしょ」「みんな待ってるんだよ」。親にあきれられることも多かった。虫の居所が悪い時には親に怒られることもあったし、結局どちらも手に入れることができずに、取り上げられたこともある。さすがに近くない人と一緒にいるときは、決められないことはないのだが、家族や彼氏と一緒にいるときはどうしても迷ってしまう。
 
「来月はちょっと無理かも。インターンに行くんだ。来年は就活だから今しかないしね」
「私は夏休みに行く予定だよ。とはいっても半分バイトみたいなもんだけど」
「大学生が暇だろなんて親は言うけど、そんなのいつの時代のことだよって感じだよね」
 友達はいつの間にか髪を黒く染めなおして、かっちりとしたカバンをこちらに見せる。今までなら絶対使わないようなカバンから分厚い手帳を取り出した。
「汐里も動くなら早い方がいいよ。インターンって結構給料もいいのあるけど競争率高いからさ」
「だよね。ずっと大学生が続くわけじゃないし」
「そりゃ結婚してってなっても今のご時勢、専業主婦とかありえないでしょ」
「私それダメだわ。お金持ちならいいけど、相手と対等になれないの辛そう」
 二人は会社に行くときのマナーについて話し出した。それがまだ社会に出たことのないおままごとのようなものだったとしても、汐里には遠い世界のように聞こえた。
「次の授業の課題あるから、私ちょっと図書館行くね」
 汐里は逃げ出すように友人の会話を抜けて、一人になった。二人が私のことを思ってくれてアドバイスしてくれているのは分かっているけど、あの空気に耐えられなかった。彼氏に連絡しようとして安心しようとしたけれど、こういう時に限ってスマホの返信が来ない。
「火曜はゼミだって言ってっけ」
 提出まではまだ猶予があるのだが、いずれこなさなければならなかったので図書館のセキュリティーを越えて室内へと入っていった。暖かいような乾いているような何ともいえない感覚に囲まれてほうっと一息ついた。
必要な本を置いてあるコーナーはいつも人がいない。学生にあまり人気がなくて就職にも役に立たないと言われている人文の分野は受験の時も倍率が低かった。汐里にとってはそのおかげもあって合格することができたのでそれを引け目に思うことはない。必要な書籍を適当に二三冊取って席に座る。机の上に勉強の用意を広げてみるがさっきの友人の言葉が頭から離れない。それは汐里にも分かっていることで、何となく後回しにしてきた事だった。親を見ていても自分がそこに入っていく姿が思い浮かばない。スーツを着ている人たちの中に入って同じように仕事をこなしているのはドラマを見た後の空想の世界の話だった。試験前でもない静かな図書館を見渡すと真面目に勉強している生徒たちの姿がみえる。必要に迫られないとここに来ることのない汐里たちに比べて、皆何かに向かって取り組んでいるように見える。それはかつて汐里が憧れた世界でもあり、いまはかすんで見える。
 結局本を開いたものの、スマホを眺めて時計の短針が進んだだけで、持っていた腕に赤く後が残った。自分でも何をやっているんだろうと分かっているのだがどうしていいのかわからずストレスだけがたまっていく。高校の時であればすることはあらかじめ決められていて、努力すれば小さくとも成果はでた。だが、今はどこに向かうのが正解なのか自分で決めなければならないし、その先が行き止まりだとしても自分で判断しなければならない。ふと、頭の中に親の顔が浮かんだが相談しても堅苦しいことと小言しか返ってこないことはわかっている。それよりも夜になれば彰も手が空いているし、それまで時間を潰して彼の部屋に遊びに行くことに決めた。親にはご飯がいらないことをスマホで伝えておいた。

「急に来るなんて珍しくない?」
「いいでしょ。恋人なんだからたまにはそうしたって」
 ベッドの上でスマホを見ながら汐里は返事をした。彰はテーブルの上に汐里の分のお茶を出して自分は机に座ってパソコンをつけて音楽を流した。アキラの部屋は1Kの間取りでそんなに広さはないものの新築で最新の機能がついている。トイレもセパレートになっていて汐里にとっても過ごしやすい場所だった。お茶の入ったグラスは二人で一緒に買いに行ったもので、口当たりよく薄く作られていて、氷のせいで汗のように水滴が浮かんでいたが下のコースターがそれを受けてにじんでいる。これを買うときに汐里はその値段に驚いたが、彰はそれに頓着することなくカードで支払いをしていた。実家に住んでいる汐里にとってそれらのものは余計な出費であり、友人の家に遊びに行った時にもたいてい百円均一のグラスが使われていた。数回使っただけで細かいキズがついて鈍い音しか立てなかったがそれについて汐里が何か言うことは避けていた。
 それだけに彰のそれはお金持ちのものだとわかった。親の職業など聞くようなことはしなかったが、実家の自分より自由になるお金が多かったことは驚きだった。
「俺、まだ晩御飯食べてなかったんだけど、外行く?」
「私小腹が空いているだけだし外出るの何か億劫。何かとらない?」
「んじゃ、ピザの広告入ってたし何か選んでよ。ピザなら分けられるし」
 彰は汐里にそれを渡すと、部屋着に着替えだした。最初のころはその姿にドキッとしたものだが、それにも慣れてきたし、それを彰に気取られたくないということもあって汐里はピザの広告のほうを意識して眺める。定番のミックスピザでいいかなと思いつつ、期間限定のカニのクリームピザも気になる。二つ頼めば済むことなのだが、彰はそんなに食べない。薄く腹筋が浮いているその姿が汐里は気に入っているので彰が太ってしまうのは困る。横目で彰のほうをちらりと見ると、締った脇腹が視界に入る。目の前に広がるピザがこれからあそこに入るのかと思うとそれを触りたい欲望にかられた。
「何でこっち見てるんだよ。恥ずかしいじゃん」
 彰がすっと隣に座って脇をつついてきた。汐里は不意をつかれて大きくとびはねて、両手で握っていた広告にしわが入ってしまった。
「もう、びっくりするでしょ。やめてよね、そういうの」
「軽く触れただけだろ」
 汐里は自分のしていたことをごまかすように大げさに怒ってみせた。しかし、彰はそれをかまうことなくピザのチラシのほうに夢中になった。
「俺が決めていい? 汐里が決めるといつになるかわからないし」
「そんなことないわよ。私だってお金出すんだから」
「それじゃ、お互いに一つずつ選んでハーフにしようか」
 言うが早いか彰がシーフードピザを指さして、飲み物探しに冷蔵庫のほうへと離れた。彰のどこか挑戦的な言い方に汐里はムキになった。これでいつまでも決めることができないと、また彰にあきれられてしまう。汐里は真剣にピザを見比べていく。どれでも同じようにみえるし、何を選んでも後悔しそうな気がする。彰の言ったシーフードピザは残念ながら汐里が今食べたいものではなかった。そのせいで余計にこの選択を間違えるわけにはいかない。視界の端で雑誌を読みだした手持ち無沙汰な彰の姿が入る。何故かそれが学校の友人とダブった。自分と一緒で何も考えていなさそうに思ったけれど、それは自分の都合のいい勝手な決めつけだった。時間がかかればかかるほど、後から苦しくなるということもわかっているのに、後悔したくないという思いがどこかにある。選択肢があるということが自分にとって心地いいとは思っていないし、できることなら早く決めてしまいたい。何を選んだら自分が満足できるのか、どれを選んでも結局はそのときのことを振り返ってしまうような気もする。それならどれを選んでも自分にとっては同じことなのかもしれないけれど、確信はもてない。ため息をついてお茶を口に含んで壁にもたれた。
「今日はまたよく悩むね」
 彰がポンと頭を叩いた。汐里は反射的にその手を握って彰のほうにもたれかかった。
「うん、悩みすぎて疲れちゃった。彰が選んでいいよ」
 汐里はそのまま彰のひざを枕にするようにして寝ころんだ。本当はピザのことなんて頭から抜けていたけれど、甘えてごまかすことにした。彰は片手で汐里の頭をなでているが、目は広告の方を見ていた。下から見上げてみると、そのまなざしに少しだけ心がときめいた。ちょっとだけ邪魔したくなってキスしようとしたが、彰はそれに気づくことはなかった。
「よし、トマトのナポリピザにしよう」
 言うが早いか、彰は空いている手の方で器用にスマホを操作してピザを注文してしまった。自分にも確認してほしいと思ったけれど、通話中になってしまったので黙っていることしかできなかった。

「また、どうしても食べたいのがあれば次の時一緒に食べよう」
「次は私が両方とも選ぶからね、絶対」
 汐里は届いたばかりのピザの熱をごまかすようにすぐにコーラを流し込んで、勇んでいった。
「どうせまた俺が選ぶことになるって」
 彰は目の前のピザに夢中になっていてピザから目をこちらに向けることすらしない。
「どうせ、私はいつまで経っても選べませんよ」
 汐里は目を背けて、部屋の隅に置いてあるぬいぐるみに愚痴るように小さくぼやいた。その後二人は、小さな部屋の中で無言でピザを食べ続けた。いつの間にか日はすっかり落ちて、窓には室内の二人の姿が鏡のようにぼやけて映っていた。
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