第8話 かつて見た白木蓮 下

文字数 4,056文字

夏期講習から帰る時間に夕日が見えなくなったころ、九月になって学校が始まった。湯川は久しぶりに学校に行くのが新鮮で、制服に袖を通して外に出かけるのが何か恥ずかしく感じていた。それでも一度学校へ入ってしまえば友人たちの顔を見て話をすることですぐに学校での生活を思い出していた。すぐに進路相談の二者面談の日程が迫っていたが、塾に通っているので湯川はそちらの結果を重視していたので、それは形式上のもので終わった。担任の先生の方も無理してこちらに介入するようなことはなく、困っていたら相談に乗るからということで塾で進路相談をしている湯川の意見を尊重してくれた。面談のため放課後に残っていた湯川は一瞬部室棟の方を窓から眺めたが、そちらに足を向けることなく、塾の方へと急いだ。空には夕日に照らされた鱗雲がグラデーションを描きながら東のほうへと流れていって、もやのような薄い雲がすぐそこまでやってきていた。
 
「またD判定か・・・・・・・」
 湯川は模試の結果が書かれた紙を机の上に投げ出してベッドの上に倒れこんだ。何度見直してもそれは変わらない。それを広げるたびに嫌な気持ちになってもう二度と見たくないと思うのだが、時間が経つとまた見てしまう。秋になったというのにD判定で合格確率が30%ほどしかないというのも問題なのだが、それよりも一番は成績が一向に上がっていないということだった。
 まだ部活をして、勉強に本腰を入れていないときは成績がふるわなくても精神的に余裕を持っていたが、こうして部活も引退して毎日のように塾へ通って自習をしていたにも関わらず成績が変わらないということは致命的だった。学校の成績が悪いわけではないが、実力テストとなると範囲が広く忘れていることが多いのも問題だった。受験科目だけに絞って勉強をしていてそれなりに手ごたえをつかんでいたはずなのに。試験の結果は親にも見せたが父親の方は難しそうな顔をしていたが、それ以上は何もなく、ただ「がんばれ」とつぶやくように言った。母親の方も何か思いつめたような顔をしていたが、父親の方をちらと見ると、湯川に何か言うことはなかった。湯川にとってはある意味叱責されるより辛かった。しかし、共働きの両親が自分に気を使っていることも感じていたし、友人に比べて少ないお小遣いの愚痴を言うのとはわけが違った。湯川はすぐに自分の部屋に戻ってスマホを開いたが、友人たち推薦に逃げるとか、試験結果は良かったけど、本番が不安だとかも受験の話題ばかりで、湯川は最低限の相槌はうったもののそれ以上会話に加わることはできなかった。スマホをベッドに投げ出すように裏側に向けると、棚の上にあった寄せ書きを見た。そこに書かれている文字が何年も前の出来事のように感じられ、端のほうに埃が溜まっているのが見えた。湯川はティッシュを取ってそれをぬぐうと、机に向かって勉強を始めたが、椅子に座っているだけでいつの間にか日付が変わろうとしていた。

「湯川先輩、文化祭来ますよね」
 山本から連絡が来たのは文化祭が一週間後に迫っている暑さの和らいできた十月のことだった。湯川の頭の中は受験のことで頭がいっぱいだったが、部活のことは久しぶりだったので返信だけはすぐにしていた。それでも文化祭が迫るにつれて学校がその準備に取り組んで活気があふれていくに連れ、湯川の頭の中にもそれが入ってきた。クラスでの出し物があったが、それはすでに進学先が決まっていたり、受験をしないクラスメイトたちが中心となっていたりして、受験組は免除されていた。クラスでは喫茶店をすることになっていて、中にはせっかくだからと準備に参加するものもいたが、湯川はそれには入らず放課後にはそこに背を向けて塾へと通っていた。
「湯川君、呼び込み後退の時間だよ」
「あ、うん。これよろしく」
 湯川は杖のようにして身体を支えていた看板をメイドの恰好をしたクラスメイトに渡した。普段はあまり女子と会話することはなかったし、話しかけられることもほとんどなかったが、文化祭となるとどこか学校の中に非日常の高揚感が充満していて自然に会話することができた。それでもそれ以上の会話のきっかけを作るほど湯川はそれに慣れておらず、メイド服をなるべく視界に入れないようにしてその場を後にした。どこか行きたい出し物があるわけではなかったので、誰か一緒に回ることができる友人を探すことにした。普段なら適当に歩いていればクラスの友人か同じ部活だった仲間に会うことができるのだが、今日に限っては誰も暇そうにしていない。クラスの出し物の係をしていたり、誰か湯川の知らない友人とつるんでいたりして、湯川と二言三言話すだけですれ違っていく。三階から中庭の方を覗いてみると、制服以外の姿をした外部の人間も結構訪れていて、食堂にいけば誰かいるかもと思ってそちらに足を運んでみたが、そこも人で一杯だった。
 本音では後輩のところへ行って話をしたい気持ちを持っていたが、何かそこに近づきたくないような抵抗も感じていた。歩きながらその正体について考えてみたけどただ、感情だけが先行していて、自分でもそれを掴むことができなかった。

「元気にやってるか」
「先輩じゃないですか。来てくれたんですね」
「まあ、暇だったしな」
 湯川は扉を開けるとき、かつてよりドアが重たくなっているような気がしたが、それを気にせず勢いよくドアを開けると中の受付に座っていた一年生が返事をしてくれた。教室の中には部員たちが撮った写真が通路を作るように上から下までびっしりと飾られていて、外部から来た保護者らしき見学者もいた。
「山本いる?」
「部長ですか? ええっと、今昼休憩なんでしばらくしたら戻ってくるって言ってました」
「それじゃ、ここで待たせてもらおうかな」
 受付の一年と話して時間を潰してもよかったのだが、自分の後ろで人が待っているのが見えたのでその場所を譲った。それに湯川と一年はそこまでの交流はなかったので、会話するにしても時間を持て余してしまう可能性もあった。湯川は並んでいる写真を一枚ずつ見て去年との違いに圧倒されていた。去年までの展示は形として取り繕っただけで、やっている本人たちからしても見ごたえのあるものではなかった。しかし、今年は部員ごとに色分けされ誰の作品かわかるようにしていたり、一つのテーマについて皆が写真を撮っていたりと見る人への配慮もあった。端の方の机に去年までの作品としてファイルが置かれていて、そこには湯川の作品も載っているはずだったがそれを開くことはできなかった。
 心の片隅にある感情を抑え込むようにして一つずつの作品とその部員の顔を思い浮かべながら待っていると山本がこちらへ来た。
「何か待たせていたみたいですみません」
「いや、大丈夫。久しぶり」
 山本の声に引きずられて後ろを振り返ると、目の前に見上げるほどの姿で立っていた。
「背、伸びたんだ」
「何か夏休みに気が付いたらこうなってました」
 そう言った山本は以前よりも少し低い声で人懐っこい笑顔を見せた。くしゃっとなったその目じりに湯川の知っている山本がそこにいた。
「今年の文化祭は気合入ってるね。部長が様になってるじゃん」
「いや、みんながやる気にあふれててそれに引っ張られてって感じっすよ。あと、副顧問の八木先生がハッスルしてて」
 山本は謙遜するが、その声には自信がみなぎっている。彼の後ろに控えている作品展示を見ると、ちゃんと裏打ちされたものだとわかる。山本は手で指し示して席に座るように促すと、湯川は勧められるがままに椅子に座った。湯川は一瞬何の話をしたものかと思ったが、思い出話より今回の展示の内容について聞くことにした。すると、山本もそれについて話したかったらしく、饒舌に一つ一つについて説明してくれた。湯川は心のそこから感心していたが、相槌をうって余裕を見せることで何とか先輩としての威厳を保っていた。
「ちょっと待っててくださいね」
 二人が会話している間に、たびたび一年生が山本に指示を求めてきた。山本は湯川に丁寧に断わった後に席を立って一年に丁寧に教えていた。それは湯川から見ても堂に入っていてその背中はたくましく写っている。湯川は手持ち無沙汰になって部室の端にあるかつて自分が使っていたロッカーを見た。そこには使っている部員の好みのシールがデザインされたように貼られており、自分が使っていた形跡はもうなかった。そのまま視線を上げて展示されているものを見ても湯川の痕跡は残っていない。出口にあるOBの作品は誰も触っていないのか日に焼けて色あせているように見える。
 湯川は何故かこれ以上この場所にいることに我慢できなくなって遠くで後輩に指示を出している山本に声をかけて走るようにしてその場を後にした。部室なんて行かなきゃよかったと思いながら人混みの中を縫うようにして歩いて行ったがどこにも行く場所なんてなかった。そのまま荷物を持って家に帰りたかったが、文化祭の片づけがあるのでそれを無視することはできない。そのまま長い廊下を歩いて展示とは関係のないエリアまで行って、トイレの個室で座り込んだ。
 どれくらい時間が経ったのだろうか。チャイムが鳴って放課後の時間になっていた。トイレの窓から外を見ると、来客者たちが学校を後にして帰っていくのが見える。それで湯川も追い立てられるようにして教室へと戻り、誰とも会話することなく黙々と片付け作業に取り組んだ。周りのクラスメイトたちをみると、まだ何か物足りないのか何かを探しているような、それでいてこの余韻にもっと浸っていたいかのような不思議な雰囲気に包まれていた。彼はそれらに目もむけず、担任の挨拶が済むとすぐに教室を出た。
 そのまま家に帰って何も考えずにベッドで横になろうと思ったが、カバンの中には今日も塾の用意をしていてその重みが離れない。湯川は先の見えないトンネルへ向かって歩き続けるしかないのだった。
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