月光の余韻

文字数 1,406文字

 姫棋は尚食局の(キッチン)で鶏の卵を一つもらってきて、宮女宿舎にある自分の部屋へ向かっていた。
 雨上がりの庭が、月の光を浴びて静かに輝いている。
 姫棋はふと、立ち止まって月を見上げた。
 夜空にはゆっくりと雲が流れ、その雲の合間から明るい月がのぞいている。
 冷宮に行ったあの日から、木蓮とは会っていない。
 結局、木蓮はあの後も何も言わず、理部の官舎へ帰っていってしまった。
 彼が何を考えていたのか、どういうつもりだったのか分からない。
 普段は言葉にしてくれなくても彼の考えていることがもっとよく分かるのに。  
 あの夜は、全く分からなかった。
 木蓮がいつもと違ったから? 
 それもあるだろう。彼はあの日、様子がおかしかった。
 でもおかしかったのは、たぶん木蓮だけじゃない。
 自分も、あの夜は少しいつもと違っていた。
 姫棋は指で自分の唇に触れてみる。
 夜の湿った風が、ざわざわと庭の木々を揺らし通りすぎていった。
 姫棋は腕をこすりながら自室へと急ぎ、吹きつけてくる風から逃れるように部屋の中に滑り込んだ。

 ほっと息を着くのもつかの間。すぐに油に火を灯し、作業台にもらってきた卵を置いて、深めの皿や箸、筆を用意する。
(こういうときは、手を動かすに限る)
 姫棋はさっとたすきをかけると、さっそく卵糊(テンペラ)づくりにとりかかった。卵をもらってきたのは、夜食にするためではないのだ。膠と同じく、顔料の糊として使うのである。
 まずは卵黄の薄皮を取るところからはじめる。
 姫棋は卓の上に置いた受け皿に卵を割って中身を出し、卵黄だけそっと手のひらにすくいとった。もう片方の手でその卵黄の皮をつまみあげる。すると卵黄は雫のような形になってつまんだ指からぶら下がった。それを、(きり)で、ぷつと突き刺す。
 破れた薄皮の中から、卵黄の中身だけが皿の中へと流れ出した。
 こうして卵黄の薄皮をとることができたので、あとは卵黄の中身と卵白を箸でよくよくかき混ぜる。
 十分卵を攪拌できたら、そこへさらに、少量の胡桃油と酢を加える。
(……なんかおいしそう)
 ここに塩でも入れれば良い調味料(マヨネーズ)になりそうである。
 だがもちろん、酢を入れるのも油を入れるのも、おいしくするためではない。
 酢を入れるのは防腐のためであった。
 絵を描いた後ちゃんと乾かせば(カビ)が生えることはあまりないのだが、卵を使う限り全くないとも言い切れない。安心のためである。

 そして油に関しては、卵だけだと顔料と混ぜた時に、それが紙の上で全く伸びないからであった。なら最初から油だけでいいのでは、という話になるが、卵を糊に使うことで、油だけの場合より絵の劣化が少ないのだ。いつまでも鮮やかな色彩のまま、むしろ時を経るにつれ透明度が増すこともある。
 姫棋は普段、顔料を溶く糊は胡桃油か膠を用いることが多かったが、今回せっかく展示会に出展するので、普段しないことにも挑戦しようと思っていたのだ。
(ではでは)
 板の上に顔料を少し出し、ごく少量の水で溶く。そして作りたての卵糊(テンペラ)も板の上に出しておいて、水で練った顔料と混ぜながら使っていく。
 姫棋が描いているのは、後宮の池に咲く睡蓮の花だった。この前見てきたその花を、頭の中に思い浮かべながら筆を滑らせていく。
 紙の上に浮かび上がるのは、薄紅の、朝露に濡れる、睡蓮――。
 そうやって手を動かしているうちに姫棋の心は、穏やかに晴れた海のように、静寂を取りもどしていった。


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登場人物紹介

姫棋(キキ)、19歳。絵師、宮女。

じゃじゃ馬娘と言われて久しい。

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