絵描き少女の願い

文字数 1,866文字

 姫棋(キキ)は屋敷の庭に立つ高い木の上から、はるか遠く、都のある方角を見つめていた。
 春の冷たい風は、そんな姫棋(キキ)を嘲笑うように激しく吹いている。
 妃紅色(ピンク)(スカート)がひるがえり、背に垂らした長い髪がはらはらと顔にかかった。その絹糸のような髪は、彼女の透けるような肌をより白く際立たせている。
(都が懐かしいなあ) 
 どうやら栄枯盛衰というのは、姫棋の家だけ例外というわけにはいかなかったらしい。絶頂と憂いを纏って散るこの花のように、()家は栄華を極め、そして見る影もなく没落していった。
 父が陰謀になど嵌められなければ、こんな辺鄙なところに来ることもなかっただろう。宮廷で女官をしていた姫棋(キキ)も、父のとばっちりを受け一緒に左遷されることになってしまったのだった。
(みんな今頃、どこにいるのやら)
 ここには大勢の親族たちと移って来たはずだったが、一人また一人と姿を消し、今はもう彼らの所在を知るすべはない。
 都で驕奢な生活をしていた者たちにとって、この貧しい地での暮らしはそれほどに耐え難いものだったのだろう。
 父もここへ移ってきてからというもの、みるみる肺の病が悪化し、三月前に帰らぬ人となった。
 父の葬式にやってきた伯父が、あとの面倒をみてやると申し出てくれたが、姫棋はその申し出を固辞した。姫棋は伯父を憎んでいたのだ。大好きな姐を、政略に巻き込んで死なせた男。それが伯父だったから。

 姫棋は枝に腰かけたまま、懐に大事にしまっていた紙きれを取り出す。そっとその紙きれをひらくと、そこには木漏れ日が降り注ぐ泉の絵が描かれていた。
 昔、姐に描いてやった絵である。
 幼い頃より姫棋は、何よりも絵を描くのが好きな少女だった。
 絵の題材を探すためなら木登りだろうと火遊びだろうと、どんな危険も顧みない姫棋に父はほとほと呆れていたが、(あね)だけは違った。自分の簪や指輪を売ってまで姫棋に筆や顔料を買い与えてくれ、油を使った画法を見つけてきてくれたのも姐であった。 
 姫棋(キキ)の画才がのびのびと育ったのは、この姐の存在あってこそだったといえよう。
 おかげで芸術の世界に没頭できた姫棋(キキ)は、さらにその世界の深部へと潜っていく。
 絵ならば言葉で言い表せないものまで伝えられる気がしていた。
 自分にとって絵は、言葉より言葉たりえるもの。そして自分と、他者をつなぐ媒介(かけはし)――。
(なんとか絵師として生きていく方法はないだろうか)
 絵が得意なら絵を売って暮らせばいい。
 単純な話のようで、世の中そう甘くはなかった。
 父が死んだとき、絵を売って生きていこうと考えた姫棋(キキ)は、後に自分の浅はかさを思い知ることとなる。

 女の描いた絵など、見向きもされなかったのだ。

 これは絵の良し悪し以前の問題だった。
 絵を描く女は多いが、それは淑女としての嗜みであって糧にするものではない。だから、女が絵を売るなんて卑しいことだと言われた。
(男ならいいのに、何で女は駄目なの)
 そう叫んでみても、買ってもらえなければどうしようもない。
 結局、姫棋(キキ)の絵は一枚も売れなかった。
 そんな彼女が伯父にも頼らず一人で生きていくためには、家財を売り山菜や木の実を採って暮らしていくしかなかった。
 しかし、その生活ももはや限界を迎えようとしていた。
「馬車に乗った皇子様でも来ないかなあ」
 腹が減りすぎているせいか、馬鹿げた妄想が浮かんでくる始末だ。
 もし皇子様がやってきて、自分の絵を買ってくれたなら――。
 美術品の売買には時として莫大な金が動く。それが生活に必須の代物ではない、にもかかわらずだ。
 これは一見矛盾しているようにも思えるが、その矛盾こそ、芸術という幻がいかに人を溺れさせ得るものか、ということを示している。
「皇子様が、わたしの絵に溺れたりしたら……」
 思わず姫棋の口から涎が垂れそうになった。
 そんなことが叶ったら、いったい寿桃包(ももまんじゅう)をいくつ買えるだろうか。
 と、また冷たい風が吹き抜けていった。
 姫棋はゆるんでいた口を引き締める。
 妄想にひたっていたところで現実は変わらない。そんな都合よく皇子様が現れてくれるはずもないのだ。

 夢見れば覚め、望めば手に入らない。
 人生とはそんなものだろう。

 ただ。
 人生は見方によって、変わるものでもある。

 屋敷の外から、馬蹄が地を駆る音が聞こえてくる。後ろには車を牽いているようだ。
 姫棋はその音に耳を澄ませる。
 馬車は、この屋敷に少しずつ近づいてきている。
(誰がこんな辺鄙な所に)
 まさか本当に皇子様が――。
 姫棋はわずかな期待に胸をときめかせ、屋敷の門をじっと見つめた。




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登場人物紹介

姫棋(キキ)、19歳。絵師、宮女。

じゃじゃ馬娘と言われて久しい。

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