真相の欠片
文字数 2,484文字
「于計殿を殺した?」
姫棋は思わず変なところから声が出てしまった。
「直接手にかけたわけではありません。でも、私が……彼を死に追いやったのです」
姫棋が真意をはかりかねていると、常依依は大きく息を吸って何かを覚悟したような顔で話しはじめた。
「于計は十年ごしで官吏になったものの、官吏としての適性は全くと言っていいほどありませんでした。おそらく真っすぐすぎたのです。彼は職場で煙たがられ、段々と仕事をもらえなくなっていきました。そして次第にそんな自分に絶望し、心を壊してしまったのです」
官吏が心を壊すというのはけっして珍しいことではない。科挙など結局は通過点でしかないのだ。そのあと待ち受けるのは、毒を持った蝶の舞う宮廷 での、生き残りをかけた闘いである。
「酒におぼれたなどという噂は真っ赤な嘘です。彼はいつだって真面目に働いていましたし、普段の生活だって人にとやかく言われるようなことはしていません。でも周りの者たちは、心を壊した彼を見下して好き勝手に悪く言っていたのです」
「なら于計殿のことは、あなたが責任を感じることでは――」
「いえ、私は……。ただでさえ辛い思いをしていた彼を、さらに追い込んだのです。何とか官吏として再起させようと、躍起になって……」
常依依はその政治的手腕を駆使して于計の助けになろうと必死に駆けまわった。しかし宮廷にはびこる毒は常依依をも侵していたらしい。中々結果が出ないことに焦るあまり、常依依は于計のことを責めるようになった。
気づいた時には、于計は牢の中にいた。そして、次に常依依が于計と会ったのは、もう彼が冷たくなった後だった。
常依依の話を聞き終えたのは、戌の刻 をずいぶん過ぎた頃だった。真鍮の燭台にともる灯 が、暗くなった部屋をぼんやり照らしている。
姫棋は、常依依が応接間を出て行ったあとも一人、部屋に残っていた。
于計の屏風を見つめる。
(彼女はどんな思いで、この絵を引き取ったのだろう)
常依依の話によると、この絵は于計自身が描いた自画像だったらしい。膠をかけたのは于計自身。投獄直前にふらっと実家へ帰ってきた于計がやったのだという。そして、于計が亡くなったあと常依依がその絵を譲り受けた。
自分のせいで幼馴染を追いつめてしまった常依依。おそらく悔やんでも悔やみきれない思いがあるだろう。
(屏風絵を描いたのが于計なら)
裏にあの不審な文言を書いたのもやはり彼とみて間違いないだろう。となると木蓮が言った通り、酔芙蓉は于計自身を指していたのか。
『吾堕ちぬ 酔芙蓉 どうか許されたし』
でもそうなると、酒におぼれたわけでもない于計が自分を酔芙蓉にたとえるのはおかしい。
それに于計が戸部の金に手をつけた理由も分からないままだ。
常依依もなぜ彼がそんなことをしたのかは分からない、ということだった。
彼女は正直に話してくれたと思う。しかし、まだ足りない欠片 があった。
(たぶんこれを紐解く鍵は戸部にある)
きっと于計が見ていた世界を知ることで、『酔芙蓉』の意味もわかる。
そしてその時、全ての欠片 が揃う。
そんな気がした。
(あとは木蓮次第かな)
戸部に聞き込みを頼んだ木蓮からは未だ何の連絡もなかった。
彼とて理部次官という職がある。もしかしたら忙しくしているのかもしれない。
姫棋は筆を取り、紙に練習描きをはじめた。
まだ欠片はそろっていないとはいえ、ずいぶん于計の姿が鮮明になってきていた。
正面、横顔、立っている姿、眠る姿、いろんな角度から于計を描いてみる。
もちろん本物 はいないので、全て頭の中で想像した于計だ。実際の景色を模写するように、頭の中の情景に意識を集中する。
すると、どこにもいないはずの于計が、そこにいた。
会ったこともない于計が泣いたり、微笑んだりしている。
姫棋は于計を見つめ返す。
今自分は、常依依の目になって于計を見ている。
これは、彼女が見つめた于計の姿。
やがて内なる世界にいる于計と、紙上に描き出す彼、その境界が曖昧になってゆく。
恐いくらい感覚が研ぎ澄まされていた。
一方、まわりの景色はひどく遠い。
誰かの声が聞こえた気がしたが、それは夢の彼方で鳥がさえずるように、ただ通り過ぎていくだけ――。
と、姫棋は急に息苦しさを感じた。
船酔いのような感覚のあと、急速に意識が自分の体に引きもどされる。
どうやら没頭するあまり呼吸が浅くなっていたようだ。
水面に出て息継ぎをするように、姫棋はすぅと息を吸ってみる。
すると、知っている香りが胸に入りこんできた。
清廉な花の香り。
華やかなようでいて、ほのめかすように消えていく、馨香 ――。
ふり返るとそこには、部屋に散らばった絵を眺めている木蓮がいた。
「いつの間に来てたの?」
驚いた姫棋の声に、木蓮は顔を上げ目線を絵から姫棋に向けた。
「さっき、声はかけたけど」
誰かの声が聞こえたと思ったのは気のせいではなかったらしい。
「もしかして、戸部に行ってきてくれた?」
姫棋は、木蓮が于計の話を持ってきてくれたのではと期待した。
しかし木蓮はあっという顔をしたあと、すーっと目をそらす。
「いや……まだ、戸部には行ってない」
「そっか。忙しかったの?」
「……まあ、そんなところだ」
忙しかったのなら仕方あるまい。
でも、木蓮の様子を見るにそれだけではない気がした。さっきから全然目が合わない。
姫棋はぐっと木蓮の目を覗き込んでみる。すると木蓮は逃げるように顔を背けた。
(やっぱり)
木蓮は何か戸部に行きたくない理由があるようだ。
彼は姫棋の視線には気づかぬふりをして、床に散らばっていた絵を一つ拾い上げた。
「戸部での話はまだ必要なのか? もう十分、于計の絵は描けそうだが」
姫棋は木蓮の拾った紙をすっともらい受け、ひらひらと振ってみせた。
「木蓮は、最高の絵と、そこそこの絵だったらどっちが欲しい?」
姫棋の問いかけに木蓮は首を傾げる。
「それは……最高の絵だろう」
なら、と姫棋は木蓮の肩をつかむ。
「戸部での聞き込み、よろしく」
姫棋はにっこりと木蓮に微笑んだ。
姫棋は思わず変なところから声が出てしまった。
「直接手にかけたわけではありません。でも、私が……彼を死に追いやったのです」
姫棋が真意をはかりかねていると、常依依は大きく息を吸って何かを覚悟したような顔で話しはじめた。
「于計は十年ごしで官吏になったものの、官吏としての適性は全くと言っていいほどありませんでした。おそらく真っすぐすぎたのです。彼は職場で煙たがられ、段々と仕事をもらえなくなっていきました。そして次第にそんな自分に絶望し、心を壊してしまったのです」
官吏が心を壊すというのはけっして珍しいことではない。科挙など結局は通過点でしかないのだ。そのあと待ち受けるのは、毒を持った蝶の舞う
「酒におぼれたなどという噂は真っ赤な嘘です。彼はいつだって真面目に働いていましたし、普段の生活だって人にとやかく言われるようなことはしていません。でも周りの者たちは、心を壊した彼を見下して好き勝手に悪く言っていたのです」
「なら于計殿のことは、あなたが責任を感じることでは――」
「いえ、私は……。ただでさえ辛い思いをしていた彼を、さらに追い込んだのです。何とか官吏として再起させようと、躍起になって……」
常依依はその政治的手腕を駆使して于計の助けになろうと必死に駆けまわった。しかし宮廷にはびこる毒は常依依をも侵していたらしい。中々結果が出ないことに焦るあまり、常依依は于計のことを責めるようになった。
気づいた時には、于計は牢の中にいた。そして、次に常依依が于計と会ったのは、もう彼が冷たくなった後だった。
常依依の話を聞き終えたのは、
姫棋は、常依依が応接間を出て行ったあとも一人、部屋に残っていた。
于計の屏風を見つめる。
(彼女はどんな思いで、この絵を引き取ったのだろう)
常依依の話によると、この絵は于計自身が描いた自画像だったらしい。膠をかけたのは于計自身。投獄直前にふらっと実家へ帰ってきた于計がやったのだという。そして、于計が亡くなったあと常依依がその絵を譲り受けた。
自分のせいで幼馴染を追いつめてしまった常依依。おそらく悔やんでも悔やみきれない思いがあるだろう。
(屏風絵を描いたのが于計なら)
裏にあの不審な文言を書いたのもやはり彼とみて間違いないだろう。となると木蓮が言った通り、酔芙蓉は于計自身を指していたのか。
『吾堕ちぬ 酔芙蓉 どうか許されたし』
でもそうなると、酒におぼれたわけでもない于計が自分を酔芙蓉にたとえるのはおかしい。
それに于計が戸部の金に手をつけた理由も分からないままだ。
常依依もなぜ彼がそんなことをしたのかは分からない、ということだった。
彼女は正直に話してくれたと思う。しかし、まだ足りない
(たぶんこれを紐解く鍵は戸部にある)
きっと于計が見ていた世界を知ることで、『酔芙蓉』の意味もわかる。
そしてその時、全ての
そんな気がした。
(あとは木蓮次第かな)
戸部に聞き込みを頼んだ木蓮からは未だ何の連絡もなかった。
彼とて理部次官という職がある。もしかしたら忙しくしているのかもしれない。
姫棋は筆を取り、紙に練習描きをはじめた。
まだ欠片はそろっていないとはいえ、ずいぶん于計の姿が鮮明になってきていた。
正面、横顔、立っている姿、眠る姿、いろんな角度から于計を描いてみる。
もちろん
すると、どこにもいないはずの于計が、そこにいた。
会ったこともない于計が泣いたり、微笑んだりしている。
姫棋は于計を見つめ返す。
今自分は、常依依の目になって于計を見ている。
これは、彼女が見つめた于計の姿。
やがて内なる世界にいる于計と、紙上に描き出す彼、その境界が曖昧になってゆく。
恐いくらい感覚が研ぎ澄まされていた。
一方、まわりの景色はひどく遠い。
誰かの声が聞こえた気がしたが、それは夢の彼方で鳥がさえずるように、ただ通り過ぎていくだけ――。
と、姫棋は急に息苦しさを感じた。
船酔いのような感覚のあと、急速に意識が自分の体に引きもどされる。
どうやら没頭するあまり呼吸が浅くなっていたようだ。
水面に出て息継ぎをするように、姫棋はすぅと息を吸ってみる。
すると、知っている香りが胸に入りこんできた。
清廉な花の香り。
華やかなようでいて、ほのめかすように消えていく、
ふり返るとそこには、部屋に散らばった絵を眺めている木蓮がいた。
「いつの間に来てたの?」
驚いた姫棋の声に、木蓮は顔を上げ目線を絵から姫棋に向けた。
「さっき、声はかけたけど」
誰かの声が聞こえたと思ったのは気のせいではなかったらしい。
「もしかして、戸部に行ってきてくれた?」
姫棋は、木蓮が于計の話を持ってきてくれたのではと期待した。
しかし木蓮はあっという顔をしたあと、すーっと目をそらす。
「いや……まだ、戸部には行ってない」
「そっか。忙しかったの?」
「……まあ、そんなところだ」
忙しかったのなら仕方あるまい。
でも、木蓮の様子を見るにそれだけではない気がした。さっきから全然目が合わない。
姫棋はぐっと木蓮の目を覗き込んでみる。すると木蓮は逃げるように顔を背けた。
(やっぱり)
木蓮は何か戸部に行きたくない理由があるようだ。
彼は姫棋の視線には気づかぬふりをして、床に散らばっていた絵を一つ拾い上げた。
「戸部での話はまだ必要なのか? もう十分、于計の絵は描けそうだが」
姫棋は木蓮の拾った紙をすっともらい受け、ひらひらと振ってみせた。
「木蓮は、最高の絵と、そこそこの絵だったらどっちが欲しい?」
姫棋の問いかけに木蓮は首を傾げる。
「それは……最高の絵だろう」
なら、と姫棋は木蓮の肩をつかむ。
「戸部での聞き込み、よろしく」
姫棋はにっこりと木蓮に微笑んだ。