第10話 『猿の惑星』で垣間見えるアメリカの歴史

文字数 5,792文字


 だらだら映画エッセイ流れ第9弾は『猿の惑星』です。スレッドでBLの脇毛描写の話をしていたらキングコングとか毛の生えたやつらのエッセイ描こうかと思ったらこうなっていた。
 ……まあいいや。

 さて、猿の惑星というのは結構なシリーズ物です。自分はオリジナルの猿の惑星5作全部と2001年のPlanet Of Apesは見てるけど、最近のリブートのシリーズは見てない。
 本当の一番最初はテレビドラマらしいのだけどそれも見ていないので割愛。

 えっとそれでちょっと困っていて。
 猿の惑星の1のエンドは衝撃的過ぎることで有名で、それを前提としてオリジナルシリーズの2~5が出来上がってる。だから1のエンドを書かないと2以降のストーリーが語れない。
 だから1のエンドのネタバレありきの前提でこの記事を書くのだけど、もし『まだ見てないけどこれから見るつもり』の場合は見てから読まれることを強くおすすめします(警告)。

 ◇

 ◇

 ◇

 ◇

 ◇

 ◇

1.猿の惑星の全体像
 えっと、いいかな。
 このエンドは知らない人は先に映画見てもいいんじゃないかなと思っています。

 でもその前に原作の話。
 この映画の原作は1963年にフランスで発表されたピエール・ブールの小説「猿の惑星」だ。けど原作と映画ではちょっと内容が違う。
 映画では最後に降り立った星が地球であることが明かされるけど、小説最後のオチは猿の惑星は地球ではなくて、宇宙飛行士たちはその後地球に帰還したけど、その主人公たる宇宙飛行士たち自身が猿だったという話。
 これは主人公がカメラに映らない小説ならではの技法で、映画でやるのはPOVで上手くやらない限り大変だよねぇ。

 この著者はプランテーションで監督をやっていた。その経歴から著者の奴隷階級に対する認識が2つに解釈されていて、白人至上主義だったという話と反差別だったという話がある。
 でもこの人は同時に『戦場にかける橋』の原作者で、それを考えると白人至上主義者とはちょっと思えないフシがある。運動家であることも多分間違いない。
 まあそんなことはさておき『猿の惑星』は原作の時点から奴隷制度、つまり社会的な要素を念頭に置いていた。

 それで映画の話に戻るんだけど、オリジナルの猿の惑星5部作はこんなかんじ。

 1 猿の惑星
 御存知の通り宇宙飛行士が不時着した猿の惑星は実は地球だった。
 2 続・猿の惑星
 1のあとの時代、核弾頭を崇めるミュータントの人類がいて、色々あって起爆して地球が消滅する。
 3 新・猿の惑星
 2の後に辛くも爆破前に地球を脱出したジーラ夫妻(猿)がタイムスリップして現代につく(1973年)んだけど色々あって殺される。
 4 猿の惑星・征服
 3の後(1990年)、ジーラ夫妻ら知能のある猿の子孫が人間の奴隷になっていて、ジーラ夫妻の子供が人間に反乱して人間を支配するようになる。
 5 最後の猿の惑星
 4の後、猿とミュータントになった人間が争う。それで多分1が始まる。

 こんな感じで猿の惑星というのはループする話なんだ。
 それで多分『階級社会』方向の政治思想が明確に混ざり始めたのは4の征服あたりからだと思う。ピエール・ブールが意図していたかはわからないけれども階級的思想というものが居たの時点ではうまく隠されている。この辺は最後にまとめる。
 なお2はなんていうか、1が売れたから行きあたりばったりに作られた感はなくもない。

2.猿の惑星の1
 とりあえず猿の惑星1のあらすじからいこう。

 近未来、宇宙旅行で地球に帰還中の宇宙飛行士達は冬眠装置で眠りについていた。起きたら地球についていたはずだったのに、気がつくと未開の惑星に墜落していた。生き残った3人の飛行士が探索をしたところ、武装した猿の一団が原始人のような人間の集団を追い立てているところだった。宇宙飛行士たちは猿に捕らえらる。そしてその星では人間が猿の奴隷として生活していることを知る。

 猿っていうところばかり目を向けてたけど、改めて思うとSF設定が詰め込まれてるな。この話ね、SF的に分解してみるととても面白い。会話とかでも継いでいくとああそういうこと、が溢れている。

 でも映画全体の雰囲気はコメディだと思う。
 恐らくSF設定でゴテゴテやるとテーマが重すぎるからコメディにライトに上げたのかと思ってる。

 結局のところ、モノノホンではこの映画のメインテーマは階級社会だと語られるから、その方向性で書いてみよう。

 猿の惑星1が作られた1968年という時代を見てみよう。
 なお、以下は奴隷制度とか差別に賛同したり助長したりする意図は『全く』なく、自分が『歴史的な事実』として認識しているものであり、誤りが含まれる可能性が多分にあることを念の為付言しておきます。

 さて、黒人解放運動が争点になった選挙でリンカーンが当選したのが1860年。この映画の90年前。
 選挙では決着がついたけれども工業を中心とした奴隷をさほど必要としない北部とプランテーションで綿花工場で働かせる奴隷が必要な南部の対立は大きく、南部11州がアメリカ連合国としてアメリカ合衆国から独立したのを征服しなおしたのが南北戦争だ。

 結局の所、北部による海上封鎖が効いて資本力や当時の主流武器であった銃器の生産・再生力の差で北部が優位となって北部が勝利したものの、最終的に合わせて南北50万人というアメリカ史上類を見ない死者を出した。

 それで結局奴隷は開放されたんだけど、奴隷の解放=差別の撤廃では全然なくて、結局は南部で北軍が撤退して以降、黒人隔離政策という形で人種差別は強固に継続していた。

 公共の乗り物やレストランや学校で黒人と白人の同席が法律で禁止される州法が制定された。アメリカは日本と違って基本的には州に統治権がある。合衆国としてまとまるために連邦法が定められていて、連邦法と州法が矛盾する場合は連邦法が優先するという関係になっている。逆に言えば、矛盾しない限りどんな州法を制定しても問題ない。矛盾しているかどうかは裁判所が決定するんだけど、特に1890年以降は裁判所がこの差別のお墨付きを州に与え続けることになる。

 南北戦争後に奴隷制度廃止のために行われたこと。
 それはアメリカ合衆国憲法の改正で、簡単に言うと奴隷制度の廃止、公民権の付与、黒人男性の参政権の付与が内容となっている。これ自体は大きな変化だと思う。なお、アメリカの憲法は日本と違ってしょっちゅう修正される。

 それで憲法で禁止されたのに実質的に差別が存続した理由なんだけど、合衆国裁判所は「分離すれども平等」という考え方をした。
 憲法で保護されたのは『平等』であって『分離』ではない。分離であれば平等な保護を保証する憲法に違反しない。だから同等のものが確保される限り、分離は平等に反しない。

 それで1883年の公民権裁判というやつで、最高裁は憲法が縛るのは州の行動だけであり、差別は私人、つまり個人が行う差別を違法とする権限がないとした。言い換えると個人や民間企業が黒人に対して差別することを禁じないという判決を出した。

 それで止めを刺したのがプレッシー対ファーガソン裁判とよばれる1896年の有名な裁判。プレッシーさんは8分の1はアフリカ系アメリカンだけど残りはヨーロッパ系で見た目はどうみても白人なんだ。
 でも州法ではアフリカの血が入っている以上黒人で、黒人車両に乗らなかったことを理由に逮捕された。それでその逮捕が憲法に反するって訴えたんだけどファーガソン(裁判官)は鉄道についての権限は州にあるから合憲だという。
 最高裁まで争ったけど、最終的に分離自体は平等に反するものではなく黒人の受け取り方の問題で、品質が違うなら問題だけど同じなら問題ないだろってことでプレッシーの罰金刑が確定した。

 アメリカというのは判例法の国だ。
 前の判決が法律に等しく扱われる。だからこれによって分離は合法になり、ますます分離が促進された。
 最高裁がOK出したわけだから各州はガンガン分離を法で定め始めた。

 けれども実際は同等の設備があることなんてほとんどなかったわけだ。じゃあなぜそこを争わないのかというと裁判とか運動をすると金がかかるから。
 アメリカでは一度裁判が確定すると覆すのは極めて難しい。つまり勝つ見込みがほとんどない。まあ日本でも最高裁までいけば同じではあるんだけど。プレッシーはたくさんの後援者に押されて訴訟したようだけど、ある意味プレッシーのせいで以降、負け確定になった裁判を金を出して争う人はいなくて、そんな南部の状況がようやくかわるのは1950年代の公民権運動だ。

 この公民権運動のベースとなったのがブラウン判決。黒人と白人の学校を分けた州法は平等な教育の機会を否定するので「人種分離した教育機関は本来不平等」として先のプレッシー判決を覆す。
 結局の所、「平等であれば区別してもいい」という判決を覆すには結果の不平等を主張する必要がある。実際に違うことを証明した。
 それ以降はリトルロック事件とか色々あるんだけど、主に教育のところから違憲判決が出始める。

 そして1955年に黒人女性がバスの黒人座席に着席していたのに白人に席に譲るよう言われ、座席移動を拒否して逮捕されたことからボイコット運動が起こった事件。ここで名を挙げたのはキング牧師で「わたしには夢がある」というワシントン演説が有名なんだが、色々あったけど運動の高まりによって1964年にようやく人種差別撤廃に関する公民権法が制定された(公民権法というのは何本かある)。南北戦争が終結してから実に90年弱の後のことだ。

 でもまあその後もアメリカにはKKKとかアメリカナチとか白人至上主義は結構根深い物があって、1965年に血の日曜日事件っていうKKKが黒人をリンチして焼き払う有名な事件が起こっている。というかその前にも差別撤廃を推進したケネディ大統領自身が1963年に暗殺されているし、キング牧師も1968年に暗殺されてる。

 随分回りくどくなってしまったが、これが猿の惑星をめぐる前後の時代背景で、1968年に猿の惑星は上映された。
 結局の所、人種差別撤廃の法律は制定されても南部での差別は未だ根強い時代だ。

 それでだな、1は草稿がロッド・サーリングで脚本がマイケル・ウィルソンなんです。
 ロッド・サーリングっていうのはトワイライトゾーンの脚本家で反戦・反差別活動家でもある。この人は結構尖っていて『醜い顔』とか価値観を逆転させる話を結構作っているもとより政治活動的な人。マイケル・ウィルソンは共産主義者だったから赤狩りでヨーロッパに逃げた人だ。
 猿の惑星の1は結構政治色が強いながらも最終的にはメッセージだけ残して匂いを極力政治臭を消してコメディに仕上げたところは正直凄いなと思うわけです。
 東西対立構造だけ残した結果、核戦争なんだろうなって感じ。

3.猿の惑星の2以降
 猿の惑星というのは全体的にはコメディSFだと思うけど、各作品にそれぞれ政治色が込められている。
 例えば2のミュータントの戦いで核爆発を起こすあたりが冷戦と核の恐怖。3は女性解放運動らしいけどそう思って見ないと気が付かないかも。

 それで猿の惑星4作目というのは1972年の映画なのだけど、この映画も結構尖っている。ストレートに公民権運動が入れ込んである。人間の衣装が全部黒に統一されていて、黒人を模した猿が暴動をしてキング牧師的な猿が演説する(もともとは処刑エンドだった模様)。5は反戦がテーマだと思うけど結構ごちゃごちゃしている。

 最近は娯楽映画(マーベルが国威発揚かはさておき)が多いけれども、昔から映画というのは思想の感染伝播という側面は結構大きい。前にかいたヤン・シュヴァンクマイエルもそうだけど、政治活動をしている映画監督っていうのは案外多い。
 だからメッセージ性の強い映画を見る時はその監督が以前にどんな作品を撮っているかとかを考えると伝えたいことが透けてくることがあって結構面白い。ああ、こういうとこで洗脳しようとしてるんだ、とか。
 映画というのはプロパガンダにはなかなか強力なツールである。

 えっとそれで結局猿の惑星的な話はほとんどしていないんだけど、映画自体は1~5というループ的な流れの面白さとコメディとSF発想という点ではそれぞれ濃淡はあるものの面白い。

 けれども今から見るのでは、シリーズ全体的に当時の空気感、つまり反戦とか冷戦とか公民権運動とかがわからないと真の面白さに届かないやつだと思う。メッセージ性を重視した結果、今から見ると登場人物の行動に唐突な部分があったり、えっ何それっていう文化的によくわからない部分も散見される。
 おそらくソビエト連邦が崩壊して冷戦という恐怖が失われたのが一番の原因だと思う。今だと赤狩り何それ美味しいのって感じなんだけれど、当時は生活のすぐ隣にヒリヒリと存在したものだろうから。それで特に2は冷戦の空気って時代背景を知らなければピンとこない部分は多いと思う。
 価値観を共有するには既に今と時代感が大分ずれてしまっていると思うのだ。
(なお、これを描いたのは令和3年なので現在の状況は加味していません。)

 冷戦を中心テーマに書いてみても面白かったんだけど、今回はよく語られる黒人解放運動の視点からお送りしてみました。
 そのうち冷戦的なテーマで1本書いてもいいかなと思いつつ、歴史の話とか誰が読むんだよとか思ってることは秘密。

 その点、新しい3部作は現代の時代感にFIXしてあるという噂だからそのうちそっちを見たいなと思っている。

 さて、今日はこんなところで。
 とりま映画と違う話を延々かいてみたけれど、この映画の楽しみ方という話で自分はプラスの意味でもマイナスの意味でも思想信条を前提として書いているわけではないので念の為追い付言。

 次は延々とリュック・ベッソンを予定しているのだけれど、ゴダールなのだ。なんというか、つまらない(暴言)。そもそもスカっとする話ってあんまり見てない自分がいた。
 当エッセイは常にリクエストを募集しております(見てなければリクエストに添えないすみません。)。
 See You Again★
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み