第9話 『パプリカ』な分裂する主格

文字数 4,545文字


 だらだら映画エッセイ流れ第8弾は『今敏』です。
 今回のリクエスト内容は「クリスマスだから『東京ゴッドファーザーズ』」。リクもらったのがちょうどクリスマスだったんだけど、年越えたから『パプリカ』メインにしようかなと(なお、この記事を書いたのはR3の正月です)。
 今回の奴はあんまり纏まってない。つまり基本的に今回はまるっとポエム感。

 今敏監督は既に若くして亡くなられていて、本当に亡くなった時は悲しくて。今も追随を許さないレベルの素晴らしいアニメ監督だと思っている。

 といっても『妄想代理人』は見てないんだけど。『PERFECT BLUE』、『先年女優』、『東京ゴッドファーザーズ』、『パプリカ』は見た。アニメ映画は全部見たかな。でも改めて見直して書いているわけではないので、ひょっとしたら記憶違いとか間違っているところもあるかもしれない。その時は是非ご指摘ください。よろよろ。

 さて。『パプリカ』をタイトルにしたけど、今敏監督が描くどの作品もテーマとしては結構共通する部分がある。それは『自分』っていうものの捉え方だと思う。小説風にいうと主格。

 これには結構色々な意味合いがあって、たとえば『PERFECT BLUE』だと主人公は元アイドルで現女優の『現在の自分』『過去のアイドルだった時の自分』『ファンに理想化された自分』『自分がなりたかった自分』というものが複雑に絡み合っていく。『千年女優』はもっとわかりやすくて、主人公の『現在の自分』『それぞれの映画の過去の自分』『それぞれの映画を見た人が認識する自分』『未来の自分』が時間を超えて1つの流れを作っている。
 『東京ゴッドファーザーズ』は3人+1人が1人の赤ちゃんを拾うことでそれぞれの過去に回帰して、クリスマスの夜に『現在の自分』を肯定して『未来の自分』を見る(多分。
 『パプリカ』は少し毛色が変わってはいるけど、『敦子』は『夢探偵パプリカ』として様々な夢の中に『それぞれにふさわしいパプリカである自分』として登場する。でも多分、『パプリカ』の映画が想定している主格はおそらくパプリカ自身じゃなくて登場人物である粉川で、そこから『映画館で映画を見ている観客自身の自分』を描いているんじゃないかなって思った。
 だからまあタイトルを『パプリカ』にした。

 ここまでは前置き。
 今敏監督は様々な角度で1つの魂を描いている。そりゃあもう執拗に、変質的に、狂気的に、魂というのは見方によって異なるってことをグラグラグラグラとリフレインさせて脳裏に刷り込んでいく。

1.夢と現
 さて、とりあえず『パプリカ』に寄せて書いてみようと思ったけど、このページは丸々ポエム。根拠はない。いや、他の記事に根拠があったかというと悩ましいところだけれど、なにせこれは『イメージ』なので。

 突然変な話。
 『夢』という単語には2つの意味がある。
 1つ目は夜に見る夢。夢というのは自分の願望が出るとか聞いたことがあるし、海馬が記憶を整理するものと聞いたこともある。
 まあそんな話はさておいて、夢というのはたいてい荒唐無稽なもの。その中で自分は理性的な行動をとっていたり、反対に普通ならとらないような行動をとる。
 2つ目は将来の夢。小さかった頃になりたかったものとか、ひょっとしたら現実的になれたけど色々な理由であきらめたもの。そもそも荒唐無稽でなれなかったもの。もしそうなれていたら、そんなことを考える。
 この将来の夢の方は『夜寝た時の夢のようだ』というところからきているという話もあるけれども、とりあえず共通するのは『荒唐無稽なもの』と捉えられがちなこと。

 この2つの夢は英語でも日本語でも同じ単語が当てられる。
 でも夢が『荒唐無稽』であるというのは誰が決めたのか。
 今敏監督は多分、その境目を取り外すのがとてもうまい。
 特に『パプリカ』の中ではいつのまにか夢と現実が入り混じり、どちらがどちらかわからなくなる。その手法がちょっと凄い。

 ちょっと話はずれるけど、胡蝶之夢に似てるのかも知れない。荘子が胡蝶になる夢を見て、起きた時に夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢をみて自分になったのかよくわからないや、という話。

 よく考えたら夢と現実というのは1日の中だと無意識的な入眠と意識的な起床を契機に切り替わるもので、そう考えると夢と現実は繋がっていると言えなくもない。

 けれども現実に、現実を夢だと思うなんて少ない。
 そう思うのは現実が『圧倒的現実感』を持っているからだと思う。でもそもそも夢の中でもそれが夢と気が付くこともあんまりない。それは同じように、夜に見る夢の中でもそれが自身にとって『圧倒的現実感』を持っているから夢の中で夢だと思えないのかもしれない。
 ようするに夢の中だと夢があたかも現実だと思えているのかもしれない。起きたらその大部分を忘れて、『圧倒的現実感』に足りる情報が欠落するから夢であると思うのかも。逆に夢の中では現実を忘れているから、現実のことを思い出さないのかも。
 我ながらすげぇ荒唐無稽な話を展開してるな……。

 それから一般的に現実は夢より面白くないしつまらない、という認識がある気がする。でもどうしてつまらないほうが夢だと思えないのかな。そっちのほうがハッピーな気もするんだけど。
 ひょっとして物凄く恵まれていて楽しい人生を過ごしたら、現実が夢のように思えるのかも知れない。そんな不安定な感覚は恐怖っぽくて嫌かも。これが成功不安ってやつ?

 それで『パプリカ』はその辺の描き方が面白くて、ネタバレは避けるから詳しくはかかないけど、そういうのを言葉にせずに映像で表現したところが面白い。
 映画の感想はかくもネタバレとの戦いなのである。

2.シームレスな異世界転移
 でもちょっとだけどうやって2つの世界を混ぜるのか書いてみる。今敏監督のとった手段はやっぱり場面転換の圧倒的シームレスさとリアリティ。

 例えば『千年女優』は画面の中に次の画面のヒントを混ぜている。
 大人の主人公と子供の主人公、それから演技と過去が次々に交差するシーンがあるんだけど、それを同じシーンに存在する電柱を1本通過するごとに切り替えるとか、同じシーンの中で本来ありえないないものを混ぜてのシーンにつなげたり、2つの場面で登場人物に同じ動きで混同させることで連続性を持たせている。
 その先が絵巻物的な明らかにフィクションじみた描写に繋がっていることもあるけれど、その世界に移行するために同じ構図と同じ表情から移動させたりとかいろいろな方法で混ぜているような気がする(見直しているわけじゃないから正確ではないけど)。

 だから一瞬でシーンが切り替わっても不自然さがない。
 本来全く異なる時間という概念を登場人物を共通させることでシームレスに飛び越えさせる。これは正直革新的な手法に思うのだ。

 パプリカでも同様に様々なシーンが『千年女優』の時間軸ではなく夢という1つ1つの世界を渡っていく。そしてその場面転換は早くて多すぎる。
 予告編が一番顕著で、1秒で1シーン変わってる勢いで、そこが夢っぽさを醸し出しているところなんだけど、その転換の速さの調節があるからゆっくりとした夢では余計に現実との差がわからなくなるんじゃないかと思ってる。

 パプリカでいうとディティールの細かさもあって。
 パプリカの一番有名なシーンは百鬼夜行的な色々なものがパレードするところだと思うけど、これは明らかに『夢』なのにどこか現実的。書き込みが凄く細かい。そこから退いた次の映像は、夢ではなくその夢をモニタリングするつまらなさそうな灰色の『現実』の敦子のシーンに移る。
 『夢』の中の圧倒的に明るくて細かいパレードのシーンと比べ、『現実』の暗いし書き込み、というか配置された物自体が少ないシーン。

 この『夢』の中では圧倒的なビジュアル(?)が持つリアリティがあり、『現実』の人生では圧倒的につまらない(荒唐無稽でない)という心理的(?)なリアリティがある。この夢に対するリアリティという2つのバランスを上手く取ってるから、ふわふわと混乱して面白い気がする。

 なお、パプリカでは常に書き込みが細かいわけでもなくて、現実と非現実が交差するシーンはその対比が結構大きかった記憶。だから夢と現実の現実感が逆転してる。現実はだいたい薄暗くてつまらないんだよな。

3.様々な私と視点
 それでは次に自分を混ぜましょう。
 『PERFECT BLUE』。この映画は様々な角度で自分を混ぜる。

 現在の自分、過去の輝かしかった自分、現在は自分がなりたかった形なの? これでいいんだろうか、そうやって悩む自分。まあこの辺は割と誰でも思い当たるところがある部分だと思っていて。

 そこから他人が見た自分というものが入ってきて何がなんだかわからなくなるのが骨子。他人と自分の境目がどんどんシームレスになっていく。
 その先に待ち構える『自分』とは何か。

 こっからは映画とは関係ない話。
 他人が見た自分というのは自分と違う。これはある意味当然のこと。それで他人が見た自分と本来の自分が違うのは、自分でその他人からこう見られたいっていうキャラを作っているからだ。じゃあその作った自分はなんで今の自分と違うのか。なんで理想と違うのか。
 そこで否定的に捉えてると多分病んでしまう気がするん。

 どれか1つが正しいっていう考えは1つ以外は偽物ってことになる。そんで自分が正しいとおもえるものはだいたい自分と乖離している。
 でも実際は自分っていうものはそんな決め打ちできる恒常的なものじゃない。やる気とか気分とか人間関係とか、複数の不確かなものの間を揺れ動いているものだと思っていて、やる気があるときとない時があるけどそれはどちらかが偽物ってわけでもない。

 だからまぁ、全てをあり得るものとして肯定するのが健康的ではないかなと思っていたりはする。
 だからこの作品の主人公はそこを一部否定してしまったから病んだんじゃないかな、と思うのだ。
 ある程度の残念な自分まで肯定できると多分人生が結構楽になるかも。でもやりすぎるとそれはそれで死亡フラグなのでほどほどに。

 映画に戻ると今敏監督はいろいろな自分を混ぜていく。
 自分の外縁を不確かにしていくと、いろんな自分が存在し得る。基本的にはホラー的な観点で語られることは多いけど、1人の人物を多角的に描くというのはキュビズムっぽいし、最終的に全部をあり得るとしているところがとても好き。

 そして遺作になるのだけれど『オハヨウ』っていう1分の短編がある。これは女の人が朝起きる様子を描いているのだけど、主人公の女の人以外のディティールが異様に細かい。そして主人公はダブ付きながら、夢から覚めて1つの人格に統合されるのだ。短いけど、なんとなく監督の集大成感を感じる。
 ネットを探せばあるかもしれないので、短いしおすすめ。

 さて、今回も好き勝手描いたところで今日はこの辺で。
 次のリクエストは『猿の惑星』、当エッセイは常にリクエストを募集しております(見てなければリクエストに添えないすみません。)。
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