第13話 『ドーン・オブ・ザ・デッド』で死んだゾンビ

文字数 6,321文字


 だらだら映画エッセイ流れ第12弾は『ドーン・オブ・ザ・デッド』です。
 ゾンビ映画のリクエストを頂きましたのでその歴史をば。リクエストありがとうございます。

 さて、最近は『ドーン・オブ・ザ・デッド』でも通じるようになってきたジョージ・A・ロメロ作品ですが、1979年に日本公開された時は『ゾンビ』という名前でした。ダイレクト!
 ところでゾンビというとどんなイメージでしょう。
 おそらく蘇った死体がゾンビとなり人を襲う、噛まれたらゾンビになる、というものだと思う。

 けれどもこのゾンビ像はロメロ監督が作り上げたものなのだ。スピルバーグの『ジョーズ』が夏を変えたように、ロメロの『ドーン・オブ・ザ・デッド』はゾンビを変えたのだ。

 厳密に言えば変わったのは1つ前の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』なんだけど、この映画ではロメロに権利がない。これはなんていうか、解釈とか映画観とかではなく、単純に権利関係の問題である。

 『ゾンビ』と『リビングデッド』の権利関係は客観的にはコメディアスである。そもそも『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の当初タイトルは『Night of the Flesh Eaters』、いうなれば死肉食いの夜というようなものだった。けれども『Flesh Eaters』、邦題でいうと『フレッシュイーターズ 人喰いモンスターの島』という映画が既に存在した。
 そこで『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』にタイトルを修正した際に配給会社が間違って著作権マーク、いわゆる©を付け忘れてしまってパブリックドメインに、つまりコピーし放題、二次創作放題、内容パクリ放題となってしまったのである。恐るべし著作権。

 その結果、蘇って人を襲う死体はアメリカ中で放映されまくり、そのアイデアはブワァーっと広がってたくさんのいわゆる『ゾンビ』映画がゾンビが次々と墓場から湧き出てくるように発生した。

 そしてロメロが権利をもつ正式な作品こそが日本では『ゾンビ』という名前で有名になった『ドーン・オブ・ザ・デッド』だ。
 そういえば『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の『リビングデッド』は宇宙で人工衛星が爆発して大量の放射線が降り注いだ(?)ことによって発生したバイオハザード的な存在なので、よりゾンビ感のある、というか理由なくゾンビが発生する『ドーン・オブ・ザ・デッド』のほうを今回のタイトルにしました。

 なお、最初に日本で放映された『ドーン・オブ・ザ・デッド』のバージョンでは惑星が爆発して放射線が降り注いだのがゾンビの原因、という『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』的な珍しい差分になっている。

 それじゃあゾンビというのは何なのか。今日はそういうお話です。

1.クラシック・ゾンビとブードゥ教
 ゾンビが映画に現れ始めたのはいつなのか。

 初出の映画は1932年に遡る。
 『恐怖城』という白黒トーキーの映画だ。原題は『white zombie』。主演はベラ・ルゴシ。『死霊の盆踊り』の回に出てきた眼力の人です。

 それではあらすじ。
 ハイチに新婚旅行に来たカップルが現地の地主に横恋慕される。地主はゾンビマスター(ルゴシ)からもらったゾンビパウダーを嫁さんにぶっかけてゾンビにするんだけどちっともなびかなくて、マスターに文句いいにいったらゾンビにされちゃって、その後も色々あって結末は伏せるけどラストまでいってもなんだそりゃっていう話。

 それでここに出てくる『ゾンビ』はロメロが広めた今のゾンビとは異なるゾンビ概念だ。分類するとクラシック・ゾンビという存在。なお、ロメロ以降のものは界隈ではモダン・ゾンビと呼ばれることがある。

 もともとゾンビというのはブードゥー教の存在だ。
 ブードゥ教は西アフリカにある民間宗教だ。真なる神様がどこかにいるけど、神様は基本的に人間に関与しないし、人間も神様に会えたりはしない。神様と人間の橋渡しをするのがたくさんのロアと呼ばれる存在。ギリシャ神話っぽく愛のロアとか海のロアとか山のロアがいる。

 イメージは大精霊っぽくて、自然とか祖先を大事にする。厳しい戒律があるわけではない。それで今はキリスト教と混ざって準拠した教えとされている。信者が西アフリカからアメリカに奴隷として連れてこられた際に弾圧を免れるためにキリスト教を混ぜ合わされたためと言われている。
 映画のせいでゾンビのイメージがついちゃったけど、ゆるやかな民間宗教で現在も結構な数の人間が信仰している。

 それでゾンビなんだけど、ブードゥ教には『ロアの神官』という役割の人がいて、歌って踊ってロアをおろして神託や裁判をする。イメージとしては沖縄のユタと似てる気がします。
 それで裁判の結果ゾンビの刑となった場合、ロアの神官が持ってるゾンビパウダーを使って刑を執行する。これが『恐怖城』に出てくるベラ・ルゴシの役割だな。

 それでブードゥ教において『ゾンビになる』という行為は何を示すのか。
 『恐怖城』ではロアの神官はゾンビパウダーをかけて人をゾンビにする。ゾンビにして砂糖工場で働かせる。つまり催眠状態にする等によって単純作業させるんだ。だからそもそもゾンビに死は前提となっていない。

 なおゾンビパウダーの中身はウェイド・デイビスという人類学者が調査している。デイビス自身はゾンビ化の原因はフグ毒だと主張しているけれども、ダチュラ成分、つまりチョウセンアサガオが原因という説が今は有力だと思う。チョウセンアサガオと言っても原産は南アジアで朝鮮ではないのだけど。
 日本でも江戸時代に華岡青洲(はなおかせいしゅう)が『通仙散』という名前で麻酔薬として使用していた。全身麻酔としては世界初で、今も日本麻酔学会のロゴマークで使われている。
 今でも普通に園芸店で売っているけど、ダチュラを誤飲すると意識障害やせん妄が起こる。日本でも食中毒ちょくちょく死人が出ています。

 それで『恐怖城』のゾンビは死んでもいないし人を襲ったりもしない(寧ろ無気力)、そして万一噛まれてもゾンビになったりしない。そんなゾンビを前提としたゾンビ映画がいくつか作られた。

 日本で上映されたものの中でも『私はゾンビと歩いた!』とか『ゾンビッド』とかはその系統。それから一応、前にエド・ウッドの回で書いた『プラン9・フロム・アウタースペース』の動く死体とか『死霊の盆踊り』も一応はゾンビ映画という分類がされることもあるけれども、でも自分的にはこれらは#エド・ウッドなので。

 そしてこれらのゾンビが人を襲い始めたのは1966年の『吸血ゾンビ』あたりからだと思う。これはまだブードゥを前提としていて、あくまでロアの神官もどきがゾンビを炭鉱で働かせることが目的でゾンビを作り、制御不能に陥ったゾンビが人を襲う、ある意味事故のようなもの。

 それでここで描かれるゾンビの造形はなんとなく血の気が失せていて目の下の隈が深いとか、現代のゾンビの原型になっている。

2.モダン・ゾンビとゾンビの死
 さて、それではロメロのゾンビの話に移る。

 ロメロがその生涯で作成したゾンビ映画は6本だ。とりあえず制作順に一覧にすると下記の通り。()内は邦題。

 1 ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(同) 1968年
 2 ドーン・オブ・ザ・デッド(ゾンビ) 1978年
 3 デイ・オブ・ザ・デッド(死霊のえじき) 1985年
 4 ランド・オブ・ザ・デッド(同) 2005年
 5 ダイアリー・オブ・ザ・デッド(同) 2007年
 6 サバイバル・オブ・ザ・デッド(同) 2009年

 日本で公開されたのは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のほうが後だった。
 ちょっと制作期間は開いているのだけれど、最初の3作が特にゾンビ三部作と呼ばれてこの世界に蔓延する『ゾンビ』感を確立させたものだ。

 ロメロのゾンビというものに、自分は大きく2つの意義を感じる。
 1つ目はゾンビをきっちり殺したこと。
 2つ目は新しいモンスターの概念を構築したこと。

 1つ目。
 前述の通り、ブードゥ教におけるゾンビとは人としての意識を失った奴隷であり、基本的には生きている。それをロメロは殺してしまったのだ。つまりロメロは真の意味でゾンビを殺し、『死人』という属性を与えた。
 これによって、『人間』と『ゾンビ』は生死というでかい分類で分かれる異なる存在、いわゆるモンスターとなった。

 2つ目。
 スピルバーグが『ジョーズ』で夏を変えたようにロメロは『ゾンビ』でモンスターの概念をも変えた。
 これまでのホラー映画においてモンスターというものは人間とは異なる存在、あるいは人間であっても特殊性を有していた。
 具体的にいえばモンスターとは巨大怪獣だったり半魚人だったりの人智の及ばない架空の存在か、人間であってもヴァンパイアとかフランケンシュタインとか、個別性が強く人間を超越したものだった。
 けれぞも『ゾンビ』というものは単体で強くはない(後述の走るゾンビ等は除く)。そして個性がない。集団的なゾンビという存在だ。

 これは前述の1つ目と矛盾はしない。
 『ゾンビ』は人間ではないモンスターでありつつも、これまでのモンスターと異なりそれ単体での個別のキャラクター性というのを喪失した稀有な存在なのだ。『ゾンビ』というのは個体の識別名称ではなく、集団概念なのである。

 加えてロメロの『ゾンビ』は元々は普通の人間で、死んだらゾンビになる。つまり『ゾンビ』は自分とは無関係の化け物という第三者的な存在ではなくて、自分に繋がるもので未来の姿だ。
 ようするに人間と、それから敵対すべき化け物であるはずのゾンビとの境目は極めて曖昧だ。だからゾンビを人間の代わりに使用するという逆転現象を生じさせることができる。だからスーパーで屯するゾンビを消費者に見立てたりできる。これがヴァンパイアやらフランケンシュタインならこうはいかない。

 それでロメロ監督のゾンビの話に戻るのだけれど、ロメロ監督は一貫してゾンビを通じて、だいたいはゾンビそっちのけで社会と人間を描いているのだ。

 1作目の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はゾンビ(問題)はそっちのけで争う人間の醜さと主人公の黒人青年に対する扱い、2作目の『ドーン・オブ・ザ・デッド』は生前の行動を繰り返すというゾンビと主人公たち人間のゾンビに対する野蛮さ、3作目の『デイ・オブ・ザ・デッド』はゾンビそっちのけで暴走した軍と研究者の対立、4作目の『ランド・オブ・ザ・デッド』ではゾンビが大量にいる異世界の中で格差社会の最下層にいる虐げられたゾンビ、5作目の『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は……なんとなく当時はやってたPOVに乗ってみたかったのかなと思わなくもないけれどもテーマは報道の客観性とかなのかな……、6作目の『サバイバル・オブ・ザ・デッド』はコメディ寄りでゾンビは殺すべき存在かどうかという価値観が対立して人間同士が戦う話だけれども営業的にはコケた。
 正直な所3,5,6はあんまりテーマ重視では無い気はするのだが、ともあれロメロ監督はゾンビを通じて社会を描いている。

 それでロメロ監督の描くゾンビは一貫して走らないんだ。
 何故なら死体が走ったら壊れちゃうからだそうな。それをいうなら死体が何故動くのだとか思うところもあるけれど、それがロメロ監督にとってのゾンビなのである。だから2000年に突入してゾンビが進化しても、ロメロ監督のゾンビはモダン・ゾンビであり続けた。
 なにせロメロ監督のゾンビはモダン・ゾンビなのだから。

3.新世代ゾンビ・カンブリアン
 『ゾンビ』の凄い所、それは進化するところ。
 2000年代を境にゾンビに新しい変化が起きた。以降のゾンビはゾンビ・ルネッサンスだとか新世代だとか色々言われるけれども、ゾンビというものに爆発的な進化が発生したのは2000年に入ってからだと思う。

 ゾンビという概念は今も進化しているのだ。
 この辺も従来のモンスター映画と異なる部分だ。普通のモンスター映画というのはゴジラがサイズ的にでかくなったりはするものの、性質自体はあまり変化はしない。けれども『ゾンビ』は進化していく。この辺は前述の著作権問題の恩恵が大きいんだろうなぁと思う。

 最初にゾンビ感を大きく覆したのはやはり『ドーン・オブ・ザ・デッド』だろう。これはロメロではなく2004年に制作されたザック・スナイダーという監督のリメイク作だ。
 ゾンビというものはそれまで低予算のB級ホラーだった。けれどもザック・スナイダーは『ゾンビはB級ホラーじゃなくてもいいんだよ』と宣言した。

 ザック・スナイダーはゾンビをアクション映画として作っている。
 有名な俳優を使い、群像劇として様々な視点を投入し、冒頭の引き、続く人間たちのドラマやスピード感があるアクションといったハリウッド映画の要素を盛り込み、そして十分に映画が盛り上がるようにゾンビを全速力で走らせた。
 ザック・スナイダーのゾンビというのはもはやロメロが描いたような人間の代替性という側面はなく、宇宙人の襲来や未知の軍隊との戦争、病原菌との戦いといったマス的な脅威へと進化したのだ。
 走るゾンビ自体の歴史はそれなりに古くてバタリアン(1985年)でもいたのだけれど、あれはなんていうかものすごくB級感があるんです。

 ロメロの作ったゾンビというのは『蘇った死人』で『人を襲い』、『噛まれたら感染する』ということは前述の通り。
 けれども2000年以降、モダン・ゾンビの特徴は次々と覆されていく。
 死んだ人間が蘇らずともゾンビとなりうる。『28日後……』や『バイオハザード』はウィルスによってゾンビ化するものであり、死んでない。まあだから全速力で走ってこれたりするんだろう。
 噛んだらゾンビ化するという特徴も『ワールド・ウォーZ』や『バイオハザード』によって耐性を有する人間というのが登場する。『CURED』ではゾンビから回復するのだ。将来的にゾンビはもはや驚異でなくなるかもしれない。
 そして『ゾンビーノ』のゾンビはゾンビを沈静化させる首輪を開発して人を襲わないというゾンビを作り出した。そしてこの『ゾンビーノ』のジャンルはホラーではなくコメディだと思う。そして『ウォーム・ボディーズ』という映画はゾンビとの恋愛映画だ。

 このようにゾンビの可能性は無限に広がっていて、そろそろゾンビが何かというゲシュタルトが崩壊してきている気はする。
 それで界隈では走るゾンビvs走らないゾンビとか、考えるゾンビvs考えないゾンビ等、熾烈な罵り合いが発生したりはしている

 それで『ゾンビ』ってなんなのか、という話にもどる。
 結局の所ゾンビというのはファンタジーで非実在人類なわけですよ。だからオリジナル設定でもテンプレ通りでもよいし、テンプレでなくてもよいのだと思う。
 ゾンビというのは星の数ほどはないにしろ、監督の数程度には存在するものなのです。なのでそれぞれの心の中にそれぞれのゾンビが存在する……に違いない(投げっぱ。

 個人的にはザック・スナイダーの走るゾンビも疾走感があって好きだしロンドンゾンビ紀行なんかの笑えるゾンビ映画も大好きなのだが、そんなわけでこれからもいろんな監督のいろんなゾンビ映画がみたいなと思うのです。
 念の為に申し添えると、ゾンビ映画はだいたいが駄作なのであまり期待してはいけません。

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