02_ゴールドバッハ予想と朝日と大和

文字数 5,594文字

視点#山根

ゴールドバッハ予想を知ってる?
4以上のすべての偶数は、2つの素数の和で表すことができるらしい。
ん?そうなのか?確かにそんな気もする。なんか簡単そう。だってある素数の対が、すべての偶数であることを示せばいいんだから。そう思った老若男女、紳士淑女の皆々様、驚くなかれ、この答、誰にもわかることなく、250年も未解決のままなのだ。されど弁解をさせてくれ、僕はこの問題が正しくてもまちがっていてもいい。そんなことは問題じゃない。ではなんなのか?

さして平凡、さしてひらめきの持たぬ僕にとって、この予想が16才になる心を惹きつけたのは二つ理由がある。意味深な語感が琴線を振れたからと、恋心が下心である通り彼女がその問題をいつも眺めていたからだ。

彼女こと、桐谷 朝日(きりや あさひ)は誰よりもきれいに席に座っている。うちのタマも裸足で逃げ出すほどに背筋はピシっとして、まっすぐに前を向いている。斜め後方にいるのが僕だ。僕も負けじとタマのお株を奪う猫背で彼女にばれないように斜め前方を向いている。

アルミの細いフレームに小さな長方形のレンズを二つ、その繋いだつるを鼻でかけ、ほとんど話さない彼女を弁明するのは、いつもその大きすぎる黒い瞳だ。しかし、しかし何と言っても彼女たらしめている最大の特徴は、その腰同様、まっすぐに伸びた腰まで届きそうなほどの黒髪だ。淡い鼈甲色のカチューシャがよく似合っている。彼女が数学のテストで一問でも間違えたことなんて、ただの一度もない。学園が誇る才女だ。そんな彼女に僕が好意を寄せているのは言わずもがな。

標準的な輪郭に、標準的なパーツをそれぞれ当てて一子相伝の三白眼で、世間様が僕を有する評価はあだ名となって、ヤマ猫(ヤマネー)と呼んでいる。しかし、しかし何と言ってもそんなことでいちいち腹を立てずに、この背中同様にゆがんだ社会の中にいる僕は大多数の群衆の一部だ。黒い詰襟の学生服がよく似合っている。僕が人に誇れるのは学校に欠席遅刻を一回でもしたことがない。ただの一度もない。学園が誇る標準だ。だから彼女が敬愛しているゴールドバッハたる男に興味を持ったのは言わずもがな。

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つい先日、放課後、僕が夜なべをしてサッカーの中継を見たものだから、陽気さも手伝って帰ることもなく眠っていた。黒板が白くなるほどのぐちゃぐちゃ図やら式やらグラフやら一面の混雑を俯瞰できる位置できれいに座っている彼女。沈もうとする太陽も手伝って、僕は昨日夜なべして目覚めたうたかたから抜けることなく、ぼーっとして彼女を見たら、彼女は瞳を閉じた状態で指を振る。口ずさむ。そのオーケストラの指揮者が見せる微笑みに僕は恋に落ちたらしい。予想以上にちくちくする。多分、2回は死んだ。
知りたくなったのは、そのオーケストラの主題歌。それは、唯一彼女に微笑みを浮かべるほど魅了するものだから。

他多数の一部の僕が聴衆とアップグレート(自称)に成功し、こうして彼女の演奏会もとい講演会に足げよく通うこと、10回。まず彼女は授業が終わると図書館に向かう。カラマーゾフの兄弟、雪国、それぞれロシア語とフランス語のもの。そして水曜日と金曜日は4時ちょうどに教室に戻ってきて、黒板に前回の続きを半分、もう半分は前回から思いついたことを書き連ねる。そして一時間ほど、お決まりの格好で指揮者となる。たいていの場合、書き込んだ右側に少しの補足を加え、大きなばってんを付けて黒板の上を全部消していってしまう。そして彼女の定例会は終わっていく。皆様、そんな顔をしないでくれ。ここで終われば、ここまでただの観察日記と成り果ててしまう。ここからが僕の考察になる。しかしその事実はいとうし。
ただ黙々と定例会をきっちりと一時間して帰っていく。ご丁寧にも黒板を最後に消して電気を消していってしまう。僕がいるのにもかかわらず。ん?と思った皆様、聞いて驚くな、彼女とは一言も声をかわしていない。挨拶も嫌味の一言もない。僕にしても完全にタイミングを逸してしまった身ゆえ、いつものように嫌がるそぶりも気にするそぶりももちろん好意的なそぶりも一度もない。

ここから導き出される結果は・・・

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「そりゃあ、もうダメだろ。」
「えっ!」
晴れの昼休み。屋上の一角。焼きそばパンを食べながら、男は答える。彼も同じく一人の大衆なのだ。
「驚くことじゃないだろう。ストーカー。」
「ストーカーではない。断じて。」
ストーカー。その解釈はなかった。それでは今までの行為によって、大衆から聴衆を経て、聴取される側に?
「お前は今、その慕情の成就に向けて、何している?」
「・・・」ぐうの音も出ないとはこのこと。
「個人情報の拾得行為そのものも場合によって、ストーキング行為。」
「反論があれば聞くが?」
「とりあえず、ゴールドバッハ予想について勉強している。」
「もう、全然ダメ。努力の方向性が根本的に間違っている。」
「じゃあ、どうすればいい?」
「・・・覆水盆に返らず。鳶が鷹を産む。屏風の虎退治。」
「どゆこと?」
「・・無理難題ってこと。宇宙人を口説くためのマニュアルなど誰も思いつくまい。」
残りのパンをさらっと口に押し込んで、立ち上がる。予鈴が鳴る。
「彼女が宇宙人ってことか?」
暗がりの階段、屋上の明るさからの脱出に目がくらむ。あいつは踊り場で立ち止まる。
「・・・前言撤回。相手の言葉を理解することこそ、最短のルートかもしれないな。少なくともスタート地点には到達できる。俺よりはまともさ。」
そういって歩き出す。僕は心に今日の決断を決行する。作戦タイトルは『挨拶しっかり』。小学校低学年の学級目標みたいになったのだが、未知との遭遇などそんなものだろう?
念じれば花咲く。千里の道も一歩から。

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今日の僕は落ち着きなく、うろうろと意味もなく、学校を2回もうろついてみた。長いような短いような授業が終わり、4時となる。いつものように彼女は現れ、チョークを手に取り、歯切れの良い音を響かせる。勇気を出して、思い切って口を開く。
「お、おはよう。」
おはよう?すでに4時だぞ。今日一日すでに顔を合わせていたというのに。
「・・・」
次の言葉は帰ってこない。えっ?終了!?これで終わり?悲しいかな。こんなものさ。路傍の雑音など、誰も気にしまい。今日で最後にしよう。こちらが無害である内に、引き下がろう。僕はうずくまっているが、僕は彼女の手を追いかけていた。変にさえた頭は未練たらしく、使う場の失ったこの手の知識の場を求めていた。いつも通りの彼女の変わらない姿に僕は黒板を見つめていた、さえよ、三白眼。ここで決めねばいつ決める。なんでもいい。彼女が興味を持つ一言を、何かないか?共通の話題、話題、話題・・・
そんな僕の左脳のことなど知らずに右脳は勝手やってやがる。そんな混在した思考の回路の行き着いた先に出たポロリの一言。
「あっ、オイラー積。」
しまった!素人の横やりほど、人をイラつかせるものはない。案の定、彼女の眼は開いている。彼女のオーケストラは終了して、しばらくの沈黙。席を立ち、黒板に向かう。そして全部消し始めた。時間だ。彼女は帰っていく。
僕は呆然としていた。しばらく、そこにいた。取り返しのつかない失敗。皆様、僕の次回作にご期待とでもルビをうって終わろう。
などと最後の回想を振り返ると、明るいことに気付く。電気がついている。いつものように消していかなかった。それに黒板にも一部消し忘れのようなものが残っている。それはオイラー積に関するもの。最後のクエッションマークにうれしさを見た。僕はそれをあわてて書き写す。そして次の定例会に彼女が来る前に僕の調べたことを黒板の右上に書き込むのだ。彼女はいつも通り、何も言わず、黒板に向かう。僕は祈る気持ちでそれを待った。しかし、何事もなく、淡々といつも通りの彼女に皆様が望むようなドラマなどなく、今日も終わる。違うのは、消し忘れた黒板の片隅のクエッションマークだけ。

こうして僕と彼女の奇妙な文通の行方は・・・

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「まじか?」
「まあ、ただの文通相手にございまする。」
牛乳の紙パックのストローをくわえ、男は言った。
「それにしてもすごいぜ。難攻不落、熊本城とはまさに桐谷嬢のこと。それに単騎がけで乗り込むとは恐れ入る。」
「そんな大したことじゃないよ。えへへへ。」
「どんな文通をしているんだよ。」
「あっ、今日のもあるよ。見る?」
パラパラとめくる。そしてゆっくりと彼はこちらに顔をあげる。
「えっと、俺の想像を軽く超えていて、驚愕絶句であるが、えっと、桐谷嬢のコメントは?全部お前の字なのだが。」
僕はクエッションマークを指し示す。彼はまた僕の顔を見て、不思議な顔をした。そして、くわえていた牛乳パックをつぶすと、立ち上がる。予鈴が鳴る。
「まあ、がんばれよ。」
「えっ、ああ。」
暗がりの階段、今日の曇り空が階段の蛍光を点灯させた。あいつは踊り場で立ち止まる。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず。一念岩をも通す。浮かれているところ悪いが、最近嫌な書き込みが、学校の裏サイトにUPされていたから。気を付けるこった。合掌」
「合掌。」

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今日の放課後は、少し違った。僕が教室に戻ると、すでにチョークの音が響いていた。珍しい。まだ4時前だ。いつもの僕の回答時間のはずだ。彼女が一目散に計算している。僕の存在に気付いたときに、彼女は興奮した趣で、その大きな瞳を輝かせて攻め寄ってくる。
「ついに、ついに解いた。こうすれば、きっとうまくいく!それも初等的な方法で、お願い。最後まで聞いて、」
彼女は顔を真っ赤にして言う。そこには、年相応の少女がいた。彼女は僕に向けて、説明を始めた。自分の見つけた構想について。
「要素集合と合成集合が、無限に続く方程式によって、全体として一つの規則性を持つ数列を作る。そしてこの要素の中に必ず、二つの素数からなる偶数が含まれるような項が一つ以上存在するならば・・・」
そういいながら、彼女がこの方法の問題点と一つ一つ説明していく。結局、この話の100分の1も理解できなかったけど、そんなことはどうでもよかった。いつもの時間を過ぎて、僕たちは一杯お話をした。一方的なお話を。彼女は時間に気付き、あわてて黒板を消していく。急ぎ足の彼女は言う。
「また明日。」
閉じた校門に向けてかけて行った。ジーンと込みあがる暖かさを感じている。
あれ?これってもしかして、明日は土曜日、これはデートですか?
はい、そうです。そう思います。浮かれはっちゃけ明日を待つのみ。作戦名は『平穏無事』。乞うご期待。

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冬の空は、すぐ暗くなるものだ。3時半過ぎに学校に入る。木枯らしも僕の花は散らせない。踊る心は半信半疑。今ならフィギュアスケートの選手の気持ちもわかる。ステップを踏む。
教室に近づくと、すでにチョークの音が響く。やった!いる。彼女の気の迷いじゃなかった!僕は意気揚々と扉を開ける。


・・・・そこにあるのは、鼻を刺す強烈な悪意。乱雑な机、椅子、大勢がいた気配、欲望の悪意が途端に僕の三半規管を狂わせる。彼女に目が行く。揺れながら震えながら、でもそこにいたのは、昨日、別れたままの年相応の彼女。チョークを弾く。でも着衣は乱れ、靴下も上履きも履いていない。左ほほが大きく腫れていて、青くなっている。
「もうちょっとだから、待って。今、リーマンのゼータ関数を無視する方法を示しているから。」
僕は後ずさる。そしてそのまま座り込んでしまった。
のどが熱い。目が熱い。心も熱い。チョークの音は響く。それが怖かった。彼女の太ももから一本の血の痕が流れている。それがたまらなく、悲しくて。
「この数列なら、必ずひとつ前の項より大きい偶数を定義し続けることができるから、無限降下法を使うことで、初等数学の領域で定義が・・・」
振り向いた彼女の瞳にはそれよりも大きな涙がぼろぼろとこぼれていた。

僕は逃げた。教室を飛び出し、上履きのまま、ただ走れるだけ走った。何もかも嫌になって、川の橋の欄干にもたれ、そのままうずくまる。何時間いたのかはわからない。気が付くと、部屋のベッドの上にいた。どうやって戻ったのかはわからないが。とにかく眠くなったのだ。僕はすべてこのまま許されないかと祈った。

@@@

僕は半起半睡のまま、教室に戻る。朝もやの中。そこにはもう彼女の姿はなく、数式もあの恐怖の残骸も何にもなかった。夢だったのか?そう思いたいほどに、何もなかった。ただ椅子が真ん中にある。彼女の特等席。そこに座って見上げる。黒板の片隅に判別不可能なものの中に、うっすらと読めるものがある。
『Q.E.D』そう書いてあった。

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彼女に聞き損ったことがある。彼女は結局、ゴールドバッハ予想をどこで知ったのだろう。あの時に言いかけた言葉の続きはなんだったのだろう。あの証明完了は、すべてを完結していたのだろうか。
そして言いたかったことがある。僕がどうして、ゴールドバッハ予想を調べたのか。初めて彼女の世界に引き入れてくれた時からの気持ちを。あの証明完了で、これから僕がするべきことを。

僕はカッターナイフを買いに文房具屋に行って、そこで整数論の彼女の持っていた本を代わりに買うことにした。
その本を読んで君の真似をして放課後に黒板にいっぱい考えを書き込んで座ってみても出てくるのは、胸の熱さと大きな涙だけ。

これから僕のすべきことは決まった。僕が一人で決めたんだ。
ゴールドバッハ予想を証明しよう。
老若男女、紳士淑女の皆々様、心配することなかれ、正しかろうと間違ってようとそうなことは問題じゃない。君の最後の言葉を知りたいだけなんだ。何も難しいことじゃない。250年の謎ではなく、ほんの1週間前の謎だから。そう思って僕は手を合わせる。

「―合掌―」
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