楽園

文字数 1,934文字

結局、野宿をすることになった。僕たちがいる森は日が落ちていても温かい風が吹き、凍える恐れはなさそうだった。長く枝を広げた古そうな巨樹の根元に窪みを見つけ、四人で固まって寝ころんだ。スミレとミサは、ミサが持ってきていたひざ掛けを布団代わりに地面に敷いている。僕は自分のパーカーを柔らかい下草の上に敷いてその上に身を横たえた。茂る下草はマットレスのように柔らかく、その下の地面も石や凸凹で僕を悩ませることはなかった。野宿にしては、かなり快適な寝床だろう。スミレが上を向き、呟いた。
「すごい。星がめちゃくちゃ見えるよ。でも、オリオン座も金星もない…」
その通りだった。空は宝箱をぶちまけたように数えきれない小さな光で満ちていたが、どの星も見覚えのない並びをしている。腕を枕に寝ころびながら、僕は、自分が現実世界から遠く隔たった場所にいることを実感した。温かい風は、何か花の甘い香を僕の鼻腔に送り込んでくる。フクロウだろうか、夜の鳥の低い声もホーホーと響いてくる。いつの間にか、僕は眠りに落ちていた。


***
朝、賑やかな笑い声で目が覚めた。寝起きの目に、見慣れない種類の木々が飛び込んでくる。僕は戸惑い、身を起こしてあたりを見回した。そこは自室のベッドではなく、布団の中ですらなかった。
少し強張った体をほぐしながら周囲を見渡す。昨晩は気づかなかったが、僕たちがいる森は開けた場所も多く、そこには草花が豊かに茂っていた。土と草の匂いに混じって微かに甘い匂いがするのは、咲き乱れる花々のどれかが香っているのだろう。
即席の寝床になってくれた森の下草は柔らかかったが、マットレスに慣れた僕の体にはそれでも硬かったらしく、体が少し凝っている。ストレッチをしながら、笑い声のした方を窺った。

どうやら、ミサとスミレが花で戯れているようだった。ミサの長い黒髪には、熱帯の小鳥のように鮮やかな色の花輪がいくつも載せられている。さらに、その上からスミレが朝露のような小さな白い花をつけた草をいくつも編みこんでいる。僕を振り返ったミサは、肩から上だけを見ればアールヌーヴォーの絵画のように華やかだった。服装は昨日と同じ、というか、いつもと同じユニクロのニットとパンツだ。色気こそないが、シンプルなその服は、落ち着いて大人びた少女であるミサによく似合っていた。
「おはよう。イブキは用を足しに行ってるよ」
「おはよう。トイレ……はないよな。やっぱりその辺の草むらで?」
「私に聞かないで。この辺りに人工物は一切見つからなかったとだけ言っておくね」
ミサとは反対に落ち着きなく当たりの茂みを弄っていたスミレは、数本の花を摘んでまた彼女の横に戻ってきた。ミサの髪に花を挿すスミレが、何やらもぐもぐと口を動かしているのに僕は気がついた。
「お、食いものあった?」
「いっぱいあった。ここの果物、たぶん大体食べられるよ。一応知らない種類のものは食べてないけど、私が知ってるだけでも色んな種類の果物がある。グミ、ヤマボウシにヤマモモ、ナナカマドとか。ほら」
指さした先は寝ていた僕の枕元で、そこには熟れた木の実がこんもりと小さな山になって積まれていた。
「ありがとう。朝食付きか、すげえ森だな。あとは天井と布団があれば言うことなしなんだけどな」
そう言って僕は笑ったが、スミレは笑わなかった。
「でも、変なんだよね」
「ん?何が?」
「色んな果物や花がありすぎるの。自生地も、花開く時期も実のなる時期も違うはずの植物が、みんな揃って旬を迎えてる。なんでだろう……」
思わず空を仰ぎ見た僕たちをクスクス笑うように、森の花々は風に揺れていた。


***
お花を摘みに行っていたイブキが帰ってきて、あっさりと答えた。
「ここが楽園だからだろ。いわゆるエデンの園だ」
イブキの言葉に、ミサとスミレもやはりと頷いた。エデンの園の物語は聖書の中でも有名な逸話だ。彼女たちも薄々気づいていたのだろう。
創世記の天地創造の物語は、旧約聖書の初めの箇所だ。神は、6日間をかけて天地とそ万物を造り、それらを祝福した。そして最後に泥をこねて人「アダム」を造り、その肋骨からもう一人の人「エバ」を生んだ。2人が暮らすことになったのが、「エデンの園」である。
僕は、改めて自分がどこにいるのかを意識した。楽園。人が最初に置かれた場所。好ましいもの、美しいもの、善いものだけで満たされた場所だ。森には暖かな光が降り注いでいたが、木々が涼しい陰をいくつも落としているので眩しくはない。頬を撫でる柔らかな風がこう行っているようだ。「ここは祝福された場所、偉大なる方の箱庭。罪と恥と悪いものの全てはここには存在できない……」
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