プロローグ

文字数 1,753文字

中学校に入る少し前、母に連れられて行った古い教会で、僕はシオンと出会った。シオンは他の誰とも違っていた。シオンは、一面を緑で覆われた沼に咲いた一輪の蓮花のように、他の人々から浮かび上がって鮮やかに見えた。何故かはわからない。彼女は別に容姿がとびきり美しいという訳ではなかった。ただ、静かに牧師の説教を聴くその背中に、幼い僕は心を惹かれたのだった。
彼女に会いたくて、それからも僕は教会に通い続けた。
聖書には「雅歌」という章があった。神への愛を恋になぞらえて謳う章だ。それを読みながら、僕はその美しい言葉に彼女の影を重ねた。「唇は紅の糸。言葉がこぼれるときにはとりわけ愛らしい。ベールの陰のこめかみはざくろの花…」
僕の中で信仰と恋は似たものだった。それは、純粋なものへの遠い憧れだった。

やがて僕は中学生になり、孤独になった。教会に通い聖書を読む僕は、周囲の中学生たちには「変な生き物」に見えたのだろう。クラスメイトは僕をからかった。からかいはやがていじめに変わった。
「メシアがいるなら助けてもらえよ。カミサマに祈れよ、俺たちを罰してくださいって」
僕はその嘲りに言い返せなかった。自分の身を守る術も知らなかった。転校したいと言った僕に、敬虔なキリスト教徒である両親はこう言った。「祈りなさい。そうすれば神様がかならず良いように取り計らってくださる」
僕はもう死ぬほど祈っていた。でも、両親は祈りが足らないと言う。家にも学校にも逃げ場を見つけられず、どうしていいのかわからなくなった僕は、教会に行くことにした。あそこなら、少なくともそっとしておいてもらうことは出来る。

思った通り、教会は静かだった。日曜ではないので礼拝に来る人々もいない。重い木の扉を肩で押し開けて、静かな礼拝堂に滑り込んだ。誰にも邪魔されない場所。誰にも罵られない場所。ただ、静かに居ることが許される場所。僕はこの場所が好きだった。椅子の上に、誰かが置いていった聖書が広げてあった。開いたページを眺め、僕はある個所を小さな声で読み上げた……
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのか…」
「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」
思いがけず、背後から応える声が飛んできた。驚いて振り向いた僕は、憧れていた少女が部屋の隅にそっと座っていたことに気がついた。並んだ椅子の影にしゃがみ込んでいた彼女の姿は、ぼんやりとしていた僕の目には全く映っていなかった。シオンは僕に笑いかけて、僕が読み上げた箇所について教えてくれた。
「十字架につけられたイエスの最後の言葉、『わが神、なぜわたしをお見捨てになるのか』。絶望と嘆きの言葉だと思われることが多いけど、別の説もあるんだよ。詩編の二十二章を唱えようとしたんじゃないか、って説。私が今言ったのが、その続き。」
「…二十二章?どんな内容だったっけ。」
「二十二章は、祈りの言葉だよ。最初は嘆きで始まるの。神よ、なぜ呼び求めても答えてくださらないのですか、って。苦しみを謳うの。でも、最後は神の賛美に繋がるの。『わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え 主のことを来たるべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。』って。これは、苦しみの中でも希望と信仰を忘れない祈りなの。」
シオンは聖書に詳しいようだった。
「僕は苦しいときは希望を忘れるよ。今もだ」
「苦しいの?」
シオンは立ち上がって僕の隣に来て、僕の顔を覗き込んだ。彼女の瞳は綺麗な薄茶色をしていた。優しい彼女の声に導かれて、僕は自分のことを語った。学校で孤独であること、両親は状況を変えようとはしてくれないこと、行き場所がなくなってしまったこと。言葉に詰まりながらだったが、シオンは真剣な表情で僕の言葉に耳を傾けてくれた。そして、僕のために泣いてくれた。自分のために涙を流す人を見たとき、僕は自分が孤独ではなくなったことを知った。その時、憧れは恋になった。
それからしばらくの間、僕は学校を休んだ。学年が変わるとまた登校を再開したが、新しいクラスでは僕が虐げられることはなかった。

それから1年が経ち、僕が中学3年生になったある日、シオンは姿を消した。
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