楽園に潜むもの

文字数 3,492文字

ミサとスミレが花と戯れて遊ぶのを横目で眺めながら、僕はイブキに尋ねた。
「近くに人の気配はなかったか?」
「なかったな。獣や虫はいたけれど、人間のいる痕跡は何も見なかった。ただ、僕たちの時代には滅びている動植物を見かけたよ。」
イブキは古い自然が残る様について僕に語って聞かせた。知的好奇心の強い彼の嬉しそうな顔を見ながら、僕も面白く古生物の生態の話を聞いた。だが、あまりに生き生きと語る彼の顔を見るうちに、ふと腹の底に疑問が芽生えた。

イブキは、シオンが心配ではないのだろうか?ミサも、スミレも、みな夢の中に入り込んだような美しい自然の園を楽しんでいる。しかし、シオンがいなくなってからもう2週間経っているのだ。彼女の身に何かが起こっているのではないかと、心配して僕たちは集まったのではなかったのか。天使は、僕たちを花遊びのために大いなる物語の中に導きいれたのではなかったはずだ。なんで彼らはこんなに楽しそうにしているんだ?

そんな不快な感情を自覚すると、急に豊かな森の自然も興味深い動物の生態も色あせて見えた。そんなものに気を取られて友の危機を忘れるイブキたちに対しても、苛立ちが沸く。僕はイブキの話を遮って、唐突に言った。
「シオンを探してくる」 
いきなりの宣言にぼかんとしたイブキを置いて、僕は寝床を離れて森に踏み入っていった。シオンへの心配と、焦りと、怒りとに 囚われた僕は冷静ではなくなっていた。待てよと声を掛けるイブキを無視して、柔らかい下草をかき分けて速足で彼らから離れる。一緒に行くから待て、という声にも耳を貸さない。追いつくのを諦めたイブキが後ろから叫ぶのが遠く聞こえた。
「僕たちはこの木の近くにいるからな!迷うなよ!それから、知らないものは僕の確認をとらずに食べるなよ!」
僕は返事をしなかった。振り返ることもしなかった。

みんな能天気すぎる。友達が2週間も姿を消しているのに、ぼんやり遊んでいるなんてどうかしている。僕には理解できない。やれ花輪だ、植物の分布だ、ジュラ紀の苔を見つけただのと、くだらないことばかりだ。シオンはたった1人で聖書の中を彷徨っているんだぞ。僕たちのいる楽園ではなく、異国の町や荒れ野にいるのかもしれない。なのに……。

そんな気持ちが僕の頭を支配していた。シオンへの想いと、のほほんとしたイブキたちへの怒りに気を取られ、行く先も考えず森に踏み込んだ自分の無計画さには気がついていなかった。だんだんと高くなる下草を踏み分け、僕は進み続けた。
しばらく歩くうちに、水の音が聞こえた。ハッと我に返って立ち止まり、耳をそばだてる。川があるのだろうか、微かに水流の音が聞こえた。
僕は息を付き、辺りを見回した。夜を明かした樹のある場所から15分ほど歩いただろうか。拓けて草原のような場所に面していたさっきの場所とは異なり、今いるところは木々の密度が高く、薄暗かった。辺りは数メートルもある木と腰に届きそうな硬い下草に覆われ、葉が厚く茂って空もあまり見えなかった。さっきまで花々を揺らしていた風も鳴りをひそめ、不安になるほどの静寂があたりに満ちていた。鳥の声も、草木が揺れる音もしない。僕は急に不安になった。ここも「楽園」なのだろうか?先ほどとは明らかに何かが違う。
と、少し先に拓けた明るい場所があるのに気がついた。高くなってきた下草を踏み分けて、そこに進み入る。

そこには、一本の木があった。どの樹も青く茂るこの森で、ひときわ豊かに枝を広げている。背は高くなく華奢だが、美しい樹だった。柔らかな丸い葉をまばらにつけ、風もないのに何故かゆらゆらと揺れている。僕は吸い寄せられるようにその樹に近付いた。すると、葉の間に鮮やかな赤が見えた。そっと手で葉をどけると、瑞々しく熟した実が生っている。僕は急に喉の渇きを覚えた。朝起きてから、まだ一滴も水を飲んでいない。赤い実は、弾けそうなほどに水気を帯びて見えた。
『僕の確認をとらずに食べるなよ!』
イブキの叫びが脳裏をよぎって、一瞬手を引っ込めた。しかし、友人の指示に大人しく従おうとする自分に腹が立ち、また手を伸ばした。赤い実を2、3個掴み、ぐっと引っ張った。

「危ない!」
飛んできた何かに押し倒されて僕は倒れ込んだ。右半身が地に叩き付けられる。下草の葉に顔を引っかかれ、痛みが走る。
「うおっ。ミサか!?なんだよ!」
「動かないで!!!」
僕を抑えるミサの腕には物凄い力がこもっていた。軋みそうなほど強く腕を握られている。
「蛇が……」
言われて、僕も気がついた。背中に氷が流れたような気になる。
そこには、鎌首をもたげた巨大な蛇がいた。大きい。ものすごく大きい。頭は大人の拳ほどだが、顎を開けば人くらいは呑めそうだ。胴は、僕の太もも…いや、腰ほどの太さがある。長さはどのくらいだろうか。2,3メートルどころではないだろう。

大蛇の頭は、まっすぐにこちらを向いている。距離はわずかに数メートル。僕を押し倒したミサの体が、細かく震えていた。
「ボアだ。数千年前に滅びた巨大な蛇、ティタノボア……」
ミサが飛び出してきた茂みから首を覗かせ、イブキが低い声で囁いた。
蛇は変わらず頭をこちらに向けている。木漏れ日が黒い鱗の上を走り、その艶やかな体を照らす。その目は虚ろで意志を伺うことはできないが、僕に注意を向けているのは確かだった。イブキがミサと僕に静かに手を差し伸べた。
「こっちに来い。ルチアを呼ぼう。聖書の外に出るんだ」
僕は動けなかった。僕たちの間の緊迫した雰囲気が蛇を止めている。イブキの方に走り出せば、大蛇は釣られて動き出すだろう。巨大な蛇と追いかけっこをする気にはなれない。
と、急に強い風が吹いた。周りの木々が空気に揺さぶられ大きく軋む。赤い実をつけた華奢な木も、ぶわりと翻った。蛇は物音に気を取られ、頭を背後に向けた。
「いまだ!」
イブキが低く叫ぶ。ミサが乱暴に僕の襟首を掴んで引き起こし、2人は転がるようにイブキの元へ走り寄った。3人で玉になった上にどこからかスミレも飛びついてきて、4人はもみくちゃに絡まった。スミレがイブキに叫ぶ。
「創世記!蛇が出てくる章!最後の節、なに?!唱えて!」
「『こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。』!!!」


***
4人は折り重なって、暗い牧師室の床に倒れ込んだ。一番下になって3人分の体重を乗せられた僕は、文句を言う気力もなく、潰されるに任せることにした。
「っあー……。あっぶねー。」
「肝が冷えた……」
「蛇、でっかかったね……。10mくらいあったんじゃない?」
「いやでも、ボアは毒のない種類だから、そこまで危険はなかったぞ。絞め殺されさえしなければ死ぬ恐れはない」
イブキがもぞもぞと僕の上から降りながら知識を披露した。
「そうだな、絞め殺されさえしなければな」
疲弊しきった僕たちを面白そうに眺める天使がいた。ルチアだ。
「あっはー。大変だったみたいだね。『蛇の誘惑』の章は」
その言葉で、僕はハッとした。拳を開くと、潰れた赤い果実がある。滴る汁は血のような色をしていた。スミレがうっとのけぞる。
「は?『知恵の実』、持ってきちゃったの!?」
「そうみたいだ。そうか、これがあの『知恵の実』。んー、結構いい匂いだ」
そう、エデンの園の物語には続きがあった。園の中央には「善悪の知識の木」がある。その実は食べることを神に禁じられているが、蛇が取って食べるよう誘惑する。それが有名な『知恵の実』。今、潰れて僕の手にべったりとへばりついているのも、それだ。

僕は、手に着いた赤い染みを上着の裾でこすりながら考えた。あの大蛇は僕に誘惑の言葉を投げかけることはなかった。でも、僕は誘惑を受けた。僕を愚かにし、木の実に手を伸ばさせたのは、僕の中にとぐろを巻くものだった。友への不信だ。僕は、手に着いた汁を綺麗にふき取ると、3人に向き直った。
「……危ない目に合わせてごめん。僕は勝手に歩き出したのに、後を追ってきてくれたんだな。ありがとう」
ミサは静かに笑って、何も言わなかった。スミレはべっと舌を出す。イブキは、いつものように僕の肩をぱーんと叩いた。
「シオンが心配だったんだよな、わかってるよ。どんどん動くのはいいことだ。でも、次回からは単独行動は禁止な!」


***
創世記2章18節『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』
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