第6話 一月目 其の二 今ここに俺が来なかった?④

文字数 7,933文字

「さあ、行こうか」

「ん? ああ」

 慧乃に登山の再開を促され、ようやく足を動かし始める。
 慧乃の後に続いてしばらく歩くと、綺麗に舗装された石の道に行き着いた。直ぐ先には長い長い石造りの階段が待ち構えている。

「階段か……」
「上はお寺なの。時間はまだあるし、少し急かも知れないけれどゆっくり登りましょう」
「……ああ」

 気遣ってくれているのか、長い階段を一段ずつゆっくりと登っていく。先程座って話したのはこの階段の前に休憩しておくという意味もあったのだろう。頂上までかなりありそうだ。

 階段はきついが、暑さはそれ程感じなかった。階段の両脇に植えられた木々の青々とした葉が屋根となり、日差しは柔らかな木漏れ日となってふんわりと降り注いでいた。

 ふと幅の広い階段の両端に、石像が並んでいることに気がついた。
 仏像のようではない。人間をデフォルメしたのだろうか。可愛らしい、アニメ絵のような独特の形状をした石像であった。

 大きく口を開けて笑っている男、巨大な荷物を担いだ女、飛行帽を被り空を見上げる男、背中を合わせた双子の女、両手を合わせ目を瞑る坊主頭の男、か細い火を灯した蝋燭を持つ女――石像の形状は千差万別で、流して見ても同じ物は一つとして存在しなかった。

「慧乃、この石像は何なんだ? 仏像には見えないが」
「そうかな? 私には仏像に見えるけれど」
「仏像……か? そもそも仏像って何だっけ」
「それは是非自分で調べてみて欲しいな」

 笑顔で言われるとなんとも反論しづらい。その場は適当に、覚えていたら調べておくとだけ返しておいた。

「今日は君と出会えて良かったよ」
「どうした、突然」

 唐突に慧乃が口にした台詞に思わずたじろぐ。

「君が以前私と会ったことがあるような気がしていたように、私も君とは、以前から会っていたように思うよ」
「実際まるで別人のようだ」
「そうだとしても、さ。こういう運命だったのではないかって思わずにはいられないよ」
「というと、お前も何処かでよく似た奴に会ったのか?」
「いや、そういう訳でもないのだけれど」

 言って、慧乃は一段飛ばしで軽快に階段を登り始めた。
 そして踊り場のような場所で足を止めると、手を振って早く上がってこいと催促する。仕方なく小走りになって駆けつけた。

「走らせてしまってごめんなさいね」
「構わんが、何があるんだ?」

 尋ねると、慧乃がすっと細く白い指で傍らの石像を示した。
 見ると、薙刀のようなものを肩に担ぎ、片手を腰に当てて足を肩幅に開き、伏せた目で睨みをきかしながら威風堂々と立つ女の石像があった。
 線の細い美しい顔立ちに、ほっそりとした体。そしてその体によく似合う長い髪をした女の像だった。

「これは――お前なのか?」
「そう見えるでしょう?」

 と言うよりも、そうとしか見えなかった。
 頭身や顔の造りはだいぶデフォルメされてはいたが、確かにこの石像は慧乃の特徴を捉えていた。
 よく目をやると、台座には文字が刻まれている。


『門なき道に立ち塞がり 無という関と成す』


 慧乃の呪いを現しているようにも思えるその文字に息をのんだ。

「それで、こっち」

 今度は階段の丁度反対側にある石像を示すので、顔を上げてそちらへと目をやった。
 果たしてそこには、晴れ晴れとした表情をした、登山服姿の男の石像があった。
 そしてその男には、強い見覚えがあった。

「まさかこれ――」
「私には君に見えるよ」
「いや、そうだとしてもだな――この山に来るのは今日が初めてだぞ」
「だろうね。ちなみに私の石像も、私が初めて来たときには置いてあったよ」
「一体どうなってんだ」
「どういうことだろうね。誰が作っているのかきいて回ったこともあったのだけれど、結局分からず仕舞いだったよ」
「誰が作ってるのか分からない石像か……。にしてもなんだこの石像の顔は。今にも「そこに山があるから」なんて言い出しそうな顔しやがって」
「言っても良いよ?」
「言わねえよ」

 視線を下へやって台座を見ると、慧乃の石像と同じように文字が彫ってあった。

「『常に飽くことなく山の頂を目指す』――って、もう半分で飽きてるんだが」
「え? まだ三分の一も登ってないよ」
「何だって?」
「まだ半分どころか三分の一も登ってない」

 慧乃はきっぱりとそう言い捨てた。

「頼むから嘘だと言ってくれよ」
「言っても良いけれど、山頂は近づいてきてくれたりしないよ」

 ごもっともだがまだこの登山道が三分の二以上――更に登った後は下る必要があることを考えてしまうと、どっと疲れが沸いてくる。ああもう、全部投げ出してしまいたい。

「私の足で登りは三時間かからないくらいかな。安心して。時間は十分にあるもの。焦らずゆっくり行こう」

 朝早く出てきたことが唯一の救いだろうか。恨むべきは何の装備も持たずのこのこ山にやってきた自分自身。1キロくらいなら余裕とか思っていたあの頃の自分に会えるのならばぶん殴ってやりたい。

「それじゃあ出発しようか」
「ん、ちょっと待ってくれ」
「どうかした?」

 呼び止めると、階段に片足をかけた慧乃が振り返る。

「もしかしてこれって、さっきの男の石像もあるんじゃないか?」
「ああそういうことか。きっと探したら見つかるだろうね」

 ちょっと探していかないか、と口に出しかけたが、慧乃の背後に伸びる、一番上の見えないほどの長い階段を見て思いとどまった。

「探してみるのも良いかもしれないけれどね、本物の彼がどんな人物か、君は気にならない?」
「誰かさんのせいで気になって仕方がない」
「それは申し訳ないことをしたね」

 慧乃は微塵も悪びれた様子を見せず、笑いながら言った。

「なら本物の彼に会ってみたいと思わない?」

 ――人成山の起こす不思議な現象。

 今朝、慧乃と山を登り始めてからずっとつきまとってきたあの男。
 男の謎が解けるのであれば、本物の彼という一人の男に会えるのであれば、是非とも会ってみたいものだ。
 するとそんな表情を読み取ってか、慧乃がにんまりと笑って口を開く。

「でしょう? だとしたら石像で彼の本当の姿に少しでも触れてしまったら勿体ないよ」

 何となくだが、慧乃の気持ちも分かるような気がした。しかしこんな答えのない問題を、どうやって解くつもりなのだろうか。

「本物のあいつに会う方法は分かるのか? 何のヒントもなしで」

 質問に、慧乃は薄い胸を張って答えた。

「ヒントなら彼がたくさんくれたじゃあないか。今度は私たちが、彼にヒントをあげる番だよ」
「――ヒントをあげるって、つまりどういうことだ?」
「それは彼とまた出会ってからのお楽しみだね。気づいてくれると良いのだけれど」

 言って、慧乃は階段を上り始めた。駆け足で後に続き、二人並んで長い長い階段を一段ずつ上っていく。

「しかし慧乃。お前はあいつが――」

 尋ねようとしたところで、慧乃が手のひらをこちらに突き出した。
 制止かと思ったが、どうやら数字の五を表しているのだということに、その後の問いかけで理解した。

「さて、第五問。最後の問題です。心の準備は良いかな?」

 いよいよ最後の問題か。準備なんて出来ちゃいないけれど、こちらの言葉を遮ってわざわざ出題するのだ。つまりはそういうことなんだろう。

「出来てるよ」
「よろしい」

 返事に微笑んで、慧乃が最後の問題を口にした。

「彼は今、何処にいるでしょう」

 予想したとおりの問いに、予定したとおりの解答をする。

「さあ、さっぱり分からない。丁度それをきこうと思っていた所なんだ」

 解答の放棄にも、慧乃は笑顔のままだ。柄にもなく演技混じりで答えたせいか、慧乃も仰々しい口ぶりで問いを重ねてきた。

「君は彼に会いたいのかね?」
「会いたいね。お前はどうなんだ?」
「私も会ってみたい」

 慧乃は一つ頷いて、更に付け足した。

「彼もきっと、君と私に会いたいと思ってくれているよ」
「そうか? 一人殴っちまったんだが、怒ってないかな」
「彼のためだったのでしょう? おそらく彼も分かってくれるよ。だから、きっと会える」

 慧乃は含み笑いで答えた。

「根拠はあるのか?」

 言ってみてから、意地悪な質問だったかも知れないと思った。人成山におおよそ根拠の存在する出来事などあるとは思えないからだ。それでも慧乃は、いつもの調子を微塵も崩さない。

「彼が私たちに会いたいと思っている以上、会えるよ。彼の呪いは、そういった種類のものだと思う」

 へえそうかい、なんて空返事したが、慧乃の言葉には明確な根拠なんてなくても、強い意志が宿っているような気がした。

「さて、ようやく階段も終わりだね」

 目線を上げると、階段の終点が確認できた。その向こうには荘厳な屋根をした大きな寺院が見える。

「それでも山頂はまだまだ先か」
「まだまだ先だねぇ。でも安心してくれよ。ここまで来たのだから、君が私の事を迷惑と思わないのならば、最後まで付き合うつもりだよ」
「迷惑だなんて思わないさ。頼りにしてるんだ、是非最後まで頼む」
「任せといて! ――たまには頼られるというのも良いものだね」

 ご機嫌な慧乃と並んで、階段の最後の一段を超えた。
 新緑の屋根が途切れ、太陽の光を直接浴びる。気持ちの良い、初夏の日差しだった。

「さて、見てごらん。あそこに誰かいるようだよ」

 慧乃が示したのは、目の前の寺院に続く石段へ腰掛けた一人の男。
 短パンにTシャツの軽装で、歳は同じくらいだろうか。黒い短髪の爽やかそうな青年で、目が合うと白い歯を見せて微笑んだ。

 そして案の定、その男には今までに出会った男達の面影が確かにあった。
 慧乃の言葉が蘇る。――会いたいと思っている以上、会える。その言葉通り、姿は違うものの、確かにあの自分を探し求める男が目の前に存在していた。

「ねえ君、ちょっといいかい?」
「どうした?」

 慧乃は、日が当たり白く光る顔にいつもより眩しい笑顔を貼り付けて、こちらの顔をのぞき込んだ。返事をすると更に笑顔を増して続ける。

「今回は私に任せてみてくれるかな」

 手出しは無用ということだろうか。個人的には男と話したいこともあったが、慧乃が一体どんなやりとりをするのか大いに興味をそそられ、されどそんな様子を悟られぬよう、小さな声で返答した。

「構わないさ」
「どうもありがとう。少し長くなるかも知れないけれど、大丈夫かな?」
「登って下る時間を残しておいて貰えればそれでいい」
「うん。きっと、そこまで長くはならないと思うよ」

 言い終わると慧乃が男の元へ歩き出すので、後ろについて男の元まで同行した。

「やあ、また会ったね」

 慧乃が男に明るい声をかける。
 慧乃の答え合わせが幕を開けた。

「貴女のような綺麗な人とは初めて会うよ」
「あら、そうかしら」

 歯の浮くような男の台詞にも慧乃は動じずに話を続ける。

「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね! って、覚えがないかな?」
「ああ、あのときの!」

 慧乃が腰に手を当てて例の台詞の大人しいバージョンを披露すると、男は慧乃のことを思い出したようだった。

「覚えていてくれて嬉しい限りだね。ところで、あなた随分と明るくなったようだね。最初はあんなに静かで、私と口もきいてくれなかったのに」
「そうだったかな?」
「そうだったよ。どちらが本当のあなたなのかな?」
「どちらだろう――そういえば、なんで今こうしてあなたと話していられるんだろう」
「ちょっと顔見知りなのね」

 慧乃がはにかんで尋ねると、男はだいぶかも知れないと、照れた様子で答えた。

「ああそうだ。性別は男で間違いないよね」
「どうしてそんなことをきくんです?」

 男が動揺して尋ね返す。

「あらごめんなさい。変なことを尋ねるのが癖みたいで。そうだね――質問を変えよう。あなたは。女の子になりたいって思うことはあるかい?」
「ま、まあ、考えてしまうこともあるよ」

 男は今度こそ顔を染めて、恥ずかしそうにしながらも慧乃の質問に答えた。

「小柄でくりっとした目の、可愛らしい子が好みなのよね」
「なんでそんなことまで分かるんです?」
「おかしな事をきくねぇ。あなたが教えてくれたのでしょう?」

 小さく笑う慧乃に、男はそうだったかなあと呟いた。

「そう、胸は大きい方が良いんだね。――少なくとも私よりは」

 慧乃の言葉に男はしどろもどろになりながら答える。

「い、いやあ……まあ、そうかもね――もう少し大きい方が……」

 目を逸らしながら答える男の解答をききながら、慧乃は笑いを堪えているようだった。どうも今のは慧乃なりのジョークらしい。――かなりきわどい自虐ネタであったが。

「でもあなたのような――その……」

 段々と小さくなる男の声。仕舞いには口は動いているのに、何もきこえなくなった。

「続きをききたいわ。あなたのような――何かしら?」

 慧乃は相変わらずの上機嫌で、表情に笑みを絶やさない。

「それは……ええと――」
「あなたのような綺麗な人――ね。でもその台詞は、あなたには似合わないかも知れないね。無理に自分を作ろうとしなくてもいいと思うよ」
「そうみたいですね……」

 顔を真っ赤に染め上げてしまった男に対して、慧乃は質問を続けた。

「登山とか、好きなのかな?」
「登山、ですか? 正直したことないです」
「あら、それじゃあ運動は得意?」
「運動はあまり……」
「スポーツとか出来ると良いなって考えたりすることはあるかい?」
「考える事もあります。結構インドア派ですけど」
「そっか。私と同じだね。インドアって具体的にどんなことをするのかな?」
「うーん、読書、とか?」
「読書! うんうん、私も好きよ! お休みの日は一日中書斎にこもったものだわ。ちなみにどんな本を読むのかな?」
「どんな――軍事物の、小説とか――?」
「ああ、ミリタリーってやつだね。やっぱり強くてたくましい軍人さんに憧れたりするのかい?」
「そーう――ですね。そうかも知れません」

 男は慧乃から繰り出される質問に、戸惑いながらも律儀に一つ一つ答えていった。

 慧乃の質問はしばらく続き、男の顔に疲れが見え始め、慧乃の声が少しばかりかれてきた頃、ようやく満足したのか慧乃が質問を区切った。

「いろいろ尋ねてばかりでごめんなさいね。でも、そのおかげで本当のあなたが見えてきた気がするの」
「なんだか、恥ずかしいです」
「そうね。そうかも知れないね。でも最後に一つだけ、どうしてもきいておきたいことがあるのだけれど、いいかな?」

 慧乃が白く細い人差し指をぴんっと立てて、控えめに男の眼前へと突き出した。男は迷うことなく首を縦に振る。
 慧乃は微笑んで、明るい口調で語りかけるようにして男に尋ねた。

「どうかな? 自分は見つけられそうかい?」

 男はそっと俯いて、目を閉じた。
 たぶん、最後の質問に対する答えを考えているのだろう。
 しかし直ぐに顔を上げ、目を見開いた。
 その目は今まで見てきた男の目とは違う、迷いのない確かな意志を秘めていた。

「はい、見つけられそうです。――――ずっと、ここにいたんですね」

 慧乃に向かって微笑む男の表情は、初夏の晴れやかな空のようにすっと澄み渡っていた。
 風が吹き、木々の葉が揺れた一瞬に、暖かな日差しが男を包み込んだように感じた。


「道に沿って歩いて行けば下山できるよ」

 しばらくして、慧乃が男へと声をかけた。

「はい。お世話になりました。――えっと……」
「六宮慧乃よ。慧乃で良いわ」
「えの――変わった名前ですね」
「よく言われるわ」

 深々と頭を下げた男は名残惜しそうに慧乃に別れを告げ、ついでにこちらに軽く会釈すると、ゆっくりとしたおぼつかない足取りで長い長い階段を下って行った。
 じっと男の後ろ姿を見つめていたが、男の姿が見えなくなると、気になっていたことを慧乃へと尋ねた。

「人が変わったように見えたが。一体何があったんだ?」

 質問に、慧乃は小さく笑った。

「彼の呪いは、自分を見つけることでしょう?」
「ああ、そうだったな」

 頷いて、続きを話すように促す。

「自分を見つけたから呪いが解けたのでしょう。だから下山するの」
「いやいや」

 首を横に振って発言を否定した。あの男の呪いは自分を見つけ出すこと。だが――

「まだ捕まえてないのが何人かいただろう」

 その言葉で、慧乃は堪えきれなかったのか声を出して笑った。

「何がおかしい」
「ごめんなさい。つい、ね――」

 謝りつつも、手で口元を押さえて未だに笑い続けていやがる。
 だが、笑いすぎたせいで潤んだ鳶色の大きな瞳の奥に、見るからに不機嫌そうな表情をした男の姿を映すと、笑うのをやめて語りかけるように言葉を発した。

「君は何処にいるのかな?」
「はあ? 何言ってんだ、ここにいるじゃないか」

 ぶっきらぼうに口にすると、慧乃はまた小さく笑った。

「そう。何時だって自分はここにいるよ。だから、わざわざ余所に探しに行く必要なんてないのさ」

 その言葉で、今までの自分の考えが根本的に間違っていたのだと気がついた。
 そっと胸に手を当ててみるが、そんなことをするまでもなく、確かに自分はここにいる。

「人成山に登ると言うことがどういうことか、理解出来たかな?」
「人成山に登る、ねえ……」

 人成山に登るというのは、ただの登山とは訳が違うようだ。流石は呪われた人間しかたどり着けない山だけのことはある。

 それにしても、人成山、ねえ。

「何か考えごとかい?」

 参道の脇に立つ『人成山山頂はこちら』の立て札を見つめて考えごとをしていると、ほんのりと微笑んだ慧乃が尋ねる。

「くだらんことだ」
「是非教えて欲しいよ」

 男の呪いを解決したことで、慧乃の興味の対象はすっかりこちらへ移ったようだ。
 どうも逃れられそうもないので、素直に疑問を口にした。

「人成山って何で人成山って名前なのかって考えてただけだ」
「へえ、それは良い疑問だね。それで、何故だと思ったのかな?」

 考え込むとまたうるさそうだと、考えついたことを順序立てて口にしていった。

「字だけ見ると人に成る山ってことか。呪われた人間が、呪いを解いて人に成るための山――」


 言葉を区切るが、慧乃は何も言わない。
 当たっているのか外れているのかも言わず、ただ微笑んでこちらの顔を見つめている。
 そんなものだから続けて口を開き、ふと新たに思いついた疑問を尋ねた。

「――人成山が人に成るための山だとしたら、人に成る前は一体何だって言うんだ?」
「人に成る前、ねえ」

 笑うだろうと思っていたが、案の定慧乃は笑った。全くもって憎たらしい。

「君はどう思うのかな?」

 まるで宝石のように爛々と輝く大きな鳶色の瞳に顔をのぞき込まれ、言葉が一瞬詰まったが、その輝きに負けじと返答する。

「分からないからきいてるんじゃないか。たまにはすっと教えてくれても良いだろう」
「うーん、そう言われてもねえ……。君は答えを既に持っているはずだよ」
「そうか?」

 分からないからきいているのに、答えを持っていると言われても困る。真剣に”真剣に悩むふり”をしていると、慧乃が折れて口を開いた。

「今の君は何なのかな?」
「――人間のつもりだが……?」

 他に答えようがなくそう口にした。

「ほらね。やっぱり持っていたじゃないか」

 慧乃は笑ってみせる。

「いや、全然分からん」
「つまりだよ、人成山は、人が人に成る場所ってことさ」

 人が、人に……?
 悩んでいると、慧乃は優しく微笑んで「違うかい?」と問いかけてきた。

「……言われてみたら、そうかもな」
「だろう? さあ、すっきりしたところで登山再開としましょうか」
「ああ、そうだな」

 顔を上げ、慧乃が杖で指し示す看板の向こうの道を睨んで、ようやく人成山登山の第一歩を踏み出した。
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