第2話 一月目 其の一 ここを通りたければこの私を以下略
文字数 9,108文字
山に登ろう。
そんな風に考えたのはいくつの時以来だろうか。
いや、山に登りたい訳ではない。ただかけられてしまった呪いを解くために、山頂を目指すというだけのことだ。
あの女の死から数日経過していた。身寄りのなかった女の簡素な葬式を終えた後、ひとまず人成山について調べてみた。
隣の県にある、標高1010メートル程の山。ネットであれこれ探ってみてもそれ以上の情報は出てこなかった。人成山の呪いについて書かれた記事も1つとして見つからない。
ともかく所在地は分かったので近くの地図を調べてみたが、山の入り口付近までは詳しく記されているのにも関わらず、中がどうなっているのかはさっぱり分からなかった。
そんなこんなで、山についての調査はそこで切り上げ、呪いについての調査を始めた。
確かにあの女は呪いをかけたと言った。
しかし、呪いなどというものが存在するのだろうか。にわかには信じがたい話である。
なので、まずはそれを確かめる必要があった。
そうなのだ。仕方のないことだったのだ。
ここを明確にしなければ、先に進めない。
何しろ呪いが実在しないのであれば、わざわざ訳の分からない山に登る必要はないのだ。
そういった致し方ない事情から、預金を下ろし隣町の風俗店街へ足を運んだ。いや本当に不本意だったのだ。本当だ。
――結果として、どうも呪いは本物らしいということが判明した。
かけられた呪いは強力で、童貞卒業はおろか、女性に触れることすら許されなかった。
女の体に触れると投げ飛ばされたり、はじき飛ばされたり、触れた箇所に電流が流れたり、と物理的ダメージを負うのだ。
それでもめげずにチャレンジを続けると、現場に両親がやってきたり、相手の女が半裸のおっさんになったり、全裸のまま別の場所に転移したりと、精神面に深いダメージを与えてきた。
呪いは少しでも下心があると発動するらしく、顔見知りの女の手に軽く触れただけで数メートル空を飛ぶ羽目になり、駅前で露出の多い服を着たねーちゃんの胸元に視線を向けると眼球の奥が焼けるように痛んだ。
――そんなことはどうでもいい。
とにかく、呪いが本物である以上、なんとしてでも解かねばならぬ。下ろした預金と両親に頼み込んで借りた金を持って、バイクを走らせた。目指すはもちろん人成山だ。
ひとまず最寄りの町でホテルをとり、翌日の早朝、人成山へと向かった。
山の入り口は事前にネットの地図で確認した通りだった。
長らく使われていないであろう小さな古いバス停の脇にバイクを停める。他には誰も来ていないのだろうか? 近くを見回したが、長い間放置されているらしいハンドルのひしゃげた錆びだらけの自転車が1台、ぽつんと佇んでいるだけだった。
不安になり、登山道の入り口へと視線を向けた。
入り口に立つ石造りの大きな鳥居は、初夏の青々とした草に覆われていた。
しかし登山道の方は良く整備されていたし、最近人の通った形跡もある。
天気は良く、空は青々と晴れ渡り、新緑に覆われた人成山はその色の中に良く映えていた。いかにもさあ登ってこい、と言わんばかりである。
1つ深呼吸をすると、意を決して鳥居をくぐった。そのまま石畳の道に沿って足を進める。
緩やかな傾斜の道。時折階段もあるが、特段歩きづらいこともない。
少し行ったところに、また石造りの鳥居があった。
見るとその影に誰か居る。
鳥居に寄りかかり、片足を揺らしている。人を待っているのだろうか?
逆光に目を焼かれ、よく見えない。歩きながら目を細めその人物の様子を覗った。
太陽が木の陰に隠れ、段々とその人物が明らかになっていく。
その人物――女の姿に、目を見張った。
気配に気づき、女がこちらを向いた。
色は白く、しかし程よく朱の差した輪郭の柔らかな顔立ち。
顔を柔らかく包むなめらかな黒い髪は、ほっそりとした女の体に良く似合う長髪だった。
一見して、綺麗だ、という印象を受けた。しかし、目を見張ったのはその点ではない。
――その女は、病院で出会ったあの女と、瓜二つだったのだ。
女が微笑む。
向けられた笑顔も、病院で幾度も見たあの笑顔だ。
しかし、そんなはずはない――だって、あの女は、確かに、死んだのだから――
目の前の女はこちらの気持ちを知ってか知らずか、数歩歩いて鳥居の真ん中に立った。
変わった服装をしている。丈夫そうな生地で出来た、どこぞのRPGに出てきそうな女冒険者めいた格好。だけれど全体的に派手さはなく、山歩きでも使えそうな、動きやすそうな服装であった。
女は、その綺麗な顔に浮かぶ鳶色の瞳を、今までに見せたことない程に爛々と輝かせると、手にしていた杖のようなものを振りかざし、
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
――叫んだ。
いかにもRPGに出てくる序盤辺りの中ボスよろしく、その大してふくよかでもない胸を目一杯に張って、叫んだ。
今まで考えたこと。病院で会ったあの女のことを思い出していたことを忘れ、無心となって足を進め、その女の脇を通り抜ける。
「あれっ――ちょっと! きこえなかった!? ここを通りたければこの私を――」
「せやっ」
「ヴッ、お、おう――」
腹部に軽く一撃をいれると、女はその場に座り込んで大人しくなった。
下心なんて抱く余地がなかったおかげで、女に触れたにもかかわらず呪いによるダメージもない。
座り込んだ女を一瞥する。あいつは、こんな女とは違う。こんな奇行に走ったりしないし、ましてあいつは静かな病室ですら聴き取りづらい程の小さな声で話す、とにかく大人しい奴だったのだ。山中で叫ぶような変人と比べるのは失礼というものだろう。
第一、あいつは死んだのだ。この世にいるはずもない。
だというのに全く、少し外見が似ている程度でまた会えたなどと考えてしまうとは……。
ここ数日、色々なことがたたみかけるように起こったからだろうか、少し精神が参っていたのかもしれない。
更に言えば短い間ではあるが親しくしていた人間が目の前で死んだのだ。無理もない。
「う、うう……。きみ……」
座り込んだ女が弱々しい呻き声を上げながら、上目遣いでこちらを見据える。その鳶色の瞳は苦痛に歪みながらも、潤いを帯びてキラキラと輝いていた。
女がゆっくりと震える右手を伸ばしてきた。
掴まれると思い、咄嗟に後ずさって距離をとった。
「倒したから通るぞ」
さっさとこんなちょっと危ない女とは縁を切らねば。
言い捨て、登山を再開しようとしたが、女の次の言葉に思わず振り向いてしまった。
「ナイス、リアクションよ……」
「はい?」
女は真っ直ぐ伸ばした右手の親指をぐっと立てて、苦痛に表情を歪めながらも、確かに少し笑っていた。
ちょっと危ない奴だと思っていたが、全くの間違いだった。
――こいつは相当に危ない奴だ。今すぐこの場を離れなければやばい。
とにかくだ、今し方起こったことは全て見なかった――いや、なかったことにしよう。そして二度のこの女の相手はすまい。心に誓い、くるりと山の方へと向き直り登山道を歩き始める。
「ちょっと待ってよ!」
女の声が背中に投げかけられる。
きこえない。何も、きこえていない。
今この山は、しんとした夜の底のように静寂に包まれているじゃないか。
「早く呪いを解きたい気持ちは分かるけれど、ひとまず私の話をきいてくれても良いじゃない」
「何だって?」
寸前心に誓ったことなど忘れ、女の言葉に、再び振り向いてしまった。
女はしばらくもだえていたが、痛みが引いたのか、呼吸を整えてゆっくりと立ち上がり、服についた土を払う。
近くによって見てみても、やはり病院で出会ったあの女とよく似ていた。
「あんた、名前は?」
「六宮 慧乃 よ」
女は質問に直ぐ答えた。
口元に浮かべた笑みをこちらに向ける。あまり怒っている様子は見られない。
「変わった名前だな」
「良く言われるわ」
慧乃は答えて、地に落ちた杖を拾い上げると、手ではたいて土を落とす。
「それで、何で呪いのことを知ってるんだ?」
慧乃は呪いについて何か知っていた。それはもしかしたら、あの病院の女とこいつに何か関係があるからなのかもしれない。
だとしたら、確かめたかった。最期の最期まで全容のつかめなかった、あの女の正体に少しでも触れたいと思ったのだ。
「何故だと思う?」
慧乃はこちらの気持ちなぞ知ってか知らずか、相変わらず笑みを浮かべて、首をかしげて尋ね返してきた。
「質問を質問で返すなよ」
ぶっきらぼうに、そう突っぱねた。
「それもそうだね。だけれども君、質問するばかりじゃない。私にもききたいことはたくさんあるのだから、少しばかり答えてくれてもいいと思わない?」
慧乃は小さく笑うと、ね? と上目遣いでこちらの顔を見上げた。
一理ある、とは思ったものの、この慧乃という女。こいつの正体もなかなかにつかみづらい。女というのはことごとくこんなのばかりなのだろうか。
「それに、たまには自分で考えてみるのも良いものだよ」
「それもそうだ」
説教めいた言葉は気に障りもしたが、確かに自分で何も考えず全て他人にきくというのも情けない。少し頭を働かせてみよう。今まで人成山の呪いという得体の知れない存在のせいもあり思考を半ば放棄していたが、考えることはそんなに嫌いでもない。
さて、慧乃の質問を要約すると「自分が呪いのことについて知っているのは何故か」となるだろう。
もし――もしも、の話、慧乃が呪いをかけた張本人――病院の女と同一人物という事であれば直ぐに解決するのだが、生憎あいつは既にこの世にいない。
大体あいつは親族はおろか、知り合いと呼べる人間は病院内の人間だけだった。まさか姉妹がいたなんて事はないはずだ。
病院で知り合った男の話をするくらい仲の良い姉妹がいたのなら、そいつが一度も見舞いに訪れないなんてのはおかしな話だ。
とすると――
うつむいていた顔を上げ、目の前の慧乃へと視線を向ける。
慧乃は相変わらず微笑んでいて、答えを出すのを待っているのか、こちらの顔色を覗っている。
先程の奇行が嘘のように大人しく……
ああ、そうか。つまりそういうことなのか。
「呪われてるのか、お前も」
導き出した答えを口にすると、慧乃は大きく、オーバーなくらいに頷いて見せた。
「正解――でももう一歩かな」
「もう一歩だって?」
口にしてから、何が足りなかったのかもう一度考える。
慧乃は、自分が呪われてることは認めた。しかしそれではまだ『もう一歩』足りない。それが意味するところはつまり――
「まさかとは思うが、この山って……」
言葉に詰まる。が、その先を慧乃が引き継いで口にした。
「そう。人成山に訪れる人間は、誰もが何かしらの呪いにかかっているの」
全員、呪われているということか。
「より詳しく言うと、呪われていない人間は人成山にたどり着けないみたいだね」
「……そんなことが実際に起こり得るのか?」
信じ切れず尋ねたが、慧乃の答えは期待していたものと正反対のものであった。
「人成山では何が起こってもおかしくないの。ほら、君がかけられた呪いも、本物だったのでしょう?」
「――確かに」
事実、呪いは本物で、童貞卒業はおろか異性との接触すらことごとく阻害してきた。
ネットで調べても人成山の詳細な情報は集まらなかった。
何か、とてつもない力が働いていてもおかしくないのではないかと思えてきた。
「信じるほかなさそうだ」
「信じて貰えたようで嬉しいよ」
返答に慧乃はだいぶご満悦の様子だった。
「それで、お前の呪いはさっきの奇行とどういう関係があるんだ?」
「あれ? ああ、あれはそのまま私の呪いだよ。登山者の道を塞いで、ここを通りたければーってあの台詞を言うの。――千人分」
「千人って、大変だな……。いやそれにしても、言うだけでいいならあんな大声で叫ぶ必要も、演技だかなんだか知らんがよく分からんポーズも、RPGに出てきそうな女冒険者っぽい格好も必要なかったんじゃないのか?」
質問に、慧乃は小さく笑う。
「その通りなのだけれどね。でもせっかくやるのだから、できる限り本気でやりたいじゃない」
満足そうな表情を浮かべているが、さっぱり理解出来ない。
恥ずかしい罰ゲームも恥ずかしがって微妙な感じにするより、思い切って全力でやりきった方が恥ずかしくないとかいうアレだろうか。
「良い機会だからきくけれど、君の呪いはどういったものなのかな?」
「ん? ああ、山に登る呪いだよ」
別に隠すようなことでもないので素直に答えた。
慧乃は以前から人成山に来ているようだし、登山ルートについて何か教えて貰えるかも知れない。何しろ山の内部の情報は全く手に入らなかったのだ。教えてもらえるのならそれに越したことはない。
「へえ。そういう呪いもあるものなのだね。山に登る……か。それで、呪いの内容は?」
「はい? だから山に登るって――」
「えっと、それは解呪条件でしょう? そうではなくて、呪いの内容の方だよ」
「そりゃあ……」
答えづらい。
初対面の女に対して、「童貞が卒業出来ない呪いでーす」なんて、どんな顔して言ったらいいんだ。
「お前はどうなんだ?」
苦し紛れに、そのまま質問を返した。
「私かい? 私は呪いを解くまで胸がAカップ以上に成長しない呪いだよ」
「いや元からそんなもんだっただろ」
思わずつっこみをいれてしまう。
しかし言ってしまってから言わなければ良かったと後悔した。
慧乃が自分の呪いについてすんなり口を割ったこと――それ以上にその呪いのあまりにくだらない内容に衝撃を受けて、つい口を滑らせてしまった。
「全くもっておっしゃるとおりなのだけれどね――あれ? 何故知っているのかな? 初対面で間違いないよね?」
「初対面だよ。ただ、そんな気がしただけだ」
適当にはぐらかし、慧乃の興味を他へ向けるため質問を付け加えた。
「で、ならなんで呪いを解こうとするんだ? 元からだったら、わざわざ呪いを解く必要性なんてないだろ」
「そうかな? ほら、将来的に成長する可能性だってある訳だし」
薄い胸を覆う丈夫そうな服の生地をそっと押さえて主張するが、見たところ十代後半に見えるこいつの胸が、これから成長することはあるのだろうか? 詳しいことは分からないが、とてもそうは思えない。
いやしかし、あまり深く詮索することでもないか。――と思ったが、慧乃は重ねて口を開いた。
「それに、この呪いね、父が死に際にかけたのよ」
「父親が?」
いまいち何と返したら良いのか分からずどもっていると、慧乃が次の言葉を口にする。
「息を引き取ったと思った瞬間に眼をぱっちり見開いてね。看取った人全員びっくりしていたのだけれど、父は私に呪いをかけたきり動かなくなって、全く、呪いをかけられたことよりそっちの方が事件だったよ」
――あの時と同じ状況だ。
人成山の呪いというのはこういうものなのだろうか――深く考えようとしたが、慧乃が続きを話したそうにするので、相づちを打って先を促した。
「それで、私思ったの。父は死に際に、私に何か伝えたかったのかも知れないって。この呪いには、父の意思がある気がして。だから私は、それをどうしても確かめたくて、人成山に来たの」
「そりゃあご立派なことで」
正直な所、あの中ボスの真似事に深い意味などないように思えるのだが、考え方は人それぞれってものなんだろう。口ははさむまい。
「それで、君は?」
首をかしげ、顔を覗き込むようにして慧乃が尋ねる。
少しだけ、こいつの事が分かった気がする。こいつはとにかく、気になったことは尋ねなければ気が済まないのだ。人にはたまには自分で考えるのも良いとか言っておきながら、当人はとにかく質問魔なのだ。
「私がここまで話したのですもの。まさか君が答えないなんて事は、ないよね?」
不敵な笑みを浮かべて、重い声で呟いた慧乃は、先程のアレよりずっとボスっぽかった。
その迫力と今までの態度とのギャップからかなり驚いたが、どうも演技のようだ。直ぐに表情を戻し、小さく微笑んだ。
「どうしても嫌なら無理にとは言わないけれどね。人成山を訪れる人の事情は、人それぞれだもの」
「別に、あんまり大きな声で言えるような内容じゃないってだけだ。……他言は無用だ」
「もちろん。私、約束事はきちんと守るよ」
どうだか、とても怪しいもんだ。
それでも慧乃には話しても問題ないようの思えてしまうのは、こいつがあの何でも気兼ねなく話し合った病院の女に似ているせいだろうか?
「……呪いを解かないと、童貞を卒業できないんだ」
「え?」
真実を打ち明けたが、慧乃の反応は微妙なものであった。
きょとん、とした顔つきで中空を眺め、そしてうつむき考え込む。
「ごめんなさい。ドウテーて何かしら?」
真顔でそんな質問をしてきた。
「お前、何歳だ?」
「18だけれど、何か関係があるのかな?」
18にもなって童貞の意味を知らないだと!? 高三か大一の年頃の女なら知っていてもおかしくなさそうだが……。一体こいつ、どんな人生を送ってきたというのだろうか。
「知らないならそれでいい。――あと、人に意味を尋ねたりするなよ。お前のためにも、絶対に!」
「気になるけれど――うん、分かったよ」
慧乃は若干迷ったようだが、直ぐにこちらの顔を正面に見据えて頷いた。
その瞳があまりにもよどみなく澄み切っていたものだから、この話題についてこれ以上何か付け加えようという気を失わせた。
「ではどうして君は、山に登るのかな?」
慧乃が新たに口にした質問に、首をかしげた。
「すまん。質問の意図が全く理解できないんだが、呪いを解くため以外の何があるって言うんだ?」
当然だろう、と付け足して、この話は終わるものだとばかり思っていたが、慧乃は未だ納得がいかないようであった。
「んー、それはそうなのかも知れないけれど、私が言いたいのは――」
そこまで口にしたところで言葉を詰まらせ、空いた手で髪の先をいじりながら中空を見つめる。
どうも何か考えているらしい。――だが、答えは出せなかったようだ。
「ううん。それでいいのかも。変なことをきいてしまったようで悪かったね」
「別に気にしちゃいない」
丁寧に頭を下げてしっかりと謝る慧乃の姿に気圧されてきまりが悪い。
「そう言って貰えるとありがたいのだけれど、本当にごめんなさいね。もしかしたら気づいたかもしれないけれど、私、よく考えずに人に何でもきいてしまう癖があるみたいなの」
「そうみたいだな」
先程出会ったばかりだが、それに関しては即座に同意できた。
「即答だねえ。この際だから尋ねるけれど、君は一番上まで行くつもりかい?」
「ああ、そのつもりだ」
ふむ、と相づちを一つ打ったかと思うと、慧乃はその鳶色の瞳に大きくTシャツにジーンズとスニーカー姿の男を映して、再び尋ねた。
「その割りには軽装のように見えるけれど、大丈夫かな?」
「大丈夫だろう」
「人成山が1000メートル以上あることは知っているのよね?」
「確か1010メートルだったか? そこまでなら調べられたよ」
たったの1キロ弱。いくら入院生活で体がなまっているとはいえ、この程度の山なら問題ないだろう。まるで根拠はないが、来る前からそう思えていた。
「……分かっているのなら良いのだけれど」
不安そうに小さく呟いて、しかし直ぐに顔を上げると、既に明るい表情に戻っていた。
その表情を見て、何か尋ねるつもりだろうと勘ぐったが、実際慧乃は質問してきた。
「ねえ、ここで出会ったのも何かの縁でしょう。一緒に頂上まで登っても良いかな?」
「頂上までって、この道沿いに歩いて行けばいいのか?」
「そうだね。途中で分岐もあるけれど、看板が立っているから確認しながら進めば迷うことはないよ。私も初めて登ったときはこの道を使ったよ」
慧乃はこちらの質問の意味を良く汲み取って答えてくれた。
「そこまで分かったら大丈夫。一人で登れるよ。これ以上邪魔したら悪いからな。自分の呪いの解除に専念してくれ」
「うーん。気をつかってもらえるのはありがたいのだけれど、さっきも言ったとおり、この山に訪れる人はみんな、何かしらの呪いにかかっているの」
「そうだったな」
「私は一月くらいだけれど君より長く人成山にいるからね。山のことや、山の人についても詳しいから、役に立てると思うの」
「そういってくれるのはありがたいが――」
願ってもない話だが、ここで「うん」と答えて良いのだろうか。そう悩むのは、まだ完璧にはこの六宮慧乃という女を信用し切れていないからだろう。
返答に困っていると、慧乃がおどけた調子で付け加えた。
「それに、もしかしたらいきなり道を塞いで、「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」なんて叫ぶ気の触れた女がいるかもしれないよ」
いたずらっぽく微笑みかける慧乃。
ようやく、六宮慧乃という人間を心から信じても良いという確信を得た。
「そりゃあ大変だ。それじゃあ悪いけど、山の頂上まで付き合ってもらえるかな?」
柄にもなく演技めいた言い回しで返すと、慧乃も同じくオーバーに胸を張り、「もちろん、任せて頂戴!」と応じた。
「よろしく頼むよ。えーっと、六宮さん」
「慧乃で良いわ。ここではみんなそう呼ぶの。たまに門番ちゃんとか呼ばれることもあるけれどね」
こりゃあ随分と世話焼きの門番もいたものだ。
そもそもこいつは道の真ん中に立ちはだかっているだけで、別に門がある訳じゃないのだ。一体それが何故門番なのか。無という名前の門だろうか。――そんなはずはないか。
ともあれ、出発前に言っておかねばならないことがあった。
「慧乃、さっきは殴って悪かったな」
「え? ああ、いいのよ。ああいうのも含めて私の呪いだもの。――結構痛かったけどね」
小さく笑った慧乃は横目でちらとこちらを見る。
「本当に申し訳なかった」
「いいって。ほら、これで手打ちね」
慧乃は手の甲で軽くこちらの腹部を小突いて、はにかんだ。
そしてその手を開いて、差し出してくる。
「改めて、よろしくね」
どこまでも純真な慧乃の笑顔を見て、今までとは違う新たな感情が芽生えていたが、自分の呪いのことなどすっかり忘れ、思いのままに差し出された白く小さな手を握った。
ほっそりとした手のひらの暖かみを感じたのはほんの一瞬のことで、気がついたときには遙か後方の大きな木の幹に背中を打ち付けていた。
そんな風に考えたのはいくつの時以来だろうか。
いや、山に登りたい訳ではない。ただかけられてしまった呪いを解くために、山頂を目指すというだけのことだ。
あの女の死から数日経過していた。身寄りのなかった女の簡素な葬式を終えた後、ひとまず人成山について調べてみた。
隣の県にある、標高1010メートル程の山。ネットであれこれ探ってみてもそれ以上の情報は出てこなかった。人成山の呪いについて書かれた記事も1つとして見つからない。
ともかく所在地は分かったので近くの地図を調べてみたが、山の入り口付近までは詳しく記されているのにも関わらず、中がどうなっているのかはさっぱり分からなかった。
そんなこんなで、山についての調査はそこで切り上げ、呪いについての調査を始めた。
確かにあの女は呪いをかけたと言った。
しかし、呪いなどというものが存在するのだろうか。にわかには信じがたい話である。
なので、まずはそれを確かめる必要があった。
そうなのだ。仕方のないことだったのだ。
ここを明確にしなければ、先に進めない。
何しろ呪いが実在しないのであれば、わざわざ訳の分からない山に登る必要はないのだ。
そういった致し方ない事情から、預金を下ろし隣町の風俗店街へ足を運んだ。いや本当に不本意だったのだ。本当だ。
――結果として、どうも呪いは本物らしいということが判明した。
かけられた呪いは強力で、童貞卒業はおろか、女性に触れることすら許されなかった。
女の体に触れると投げ飛ばされたり、はじき飛ばされたり、触れた箇所に電流が流れたり、と物理的ダメージを負うのだ。
それでもめげずにチャレンジを続けると、現場に両親がやってきたり、相手の女が半裸のおっさんになったり、全裸のまま別の場所に転移したりと、精神面に深いダメージを与えてきた。
呪いは少しでも下心があると発動するらしく、顔見知りの女の手に軽く触れただけで数メートル空を飛ぶ羽目になり、駅前で露出の多い服を着たねーちゃんの胸元に視線を向けると眼球の奥が焼けるように痛んだ。
――そんなことはどうでもいい。
とにかく、呪いが本物である以上、なんとしてでも解かねばならぬ。下ろした預金と両親に頼み込んで借りた金を持って、バイクを走らせた。目指すはもちろん人成山だ。
ひとまず最寄りの町でホテルをとり、翌日の早朝、人成山へと向かった。
山の入り口は事前にネットの地図で確認した通りだった。
長らく使われていないであろう小さな古いバス停の脇にバイクを停める。他には誰も来ていないのだろうか? 近くを見回したが、長い間放置されているらしいハンドルのひしゃげた錆びだらけの自転車が1台、ぽつんと佇んでいるだけだった。
不安になり、登山道の入り口へと視線を向けた。
入り口に立つ石造りの大きな鳥居は、初夏の青々とした草に覆われていた。
しかし登山道の方は良く整備されていたし、最近人の通った形跡もある。
天気は良く、空は青々と晴れ渡り、新緑に覆われた人成山はその色の中に良く映えていた。いかにもさあ登ってこい、と言わんばかりである。
1つ深呼吸をすると、意を決して鳥居をくぐった。そのまま石畳の道に沿って足を進める。
緩やかな傾斜の道。時折階段もあるが、特段歩きづらいこともない。
少し行ったところに、また石造りの鳥居があった。
見るとその影に誰か居る。
鳥居に寄りかかり、片足を揺らしている。人を待っているのだろうか?
逆光に目を焼かれ、よく見えない。歩きながら目を細めその人物の様子を覗った。
太陽が木の陰に隠れ、段々とその人物が明らかになっていく。
その人物――女の姿に、目を見張った。
気配に気づき、女がこちらを向いた。
色は白く、しかし程よく朱の差した輪郭の柔らかな顔立ち。
顔を柔らかく包むなめらかな黒い髪は、ほっそりとした女の体に良く似合う長髪だった。
一見して、綺麗だ、という印象を受けた。しかし、目を見張ったのはその点ではない。
――その女は、病院で出会ったあの女と、瓜二つだったのだ。
女が微笑む。
向けられた笑顔も、病院で幾度も見たあの笑顔だ。
しかし、そんなはずはない――だって、あの女は、確かに、死んだのだから――
目の前の女はこちらの気持ちを知ってか知らずか、数歩歩いて鳥居の真ん中に立った。
変わった服装をしている。丈夫そうな生地で出来た、どこぞのRPGに出てきそうな女冒険者めいた格好。だけれど全体的に派手さはなく、山歩きでも使えそうな、動きやすそうな服装であった。
女は、その綺麗な顔に浮かぶ鳶色の瞳を、今までに見せたことない程に爛々と輝かせると、手にしていた杖のようなものを振りかざし、
「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」
――叫んだ。
いかにもRPGに出てくる序盤辺りの中ボスよろしく、その大してふくよかでもない胸を目一杯に張って、叫んだ。
今まで考えたこと。病院で会ったあの女のことを思い出していたことを忘れ、無心となって足を進め、その女の脇を通り抜ける。
「あれっ――ちょっと! きこえなかった!? ここを通りたければこの私を――」
「せやっ」
「ヴッ、お、おう――」
腹部に軽く一撃をいれると、女はその場に座り込んで大人しくなった。
下心なんて抱く余地がなかったおかげで、女に触れたにもかかわらず呪いによるダメージもない。
座り込んだ女を一瞥する。あいつは、こんな女とは違う。こんな奇行に走ったりしないし、ましてあいつは静かな病室ですら聴き取りづらい程の小さな声で話す、とにかく大人しい奴だったのだ。山中で叫ぶような変人と比べるのは失礼というものだろう。
第一、あいつは死んだのだ。この世にいるはずもない。
だというのに全く、少し外見が似ている程度でまた会えたなどと考えてしまうとは……。
ここ数日、色々なことがたたみかけるように起こったからだろうか、少し精神が参っていたのかもしれない。
更に言えば短い間ではあるが親しくしていた人間が目の前で死んだのだ。無理もない。
「う、うう……。きみ……」
座り込んだ女が弱々しい呻き声を上げながら、上目遣いでこちらを見据える。その鳶色の瞳は苦痛に歪みながらも、潤いを帯びてキラキラと輝いていた。
女がゆっくりと震える右手を伸ばしてきた。
掴まれると思い、咄嗟に後ずさって距離をとった。
「倒したから通るぞ」
さっさとこんなちょっと危ない女とは縁を切らねば。
言い捨て、登山を再開しようとしたが、女の次の言葉に思わず振り向いてしまった。
「ナイス、リアクションよ……」
「はい?」
女は真っ直ぐ伸ばした右手の親指をぐっと立てて、苦痛に表情を歪めながらも、確かに少し笑っていた。
ちょっと危ない奴だと思っていたが、全くの間違いだった。
――こいつは相当に危ない奴だ。今すぐこの場を離れなければやばい。
とにかくだ、今し方起こったことは全て見なかった――いや、なかったことにしよう。そして二度のこの女の相手はすまい。心に誓い、くるりと山の方へと向き直り登山道を歩き始める。
「ちょっと待ってよ!」
女の声が背中に投げかけられる。
きこえない。何も、きこえていない。
今この山は、しんとした夜の底のように静寂に包まれているじゃないか。
「早く呪いを解きたい気持ちは分かるけれど、ひとまず私の話をきいてくれても良いじゃない」
「何だって?」
寸前心に誓ったことなど忘れ、女の言葉に、再び振り向いてしまった。
女はしばらくもだえていたが、痛みが引いたのか、呼吸を整えてゆっくりと立ち上がり、服についた土を払う。
近くによって見てみても、やはり病院で出会ったあの女とよく似ていた。
「あんた、名前は?」
「
女は質問に直ぐ答えた。
口元に浮かべた笑みをこちらに向ける。あまり怒っている様子は見られない。
「変わった名前だな」
「良く言われるわ」
慧乃は答えて、地に落ちた杖を拾い上げると、手ではたいて土を落とす。
「それで、何で呪いのことを知ってるんだ?」
慧乃は呪いについて何か知っていた。それはもしかしたら、あの病院の女とこいつに何か関係があるからなのかもしれない。
だとしたら、確かめたかった。最期の最期まで全容のつかめなかった、あの女の正体に少しでも触れたいと思ったのだ。
「何故だと思う?」
慧乃はこちらの気持ちなぞ知ってか知らずか、相変わらず笑みを浮かべて、首をかしげて尋ね返してきた。
「質問を質問で返すなよ」
ぶっきらぼうに、そう突っぱねた。
「それもそうだね。だけれども君、質問するばかりじゃない。私にもききたいことはたくさんあるのだから、少しばかり答えてくれてもいいと思わない?」
慧乃は小さく笑うと、ね? と上目遣いでこちらの顔を見上げた。
一理ある、とは思ったものの、この慧乃という女。こいつの正体もなかなかにつかみづらい。女というのはことごとくこんなのばかりなのだろうか。
「それに、たまには自分で考えてみるのも良いものだよ」
「それもそうだ」
説教めいた言葉は気に障りもしたが、確かに自分で何も考えず全て他人にきくというのも情けない。少し頭を働かせてみよう。今まで人成山の呪いという得体の知れない存在のせいもあり思考を半ば放棄していたが、考えることはそんなに嫌いでもない。
さて、慧乃の質問を要約すると「自分が呪いのことについて知っているのは何故か」となるだろう。
もし――もしも、の話、慧乃が呪いをかけた張本人――病院の女と同一人物という事であれば直ぐに解決するのだが、生憎あいつは既にこの世にいない。
大体あいつは親族はおろか、知り合いと呼べる人間は病院内の人間だけだった。まさか姉妹がいたなんて事はないはずだ。
病院で知り合った男の話をするくらい仲の良い姉妹がいたのなら、そいつが一度も見舞いに訪れないなんてのはおかしな話だ。
とすると――
うつむいていた顔を上げ、目の前の慧乃へと視線を向ける。
慧乃は相変わらず微笑んでいて、答えを出すのを待っているのか、こちらの顔色を覗っている。
先程の奇行が嘘のように大人しく……
ああ、そうか。つまりそういうことなのか。
「呪われてるのか、お前も」
導き出した答えを口にすると、慧乃は大きく、オーバーなくらいに頷いて見せた。
「正解――でももう一歩かな」
「もう一歩だって?」
口にしてから、何が足りなかったのかもう一度考える。
慧乃は、自分が呪われてることは認めた。しかしそれではまだ『もう一歩』足りない。それが意味するところはつまり――
「まさかとは思うが、この山って……」
言葉に詰まる。が、その先を慧乃が引き継いで口にした。
「そう。人成山に訪れる人間は、誰もが何かしらの呪いにかかっているの」
全員、呪われているということか。
「より詳しく言うと、呪われていない人間は人成山にたどり着けないみたいだね」
「……そんなことが実際に起こり得るのか?」
信じ切れず尋ねたが、慧乃の答えは期待していたものと正反対のものであった。
「人成山では何が起こってもおかしくないの。ほら、君がかけられた呪いも、本物だったのでしょう?」
「――確かに」
事実、呪いは本物で、童貞卒業はおろか異性との接触すらことごとく阻害してきた。
ネットで調べても人成山の詳細な情報は集まらなかった。
何か、とてつもない力が働いていてもおかしくないのではないかと思えてきた。
「信じるほかなさそうだ」
「信じて貰えたようで嬉しいよ」
返答に慧乃はだいぶご満悦の様子だった。
「それで、お前の呪いはさっきの奇行とどういう関係があるんだ?」
「あれ? ああ、あれはそのまま私の呪いだよ。登山者の道を塞いで、ここを通りたければーってあの台詞を言うの。――千人分」
「千人って、大変だな……。いやそれにしても、言うだけでいいならあんな大声で叫ぶ必要も、演技だかなんだか知らんがよく分からんポーズも、RPGに出てきそうな女冒険者っぽい格好も必要なかったんじゃないのか?」
質問に、慧乃は小さく笑う。
「その通りなのだけれどね。でもせっかくやるのだから、できる限り本気でやりたいじゃない」
満足そうな表情を浮かべているが、さっぱり理解出来ない。
恥ずかしい罰ゲームも恥ずかしがって微妙な感じにするより、思い切って全力でやりきった方が恥ずかしくないとかいうアレだろうか。
「良い機会だからきくけれど、君の呪いはどういったものなのかな?」
「ん? ああ、山に登る呪いだよ」
別に隠すようなことでもないので素直に答えた。
慧乃は以前から人成山に来ているようだし、登山ルートについて何か教えて貰えるかも知れない。何しろ山の内部の情報は全く手に入らなかったのだ。教えてもらえるのならそれに越したことはない。
「へえ。そういう呪いもあるものなのだね。山に登る……か。それで、呪いの内容は?」
「はい? だから山に登るって――」
「えっと、それは解呪条件でしょう? そうではなくて、呪いの内容の方だよ」
「そりゃあ……」
答えづらい。
初対面の女に対して、「童貞が卒業出来ない呪いでーす」なんて、どんな顔して言ったらいいんだ。
「お前はどうなんだ?」
苦し紛れに、そのまま質問を返した。
「私かい? 私は呪いを解くまで胸がAカップ以上に成長しない呪いだよ」
「いや元からそんなもんだっただろ」
思わずつっこみをいれてしまう。
しかし言ってしまってから言わなければ良かったと後悔した。
慧乃が自分の呪いについてすんなり口を割ったこと――それ以上にその呪いのあまりにくだらない内容に衝撃を受けて、つい口を滑らせてしまった。
「全くもっておっしゃるとおりなのだけれどね――あれ? 何故知っているのかな? 初対面で間違いないよね?」
「初対面だよ。ただ、そんな気がしただけだ」
適当にはぐらかし、慧乃の興味を他へ向けるため質問を付け加えた。
「で、ならなんで呪いを解こうとするんだ? 元からだったら、わざわざ呪いを解く必要性なんてないだろ」
「そうかな? ほら、将来的に成長する可能性だってある訳だし」
薄い胸を覆う丈夫そうな服の生地をそっと押さえて主張するが、見たところ十代後半に見えるこいつの胸が、これから成長することはあるのだろうか? 詳しいことは分からないが、とてもそうは思えない。
いやしかし、あまり深く詮索することでもないか。――と思ったが、慧乃は重ねて口を開いた。
「それに、この呪いね、父が死に際にかけたのよ」
「父親が?」
いまいち何と返したら良いのか分からずどもっていると、慧乃が次の言葉を口にする。
「息を引き取ったと思った瞬間に眼をぱっちり見開いてね。看取った人全員びっくりしていたのだけれど、父は私に呪いをかけたきり動かなくなって、全く、呪いをかけられたことよりそっちの方が事件だったよ」
――あの時と同じ状況だ。
人成山の呪いというのはこういうものなのだろうか――深く考えようとしたが、慧乃が続きを話したそうにするので、相づちを打って先を促した。
「それで、私思ったの。父は死に際に、私に何か伝えたかったのかも知れないって。この呪いには、父の意思がある気がして。だから私は、それをどうしても確かめたくて、人成山に来たの」
「そりゃあご立派なことで」
正直な所、あの中ボスの真似事に深い意味などないように思えるのだが、考え方は人それぞれってものなんだろう。口ははさむまい。
「それで、君は?」
首をかしげ、顔を覗き込むようにして慧乃が尋ねる。
少しだけ、こいつの事が分かった気がする。こいつはとにかく、気になったことは尋ねなければ気が済まないのだ。人にはたまには自分で考えるのも良いとか言っておきながら、当人はとにかく質問魔なのだ。
「私がここまで話したのですもの。まさか君が答えないなんて事は、ないよね?」
不敵な笑みを浮かべて、重い声で呟いた慧乃は、先程のアレよりずっとボスっぽかった。
その迫力と今までの態度とのギャップからかなり驚いたが、どうも演技のようだ。直ぐに表情を戻し、小さく微笑んだ。
「どうしても嫌なら無理にとは言わないけれどね。人成山を訪れる人の事情は、人それぞれだもの」
「別に、あんまり大きな声で言えるような内容じゃないってだけだ。……他言は無用だ」
「もちろん。私、約束事はきちんと守るよ」
どうだか、とても怪しいもんだ。
それでも慧乃には話しても問題ないようの思えてしまうのは、こいつがあの何でも気兼ねなく話し合った病院の女に似ているせいだろうか?
「……呪いを解かないと、童貞を卒業できないんだ」
「え?」
真実を打ち明けたが、慧乃の反応は微妙なものであった。
きょとん、とした顔つきで中空を眺め、そしてうつむき考え込む。
「ごめんなさい。ドウテーて何かしら?」
真顔でそんな質問をしてきた。
「お前、何歳だ?」
「18だけれど、何か関係があるのかな?」
18にもなって童貞の意味を知らないだと!? 高三か大一の年頃の女なら知っていてもおかしくなさそうだが……。一体こいつ、どんな人生を送ってきたというのだろうか。
「知らないならそれでいい。――あと、人に意味を尋ねたりするなよ。お前のためにも、絶対に!」
「気になるけれど――うん、分かったよ」
慧乃は若干迷ったようだが、直ぐにこちらの顔を正面に見据えて頷いた。
その瞳があまりにもよどみなく澄み切っていたものだから、この話題についてこれ以上何か付け加えようという気を失わせた。
「ではどうして君は、山に登るのかな?」
慧乃が新たに口にした質問に、首をかしげた。
「すまん。質問の意図が全く理解できないんだが、呪いを解くため以外の何があるって言うんだ?」
当然だろう、と付け足して、この話は終わるものだとばかり思っていたが、慧乃は未だ納得がいかないようであった。
「んー、それはそうなのかも知れないけれど、私が言いたいのは――」
そこまで口にしたところで言葉を詰まらせ、空いた手で髪の先をいじりながら中空を見つめる。
どうも何か考えているらしい。――だが、答えは出せなかったようだ。
「ううん。それでいいのかも。変なことをきいてしまったようで悪かったね」
「別に気にしちゃいない」
丁寧に頭を下げてしっかりと謝る慧乃の姿に気圧されてきまりが悪い。
「そう言って貰えるとありがたいのだけれど、本当にごめんなさいね。もしかしたら気づいたかもしれないけれど、私、よく考えずに人に何でもきいてしまう癖があるみたいなの」
「そうみたいだな」
先程出会ったばかりだが、それに関しては即座に同意できた。
「即答だねえ。この際だから尋ねるけれど、君は一番上まで行くつもりかい?」
「ああ、そのつもりだ」
ふむ、と相づちを一つ打ったかと思うと、慧乃はその鳶色の瞳に大きくTシャツにジーンズとスニーカー姿の男を映して、再び尋ねた。
「その割りには軽装のように見えるけれど、大丈夫かな?」
「大丈夫だろう」
「人成山が1000メートル以上あることは知っているのよね?」
「確か1010メートルだったか? そこまでなら調べられたよ」
たったの1キロ弱。いくら入院生活で体がなまっているとはいえ、この程度の山なら問題ないだろう。まるで根拠はないが、来る前からそう思えていた。
「……分かっているのなら良いのだけれど」
不安そうに小さく呟いて、しかし直ぐに顔を上げると、既に明るい表情に戻っていた。
その表情を見て、何か尋ねるつもりだろうと勘ぐったが、実際慧乃は質問してきた。
「ねえ、ここで出会ったのも何かの縁でしょう。一緒に頂上まで登っても良いかな?」
「頂上までって、この道沿いに歩いて行けばいいのか?」
「そうだね。途中で分岐もあるけれど、看板が立っているから確認しながら進めば迷うことはないよ。私も初めて登ったときはこの道を使ったよ」
慧乃はこちらの質問の意味を良く汲み取って答えてくれた。
「そこまで分かったら大丈夫。一人で登れるよ。これ以上邪魔したら悪いからな。自分の呪いの解除に専念してくれ」
「うーん。気をつかってもらえるのはありがたいのだけれど、さっきも言ったとおり、この山に訪れる人はみんな、何かしらの呪いにかかっているの」
「そうだったな」
「私は一月くらいだけれど君より長く人成山にいるからね。山のことや、山の人についても詳しいから、役に立てると思うの」
「そういってくれるのはありがたいが――」
願ってもない話だが、ここで「うん」と答えて良いのだろうか。そう悩むのは、まだ完璧にはこの六宮慧乃という女を信用し切れていないからだろう。
返答に困っていると、慧乃がおどけた調子で付け加えた。
「それに、もしかしたらいきなり道を塞いで、「ここを通りたければ、この私を倒してからにすることね!」なんて叫ぶ気の触れた女がいるかもしれないよ」
いたずらっぽく微笑みかける慧乃。
ようやく、六宮慧乃という人間を心から信じても良いという確信を得た。
「そりゃあ大変だ。それじゃあ悪いけど、山の頂上まで付き合ってもらえるかな?」
柄にもなく演技めいた言い回しで返すと、慧乃も同じくオーバーに胸を張り、「もちろん、任せて頂戴!」と応じた。
「よろしく頼むよ。えーっと、六宮さん」
「慧乃で良いわ。ここではみんなそう呼ぶの。たまに門番ちゃんとか呼ばれることもあるけれどね」
こりゃあ随分と世話焼きの門番もいたものだ。
そもそもこいつは道の真ん中に立ちはだかっているだけで、別に門がある訳じゃないのだ。一体それが何故門番なのか。無という名前の門だろうか。――そんなはずはないか。
ともあれ、出発前に言っておかねばならないことがあった。
「慧乃、さっきは殴って悪かったな」
「え? ああ、いいのよ。ああいうのも含めて私の呪いだもの。――結構痛かったけどね」
小さく笑った慧乃は横目でちらとこちらを見る。
「本当に申し訳なかった」
「いいって。ほら、これで手打ちね」
慧乃は手の甲で軽くこちらの腹部を小突いて、はにかんだ。
そしてその手を開いて、差し出してくる。
「改めて、よろしくね」
どこまでも純真な慧乃の笑顔を見て、今までとは違う新たな感情が芽生えていたが、自分の呪いのことなどすっかり忘れ、思いのままに差し出された白く小さな手を握った。
ほっそりとした手のひらの暖かみを感じたのはほんの一瞬のことで、気がついたときには遙か後方の大きな木の幹に背中を打ち付けていた。