佐藤才は手に持っていた木の枝を捨てた。足元には、たった今、木の枝で描き上げた、無数の鱗に覆われた蛇のような生物の絵があった。
才は、自宅からくすねてきた一冊の本を開き、異世界の扉を開く呪文を読み上げた。
本のタイトルは『世界の魔術集(日本語翻訳付き)』。才はこの本に書かれているすべてが、現実で叶うものだと信じて疑わなかった。
才は今、アニメやゲームの世界で活躍する転生系ヒーローに生まれ変わろうとしていたのだ。
詠唱を終えた後、才は両目を閉じた。懐から刃渡り十八センチのサバイバルナイフを取り出し、その切っ先を自らの喉元へと押し当てた。
儀式の仕上げは、自らの命を生贄に捧げること。肉体から抜け出た魂は異世界へと行き、新たな肉体に憑依するのだ。
才が手に力を込めた、その時だった。不意に、才は自分以外の誰かの気配を感じ取り、目を開けた。
才が描いた絵の中央に、一人の女が立っていた。
いったい、いつからそこにいたのだろうか。歩く足音も、近づいて来る気配も無かった。
「……? 何を言っているの。あなたが呼んだんでしょう」
女はハスキーな声でそう言うと、才が描いた絵を指差した。女の人差し指にはめられた〈薄緑色の指輪〉が、キラリと光った。
「私は、あなたに呼ばれてここに来た。……それで、用件は何?」
なるほど、と才は頷いた。
目の前にいるこの女は、儀式によって呼び出された異世界への案内人なのだ。
儀式は成功した。才は目を輝かせ、女に近づいた。
本に書かれていたことと少し内容が違っているが、そんなことはどうでもいい。
才はこのチャンスを逃すまいと、必死になって女に願いを伝えた。
「あなたに、ゲームをしてもらう。そのゲームをクリアできたら、あなたの願いを叶えてあげる」
ゲームのことも本には書かれていなかったが、そんなことも才にはどうでもよかった。
「やります! やらせてください! クリアしたら、異世界に連れて行ってくれるんですよね!?」
「ええ。ゲームをクリアしたら必ず、あなたを、あなたの望む場所へ連れて行ってあげる」
女は着ている衣服のポケットから透明な液体の詰まった小瓶を取り出し、才に手渡した。
才は小瓶の蓋を引き抜き、中に詰まっている謎の液体を飲んだ。
少し苦みがあったが、飲み込めないほど不味くはなかった。
薬で転移するなんて、そんなことも本には書かれていなかった。……と、才が考えた刹那――目の前の景色が蜃気楼みたく揺れ曲がり、全身の力がみるみるうちに抜け落ちて、立っていることが難しくなった。
平衡感覚を失い、ふらふらと揺れる才を、女が優しく抱きとめた。
才は強烈な眠気に襲われ、両目を閉じた。
そして、女の肩に顎をのせたまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。
才は身を起こした。女と出会った場所は実家の傍にある森の中だったが、いつの間にかどこか見知らぬ部屋の中に移動している。
寝かされていた赤い絨毯に両手をつき、立ち上がると、自分と女以外に、四人の男女がここにいることがわかった。
一人は、大人しそうな女の子。歳は才と同じくらいだろうか。着ている制服は、才が通っている学校のものと同じではなかった。
才と目が合うと、女の子は気まずそうに俯いた。
「五人目か。いったい、何人ここへ運ばれてくるのやら……」
一人は、サラリーマン風の、身体の大きい男。年齢は、多分、三十代前半か、そのあたりではないだろうか。
一人は、落ち着きなく辺りを見回している、二十代前半くらいの女性だ。才を一瞥してすぐ別の方を向いた。
一人は、十代後半くらいの若い男。大きなリュックサックを背負っている。
「大丈夫、ですけれど……。ここは、というか、これは一体……」
「ここにいるみんな、ゲームをするために集められたんだよ。君も、そうだろう?」
てっきり、ゲームをするのは自分一人だけだと思っていたが、どうやら違うらしい。
「参加者全員が揃いましたので、さっそく、ゲームのルール説明を始めます」
女がよく通る声で喋り出す。
才や他の参加者たちは一斉に女の方へ視線を向けた。
「ゲームのルール説明は一度しか言いませんので、メモを取ることをお勧めします」
「ちょっと待って! いきなりルール説明!? ルールうんたらより先に言うことがあるんじゃあないの!?」
睨みをきかせて、女に詰め寄る。この女性は、何の説明も無いまま、ここへ連行されたのだろうか。
「……だ、そうです。とりあえず、今は大人しく聞きましょうよ、ね?」
ブツブツ文句を言いながら、女性は間に入った若い男から離れた。
才は女と他参加者のやりとりを横目に見ながら、着ている制服の胸ポケットからメモ用紙とペンを取り出した。
「では、ルールの説明を始めます。まず、周りをご覧ください」
女以外の全員が周囲を見渡す。
才たちが今いる場所は、大きな洋館の玄関ホールらしい。
壁際のあちこちに大きな花瓶が置かれ、天井には火の点いたロウソクが無数に立てられたシャンデリア型の燭台が吊るされている。
「私が今、見ている方向が南で、左手が東、右手が西、後方が北となっております」
女の手の動きに合わせて、皆の視線があっちこっちに移動する。
南側には、参加者たちを中に入れるために通ったであろう、大きな扉があった。ここが、正面入口と見て間違いない。
東と西には、別の部屋に続くドアがあった。北側には上階へ続く階段があり、踊り場で左右に分かれている。恐らく、分かれた先にも、別の部屋に続くドアがあるのだと思う。
「皆様に行ってもらうのは、この広い洋館からの〈脱出ゲーム〉です。時間は無制限で、ゲームクリアの条件は、生きて脱出すること。ここではあらゆる行動が許されます。持参した物や館内にある物は自由に使ってもらって構いません。ただし、ゲームをクリアするまで、いかなる理由があろうとも洋館の外へは出られず、外部と連絡を取り合うこともできず、館内にある物の補充もされません」
夢を叶えるためには、この脱出ゲームをクリアする必要がある。
時間は無制限。
クリア条件は、生きて脱出。
ゲーム中は、何をやってもいい。
ゲームが始まったら、クリア条件を充たすまで外へ出られず、誰かに助けを求めることもできなくなる。持っているスマホは『圏外』になっているので、恐らく、ここは現実世界とは違う異世界の洋館なのだろう。
才はルール説明の中から重要な部分を抜き出し、メモ用紙に書き込んだ。
「ゲームのルール説明は以上です。これより、質問タイムへと移ります」
さあどうぞ、という風に、女は落ち着きのない女性の方を向いた。
「あ、じゃあ、えっと……。あんた、あたしに変な薬を飲ませる前、言ったよね? 『どんな願いでも叶える』って。あの言葉に、嘘は無いんだよね? ゲームをクリアしたら、絶対に、あたしの願いは叶うんだよね?」
女性も、恐らくは他の参加者も、才と同じ方法でここへ連れて来られたのだろう。
「願いは必ず叶います。信用できないのなら、ゲーム参加を辞退することも可能ですが、どうされますか?」
少しだけ、女性にムカついたのだろう。女の声音には、若干、刺々しさがあった。
「はぁ!? 勝手にこんなところに連れて来て、何その言い方! ゲームをやらないなら帰れって、無茶苦茶じゃあないの!」
「はいはいはーい! オレオレ! オレも質問ありまーす!」
若い男が手をあげて発言する。
またかよ、と言いたげな目で、女性は若い男を睨んだ。
「ゲームのクリア条件に『早い者勝ち』みたいなのが無かったんですけれど、じゃあ、みんなで協力して脱出したら、みんな一緒にゲームクリアってなるんですか?」
「すみません、俺からも一つ……。お姉さんは、俺たちと一緒に行動するんですか? ほら、壁や物を壊したらペナルティが科せられるとか、そういったのって、誰が何をやったのか傍にいないとわからないじゃあないですか」
「ゲームが始まったら、私は一切、皆様に干渉しません。このゲームはあなたを含めた五人の参加者のみで行われるゲームです。そして、その五人で、あるいは一人で壁や物を壊したとしても、ペナルティが科せられる心配はありません」
「じゃあ本当に、ゲーム中は何をやってもいいってことか……。ちなみに、窓を壊して外に出るのは、クリア扱いになりますか?」
「申し訳ありませんが、その質問にお答えすることはできません」
「あー……。じゃあ、ちゃんとした脱出ルートがあるんだ。わかりました、ありがとうございます」
才はメモ用紙に『正しい脱出ルートが存在する』と書き込んだ。
「ゲームをクリアできなかったら、おれたちはどうなるんですか?」
「申し訳ありませんが、その質問にお答えすることはできません」
才は『脱出に失敗したら終わり』とメモ用紙に太字で書き込んだ。