第5話

文字数 8,523文字

「こんにちは。お兄様の最愛の妹、舞子です。本日はよろしくお願いいたします」
 高校の制服を着た獅子崎舞子は可愛らしく小首を傾げて挨拶をした。肩過ぎの長さの黒髪は毛先がふわっとしている。細かくヘアアイロンで巻いたのだろう。明日奈にできない芸当だ。斜めに流れた前髪の下から庇護欲をそそる二重瞼が覗いていて、それもまた明日奈のコンプレックスを刺激する。校則があるせいで化粧はしていないが、学校帰りだからか色つきリップを塗っていた。
 音楽スタジオ『NEAR』のAブースには、明日奈の他に千早希、継、エリス、そして舞子がいて、これからバンド練習を始めるところだった。舞子は言ってみればただの見学だ。

「舞子ちゃん、エリスちゃんとは初対面だと思うけど、いつもどおりでいいよ」
 ノートパソコンをオーディオミキサーに繋げながら千早希が言うと、舞子はよろしいのですかと顔を傾けた。ベースのチューニングをしていた明日奈は、仕草が一々可愛いな、と思い、唇をすぼめた。
「学校のお友達が見てるわけじゃないんだし」
「そうですね。では」
 舞子は小さくうなづくと、お兄ちゃんっ、と叫んで継に抱きついた。同じくチューニングをしていた継は「わっ、何だよ」と慌てふためいた。
「三日も会えなくて寂しかったんだよ」
「三日じゃん。たった三日でしょ」
「お兄ちゃーん」

 猫が甘えるようにぐりぐりと頭をこすりつける舞子を、継は必死に引き離そうとする。その様子をドラムセットの向こう側からエリスがじっと見ていた。

「何なの、どういう光景?」
 千早希がふふっと笑って、説明した。「舞子ちゃんは重度のブラコンで、ファンクラブ会長なの。ファンクラブには鉄の掟があるから、普段はお兄ちゃんお兄ちゃんって甘えられないんだよ」
「重度のブラコン以外、説明されてもわからないんだけど」
「まあまあ、そのうちわかってくるよ」千早希は椅子に座り、それより、と続けた。「エリスちゃん、曲は覚えてきた?」

 エリスがバンドに加入してから二日が経っていた。あれからすぐに連絡を取り、二日後のスタジオ練習まで一曲でいいから覚えてきてほしい旨を伝え、Black×Blastの楽曲を送っておいた。解散した今でも彼らの楽曲は音楽配信チャンネルにアップロードされたままなので、URLを添付するだけで済んだ。

「ちゃんいらない。エリスでいいよ」
「おっけー、エリス。で、どうかな。とりあえず今日は一曲でいいから合わせたいんだけど」
 この日のエリスは『はちみつ』と黒で印字されたTシャツを着ていた。文字のとおり、蜂蜜色だ。
 エリスは、んー、と間延びした声を出して宙に視線を浮かせた。
「どれからやる?」
「うん。だから、どれなら叩ける?」
「ぜんぶ叩けるよ」
「えっ、もうぜんぶ覚えたの?」
「三回も聴けば、どうにかなる」
 千早希は感嘆の息を吐き、まじまじとエリスの顔を見返した。

 それぞれ準備を終えた明日奈たちは、ライブを想定してセットリストのとおりに通しで曲を合わせることにした。『暁』、『Re:StayGold』、『きっと、ずっと』、『Lasting Story』の順で四曲だ。

 明日奈は演奏中、ずっと緊張していた。担当はベース、リズム隊の一人であり、ドラムの相棒のような存在だ。そのドラマーがプロ級の腕前だというのだから緊張するなというほうが無理難題だった。
 下手な演奏をしたら怒られるんじゃないか。そのレベルでよくバンドをやろうなんて思ったねと呆れられるんじゃないか。最悪、バンドを抜けると言い出すのではないかと終始気が気でなかった。

 Black×Blastの楽曲はもう何千回と聴いた。歌詞はすべて覚えているし、何ならどの曲が何分何秒の尺かということも答えられる。イントロクイズをすればすべて一秒に満たずに解答ボタンを押せるだろう。
 耳が鍛えられていない明日奈なので、聞き取りづらいベースラインを鼻歌で再現したり、ギターのコードを言い当てたりはできないが、ドラムのフレーズはすべて記憶していた。自分で叩くことはできないが、目を閉じれば頭の中でありのまま再生される。
 だからわかる。エリスはミスをしなかった。完璧にBlack×Blastの楽曲をコピーして見せたのだ。

 四曲を演奏し終えると、ねえ、とエリスが声をかけてきた。
「は、はい!」
「明日奈はベースを始めて何年?」
「ま、まま、まだ半年です」
 エリスはきょとんとして、
「どうして敬語なの」
「……下手くそだからです」
 怒られる、怒られる、怒られる――今にも頭を抱えてしゃがみこみたくなり、実際にそうした。
「ちょっと休憩しようか」千早希が言った。
 継がギターをギタースタンドに置く音が聞こえ、エリスがドラムセットから離れた気配が感じられた。防音のためにやたら重く設計されているドアが開く音がした。
「明日奈は休憩しないの?」
 頭上で声がした。目を開け、おそるおそる顔を上げる。千早希も継も舞子もすでに部屋の中にいなかった。行きます、と小声で返した。
 エリスは「ん」と声を発して、手を差し伸べてきた。明日奈は彼女の手を見つめ、ゆっくりと視線をエリスの顔に移した。
「お……お手?」
「面白いね、明日奈って」
「ごめんね。下手で」
「最初はみんなそんなもんだよ」
 エリスに手を引いてもらい、立ち上がった。彼女に続いて部屋を出て、狭い通路を歩いた。

 ロビーは半分ほど席が埋まっていた。練習前の待ち合わせ、練習後の話し合い、あるいは明日奈たちのように合間の休憩にバンドマンたちが利用している。
 手前のテーブルに千早希たちがついていた。奥に継と舞子が隣り合わせで座り、手前側に千早希、その隣にエリスが腰を下ろした。四人掛けなので、明日奈は空いている隣の席から椅子を一つ拝借した。

「あんまりべたべたするなって」
「えー、いいじゃん。お兄ちゃん、家にいないんだもん」
 関係を知らない者が見れば恋人がいちゃついているようにしか見えないだろう。実際に近くの席に座るバンドマンから睨むような視線が注がれている。
 千早希は開いた手帳に目を落とし、何やら考え事をしている様子だ。
 明日奈はうつむきながら、エリス、と呼びかけた。
「なに?」
「つ……つまらなくない……ですか」
「つまらないも何も、始めたばかりじゃん」
「来月のライブまでは……いてくれますか?」
 隣でエリスが首を傾げたのがわかった。そのまま顔を覗きこんでくる。明日奈は逆方向に目線を逃がした。
「ねえ、目を見て話しなよ」
「あ……はい」
「それと、敬語いらないって」
「う、うん」
 びくびくしながら正面に戻した顔を、少しだけエリスのほうに向けた。淡い緑色の綺麗な瞳が真っ直ぐに明日奈を捉えていた。
「何をそんなに怯えてるの。私、怖い?」
 明日奈は遠心力で顔のパーツが外れるほどぶんぶん顔を振った。勢いが過ぎて被っていたキャップがずれた。
 それを手で直しながら、
「エリスは怖くない。ただ、私が下手なせいでバンドを抜けちゃうんじゃないかって心配で」
「あー、それでその態度」
 それからエリスはふっと笑った。彼女が笑うところを見るのは初めてだった。
「下手なほうが、気楽でいいじゃん」
「え……そう?」
「逆に明日奈たちがプロを目指してたら加入してなかったよ」
「そうなの? なんで?」

 その質問には答えず、エリスはTシャツを指で摘んで「可愛くない?」と訊いてきた。明日奈は何度もうなづき、可愛い、可愛い、と返した。

「文字Tシャツが好きなの?」
「ふりふりした服、好きじゃなくて」
 言いながらエリスは逆隣の千早希を見る。最近はボーイッシュを封印したのか、可愛い系の格好をしていることが多く、今日もフリル付のシャツに短めのスカートを合わせていた。気分屋なので服装も髪型もころころ変わる。
「ん? なに?」視線に気づいた千早希が顔を振り向けた。
 何でもない、と返したエリスの視線が今度は継に向けられた。

「継、だっけ」
「えっ……あ……う、うん」
 エリスは眉をしかめ、首を傾げた。
「あなたたち、何なの。明日奈といい、継といい。みんな、私がバンドを抜けないか心配してるの?」
 継は目を伏せ、もごもごしゃべった。明日奈は顎を突き出し、テーブルに耳を寄せた。何を言っているのか、聞き取れなかったからだ。
 舞子は継の腕に自分の腕を絡ませながら、
「お兄様は女性恐怖症なんです。悪い虫がつかなくてちょうどいいですね」
 にっこりと微笑んではいるが、目は笑っていない。ブラコンモードから会長モードに切り替わっていた。エリスを敵認定したのかもしれない。
 そんな敵意もどこ吹く風で、エリスは「ふうん」と素っ気ない。
「エリスさんは恋人はいらっしゃるのですか?」
「いないよ」
「では、単刀直入にお尋ねします。お兄様のことがお好きなんですか?」
「ぜんぜん。何とも思ってない」
 舞子はぐっと目を細め、さも疑わしいとばかりにエリスを見つめた。「でも、これから恋に落ちてしまうかもしれませんし」
「あー、ない」
「本当ですか? 神様に誓えますか?」
「んー、爺やに誓うよ」
「爺や?」
「私の育ての親」
 よくわからないが、とりあえず舞子は「わかりました」と満足そうだった。その隣では継が地蔵のように固まってうつむいている。

「一緒にバンドをやるんでしょ? そんなんじゃ、やりづらいんだけど」
 エリスがそう声をかけると、継はおずおずと目線を上げた。「な、慣れるように……がんばる」
「うん。がんばって。それより、継」
「な、なに」
「ギターうまいね」
 継は面食らったように瞬きをした。「そう……なのかな? バンドを組んだのはこのバンドが初めてで、ライブだって一度しかしてないから、よくわからないんだ」
「自信を持っていいよ」
「あ……りがと」
「でも、歌いながら弾くのに慣れてない感じがする。あと一人加えて、どっちかにしたら? どうせお遊びのコピーバンドなんだし」
「ギターか……ボーカルか……」
 たしかにもう一人いたら最高なのに、と明日奈も黙ってうなづいた。Black×Blastは四人編成で、明日奈たちは現在スリーピースバンドだ。

「で?」
 と、エリスはテーブルに肘を落とし、頬杖をつきながら左に顔を向けた。話しかけられているのは自分らしいと気づいた千早希が手帳から顔を上げた。
「え、私?」
「千早希はどうして何もしないの?」
「やるパートがないから」
「楽器はできないの?」
「ピアノを習ってたから、キーボードなら」
「弾けばいいじゃん」
「Black×Blastの楽曲にキーボードパートはないんだよ」
「コピーするバンド、どの楽曲も悪くないね。私は好きだよ。キーボードでアレンジを加えたら、もっと面白くなると思うんだけど」
 あー、ダメダメ、と千早希は顔の前で手を振り、「勝手にアレンジするなんて恐れ多いから」と、お決まりの返しを口にする。
「まあ、別にいいけど」
 そろそろ休憩も終わりと言い、千早希は席を立った。自分は何もしないくせにと腹の中で毒づいて、明日奈も椅子から立ち上がった。

 スタジオのブースは午後四時から六時までの二時間で予約してあった。残りの一時間半は明日奈が苦手な曲を中心に合わせ練習を行った。Black×Blastの楽曲には途中で拍子が変化する曲もあり、リズム感のない明日奈には難しく、よくもたついた。
 エリスはドラムを叩き、「こうで、こう。わかる?」と明日奈を指導した。わかるときも、わからないときもあったが、いずれにせよ明日奈は「わかる」と返事をした。
「今度、裏拍を取る練習しようか」
「裏拍?」
「リズム感、よくなるよ」
「やる! がんばるね」
 やがて五時五十分を回り、それぞれ片づけを始めた。明日奈は少しだけ上手になった気がして、にやにやしながらベースをソフトケースに戻した。

 ロビーへ出ると、エリスは「お腹空いたから帰るね」と言い、四等分したスタジオ料金を置いてさっさとスタジオを出ていってしまった。相変わらず素っ気ないが、ちゃんとばいばいと手を振ってくれた。
 スタジオ料金の精算をしていると、山崎が近づいてきた。
「またとんでもない美少女を加入させたものだな」
 エリスのことを言っているのだろう。無言でうなづいた明日奈を押し退けて、千早希が前に出た。
「美少女ならここにもいますけどー?」
「お兄様と同じ血が流れていますから、ここにもいます」舞子も山崎に詰め寄った。
 山崎は「うっ」と言葉を詰まらせたが、苦笑気味に折った眉をそのままにあっはっはと豪快に笑った。

「ああ、そうそう。この前の話だけどね」
 千早希が「この前の話って?」と訊き返した。
 山崎は少しだけ声を落として、
「夢依ちゃんの話だよ。やっぱり陰で他人を悪く言っちゃいけないよね。あれから反省したんだ」
 明日奈だけでなく、継も千早希も首をひねった。
「罪滅ぼしってわけじゃないけど、うちを利用してくれているし、ちゃんとどういう子かを知っておこうと思ってさ。彼女が出演したライブのPAをしたことがあるって言う友人から話を聞いたんだ」
 継が言った。「たしかバンドキラーって呼ばれてるんでしたっけ」
「理由がわかったんですか?」
「いや、その点については友人も知らないようだった。でも彼女がサポートで入ったライブ映像が残っていて、見せてもらったんだよ」
 もったいつけるような間に明日奈は焦れ、「それで?」と続きを促した。

「あの子、ベーシストとしてはとんでもない実力者だ」

「えっ、そうなんだ」
「驚いたよ。聞けばまだ十八歳だというじゃないか。それであれだけの演奏をするんだからね。もう、びっくりだよ」
 明日奈は、へえ、と気のない返事を宙に浮かせつつ、かすかに首をひねった。山崎をうならせるだけの実力がありながら、コピーバンドに入りたがったのはどういうことなのだろうか。
何にせよ、彼女はベーシストなのでバンドに加わることはない。明日奈が絶望的に下手だからといって、さすがに明日奈をクビにしてメンバーを入れ替えるなんてことはしないだろう。
 そこまで考えたところで、明日奈はぎくっとした。隣に立っていた継の顔に思わず目線を送った。
「どうした、あしゅ?」
「私、クビにならないよね」
「何を言ってるんだ、突然」
「……がんばる」

 山崎は明日奈たちが返却したシールドケーブルをまとめながら、
「僕の推理はこうだ。バンドキラーという異名は、きっと彼女のベースの巧さが原因だ。大方、彼女と演奏すると自信を失くしてしまうってところなんじゃないかな」
 女性恐怖症の継が女性からモテすぎて困っているのと同じだなと明日奈は思った。ベースがうますぎてメンバーから嫌われる――皮肉な話だ。
 ロビーの奥へ移動し、席についた。

「作戦会議をするよ!」
 千早希は唐突に宣言すると、テーブルの上で手帳を開いた。皆、釣られるように顔を寄せた。
「バンド名……セットリスト……ステージ衣装……二列目まで埋めて盛り上げる?」
 明日奈は手帳に箇条書きされた文字を読み上げた。そして首をひねる。
「とりあえずバンド名は前と同じでいいよね?」
「え? あれでいいの?」継が驚いた顔で訊き返した。
 ライブ当日、出演するバンド名がボードに書き出される。明日奈たちが出演したライブハウスは立て看板にチョーク書きされ、通りに置かれていた。ライブをするならバンド名が必要ということだ。
 前のライブで明日奈たちがライブハウスに申請したバンド名は――、
「Black×Blastのコピーバンドって、そのまんまじゃんか」
 読めば一発で理解できるネーミングだ。申請の際も、ライブハウスの店長に「は?」と訊き返された。
「あくまでも私たちはBlack×Blastのコピーバンドなんだから、これでいいの」
 Black×Blastに対する明日奈の態度が猪突猛進なら、千早希のそれは盲信だ。明日奈たちが何かしらバンド名を考え、その名前でBlack×Blastの楽曲をコピーすることは神への冒涜だと言いたいらしい。

「わかったよ。そこはそれでいいよ」
 あきらめたように継が手をひらひらさせた。もう一方の腕には舞子が絡みついている。メンバーではないのでバンドのことには口を出さない。
 どこかで携帯電話が鳴り出した。メロディーからして明日奈のスマホのようだった。ベースのソフトケースのポケットを探る。画面を見ると兄からの着信だった。
 面倒なので席を立たずに応じた。どうせ夕飯のことだろう。

「もしもし、なに?」
『飯、家で食うのか?』
「うん。食べる。今日は何を作ったの?」
『いや、これから仕込む。お好み焼きだ』
「お好み焼き!」
 好物だったのでつい大声が出てしまった。千早希たちが何だ何だという顔で明日奈を見てくる。
「わかった。早めに帰る」
 賢哉は『ああ』とだけ返して先に通話を終了させた。
「あしゅんち、今日お好み焼きなの?」千早希が訊いてきた。
 うなづいて返すと、千早希は人差し指を顎に添えて宙を見つめた。

「まあ、いいや。作戦会議の続きだけど、セットリストは前と同じでいいとしても、ステージ衣装はきちんとしよう。やっぱりビジュアル面も気にしなきゃ」
「服を買うお金なんてないよ」
「テーマを決めるだけでも雰囲気が違うんじゃない?」
 でもさ、と継が口を挟んだ。「Black×Blast自体、衣装にはこだわってなかったじゃないか。メンバーもサポートメンバーもライブごとに服装が変わってたし」
「んー、それもそうか。じゃあ、これはなし」
 千早希は『ステージ衣装』と部分に横線を引いた。

「最後の、二列目まで埋めて盛り上げるってのは?」継は苦いものを口にしたような顔つきだ。すでに嫌な予感が胸中を漂っているのだろう。
 千早希が無言で舞子にうなづきかける。舞子は神妙な顔つきで同じ仕草を返した。
「お兄様のためです。私が何とかしましょう」
「おい……」
「ファンクラブの会員数は、卒業した人を含めれば五十人以上います。その全員に緊急招集をかけます。これはファンクラブ創設以来、最大にして最重要イベントです」
「やめろ。ほんとにやめてくれ」
「継は黙ってて」
「お兄様、往生際が悪いですよ?」
「なんでだよ!」
 継は舞子から腕を解くと、両手に顔を埋めた。はあー、と大きなため息が聞こえた。継が患っているのは女性恐怖症、明日奈のは人見知り、病名は違えど似たようなものなので気持ちは痛いほどわかった。
明日奈は継に「ドンマイ」と言葉をかけた。同情はするが、明日奈が出した結論は、Black×Blastのために犠牲になってもらおう、だった。

「へへ、ノルマのバック……いくらになるんだろ」
 スマホの電卓アプリで計算を始めた千早希を、継はむっとした顔で睨みつけた。それに千早希はぺろっと舌を出して返す。
 ちなみにチケットノルマを超えた分にはバックがある。バック率はライブハウスによってまちまちだが、明日奈たちがライブをするライブハウスは半分をバックとしてバンドに返してくれる。
 チケットは一枚二千円……チケットノルマが十五枚……仮に五十人が来てくれたとして……えーっと、ノルマを超える分は三十五枚だから……掛ける二千円で……ん?
 わからなくなったので明日奈もスマホの電卓アプリを立ち上げた。計算した結果を目にし、目を丸くした。
「七万円!」
「あしゅ、電卓使ってそれ? バック率を考慮してないでしょ。三万五千円だよ」
「おお……」
 諭吉が三枚だ。それでも十分に多い。四等分すると――いくらだ?

「あっ、そろそろ帰らないと」舞子は言い、席を立った。
「門限、まだ八時なのか?」
「ママがぽけーっとしてるのも、パパが心配性なのも、お兄ちゃんが家にいた頃と変わってないよ」
「父さん、頭が固いからな。駅まで送るよ」
 小さい頃は明日奈の家からそう遠くないところにあるマンションで家族と暮らしていた継と舞子だが、中学三年生のときに横浜に家を建て、引っ越した。吉祥寺からだと電車で一時間近くかかる。駅から歩く時間も考慮すればそろそろスタジオを出ないと八時までに帰宅できないだろう。

「千早希とあしゅは?」
 明日奈は「帰るよ」と返事をした。明日奈の家は荻窪駅から徒歩十分ほどなので、吉祥寺からたった二駅だ。
「あしゅ、さっき賢兄から電話があったみたいだから、夕飯は家で食べるんだよね」
「うん」
「千早希はどうするんだ? 舞子を送ってった後で一緒に食べる?」
 千早希は思案顔になり、どうしようかな、とつぶやいた。
「立川まで帰るの面倒だし……」
 千早希も去年の夏に荻窪から引っ越している。母親が働くスナックが立川にあるため、千早希が高校を卒業するのを待ってから勤務先に近いマンションへ移り住んだ。
「お好み焼き食べたいし」
「え……」
「今夜はあしゅんちに泊まる」
 明日奈は「別にいいけど」と返した後で、材料は足りるだろうかと懸念を抱いた。お好み焼きは大好物なのでお腹がいっぱいになるまで食べたい。一人増えたからこれで我慢しろなどと言われたらたまらない。
 あとで賢兄に電話しておこう――そう思いながら席を立ち、ベースを背負った。
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