第2話

文字数 9,688文字

 二時間後、スタジオ練習を終えた明日奈たちは音楽スタジオ『NEAR』のロビーのテーブル席で顔を突き合わせていた。三人の他には少し離れた席に女の子がついているだけでほとんど貸し切り状態だ。

「あしゅ、ちゃんと練習してきた?」
 壁一面に張られているバンドのフライヤーをぼーっと眺めていた明日奈はむっとして顔を振り向かせた。
「やってるよ。昨日だって二時間も練習したし」
「ぜんぜん上達してないじゃん。演奏はもたついてるし、コードもよく間違えるし」
「だって、まだ始めて半年だもん」
「出た。あしゅお得意の、でも、だって。すーぐ言い訳する」
「だったら千早希がベースやればいいじゃん」
「私には最前列でライブを盛り上げる重要な役目があるもん。あしゅにできる? できないでしょ?」
 明日奈はうっと言葉に詰まり、目線を落とした。生来恥ずかしがりの性格なので、チケットが売れずにがらがらになったステージ最前列で、千早希のようにたとえ孤独であっても楽しそうに、歓声を上げながら体を揺らすなんてことはできるはずがなかった。明日奈にしてみれば街中で裸踊りをするに等しい行為だ。
 一度だけ出演させてもらったブッキングライブでも、棒立ちで下を向きながら粛々と演奏するだけだった。パフォーマンスで魅せられないのならばせめて演奏でと言いたいところだが、それもままならないのだからメンバーから文句の一つも出よう。

 まあまあ、と継が千早希をなだめた。
「あしゅもがんばってるんだよ」
 中世的な顔立ちに困り眉を作り、「ね?」と笑いかけた。いつか女装をさせて街に連れ出したいなと明日奈は常々考えている。
「継はあしゅを甘やかし過ぎなの」
「楽しくやろうよ。別にプロを目指してるわけじゃないんだし」
「Black×Blastのコピーバンドをさせてもらってるんだよ? 来月もブッキングライブがあるんだよ? この前みたいな下手くそな演奏したら、お客さんはBlack×Blastって大したバンドじゃないんだなって思っちゃうじゃん」
「いや、まあ、そうなんだけどさ」
 コピーバンドをさせてもらっていると千早希は言ったが、別に許可を貰っているわけではない。明日奈たちが勝手にバンドを組み、勝手に曲を演奏しているだけだ。

 Black×Blastのコピーバンドをやろうと言い出したのは、千早希だった。

 メンバー構成は、正規メンバーがボーカルとドラム、サポートメンバーがギターとベースだ。継は幼少期からギターに触れていたので、中学に上がる頃には大人顔負けの腕前だった。歌だって、うまくはないが、言うほど下手でもない。継がボーカルとギターを担当すれば、埋めるべきパートはベースとドラムだ。
 楽器なんて触ったことすらなかった明日奈は苦渋の選択を強いられた。
 ちなみにギターの腕が上級だとベースもそれなりに弾けるらしく、継は「遊びでやるバンドだから、あしゅ、ギターでもいいよ」と言ってくれた。

 ボーカルは言わずもがな選択肢として挙がらなかった。試しにドラムセットの前に座ってみたが、手と足が同時に動いてしまい、基礎中の基礎と言われる8ビートさえまともに叩けなかった。
 残すはギターかベースということになるわけだが、継のギターを借りて弾いてみたところ、手が小さいせいでネックの端まで指先が届かなかった。初心者の登竜門とされるFコードはおろか、ちょっと練習すればだいたいの人が押さえられるようになるCコードすら満足に音を鳴らすことができなかった。

 壊滅的に音楽の才能がないと、明日奈だけでなく継も千早希も愕然とした。

 結局のところ選択肢は一つに絞られた。ギターのようにコードを押さえなくていいから大丈夫だろうという考えもあり、明日奈は初心者用ベースを購入した。実際はそんなに単純なものではなく、ベースもまたギターと同等に奥が深いのだろうが、差し当たり形を整えるには最も手を出しやすい楽器だった。

 ところで、と千早希は口を開き、継に向けて目を細めた。
「何か情報は得られた?」
 継は叱られた子犬のような顔になり、ごめんと謝った。
「えー、何のためにここで働いてるのよ。情報収集が継の仕事でしょ? 店長さんの家に下宿しておきながら何も聞き出せてないって、どういうことよ」
「別にそのことを目的にアルバイトしてるわけじゃないよ。住まわせてもらってることだって山崎さんの懇意だし」
「しっかりしてよ。継だけが頼りなんだから」

 継は高校を卒業して一年が過ぎた頃、実家を出た。家出半分、勘当半分といったところだろうか。真面目そうな見た目のわりに勉強は大の苦手で、彼の父親から入学するように命じられた大学入試に失敗したのだ。一浪し、迎えた一昨年の大学入試センター試験も散々な結果で、そのくせ勉強よりもギターを触っている時間のほうが長いものだから父親も堪忍袋の緒が切れた。大喧嘩の末に家を飛び出したというわけだ。
 明日奈の家は要介護の父と、二回り年が離れた兄との三人暮らしで一部屋余っているため、しばらく継を泊めてやることにしたのだが、恋愛関係に発展することはまずない仲とはいえ、年頃の男女がいつまでも同じ屋根の下で寝起きするのはいかがなものかと明日奈の兄が不満を口にするようになり、それで居づらくなった継は音楽スタジオ『NEAR』でアルバイトを始めた。

 ギター以外は何をさせてもことごとく要領が悪い継なので、音楽スタジオのアルバイトも例に洩れなかった。とはいえ、愛想だけは一流だ。スタジオ料金の精算に戸惑ったり、スタジオの予約でダブルブッキングしてしまったりとミスは多かったが、彼がフロントに立つことで客が増えた。特にガールズバンドが目に見えて多くなったという。
 一人暮らしの資金が貯まり次第、継は明日奈の家を出ていくつもりだったが、事情を聞いた店長の山崎が「それならうちに来るといいよ」と提案してくれ、それで今では彼の家に居候をさせてもらっている。

 継が音楽スタジオ『NEAR』でアルバイトを始めたのは昨年の四月、ちょうど一年前のことだ。その頃にはすでにBlack×Blastは解散していた。彼らの活動期間は、吉祥寺サンロード商店街でバンド結成を宣言してから七ヵ月と短い。明日奈たちが高校三年生だった年だ。
 たった七ヶ月の活動でメジャーレーベルとの契約間近だったという話を聞いたときは、改めてBlack×Blastというバンドの末恐ろしさを実感した。

 継もまたBlack×Blastの大ファンだった。そのことを知った山崎は「彼らはね、このスタジオで練習していたんだよ」と自慢げに語った。継はBlack×Blastが使っていたスタジオだからアルバイトに応募したのではない。単なる偶然だった。

 継から話を聞いた明日奈と千早希は、もしかしたら解散後もメンバーの出入りがあるかもしれないと淡い期待を抱き、音楽スタジオ『NEAR』に通いつめた。始めの頃こそ過去の武勇伝を語るようにBlack×Blastの逸話を話してくれた山崎だったが、次第に言葉を濁すようになった。
 明日奈と千早希の熱狂ぶりが度を越していたからだ。下手なことを口にすれば、メンバーの下に押しかけて迷惑をかけるのではないかと危惧させてしまったのだろう。
 事実それは当たっていて、メンバーの居所がわかれば明日奈と千早希は「Black×Blastを復活させてほしい」と直談判に行く腹積もりだ。
「いいなあ、継は。一度とはいえ竜也さんを見てるんだから」
「ああ……めっちゃかっこよかった」
「もう金髪じゃなかったんでしょ? 結婚したからかな」
「山崎さんが竜也さんの結婚式に招待されたんだよって自慢してたから、そうなんだと思う」
「ということは、二人とも結婚してバンドは解散かあ」

 もう何度も継から聞いた話だが、それは半年ほど前のことだ。

 継が音楽スタジオ『NEAR』でアルバイトをしていると、黒髪の若い男性がやってきた。「山崎さん、いる?」と気さくな調子で声をかけてくる彼にかすかな違和感を覚えつつ、継は裏で休憩していた山崎を呼びにいった。
 ちょうど手が空いていた継は、ロビーで立ち話を始めた二人の会話に何気なく耳を傾けていた。するとBlack×Blast、復活という単語が聞こえてきて、はっとした。そこで継も男の正体に気がついた。

 継の目の前に立っていたのはBlack×Blastのボーカル、新川竜也だったのだ。

 長めの白っぽい金髪をセンターで分け、サイドは耳にかかっていて、ウルフカットに近いが襟足は短め――そんなバンドマン然とした髪型だった竜也が、髪を黒く染め、さらに短髪に様変わりしていた。
 事実上の解散から一年が経過していたとはいえ、明日奈たちと同じくBlack×Blastのファンである継が気づけないほどの変わり様だったのだ。
 その日、明日奈は千早希と吉祥寺駅周辺にいた。あれほどの悔しさはない。ウィンドウショッピングなんてしていないでスタジオへ行けばよかったと、二人して後悔を口にしたのはおそらく百回を超えている。

 明日奈たちは山崎に詰め寄った。Black×Blastが復活するんですか。竜也さんはどうしてスタジオに顔を出したんですか。
「あー……そういうわけじゃないんだけどね。うーん、まあいいか。十一月の第二週の木曜日に新宿RAIJINでライブをするそうだよ。君たちも……ああ、うん、そりゃあ行くよね。オッケー、オッケー。三人のチケットも確保しておくよ」
 明日奈たちは喜びに飛び跳ねた。Black×Blastが戻ってきた。伝説のバンドがとうとう復活するんだ――しかしそんな期待は見事に裏切られた。

 一夜限りの復活ライブだったのだ。

 事情は知らないが、正式にバンドを復活させるわけではないようだった。幸せの絶頂で演奏を聴いていた明日奈は、MCでそのことを聞かされ、目の前が真っ暗になった。まさしく天国から地獄へ叩き落された。
 ライブが終わると、ファンサービスの一環だったのか、ホールで竜也と春斗と少し話ができた。明日奈は号泣しながら訴えた。お願いします。復活してください。Black×Blastは私の命なんです、と。

「一夜限りの復活ライブだったなんて」千早希は項垂れ、ため息を洩らした。「もう会えないのかな」
「あれから一度も姿を見ないし。そうなのかもね」
「泣きそう」
 そうこぼした後で、千早希は壁に目を向けた。そこにはバンドメンバー募集の張り紙がされている。明日奈たちのバンドが作ったものだ。
「誰からも電話かかってこないね」
「仕方ないよ。界隈では有名とはいえ、インディーズバンドのコピーバンドだし」
「こんな下手くそなバンドじゃ誰も入りたがらないか……ん?」
 明日奈は少し前から気づいていたのだが、近くの席に座る女の子がじっと千早希のほうを見ていた。千早希はぎくっとしたように身を引き、「どうしたの?」と声をかけた。

 金色に染め上げた髪をツインお団子にした、明日奈たちと同年代と思しき彼女は、椅子に座っていても小柄なのがよくわかった。抱えたベースがやけに大きく見えたからだ。若干の垂れ目で、顔つきは犬顔に分類されるだろうか。首筋にわずかに垂らした細い髪の束を指でいじりながら、目を爛々とさせてこちらを見つめている。
「バンドメンバー、探してるの?」
 鼻にかかる声で、跳ねるような調子で彼女は訊いた。そしてきょとんとして、わずかに顔を傾ける。
「あ……うん。そうだけど」
 千早希が答えると、彼女はぱっと顔を明るくして椅子から立ち上がった。
「バンド、入ってあげようか」
「えっ、ホント?」
「ほんと、ほんと! 私、ムイちゃん。よろしくね」
 珍しい名前が飛び出し、明日奈はぱちぱち瞬きをして彼女の顔を見返した。ライブネームだろうか。バンドマンやファンの子たちは本名とは違う名前を名乗ったりする。
 すると察しがいいのか、
「えっとね、夢に依存するって書いて夢依ちゃん。よろしくね!」
 二度目のよろしくを口にして、テーブルにベースを立てかけると明日奈たちのテーブルに移動してきた。

 そこであることに気がつき、明日奈は「あ……」と声を出した。隣に座った夢依がどうしたのと顔を寄せてくる。
「ごめん。うち、ベースはもういる」
「えーっ」
「それにうちはコピーバンドで、プロ志向じゃないんだよ」
 夢依は顔の前で手を振り、
「それは大丈夫。私は音楽ができたらそれで幸せだから。って、うー、ベースはいるのかあ」
 ねえ、と千早希が明日奈に呼びかけた。
「あしゅ、ギターやりなよ。そしたら継はボーカルに専念できるし」
「えー、やだよ。ギター、難しいもん」
 千早希は下唇を突き出すと、今度は夢依に話しかけた。
「夢依ちゃんはギター弾けない?」
「弾けない」
 一瞬でロビーの一角がお通夜のように静まり返った。やがて夢依は無念そうに肩を落とし、元の席に戻った。
「ご……ごめんねえ」
 千早希が慰めるように声をかけると、夢依はこくりとうなづき、ソフトケースにベースを収めてスタジオを出ていった。

「嵐のような子だったね」
「びっくりした」
「あしゅがギターに転向すれば済む話なのに」
「……ギターは無理」
 そんなやり取りの最中、明日奈たちがいる席に山崎が近づいてきた。彼は夢依が出ていった入口のガラスドアのほうに目をやりながら、
「夢依ちゃんと何を話していたんだい? まさか、バンドメンバーに加えようって話じゃないよね」
 妙な物言いに三人はそれぞれ顔を見合わせた。千早希が「そうですけど、どうかしたんですか?」と訊き返した。
「うーん、彼女はちょっとお勧めできないかな」
「ん? どういうこと?」
 山崎はがりがりと頭をかきながら、
「こんなことを言っちゃいけないんだろうけど」
 それきり眉尻を落として黙ってしまったので、継が先を促した。「何か言いにくいことなんですか?」
「彼女、夢依ちゃんっていうんだけど」
「はい」
「二つ名があるんだよ」
「二つ名?」
 山崎は気まずそうに言い淀んだ後で、内緒だよ、と断ってから口を開いた。

「バンドキラーって、一部の子たちから呼ばれているんだ」

「バンドキラー? なにそれ!」
 千早希が目を見開いて訊き返すと、山崎は人差し指を口に当てた。声を落とせとのジェスチャーだが、心配しなくてもロビーには他に誰もいない。
「彼女が加入すると決まってバンドが解散するらしいんだ。彼女が出入りするならもう来ないって他のスタジオを利用するようになった子たちもいてさ」
「解散理由は何なんですか?」継が訊いた。
「そのあたりの事情はよく知らないんだ。彼女がいたバンドのメンバーに一度尋ねたことがあったんだけど、濁されてしまってね。とにかく夢依とはもう会いたくないとしか言わなかった」

 千早希はぼんやりと宙を見つめながら、「そんな悪い子には見えなかったけどなあ」とつぶやいた。

「陰で悪く言うようで気が引けたんだけど、何だかんだ言って君たちは僕のお気に入りだからね。一応、忠告しておこうと思ってさ。まあ、あの子はベーシストだから、どの道バンド加入は無理だったかな」
「店長さん、誰かへたっぴコピーバンドでもいいって人がいたら紹介してね」
 山崎はオッケーと親指を立て、カウンターへ戻っていった。その後ろ姿をぼんやりと眺めていた明日奈はふとあることを思い出し、スマホを取り出した。
「ツーピースバンドじゃ見栄えが悪いもんね」千早希が言った。「せめてあと一人、ギターかドラムが加わってくれたらいいんだけど」
「インターネットでもメンバー募集してみる?」
「いいね。継に任せた」
「なんで面倒事はいつも僕なんだよ」

 ねえ、ちょっと、と明日奈は二人の会話を遮った。スマホをテーブルの上に置き、これを見てと言った。

「どうしたの、いきなり。なにこれ、渋滞情報?」
 画面に表示されているのは、吉祥寺近辺の渋滞情報だ。バンド練習に入る前にインターネットで調べ、スクリーンショットしておいた。
「私、すごいことに気がついちゃったかもしれない」
「もったいぶらなくていいから早く言いなって」
 明日奈は、うん、とうなづいた。
「山崎店長、お昼から戻ってきたときにおかしなことを言ってたでしょ」
「……何か言ってたっけ」

「君子危うきに近寄ずじゃなくて、君子に危うきを近寄らせずって」

「あー、そうだったね」
「二人は何とも思わなかった? 私はぴんと来た」
 継は眉をしかめて首を傾げた。「あしゅ、何が言いたいんだ?」
「あの言葉は、千早希が評判の食堂ってどこって訊いたときに口にしたものだよ。君たちには言えないなって山崎店長は答えを避けた。君子に危うきを近寄らせず。君子って誰のことだと思う? 危うきは? まだわからない?」
 千早希と継は首をひねりつつ、互いに見つめ合った。
「もー、鈍いんだから。君子ってのはBlack×Blastのことで、危うきってのはきっと私たちのことだよ」
「え……どういうこと?」
「だーかーらー、その評判の食堂がBlack×Blastのメンバーと関係があるってことなんじゃないの? 食堂の場所を教えたら私たちが押しかけるかもって心配したんだよ」
 千早希は目を見開き、口許に手をやった。
「嘘……じゃあ、会えるかもしれないってこと? 継、店長さんから詳しく聞き出してきて」
「いやあ、無理だってば。山崎さん、僕らがBlack×Blastの大ファンだって知ってからぜんぜんしゃべってくれなくなっちゃったじゃん」

 だいじょうぶ、と明日奈は言った。それから継に尋ねた。

「ねえ、山崎店長が休憩に入ったのって何時だった?」
「えっと……何時だったかな」
 継は椅子に座ったまま振り返り、壁掛け時計に目をやった。「たしか、十二時半くらいだったと思う」
 明日奈は顎に手を添えて少し考えてから、
「私たちのスタジオ練習が二時からだったから、一時間半も抜けてたことになる。食堂に滞在してたのが三十分くらいだったとして、異動だけで一時間もかかってる」
「片道三十分の距離にその食堂があるって言いたいの?」
「あしゅ、まさかそれだけの情報で食堂の場所を特定しようと思っているのか」
「それだけじゃない」

 スマホの画面に指を置いた。先ほど調べた吉祥寺近辺の渋滞情報によれば、音楽スタジオ『NEAR』の前の通り、五日市街道に渋滞が発生していたことを示している。

「往復一時間だけど、たぶん片道三十分じゃない。だって、山崎店長は帰りに渋滞に引っかかったって言ってたから。行きも帰りも、じゃなくて、帰りに、って。となると、行きは二十分から二十五分、帰りは三十五分から四十分って感じじゃないかな」
 千早希がぽかんとしてテーブル越しに明日奈を見つめてくる。
「継、ここらへんの地図がカウンターの裏にあったよね。持ってきて」
 継はわかったと返事をして席を立った。山崎の目を盗んで地図帳を取ってくると、テーブルの上で開いた。
 明日奈は地図上に指をすべらせながら、
「渋滞があったのはこの辺り。五日市街道沿い。だからこっちの方角に山崎店長は行ったってこと」
「南東の方角だね」地図を覗きこみながら千早希は言った。「車で二十分から二十五分っていうと、んー、どのくらいの距離? 運転免許ないからわからないよ」
「だいたい六、七キロかな」継が補足した。「道なりなら高円寺くらいまでがちょうど車で二十五分くらいだよ」
 明日奈は無言で首を揺らした。
「ずっと五日市街道を走ってたとは限らない。南東の方角へ向かったのはたぶん合ってると思うけど、途中どこかで別の道に入った可能性もある」

「あしゅ……Black×Blastのことになるとまるで別人だな」
 継のぼやきに千早希がうなづく。「いつもの何倍も冴えてるよね。ちょっと怖い。ストーカーの才能あるんじゃない?」
 千早希のからかう言葉を無視して、明日奈は地図に指で円を描いた。音楽スタジオ『NEAR』の南東一帯だ。
「この範囲のどこかにその食堂はある。道なりだったら高円寺、途中で道から逸れたとしたら荻窪、阿佐ヶ谷……南なら下北沢かな」
「広いよ。さすがに広いって。手当たり次第に探すつもりか?」
「うーん」
 これ以上のヒントはない。明日奈が頭を抱えていると、スマホが震え出した。着信が入ったようだ。『賢哉』と表示されている。兄からた。

 ちょっとごめんと断って席を立ち、通話状態にした。

「もしもし、どうしたの?」
『ああ、オレだ。今日、夕飯は家で食うのか?』
 気怠そうにぼそぼそとしゃべる声が耳を撫で、明日奈は思わず顔をしかめた。明日奈に似て根暗なところが好きじゃない。
「家で食べる」
『そうか。わかった』
 用件が済むと賢哉は電話を切った。父がほぼ寝たきりなので家の食事はいつも彼が作ってくれている。バンドを始めてから外食することが多くなったせいか、たまにこうして確認の電話を入れてくるのだ。
 兄とは二十歳も年が離れているため、喧嘩らしい喧嘩をしたことはない。兄のことは妹として大好きなのだが、彼の顔を見るのはあまり好きではなかった。大嫌いな鏡を覗いているような気分になるからだ。

「あしゅ、ちょっとこっち来て」

 千早希が明日奈を手招いていた。席に戻ると花柄の小冊子を差し出された。これは何と尋ねると御朱印帳だと彼女は答えた。
「御朱印帳ー?」
 驚きつつも、そういえば千早希の趣味の一つに御朱印集めがあったっけと思い出していた。たまに神社に付き合わされ、御朱印を押してもらうまで待たされることがある。
「もしかしたら手がかりになるかもしれないと思って」
 そう言うと千早希は継に顔を向けた。
「店長さんも御朱印集めしてるの、知ってる?」
 継は知らないと首を振った。
「趣味が同じってわかって、話が盛り上がったことがあるんだ。店長さんご自慢の御朱印帳も見せてもらったんだけど、一つ気になる御朱印があったんだよね」
「気になるって?」
「お寺さんの御朱印」
「え? 御朱印って神社でもらうものなんじゃないの?」
「ううん、神社だけってことはないよ。そこは別にいいんだけど、聞いたことない寺院だったから、有名なお寺さんなんですかって質問したの。そしたら店長さん、あっはっはっていつもみたく笑って、このお寺にはね、音楽の神様がいるんだよって言ってたんだ」
「音楽の……神様? お寺に?」
「変だなって思うでしょ。神様っていったら普通神社だもん」
 そういうものなのかと明日奈はひとまずうなづいておいた。しかし考えてみれば、神社には神様、寺には仏様、だ。たしかに変な話だと思った。

 千早希は「何か怪しくない?」と明日奈と継の目を順に覗いた。

「Black×Blastと関係があるかもしれないってことか?」
「わからないけど」
「それ、どこのお寺さん?」
「んー、覚えてないんだよね。涼しいって漢字が入ってた気がする。今からどこのお寺さんですかって訊いたら警戒されちゃいそうだしなあ」
「探してみよう!」明日奈は地図に顔を近づけた。
「いや、地図で探すよりインターネットで調べたほうが早いよ」
 言いながら継は自分のスマホで検索を始めた。千早希もショルダーバッグからスマホを取り出したので明日奈も二人に倣った。
 間もなく「あっ」と継が声を上げた。
「これじゃない?」
 継のスマホ画面を覗くと、検索結果に『光涼寺』とあった。住所は杉並区とあり、先ほど明日奈が示した範囲に収まっている。どうやら南阿佐ヶ谷駅から南に位置する寺院のようだ。
 千早希は興奮気味に胸の前で手を合わせ、その寺で間違いないと断言した。

「明日、行ってみよう」

 明日奈が言うと、千早希は神妙な顔つきでうなづき返してきた。
「えー、そこまでする?」
 不満を口にする継の肩を千早希がグーで殴った。継は痛いってばと眉を折って体を引いた。二人のじゃれ合いを眺めながら、明日奈は膝の上で拳を握った。
 ――見つけられるかもしれない。
 これが武者震いというやつか。そんなことを考えていた。
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