第1話

文字数 8,475文字

 今日もまた伝説の地を巡る。

 事実上の解散ライブが執り行われたのは渋谷ノースラインだった。黒とグレーの市松模様の箱型のライブハウスを眺める双葉明日奈の脳裏には、一年半前のある夜の光景が鮮明に焼きついている。

「最高の一夜だったね」
 明日奈のつぶやきに、日傘を差して隣に立つ姫宮千早希は無言でうなづき返し、それから、あー、と無念そうに声を洩らした。「復活してくれないのかな」
「戻ってきてくれるよ!」
 明日奈はベースを背負い直し、踵を返した。来た道を指差して、次行くよ、と声高らかに言った。

 渋谷駅まで歩き、山手線に乗って新宿まで移動した。東南口の改札を抜け、次に目指したのは新宿RAIJINというライブハウスだ。渋谷ノースラインと同じく、真っ昼間の時間帯なので当然ながらオープンしておらず、地下へと続く階段の前に立って頭上の看板を見るだけだ。

「一夜限りの復活って……ぬか喜びにも程があるよね」がっくりと項垂れた千早希の横顔を、艶のある黒髪が覆い隠した。
「きっと何か事情があるんだよ」明日奈はキャップの庇の下から新宿RAIJINの看板を覗き上げた。
「解散じゃなくて活動休止ってこと? 事情って、どんな?」
「知らないよ。でもBlack×Blastが解散したままなんて、そんなこと絶対にない。あっちゃいけない」

 このバンドに人生を捧げよう。全国ツアーが敢行されればお小遣いと貯金を全額つぎこんででもすべて参戦しよう。メジャーデビューして遠い存在になったとしても、路上ライブ時代から追い続けた最古参ファンとしてどこまでも応援するんだ――二人がそう心に誓ったインディーズバンドがある日突然解散してから早一年半が過ぎていた。毎夜毎晩SNSをチェックし、今日のメンバーの動向やバンド復活の兆しを目を皿にして探しているが、胸躍る情報はいまだ得られていない。

 インディーズ界隈に彗星の如く現れ、たった三度のブッキングライブを経ただけで、収容人数千三百人を誇る渋谷ノースラインでスリーマンライブ出演を果たした伝説のバンドBlack×Blastは、まさしく流星が夜空に黄金の線を引くようにして、多くのファンの前から忽然と姿を消してしまった。
 ホームページに表示された解散告知を目にしたときは思考のプラグを引き抜かれ、しばらく放心した。事実を受け入れられず、部屋で一人、「え、え、え?」と壊れたおもちゃのように声を出していた。

 あれほど泣いた夜はない。明日奈が顔を埋めて何時間も泣き通した枕には、涙と涎の跡がまだくっきりと残っている。
 幼馴染の千早希も同じ穴の狢だ。どちらがBlack×Blastをより深く愛しているかでしばしば言い争いになり、気づけば肩を寄せ合ってバンドの魅力を語り合っている。そんな仲だ。

 もう二年以上も前のことになるだろうか。雪が降りそうな寒い夜だった。

 十二月中旬のある金曜日、二人は吉祥寺サンロード商店街のカフェでお茶をしていた。高校二年生で、アルバイトの給料と少しのお小遣いだけでやりくりしていた二人はコーヒー一杯で何時間も店に居座った。
 閉店の時間になってもいまいち遊び足りず、カラオケにでも行こうかと明日奈が提案すると、「聞き専なのによく飽きないね」と千早希は笑った。明日奈はマイクを握ることは断固拒否するが、他人が歌っているのを聞くのは好きだった。

 店を出ると辺りはすっかり暗くなっていて、遠くからアコースティックギターの音色が聴こえていた。路上ライブをするミュージシャンの存在は、閉店時間を過ぎた吉祥寺サンロード商店街ではそう珍しくない。気にも留めず歩き出そうとした二人だったが、演奏に透き通るような歌声が乗った瞬間、金縛りに遭ったように動けなくなった。
 明日奈と千早希は互いに顔を見合い、無言のまま駆け出した。

 シャッターが下りた店先で若い男が弾き語りライブをしていた。涼やかな顔立ちは一見すれば男性らしくなく、どこか硝子細工を思わせた。けれど透き通るような金色の髪の下に見え隠れする瞳は力強さを秘めていた。
 明日奈たちが立ち止まったとき、周囲にはまだ誰もいなかった。後に知ったことだが、その夜が彼の初めての路上ライブだった。つまり、二人は伝説が始まった瞬間に立ち会ったことになる。初めての聴衆になったのだ。

 あの夜の光景を、冷えた空気を、胸を貫いた彼の歌声を、明日奈は今でも忘れられない。

 新宿RAIJINを後にした明日奈と千早希は吉祥寺駅で電車を降り、吉祥寺サンロード商店街へやってきた。夜になればシャッターが下りるドラッグストアの前で立ち止まる。始まり地と二人が呼称する商店街の一角だ。
「覚えてる? まだ春斗さんがメンバーじゃなかったときのこと」
 人の波を遮ってその場で立ち尽くす二人を、通行人が舌打ちをして避けていった。明日奈の言葉に千早希は、もちろん、と答えた。
「最初は竜也さんが一人で、アコースティックギター片手に歌ってたんだよね。春斗さんは私たちと同じようにお客さんとして路上ライブを聴きにきていて、ある日スティックを出してリズムを取り始めた」
「あのときの竜也さんの驚いた顔、忘れられない」
「うんうん。素敵な出会いだよね。あれがきっかけで二人はバンドを組んだわけだし」
「Black×Blast結成の瞬間に立ち会えたって思うと、胸が……胸が……何て言えばいいんだろ。わからない」
「あしゅ、語彙力なさすぎ」

 Black×Blastのメンバーは、ボーカルの新川竜也とドラムの春斗の二人のみだ。他にもギターとベースがいたが、どちらもサポートメンバーだった。
 初めて竜也を見かけた夜、アコースティックギターで弾き語りライブをする彼の周りには、最終的に明日奈たちを含めて五人の観客が集まった。もっと沢山の人がいてもおかしくないのになと思った。けれど彼の友人がいた様子はなかったので、おそらく全員が彼の歌声に惹かれ、足を止められた通行人だったのだろう。
 彼はいつも三十分ほどで路上ライブを切り上げていた。金色の髪をかき上げて屈託なく笑い、「また来週の同じ時間に。今日はありがとな」と挨拶をすると、アコースティックギターをハードケースに収め、どこかへ去っていく。告知されたとおり、その翌週も、そのまた翌週も明日奈と千早希は彼の路上ライブに足を運んだ。

 季節は冬、吐く息は白かった。

 そして年が明けた。一月の中旬にもなると、すでに常連と見て差し支えない者たちが現れ始めていた。名前は知らないものの、見れば「あっ、この前の人だ」と気づく程度の認識はあった。
 そんな聴衆の中に一際目立つ男性がいた。長身で、短い黒髪を軽く立たせた名も知らぬ彼は、いつもなら腕組みをして人の輪から外れた位置に立っているのだが、なぜかその夜は竜也のすぐ近くであぐらをかいていた。
 路上ライブが二曲目に差しかかったとき、彼はおもむろにショルダーバッグの中からドラムスティックを取り出し、アコースティックギターの演奏に合わせてリズムを刻み始めた。竜也は驚き顔になり、一瞬だけ歌うのを止めていたが、すぐにふっと笑んで歌を再開させた。
 後にBlack×Blastのメンバーになるドラムの春斗と竜也の出会いだった。

 次の路上ライブでは、始めから春斗も演奏に加わっていた。スネアを持参し、竜也の隣でリズムを取っていた。
 そんなことが何週か続いた二月の終わり、竜也は路上ライブを終えると聴衆の前で宣言した。
「オレ、こいつとバンドを組むことにした。初ライブは一ヵ月後だ。もう決めた。準備で忙しくなるから路上ライブは今日で最後だ。SNSのアカウントを作ったから、よかったらチェックしておいてくれよ。絶対に来てくれよな」
 その場で大きな拍手が巻き起こった。バンドが結成された瞬間だというのに、すでにファンの数は二桁に達していたことだろう。実際に一ヵ月後の四月初旬、新宿RAIJINのブッキングライブにBlack×Blastが出演したとき、ステージの前には路上ライブで見かけた人たちの姿が並んでいた。

 明日奈はかつて一度だけ、千早希と一緒に有名な歌手のライブを観るため武道館に行ったことがあったが、巷のライブハウスに足を踏み入れたことはなかった。予約チケットと当日券とで料金が違うことも、ドリンクカウンターでチケットの半券を渡してドリンクを受け取るシステムも当然知らなかった。だからBlack×Blastの初ライブで最前列が埋まっているのを見ても何とも思わなかった。
 だがライブを通して顔見知りになった同世代の女子からインディーズバンドについて色々と教わっているうちに、次第に明日奈たちはBlack×Blastの異常さに気づいていった。
 例えば、過去に名が知れたバンドを組んでいて、固定ファンがついている状態で臨む初ライブであれば話は別だが、そうでなければチケットノルマに達することは非常に困難とのことだった。友人にチケットを買ってもらい、なんとか数枚捌けたという程度が関の山だという。コピーバンドなら曲を知っていてライブを楽しめる可能性もあるが、見知らぬバンドがオリジナル曲を演奏していてはそうもいかない。最前列に人が立ってくれず、ホールの後方で見守る観客とステージの間にぽっかりと空間ができてしまうことだって珍しい光景ではないということだ。そもそも初ライブではバンドの存在すら知られていないのだから、チケットが売れるはずがないのは当然だろう。
 そんなインディーズバンドの常識はBlack×Blastにはまるで当てはまらなかった。
 初ライブからの帰り道、口数少なく千早希の隣を歩きながら、明日奈は震えていた。もしかして自分はとんでもないバンドを発見してしまったのではないか。ねえ、やばくなかった? うつむきながら千早希に声をかけると、やばすぎでしょと返ってきた。

 始まりの地で思い出に浸っていると、千早希が「あっ」と声を上げた。
「もうすぐスタジオの時間。急ごう、急ごう」
 二人は早歩きで吉祥寺サンロード商店街を北へ抜け、片側一車線の通りを渡った。そこから西へ向かって歩けば、やがて赤い看板が見えてくる。
 その看板を指差して、「ゴール!」と明日奈は言った。

 渋谷ノースライン、新宿RAIJIN、吉祥寺サンロード商店街を巡り、最後にBlack×Blastがバンド練習をしていたという音楽スタジオ『NEAR』で締めくくる。言ってみれば、聖地巡礼である。月に数回は必ず行う、二人の定例行事だった。

「ベースを背負ってたら肩が凝っちゃった。スタジオに置かせてくれたらいいのに」
 音楽スタジオ『NEAR』は地下一階にある。階段を下りながら明日奈が不満を口にすると、
「店長さんに頼めば置かせてくれるかもしれないけど、持って帰らないと家で弾けないじゃん。あしゅ、下手くそなんだから毎日練習しなきゃ」
 千早希があけすけに言い返してくる。ハイヒールミュールサンダルを履いているせいで動きは遅く、階段を下りきった明日奈は「はーやーくー」と彼女を急かした。
 この日の千早希の服装は、クロップド丈のスキニーデニムに黒のインナーをタックインし、上衣はチェック柄のカジュアルシャツだ。明日奈と同じく比較的ボーイッシュな格好を好む彼女ではあるが、巧みに男心をくすぐる可愛らしさと程よい色気を備えている点で二人の間に明確な線引きがされる。街中ですれ違う男の視線はいつだって明日奈ではなく千早希に向けられる。

 明日奈は無地のTシャツに黒のジーンズを合わせ、スニーカー履きだ。サンダルなどというお洒落な履物はそもそも家の下駄箱に入っていない。肩にかかる髪はほんの少し脱色してあって、前髪は目が隠れるほど長く、大抵黒のキャップを目深に被っている。
 彼氏と別れたと聞かされたかと思えば、その三日後には新しい男と付き合っている千早希とは違い、明日奈に浮いた話はない。恋人はおろか、好きな人ができたこともない。恋愛に関係がありそうな話というと、小学六年生のときに下駄箱に手紙が入っていたことくらいだが、ラブレターかと思えば怪文書だった。いつだって異性の目を気にかけた立ち振る舞いを崩さない千早希と、強いコンプレックスを抱く明日奈は、幼馴染でもなければ決して交わることのなかった二人だろう。

「あーあ、聖地巡礼ばかりじゃなくてライブに行きたいなあ」
 千早希はぼやきながらガラスドアを押し開け、音楽スタジオ『NEAR』へ入っていく。明日奈は黙ってうなづき、彼女に続いた。

 中に入るとロビーの中央正面にカウンターがあり、そこに獅子崎継が立っていた。背は180センチにわずかに届かないものの高身長で、痩せすぎず太ってもおらず、すらりとしている。慣れた手つきでシールドケーブルを円の形にまとめている。
「継、もうすぐバンド練習の時間だよ」
 千早希がカウンター越しに話しかけると、継は眉を八の字に折り、少しだけ顔を斜めに傾けた。真ん中で分けた黒髪が爽やかに揺れる。
「山崎さんがまだ帰ってきてないんだ。戻ってきたら交代で仕事を上がろうと思ってるんだけど」
 山崎というのは音楽スタジオ『NEAR』の店長の名前だ。継は彼の下でアルバイトとして働いている。明日奈と千早希のバンドメンバーであり、この日は週に一度のバンド練習の日だった。
「山崎さん、どこに行ったの? サボり?」
「お昼休憩だよ。サボりって、千早希じゃないんだから」
「あーっ、失礼なやつ。こんな真面目な子を掴まえて何を言うか」
「千早希のどこが真面目なんだよ」
「また言った!」
 千早希はカウンターに身を乗り出して継の腹を拳でぐりぐり押した。継は苦笑しつつ、後方に体を逃がした。

 継もまた千早希と同様に明日奈の幼馴染だ。幼稚園から小学校までは三人一緒だったが、継だけは私立の中学校へ入学した。
 中学から別々の学校に通うことになっても腐れ縁は続いた。毎年三人で夏祭りへ行き、大晦日には明日奈の家に集まって共に年を越し、翌日は早朝から初詣へ出かけた。周りに気を配るのが苦手な明日奈と、配慮はできるがマイペースで奔放な千早希の間に、継はいつだって挟まれてきた。気づけば二人の保護者のような立ち位置が彼の居場所になっている。

「継くーん、清算お願いしていーい?」
 カウンターの横に通路から見知らぬ女が現れ、甘ったるい声で継に話しかけた。通路の奥には両側にスタジオブースが並んでいる。練習を終えて出てきたのだろう。今年二十歳を迎える明日奈たちより二つか三つか年上に見えた。
 ボーカルマイクを入れたかごを受け取り、継は「わ、わかりました」とぎこちない笑顔で応じた。
 すると彼女のバンドメンバーらしき若い女が続々とブースから出てきて、カウンターを取り囲んだ。ガールズバンドのようだ。
「ねえ、継くん。来週の土曜日、下北沢でライブをやるから遊びきてよ」女の一人が許可なくカウンターを回って継に寄り添った。
「あ……いや、僕は……その」
「お金ないの? ゲストパス出すよ?」
「ちゃんとご飯食べてる? お姉さんたちが何かご馳走してあげよっか」
 継は逃げ場なくたじたじになり、言葉にならない言葉を口にしている。辟易とした明日奈がちらりと隣に目を向けると、千早希はまたかと言いたげに肩をすくめていた。
 明日奈も千早希も中高は学校が別だったため、継がどんな学校生活を送っていたのかを詳しく知らない。けれど、ちょっとした事件をきっかけに継の性格がすっかり変わってしまったことだけは知っている。かつては普通の男の子だった継だが、今では重度の女性恐怖症で、さらにアニメオタクだ。

「あー、こらこら。君たち、離れて離れて。ダメだよ、継くんは女の子が苦手なんだからいじめないの」
 音楽スタジオ『NEAR』の店長をしている山崎が彼女たちを継から引き離した。ちょうどお昼休憩から戻ってきたところらしく、被っていたキャスケットを取ってカウンターの後ろの壁にかけた。
 元バンドマンにはありがちだが、四十歳を過ぎていながら見た目は若く、丸顔に薄く顎髭を蓄えている。腹回りに若干の貫禄を感じるが、ほんの少し運動不足を疑う程度で一般的に言えば中肉中背の範疇だろう。パーマをかけた長めの茶髪を手でかき上げながら継に笑いかけた。
「継くん、遅くなってごめんね。ちょっと道が混んでいてさ。これからバンド練習だよね。もう上がっていいよ」
 最初に現れた女を残して、他の女たちは「ちぇ」と舌を鳴らしてカウンターから離れていった。山崎がスタジオ料金の精算を請け負い、その隙に継はスタッフ専用ルームに引っこんだ。
 清算を終えた山崎に千早希が話しかけた。
「店長さん、遅刻だよ。ちょっと時間が過ぎてるじゃん。スタジオ料金、おまけしてくれる?」
「次の枠が空いてるから、遅れた分は延長していいよ」
「えー、安くしてよお」
「ダメダメ、そういうのは受け付けてないからね」
 山崎は貸出用のドラムスティックを拾い上げると、くるりと手の中で回した。元インディーズバンドのドラマーだったらしい。

「どこまでランチしに行ってたんですか?」
 明日奈が尋ねると、山崎の口許がかすかに緩んだ。「内緒。すごくおいしいって評判の食堂を教えてもらってね。車で行ってたんだよ」
「評判の食堂? え、どこ?」
「だから内緒だよ。君たちだけには言えないな」
 なんでよ、と千早希が食ってかかったとき、継がギターケースを背負って戻ってきた。妙な空気を敏感に察したのか、「何かあったんですか?」と山崎に訊いた。
「何でもない、何でもない。君子、危うきに近寄ずってね。あっはっは、ちょっと違うか。君子に危うきを近寄らせず、かな?」
「店長さん、何言ってんの」
 千早希が白けたような目を山崎に向けるすぐ隣で、明日奈は明日奈で訝しんで彼を見つめていた。すぐにスマホを取り出して、インターネットで検索を始めた。
 山崎はボーカルマイクとシールドケーブルを継に手渡し、練習がんばっておいで、と手を振った。

 音楽スタジオ『NEAR』で一番小さなブース、Aスタジオに入った。
 鏡張りの部屋の中にはドラムセットにオーディオミキサー、ギターアンプが二台、ベースアンプが一台置かれているが、三人以上が弦楽器を持てばヘッドがぶつかりかねない狭さだ。とはいえ、明日奈たちには十分な広さだった。
 継がボーカルとギターを兼任し、明日奈がベースを担当している。ドラムは打ち込みだ。ノートパソコンにインストールした音楽ソフトで千早希がリズムトラック音源を制作してくれている。
「はい、二人とも急いで。時間は有限だよ」
 まだシールドケーブルをアンプに繋げただけで、これからチューニングをするところだというのに、千早希は手を叩いて二人を急かした。スタジオ練習といっても、実際に演奏するのは継と明日奈だけだ。千早希の役割はドラムの打ち込みを制作した段階で済んでしまっている。
「千早希もキーボード弾けばいいのに」
 チューニングをしながら明日奈がぼやくと、千早希はちろっと舌を出して手近にあった椅子に腰かけた。
 千早希は物心ついた頃から中学三年までピアノを習っていた。コンクールで入賞したこともあったらしく、その実力は折り紙つきだ。さらに言えば、絶対音感まで持ち合わせているというのが千早希の自慢だが、何事も大きく吹聴し、嘘をつくことも多い彼女の言葉なので、明日奈も継もその真偽をいまいち判断できていない。
 バンドメンバーにするならこの上ない人材の千早希だが、残念ながら明日奈たちが演奏するバンドの曲にキーボードパートはなかった。

「ちょっとくらいアレンジしたっていいと思うんだけど」
「ダメだよ。神の楽譜に手を入れるなんて恐れ多い」
 お決まりの返しに明日奈はげんなりと息をつき、ベースの音量を上げた。ぼーん、と低い音が鳴る。
「どの曲からやろうか」継もチューニングが済んだらしく、マイクの位置を調整しながら訊いてきた。
「暁がいい」千早希がにこやかに手を挙げる。演奏しないくせに要望だけは一丁前だ。
「じゃあ、そうしようか」
 継はエメラルドグリーンのレスポールギターを軽く鳴らした後で、千早希にうなづきかけた。
 オーディオミキサーに繋いだノートパソコンを千早希が操作すると、スピーカーからシャッフル調のスネアが流れ始めた。テンポはかなり速い。五小節目から継がギターリフを奏で、明日奈がルートを刻む。

 疾走感あるロックサウンド。曲名は『暁』、Black×Blastの代表曲だ。

 明日奈たちが組んでいるのはBlack×Blastのコピーバンドだった。インディーズバンドのコピーバンドというのもまた珍しいが、愛するバンドの解散という現実を受け止められず、未練がましく聖地巡礼を繰り返し、どれだけ動向を探ってもメンバーの足取りがまるで掴めないことにやきもきした三人が取った――言うなれば慰みに近い活動だ。
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