第3話

文字数 10,122文字

 翌日、明日奈は千早希と二人で南阿佐ヶ谷を訪れた。おおむね吉祥寺と新宿の中間に位置する土地だ。

 光涼寺は南阿佐ヶ谷駅から何とか徒歩で行けるところにあるようだった。大した距離ではないが、四月にしては日照りが強く、隣を歩く千早希は日傘を差しているくせに「暑い、暑い」とうなりっぱなしだ。
 この日の千早希の服装はボーイッシュでなく、ガーリー系だ。肩口と袖にフリルが付いた白いシャツを着て、下は黒の膝丈スカート。長い髪を低い位置で二つに結び、前髪を流してピンで留めている。
 明日奈はハイウエストパンツに黒のカットソーをタックインし、ウエストポーチを肩から斜めがけしている。肩上の長さの髪を後ろで縛り、いつものようにキャップを被っていた。目許が隠れるように庇の角度を深くしているのも、いつもと同じだ。

「もー疲れたあ」
「だから言ったじゃん。駅から少し歩くよって。なのにまたそんなヒールのあるサンダルを履いてきて」
「あしゅはいいよね。オシャレに興味ないから」
「ちょっとはあるもん」
「あーあ、タクシーに乗ればよかった」
「お金がもったいないよ。ただでさえチケットノルマで大変なのに」

 千早希は週に二日だけ都内のカフェでアルバイトをしている。実家暮らしなので月に数万円も稼げば生活に困らない。支出といっても携帯料金の支払いと交通費、あとは外食するお金とカラオケ代くらいなものだ。
 服にこだわりがある千早希なので、新しい服を買いたくなるとスナックでアルバイトをしていた。千早希の家は母子家庭で、母親がスナックのママをしているのだ。水商売はあまり好きじゃないようだが、意外と悪くないお小遣い稼ぎになるらしく、仕事をした翌日はいつも上機嫌だ。
 スナックのアルバイト代も、三日も経てば服やサンダルに化けてしまう。必要以上に働きたがらない千早希は倹約家、ありていに言えばけちだ。「奢って?」と継に甘えることも多い。それでもたまにスナックの常連客からチップを貰えることがあるようで、臨時収入があったときだけは気が大きくなるのか、明日奈にご飯を奢ってくれたりする。

 明日奈はアルバイトをしていない。高校を卒業した後、コンビニエンスストアとファミリーレストランで働いたが、接客業が性に合わず、どちらも二週間足らずで辞めてしまった。
 同学年の友達のほとんどが大学へ進学しており、留年していなければ今月で二年生に進級している。そんな中、実家暮らしのニートだ。バンドだってプロを目指しているわけではない。将来に不安があるわけではないが、たまに空しくなる。
 家賃はかからないし、家に帰れば食事が出る。それ以外の出費は、兄がくれるお小遣いからやりくりしていた。

 兄の賢哉は昨年四十歳を迎えた。明日奈とは二十以上も年が違う。背が高く、髪は最後に美容院に行ったのはいつだと嘆きたくなるほどに鬱陶しい。とにかく前髪が長い。明日奈と同様に目許を覆い隠す長さだ。
 そんな兄は個人でWebデザイナーの仕事をしている。その上、ほぼ寝たきり状態の父の介護をこなし、さらに働きもしない妹に小遣いを渡している。明日奈からすれば聖人のような存在だ。
 お小遣いは月に三万円だが、少ないと嘆いたこともなければ、もっと欲しいと願ったこともない。心から感謝している。普通なら働けと口うるさく説教されるところだ。

 そんなわけで千早希も明日奈もお金に余裕があるわけではない。

「来月のチケットノルマ、いくらだっけ」
「えーっと、二千円の十五枚だから」明日奈は眉間に指を押し当て、頭の中で電卓を叩いた。「三万円……かな」
「簡単な暗算なのにずいぶん時間がかかったね。ということは、一人一万円か。ちょっときついなあ」
「千早希はいいよね。お母さんのお店でバイトできるから」
「あしゅも働く?」
 明日奈は顔の前でぶんぶん手を振った。「知らないおじさんの話し相手なんて無理だよ。絶対に無理」
「おじさん、優しいよ? 先週だったかな、ゼイニィの新盤が欲しいなあ、でも高いなあってぼやいたら、一昨日出勤したとき買ってきてくれてたし」
「えっ、ゼイニィのアルバム、持ってるの? 貸してよ」
「どうしようかな」
「ズルい! 貸して」

 ゼイニィというのは現在人気絶頂を極める女性ボーカリストだ。音楽配信サイトに歌ってみた動画をアップしたことをきっかけにメジャーデビューを果たし、その後にSNSのアカウントを立ち上げるとわずか半日でフォロワー数が百万人に達した。顔出しを一切していないにもかかわらず、その驚異的な歌声と豊かな表現力で歴代最高の歌姫とまで称されている。年齢は公表されていないが、巷の噂では二十一歳らしい。学年でいえば、明日奈たちの一つか二つ上だろう。

「貸して!」
 待てども返事がなかったので明日奈は繰り返した。千早希は「わかった、わかった」と手をひらひらさせた。
「それよりチケットノルマのことだけど、さすがにライブをする度に一万円も出ていくのは厳しいじゃん?」
「うん」
「ライブに興味ありそうな友達もいないし」
「賢兄は買ってくれるよ?」
「だからってノルマには達しないでしょ。何枚も買ってくれるわけじゃないんだし」
「そっか」
「そこで」千早希はにやりと笑って人差し指を立てた。「秘密兵器を起動しようと思ってる」
「秘密兵器って?」
「舞子ちゃん」
「あー」なるほどと明日奈はうなづいた。

 獅子崎舞子。今月で高校三年生になった、継の妹。お淑やかで、まさに清楚が制服を着て歩いているような子だ。彼女の学校での呼び名は『会長』で、他の生徒、特に女子生徒から絶大な人気がある。事実、彼女は高校で生徒会長を務めているのだが、そう呼ばれるようになったのは彼女が一年生だった頃なので、それが原因でついた呼び名ではない。
 なぜ舞子が秘密兵器になるのかというと、彼女が一声かければチケットなど簡単に捌けるからだ。
「継は嫌がると思うから、内緒で連絡しちゃおう」
「怒らないかな」
「継が? 怒ったところなんて見たことないじゃん。えー、呼んだのー? 勘弁してよーって」千早希は日傘を肩で支えながら両手の指を目許に添えた。目尻を指で引っ張り、困り顔を再現した。「こんな顔をするだけだって」
「まあ、チケットが売れるなら……」

 舞子は継と同じ私立の高校に通っている。継が三年生のときに入学した。
 入学から半年が経つ頃、彼女は『会長』と呼ばれ始めた。兄譲りの整った顔立ちをしているため、それだけでも十分慕われる理由になるのだが、彼女を一躍有名人に押し上げたのは継だった。
 読んで字の如く、会長を務めているのだ。彼女は肩書きを二つ所持している。一つが生徒会長、もう一つが『獅子崎継ファンクラブ会長』だ。
 継は高校のアイドル的存在だった。彼に告白した女子生徒の数は、嘘か真か五十人を超えているとか。たぶん誇張もあるのだろうが、継が女性にモテることは明日奈も知っているので、あながち嘘ではないだろうなと思っている。
 継は特に年上の女性から好かれる。可愛いーっ、と胸に抱きしめ、顎で頭をぐりぐりしたくなる愛おしさが――あるらしい。明日奈にはわからないが、そうらしい。かといって、年下からモテないかといえば、そうでもない。
 とにかく、モテるのだ。昨日会った夢依という子がバンドキラーなら、継はレディーキラーだろう。

 舞子が会長を務める『獅子崎継ファンクラブ』には鉄の掟がある。
 一つ、会話は挨拶に留めること。
 一つ、顔は見ても目は合わせないこと。
 一つ、贈り物は必ず会長を通すこと。
 他にもいくつかあるようだが、明日奈が把握しているのはこれくらいだ。そんな掟が作られたのは、継が極度の女性恐怖症だからに他ならない。

 継は高校一年のとき、ある女子生徒に告白した。そして振られた。
 振られるだけならよかったのだが、その女子生徒は陰でこう触れ回っていたという。ないない、生理的に受け付けないもん、と。
 話によれば、それまでは顔を合わせれば好意的に笑い返してくれ、二人は両想いだろうという噂まで流れていたという。それなのに振られた上に陰口まで叩かれたのだ。継は女の表と裏を知り、絶望した。
 たかがそれくらいでと明日奈は思ったが、純粋な継には根深いトラウマになったのだろう。それから継は変わってしまった。明日奈と千早希以外の女性と目を合わせて話をすることができなくなり、しゃべればしどろもどろになる。女性が怖いのだ。
 そんな継にも愛して止まない女性がいる。三人、いる。アリシアと、ミーシャと、ミリム――全員がアニメのヒロインだ。
 つまるところ、現実からアニメの世界へ逃避したというわけだ。

 ちなみに舞子が後に調査し、あることが発覚している。件の女子生徒は、実は継のことが好きで、二人は両想いだったという驚くべき事実だ。
 それならばなぜあんなことを喧伝したのかというと、一学年上の女子生徒から脅されていたからだ。継に手を出せばただでは済まさない。そう警告されていたらしい。付き合えば目をつけられ、振ったら振ったで「あの継くんを振った? 何様?」と恨みを買ってしまう。
 いっそ好みじゃないとはっきり言ってしまえば、先輩は見逃してくれるのではないか。件の女子生徒はそう考えて、あのような行動に出た。

 舞子から話を聞かされたとき、明日奈はなんじゃそりゃと唖然とした。なんてひどい女だと罵りもしたが、舞子はそうじゃないんですと目を伏せて首を揺らした。
 件の女子生徒はその後、三月もせずに転校しているらしい。舞子の話によれば、自分の行動を悔いて不登校になり、そのまま退学してしまったという。
 そこまで話を聞いて、明日奈は眉を曇らせた。悲しい出来事だと思った。モテるって大変なんだなとも思った。つまらない嫉妬のせいで一人が不登校の末に退学まで追いやられ、一人が女性恐怖症のアニメオタクに成り果てている。

 明日奈はこっそり息をつき、千早希の横顔を見た。

「ん? なに? 私の顔に何かついてる?」
「彼氏とはうまくいってるの?」
「どの彼氏?」
「……とうとう二股まで」
「違う、違う。あしゅに話した彼氏はどの人だったかなと思って。今の彼氏は、んー、微妙かな。またすぐ別れちゃうかも」
 ――千早希は嘘つきだ。
「馬鹿みたい」明日奈は薄く開いた唇をかすかに動かして、自分の耳にも届かないほど小さな声でつぶやいた。

 やがて光涼寺らしき寺院が見えてきた。門の前で二人は立ち止まった。空を隠すほどの巨大なクスノキがそびえている。
「わー、立派なお寺さん」
 石段を上がり、門をくぐった。一面に砂利が敷かれていて、奥に本堂がある。
「で、ここに来て、何をどうすればいいんだろう」
 さあ、と明日奈は首を傾げて返した。
「とりあえず御朱印をもらおうかな」
 千早希は飛び石の上を歩き出した。飛び石は途中で二手に分かれているが、一方は真っ直ぐ本堂へ続いている。
 本堂の中を覗いてみたが、人の気配はしなかった。仕方なく周囲を歩いていると、不意に声をかけられた。

「こんにちは」
 明日奈はびくっとして立ち止まり、声がしたほうを振り返った。真っ白なワンピースを着た女性が立っていた。
「何か御用ですか?」
 年の頃は二十代前半だろうか。胸まで下ろした黒髪には光の輪が浮かび、優しげに微笑んだ目許は三日月を作っている。彼女の腕の中で赤ん坊がすやすやと眠っていた。
 千早希が彼女に歩み寄り、
「御朱印を押してもらいたいんですけど」
「ああ、御朱印ね。えっと、住職は読経に出ていて、私でもいいかな。ちゃんと押せると思うんだけど」
「もちろんです。綺麗なお姉さんに押してもらったほうが嬉しいです」
「あはは、おかしな子――あれ?」女性は千早希の顔にじっと見入った。
「どうかしたんですか?」
「ううん、何でもないよ。可愛い顔してるね」
「えー、お姉さんほどじゃないですよお」
 一瞬で仲良くなってしまった千早希に羨望と嫉妬の眼差しを向けながら、明日奈は二人に続いた。

 女性は千早希から御朱印帳を受け取ると、ちょっと待っていてねと言い残し、裏手にある建物に入っていった。

「綺麗な人だね」千早希が言った。
「うん、綺麗」
「赤ちゃんを抱いてたから、結婚してるってことだよね。わー、あんな美人さんと結婚できるなんて幸せ者――って、え、ちょっと待って。ここにいるってことは、旦那さん、お坊さんだよね。うっそ、髪の毛なくても美人な奥さんをもらえるんだ」
「千早希……すごく失礼だよ」
 ぺろっと舌を出し、千早希は「うそ、うそ。冗談」と笑った。
 やがて女性は御朱印帳を持って建物から出てきた。おやっと明日奈は首をひねった。赤ん坊を抱いていなかった。
 千早希は御朱印帳をバッグに戻しながら、赤ちゃんはどうしたんですかと尋ねた。
「旦那がオムツを替えてくれてる」
 女性は言い、苦笑を浮かべて一方の肩を揉んだ。
「育児、大変そうですね」
「大変だよ。君たちも結婚したらわかるよ」
「私たちはぜんぜん! まだずーっと先ですよ」
「どうかなあ。そういうことは、ある日突然やってくるものだからね」
「お姉さんがそうだったんですか? 運命的な出会いがあったとか」
「私はできちゃった婚。でも、そうだね、予想できなかった出来事って意味では、突然やってきた幸運だったのかも」
 その後も千早希は楽しそうに女性と会話を続けた。人見知りをする明日奈は隣でだんまりだ。

「あっ、そうだ。お姉さんに訊きたいことがあるんですけど」
「なあに?」
「この辺りに、おいしいって評判の食堂はありませんか?」
「おいしいって評判の……食堂?」
 女性は口許に拳を当て、考える顔になった。物憂げな表情がやけに美しく、絵になるなあと明日奈は呆けて見つめていた。
「んー、もしかしてカミノ食堂のことかな」
「ここから近いですか?」
「ちょっと遠いよ。歩くと二十分くらいかかる。この辺に食堂と呼ばれる飲食店はほとんどないから、たぶん、カミノ食堂のことだと思うんだけど」
 千早希は、えー、と駄々をこねるように声を上げた。「二十分も歩くのー?」
 すると女性はくすりと笑い、「乗せてってあげようか」と言った。
「え?」
「住職が戻ってきたら子どもを預けて、旦那と一緒に車で食べにいこうと思ってたの。そのカミノ食堂に」
「うそお! すごい偶然」
「ただ、まだ三、四十分は帰ってこないかな」

 明日奈は無言で千早希の服の裾を引いた。振り返った千早希に、やはり無言で首を揺らして見せた。

「あー……、お姉さん。すごく嬉しいんだけど、この子ね、すごく人見知りするんだ。たぶん、旦那さんも一緒だと気まずくて車酔いしちゃうかも」
 女性はぷっと吹き出すと、中腰になり、うつむく明日奈の顔を下から覗いた。
「カミノ食堂の店長さんみたい」
「そ……うなんで……すか」明日奈はしどろもどろになり、そう返した。女性に言い寄られたときの継を笑えた口ではない。
「同じ、同じ。彼女も人見知りで、初めて会う人が相手だとあなたみたいに恥ずかしそうにうつむいちゃうもの」
 ねえねえ、お姉さん、と今度は千早希が女性の服の裾を引いた。
「私たちは歩いていくので、そのお店の住所を教えてくれますか?」
「住所は……ちょっと覚えてないなあ。スマホで高円寺辺りの地図を表示できる? それで教えてあげるよ」
 食堂の場所を地図上で示してもらい、千早希はその地点をナビゲーションの目的地に設定した。
「もしかしたら食堂でも会えるかもね。気をつけてね」
 門のところまで見送りに出てくれた彼女に手を振り、明日奈たちは光涼寺を後にした。

「また今度遊びにこよーっと」
 駅から光涼寺まで歩いたときとは打って変わって、千早希はるんるんとした足取りで歩いていく。明日奈は見知らぬ人との会話で少々気疲れしていた。
 それなりに早歩きで歩いていたせいか、十五分ほどでそれらしき建物が見えてきた。
 年代を感じさせる木造二階建ての家屋だ。一階部分を食堂にしているようで、涼しげな白木の格子戸の上に緋色の暖簾がかかっている。
「神乃食堂……か」
「ここみたいだね」

 緋色の暖簾に白抜き文字で『神乃食堂』と染め抜かれていた。日替わり定食と書かれた幟が二本、風に揺れている。

「あしゅ、どう思う? もしかして、竜也さんか春斗さんがここで働いているのかな」
「まさかー」
「だよね。料理人って感じじゃないもんね。となると、このお店の常連客とか?」
「そうかも。とにかく入ろう」
 Black×Blastのことになると明日奈は一転して積極的かつ能動的になる。率先して白木の格子戸を手をかけた。

 開いた格子戸の隙間から店内の喧騒が吹きつけてきた。明日奈も千早希も店の入口で立ち尽くした。満席状態だった。
 店員らしき割烹着姿の女性が歩み寄ってきた。髪を後ろでまとめ上げ、頭に三角巾を巻いている。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
 ぞくっとするほど柔らかい声が耳を撫でた。明日奈では逆立ちしたって真似できない微笑を前にして、明日奈の勢いは風船が破裂するように一気に萎んだ。
「あ……あ……はい……そうです」もう、ちょっと泣きそうになっていた。
 女性はくすっと一笑し、それから頭を下げた。
「少しお待ちいただけますか? テーブル席が間もなく空くと思いますので」
 見ると、奥のテーブル席にサラリーマン風の男性が二人座っていた。こちらのやり取りに気づいたらしく顔を振り向かせ、椅子から立ち上がった。
「はるかさん、いいよいいよ。オレたちもう出るから。お金、ここに置いておくね」
 男性たちはすれ違いざまに明日奈たちに軽く会釈をし、店から出ていった。明日奈は思わず下を向いてしまったが、千早希はありがとうございますと愛想よく返していた。
 はるかと呼ばれた店員はてきぱきと食器を重ね、布巾でテーブルを拭いた。
「どうぞ、こちらへ」
 またしても笑みを投げられ、明日奈はドキッとして視線を逃がした。中学校のときに教育実習でクラスの副担任をしてくれた、綺麗で優しくて、大好きだった先生の顔を思い出していた。

「今日はどこへ行っても美人さんに会うね」
 千早希はこそっと耳打ちをした後で二人掛けのテーブル席についた。明日奈も椅子を引き、神乃食堂の店内を見渡した。
 入口から見て左側に巨大な一枚板の天板が置かれていて、その両側に合計十数人のお客さんが座っている。その他には二人掛けのテーブル席が二つあるだけだ。奥が厨房になっているらしく、丈の長い、紫色の暖簾がかかっていた。通りやすいようにとの配慮か、半分めくれていた。
 椅子から腰を浮かせ、首を巡らせて暖簾の奥を覗いた。厨房の中には、はるかという女性の他にもう二人いるようだった。
 一人が小柄な若い女性で、明日奈たちと同年代の年頃に見えた。横顔からするに可愛らしい顔立ちをしているようだが、やけに鬼気迫る表情で鍋を振るっていた。
 おそらく彼女が店主なのだろうと明日奈は推察した。光涼寺で会った女性が「彼女も人見知り」と言っていたからだ。明日奈たちを案内してくれた女性は、どう見ても人見知りではない。
 もう一人は男性のようだったが、背を向けているせいで顔は覗けなかった。

 先ほどの女性がお冷を持ってきてくれ、明日奈たちに注文を尋ねた。
「初めてだから、んー、日替わり定食でいいかな。あしゅは?」
「私も、それで」
「日替わり定食はAとBがございますが、どちらになさいますか?」
「え、どうしよう。わからないからAで」
「じゃあ、B」
 伝票にペンを走らせた店員の女性に千早希は話しかけた。
「はるかさんっていうんですか?」
「ええ、そうです。平仮名ではるかですよ。お二人のお名前は?」
「私が千早希で、こっちがあしゅ。あっ、明日奈」
 それから千早希は漢字まで伝え始めた。満席で忙しそうなのに迷惑じゃないのかなと心配になったが、はるかは微笑を絶やさず、ゆっくりとした口調で丁寧に応対してくれる。明日奈の彼女に対するイメージが、教育実習の先生から旅館の女将に切り替わった。

 はるかが席を離れた後、明日奈はちびちび水を飲みながら店の客の顔を盗み見た。言うに及ばず、Black×Blastのメンバーがいないだろうかと思っての行動だったが、それらしき人物はいないようだった。
 もしかして厨房にいたあの男の人が……?
 そう思いながら首を巡らせると、店の奥、天板席の端に座る女の子と目が合った。明日奈は気まずさからぱっと目を逸らし、テーブルに視線を落とした。
 少し間を置いてからおそるおそる目線を上げた。目が合った女の子は黙々と食事を取っていた。
「ほわー……」
 たまらず囁き声が洩れた。千早希が「どうしたの?」と尋ねてくる。
 明日奈は天板席の端をそっと指差した。千早希は首を傾げつつ、振り返った。千早希の席からだと振り向かなければ視界に入らない。
 正面に顔を戻した千早希はテーブル越しに顔を寄せてきた。
「可愛いなんてレベルじゃないね。神様ズルい。まるでお人形さんじゃん」
「うん、ズルい。羨ましい」

 ヨーロッパか、ロシアか、はたまたアメリカか。明日奈では判断がつかないが、ともあれ純血の日本人には見えなかった。それでもどことなく日本人っぽさを残しているので、おそらくハーフかクオーターなのだろう。
 カラーコンタクトかもしれないが、淡い緑色の瞳をしていた。
 焦げ茶色の髪は所々が金色でまだらになっていて、胸にかかる毛先がかすかに外側に巻かれている。分けた髪の間に、明日奈の手でも包めてしまいそうな小顔が覗いていた。額も、眉も、目も、鼻も、唇も、それらすべてが完成形を思わせた。

「美少女のお手本のような子だね」
 明日奈は無言でうなづき、キャップの庇に触れた。彼女のくっきりとした二重のラインに嫉妬し、少しだけ傾きを深くする。
「何歳くらいだろう」
「十六か……十七?」
「大人っぽい雰囲気があるから、もうちょっと上かも」

 そんな会話を小声で交わしていると、はるかが日替わり定食の膳を運んできた。
 千早希が注文した日替わり定食Aが刺身をメインにしたもので、明日奈が頼んだ日替わり定食Bが白身魚やイカ、それと野菜のフライが中心だった。
「やっば……」
「え……お、お?」
 千早希も明日奈も、しばらく各々の膳を見つめた後で、ゆっくりと互いの顔に視線を戻した。どちらも口から言葉が出てこない。十秒か二十秒、二人とも箸を浮かせたまま、固まっていた。
「あしゅ……こんなおいしい料理……食べたことある?」
「ない。ないよ、ないない」
「山崎さんがお昼を食べた食堂……絶対にここだよ」
「私も、そう思う」
 それから明日奈たちは刺身とフライを交換すると、あっという間に日替わり定食を平らげた。ここへ訪れた目的も、Black×Blastへの熱い想いも、食事の間だけはすっかり思慮の外になっていた。

 箸を置き、ご馳走様でしたと心で唱えたときには、すでにハーフの女の子の姿は店内になかった。たとえ同性であっても眺めているだけで目の保養になるほどの美少女だったので、少しだけ残念に思いながら明日奈は席を立った。
 店員のはるかがレジの対応をしてくれた。
 明日奈が先に支払いを済ませ、「奢ってくれたりする?」と甘えてくる千早希に黙って首を振り返した。ちぇっと舌を打ち、千早希は千円札をはるかに差し出した。
 その隙に明日奈は立ち位置をずらし、再び厨房内を覗いた。先ほど背を向けていた男性が店主らしき女性と話をしていた。その横顔は初めて見るものだった。

 結局のところは収穫なしかと肩を落とし、店を出ようと白木の格子戸を開けると、目の前に女性の顔があった。
「あっ、ちょうど帰るところだったんだ」
 光涼寺で会った女性だった。明日奈は無言で会釈をする程度だったが、千早希は大喜びの顔で彼女の手を取った。
「テーブル席が空いたみたいだから、先に座ってるぞ」
 手を取り合う二人を避け、作務衣を着た長身の男性が店内に入ってきた。おそらく彼女の旦那なのだろう。頭は一分刈りだ。
 男性が明日奈のすぐ脇を抜けていった――その瞬間、明日奈は落雷に打たれたように硬直した。
「私、お刺身定食ね。頼んでおいて」
 男性は背を向けたまま片手を上げ、「おっけー」と返事をした。
「旦那さんですか?」千早希が訊いた。
「そうだよ。お坊さんっぽいでしょ?」
「ふふっ、たしかに。背が高くて素敵ですね。イケメンだったし」
「よかったらまたお寺に遊びにきてね」
「絶対に行きます」
 千早希は彼女に別れを告げると店の外へ出た。明日奈は硬直したきり、店内に留まっていた。
「ほら、行くよ。何やってんの、あしゅ」
 手を引かれ、店から連れ出された。千早希が閉めた格子戸を振り返り、見えもしないのに曇りガラス越しに店内を見つめた。
「どうしたの?」
 千早希が顔を覗きこんでくる。
「……だよ」
「ごめん、聞こえない」
 明日奈は唾を飲み、格子戸から視線を切って千早希と向き合った。
「春斗さんだよ」
「……え?」

「だから、さっきの男の人、Black×Blastの春斗さんだよ!」
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