三、

文字数 10,067文字

 渋谷、神宮前のあるビル。そこはHARD LUCKが所属する事務所が入っていた。湯川実由里――ミユリはビルの一室にある部屋に入ると、そこに置かれていたクッキーを口にした。
「おいしい。これ、誰からの差し入れ?」
「ミユリ、来たなら挨拶くらい先してよ。ゲンのファンからだよ」
「相変わらずゲンにはかわいい女の子からの差し入れが多いんだね」
「くふふ、ミユリ、やきもち? 彼氏がモテるといやだよね」
「茶化すな、リク。これは仕事の対価だ」
「ゲンは厳しいなぁ」
 今日は新しいアルバムの打ち合わせだ。四月に出す予定なのだが、まだ歌詞はできていなかった。少しスケジュールが押している。曲はもうすでにできているというのに、ミユリの筆が進んでいなかったのだ。スランプというわけではない。今回のアルバムもすべてミユリが作詞作曲をしていたのだが、ゲンやリクのパートの練習があるので、曲だけ先に作っていたのだ。
「そーいえば、ミユリにもファンレター届いてたよ。気味の悪い茶封筒」
「茶封筒? ……って、もしかして、これ?」
 デスクの上にあった、A4サイズの封筒を手に取る。スタッフにより、一度すでに開封されてあったので、異物が混入されていたわけではないようだ。
「でもなんかすっごい不気味だよね。ファンレターなのに全部印刷してあるの。分厚い紙束だよ。内容は読んでないけど」
「ふうん」
 リクも、ゲンに届いたクッキーを手に取る。ミユリが封筒の中身を取り出そうとしたところ、ゲンがそれを止めた。
「ミユリ、読まないほうがいい」
「なんで? あんたが焼くような内容だったりするわけ?」
「違う。『お前のため』だ」
「何それ。年上の彼氏からの忠告ってわけ? 余計に何が書かれているか気になるんだけど」
「やめとけ!」
 ゲンはミユリから封筒を奪うと、それをスタッフに渡す。
「ゲン! なにすんのよ」
「だから言ってるだろ、お前のためだって」
「意味わかんないよ!」
「……それより歌詞は書けたのか?」
「アルバムの? それなら今日持ってきてるよ」
「だったらいい。読む読まないはお前の好きにしろ」
「……何それ。ムカつく。貸して?」
 ミユリはスタッフから封筒を受け取ると、自分の意思で中に手を入れた。
封筒の中身は、A4の紙に印刷され、ホチキス止めされている冊子が一冊。ページ番号が振ってあり、全部で八ページある。あとは印刷されたファンレターらしきものだ。

『HARD LUCKミユリ様
貴方の歌詞に感化されて書いた短編小説です。
文芸部の部長からは純文学と言われましたが、長い詩に近いものだと思います。
よかったら読んでください。
貴方に読まれることが、僕の喜びです。この作品を、小説大賞に応募するつもりです』

「ね? キモいでしょ?」
 クッキーを食べながら笑うリクに、ミユリはにやりとした笑みを返す。
「そう? 面白いじゃん。私の歌を小説にするなんてね。だけどそう簡単にできるものかしら? 私以上の才能がないと、無理でしょ」
「…………」
 ゲンは無言だ。ミユリが持ってきた歌詞を見ながら、ベースを軽く弾きならしている。ミユリはちらりとゲンを見てから、冊子を手にした。
 一枚目にはタイトル『月下』と、作者――つまりファンレターの差出人である一之瀬初の名前があった。
「このイチノセくんは、ファンクラブに入ってる子?」
「みたいよ。結構最近入った子で、ファンレターは初めてみたい」
「ふうん……」
 年齢は十七。男子高校生か。子どもが書く小説はどんなものだろう。ミユリは少しわくわくしながら、紙をめくった。どうせ自分より下手な作品だろう。そんな意地悪な気持ちも少しあった。なんといっても、自分は作詞のプロだ。それに比べて素人の書いた長い詩なんて、くだらない。
 しかし、その予想はいともたやすく、見事に裏切られた。
 読み終えて――。
「なに……これ……」
 ミユリは手を震わせた。初の送ってきた小説は、あまりにも美しかった。月下美人をモチーフにした、はかなく、きれいな情景が目に浮かんだ。すっとイメージができる文章能力は、作詞家を名乗ってきた自分が恥ずかしくなるくらい憎かった。自分は子どもに負けた? まさか。自分はプロだ。素人の男子高校生に負けるわけがない。それなのに。
 ゲンはこうなることがわかっていた。ミユリの才能が脅かされるのではないかと、最初から不安に思っていたのだ。だからミユリが小説を読むことを止めた。だが、アルバムの歌詞はすでに書き上がっている。読む読まないはミユリの自由だ。いくら自分が彼氏だからって、読みたいと思ったものを無理矢理に止める権利はない。
 ため息をつくと、ゲンはミユリの肩を叩いた。だが、ミユリはその手を振り払った。
「触らないで! ゲンさぁ……まさか最初から私がこの子の才能に負けると思って、読まないほうがいいって言ったの?」
「まあな。ミユリはそこまで強くない」
「なんでも知ってるようなこと言わないでよ!」
「……少なくても、俺はお前の彼氏だよ」
「だけどっ!」
「あ~あ~、痴話げんかだったら、打ち合せ終えてからにしてくれない? アルバム制作控えてるんだから。あとはミユリの歌だけなんだよ? それにワンマンライブも七月に控えてるんだから!」
 リクがふたりの間に入って、ケンカをいさめる。ミユリはゲンを一瞥すると、軽く息を吐いて、ソファに座った。
 アルバム制作の打ち合わせが始まる。だが、ミユリはどことなく上の空だった。原因は
もちろん、初の送った『月下』だ。
 ゲンはそんなミユリを見て、頭を抱えた。自分の知っているミユリは、自信家だが、本当の才能に触れたときに潰れるかもしれない。かわいい妹分だったが、いつしかミユリが自分に想いを寄せ始めた。
 ミユリはもともとソロのシンガーソングライターだった。しかし、事務所の方針でバンドを組むことになった。ゲンとリクは、事務所所属のスタジオミュージシャンだったのだが、プロデューサーの鶴の一声でミユリのバックにつくことになったのだ。
最初ゲンは、チャンスだと思った。ミユリは少なくてもこの業界の中では天才と言える部類だ。だったら大人しくバックについて、利用してやろう。名前が売れたらソロでもやっていけるし、解散してもネームバリューでもっと大きな他のバンドのサポートにつくことだってできる。すべては大人としての狡猾な理由でミユリに近づいた。
ミユリと恋人同士という関係ではあるが、どちらかというとミユリの片想いに近かったそれでもミユリに対してまったく愛情がないわけではない。それに、ミユリの才能をまだ枯渇させるわけにはいかない。まだ、自分たちはそこまで売れていない。ゲンはゲンなりにミユリをかわいがっていた。ぶっきらぼうに自分に想いを打ち明けてきたミユリのことを。
ミユリがあの小説を読んだら、きっと少年にすべてを奪われるだろうなとわかっていた。今までミユリは、笑う時も怒るときも、悔しくて泣くときも、自分を見ていた。でもそれがこの小説を書いた少年に奪われる予感がした。だから読ませたくなかった。
「ミユリ、この歌詞で決定にしよう。FIXだ」
「え……いいの?」
「うん! いつも通り最高じゃん? 文句なんてないよ。そういうことでしょ? ゲン」
「ああ、そういうことだ」
「あ……ありがとう」
 やっぱり。ゲンは渋い顔をした。ミユリは自信を無くしている。本当の才能を目の前にしてしまったから。今も自分やリクと向き合っていない。想いはあの小説に向いている。
あの『月下』という小説を書いた少年は、『本当のミユリ』を見抜いている。歌詞からそのような芸当ができるのは、天才としかいいようがないだろう。天才同士惹かれ合うという話は聞くが、本当にそうなるとは……。ゲンは誰よりも自分のことをわかっていた。自分はミユリとは違って凡才なのだと。だから、将来も食いっぱぐれないように、ミユリのバックについていったし、彼女を振ることもしなかった。だが、天才に天才が潰されようとしている。これはミユリにとっての試練だ。自分で選んだ、試練だ。一度は止めたと、ゲンは自分に言い聞かせる。これを乗り越えられるかどうかで、彼女に対しての気持ちも変わってくるだろう。乗り越えられるなら、ずっとついていく。だが、乗り越えられなかったそのときは、バンドは解散するだろう。
「今日はこのあと、ラジオの収録だったな。そろそろ出るぞ」
「ねぇ、ゲン!」
「なんだ?」
「ゲンは……読んだ? これ」
「まあな」
「私の歌詞、負けてないよね?」
「それを、俺から聞くのか?」
「っ!」
 ミユリはショックを受けた顔をした。ゲンは自分でわかるだろうと言いたげな顔だ。ミユリ自身もわかっていた。彼の言わんとしていることを。
「ちょっとゲン、あのキモい小説のことでしょ? あんなのとミユリの歌詞を比べること自体ナンセンスだって。ミユリもだよ。小説と歌詞は全然別物! ボクの言ってること、間違ってる?」
「間違ってはない……けど」
 リクは不穏な空気を紛らわすように、明るい口調でふたりに問いかける。歌詞と小説は別物だ。ミユリもそれはわかる。わかってはいるのに、なぜか腑に落ちないでいる。音楽とセットの自分の詞と、長い小説という体を取った詩。表現方法がまず違う。今まで、自分の訴えたいことや言いたいことを詞にしていた。だけどそれは、曲があって始めて完成される芸術だと再認識させられる。自分は文章だけじゃ彼にかなわないんだ。絶望にも似た感情が、雨が降る前の黒い雲のように心に広がっていく。ミユリの顔を見なくても、その心情を察することができたゲンは、答えをはぐらかすしかなかった。すべての答えはミユリが出さなくてはいけない。大人のゲンはわかっていた。

 今夜の十一時、ミユリのラジオがある。初は受験勉強をしながらその時間を待っていた。結局有希とは別れることになった。有希は嫌がった。別れる理由がわからなかったからだ。ミユリが好きになったからと説明しても、有希は別れなかっただろう。芸能人にただ憧れているだけ。ファンになったからと言って、別れたりはしない。ミユリが好きなら自分も好きになるから。そういうだけだ。だが、自分のミユリへの想いはファンとしてではない。初自身も説明できないでいたが、ただのファンとしての愛とは違う。例えていうならば、『人として』彼女が好きなのだ。この気持ちが恋愛なのかどうかはいまだに気持ちが揺らぐ。でも少なくても自分は、この気持ちを『恋』だと認識している。不安定な想いではあるが。
 それに、ミユリはゲンが好きなんだろうとも思っている。掲示板ではもっぱら、ミユリとゲンは付き合っているという噂で持ち切りだし、プライベートでも一緒でいる写真が、インスタグラムにアップされている。本人たちは隠す気もないんだろう。それくらい、立ち入る隙はないのだ。
 不毛な恋愛だということは、自分が一番わかっている。一方的な片想い。一歩間違えればストーカーになりえてしまう。ミユリの仕事場や家に行かないだけで、変なファンレターはすでに送ってしまった。危ないファンだということは、自分自身が一番承知している。それでもこの複雑かつ自分ですら説明できない想いは、あの小説を送るということでしか昇華できなかったのだ。
「捨てられた……かな」
 十時五十七分を指す時計を見ながら、ひとりつぶやく。捨てられているなら、それでいい。ミユリが怖がらないように、スタッフが処理しているということだ。それはそれで安心だ。それでも読んでもらいたいと思ってしまうのは、ただの自分のわがままだ。どうやら自分は好きになった人にわがままを聞いてもらいタイプの厄介な人間らしい。好きになった人……有希は違ったけれど。有希は自分を好きになったんだから、このくらいのわがままを聞いてくれて当たり前だという欺瞞があった。彼女への想いは愛や恋なんかじゃなかった。ただの自分勝手なエゴの押し付け合いだ。
 英単語の答え合わせが終わると、ちょうど十一時になった。スマホのラジオアプリをオンにする。
『んっ、ん……』
『どしたの? ミユリちゃん』
『…………』
 いつもと様子が違う。これも演出なのか? ミユリは声が出にくそうだし、リクはそれを心配している。ゲンはため息をついている。仲のいいはずのHARD LUCKになにがあったんだろう。
『ミユリ、ほら、もう始まってるから』
『ん、ごめん、ゲン。それじゃ、改めまして……HARD LUCKのミュージックロックス。パーソナリティーはギターボーカル・ミユリと……』
『ベース、ゲンと』
『ドラムのリクがお送りしまぁす!』
 ミユリの声のハリがない感じがする。気のせいか? ジングルが流れ、今日のテーマが発表される。今日のテーマは『自分の才能』だ。
『才能ねぇ……ミユリちゃんは才能の塊だよね!』
『私? 私は……』
 やっぱりミユリの声にいつもの自信がない。何があったんだ? そこでゲンがごほんと咳払いをする。
『ミユリは、自分の才能に自信がなくなっただけだよ。情けねぇよな、でもまぁ、人間らしい一面もあるってことで……』
『自信がないなんて、いつ言った!』
 ミユリが大声を上げる。イヤホンをしていたので、耳がキンとした。
『私はいつだって自分の歌詞が最高だと思ってる! あんな小説に負けたりなんかしない!』
『……と、ミユリちゃん、こんな感じで、意外と人間味あふれてるんですよねぇ、ゲンさん』
『そうそう。リクもわかってるじゃねぇか』
 リクとゲンがフォローするが、今ミユリはなんて言った? 『小説』って……まさか、自分の小説を読んでくれた、とか? まさかとは思うが、自分の小説にライバル心を持ってくれた……とか。
初は、顔を赤らめた。嬉しい。自分のファンレターならぬファン小説が、彼女に届いたのだ。ライバル心を煽る真似はした覚えがないので、彼女を怒らせてしまったなら申し訳がない。ただ、自分はミユリに想いを伝えたかっただけなのだ。それが、違う形で伝わってしまったということか。
「複雑だなぁ……」
 今日も『リアリスト』がラジオで流れる。想いがファンレターなんかで伝わると思ってしまった自分は、リアリストなんかじゃない。ただのロマンチストだったというわけか。そう思うと笑えてきてしまった。

 ラジオで失敗したと思ったミユリは、翌日からレコーディングに入っていた。
「ねぇ、本当にここの歌詞これでいいと思う?」
「俺に聞くな。お前の作品だろ」
「違うよ、これはバンドの作品だから」
「でも、ミユリちゃんが作詞作曲してるんだから、ミユリちゃんの作品だよ」
「っ……」
 ゲンとリクは、ミユリの歌詞について何も言わない。ミユリを支える仲間というスタンスを崩そうとしてくれない。仲間であることは変わらないはずなのに、なぜか自分だけ浮いている気がしてくる。
「ミユリ、何が言いたい? 俺たちに歌詞を否定してほしいのか?」
「そういうわけじゃないけど、もっと改善の余地があるんじゃないかって」
「だけど、リリースの日に間に合わなくなる。今の歌詞で十分だ」
「でもっ!」
「まだあの小説を引きずってるのか?」
 ゲンの質問に、ミユリは黙った。代わりにリクが答えてしまう。
「何が書いてあったか、ボクは知らないけど、ミユリちゃんずーっとあの小説? 読んでるよね。あの不気味なファンレター。そんなにすごい小説だったの?」
「すごいかどうかはわからない。だけど、負けたくないって思った。……どんなやつが書いてるのか、知りたくなった。短編小説なのに、ガキの想いがたくさん詰まってるような気がして……」
「あれは『リアリスト』だったな」
「うんっ! ゲンもわかった? 私の『リアリスト』の歌詞を読み解いたんだよ!」
 ミユリはゲンの言葉に飛びついた。
「リアリストを書いたときの私の心情が、なんであんなにわかったのか……本当にすごいと思う。ゲンはわかってくれなかったのにね」
「俺……か」

『君を知って、君を愛した。
冬に咲く月下美人になりたい。私が願っても叶わない。
理想は裏切る。僕の心に君はいない。愛は形だけ。本当の恋じゃない』

 気づかないわけがなかった。初の書いた『月下』という小説の主人公は、ミユリだ。しかし、ミユリの書いた『リアリスト』の歌詞の主役は、ゲンだった。
 ゲンが自分を利用して音楽業界で安泰な地位を得たいということを知っていた。それでもミユリはゲンを愛した。その愛も恋も形だけだと知っていた。
「ちょっとボク、お手洗い~」
 リクが空気を読んで、退席する。パタンとドアが閉まる音がすると、ミユリは口を開いた。
「ゲン、もしかして気づいてた?」
「まぁ……。お前も気づいてたんだろう。俺の気持ちに」
「……うん」
「だったらこれ以上、付き合うことはないだろう。俺の、お前への気持ちはその程度だよ。お前が見透かせるくらいの、な」
「否定してくれたらよかったのに……」
「俺はずるいやつだけど、嘘つきではないよ」
「そっか……」
「ミユリ。お前には支えてくれるファンがいる。その小説のガキやファンのみんながいるだろ。俺が彼氏じゃなくなっても、同じバンドのメンバーなのは変わらない」
「そういうのが一番ずるいよね」
「言ったばっかだ。俺はずるいやつだって」
「そうだね。……わかった。私も聞き分けの悪いガキじゃないから」
 ミユリはそれだけ言うと、ゲンの隣に腰を下ろす。
「もう、タバコの香りがかげなくなっちゃうね」
「ボーカリストなんだから、いいことだろ」
「まあね。でも困ったなぁ」
「どうした?」
「アルバムの歌詞は全部書けたけど、最後の一曲だけ……歌詞を変えたい。今までゲンへの想いを書いてた。でも、この曲につける歌詞は、ファンの、小説のガキへの挑戦状にしたい」
「へぇ、面白いことを考えるな」
「こいつのこと、もっと知れないかな?」
「それなら! 事務所のデータを見れば楽勝じゃない?」
「リクっ! 聞いてたの!?」
 部屋の外からリクが入ってきて、目を丸くするミユリ。ゲンはまたため息をつく。リクの性格からして、そんなことじゃないかと思っていたのだ。リクは場の空気をよく読むが、天然ではない。すべて計算して、ときには人の会話を盗み聞きして、周りや自分にベストな回答を出すのだ。
「ファンクラブに入ってる子なら、住所は簡単にわかる。でも、いきなり家に行くのはNGだから、近所の人たちに話でも聞いてくれば? その子、関東住みなんでしょ?」
「うん、多分……」
「だったら行っておいでよ! いい曲に仕上がれば、CMやドラマとタイアップって話が来るかもしれないし!」
「お前の狙いはそこか。つくづく野心家だな」
「ゲンもね」
 HARD LUCKの男性陣はどっちもどっちだ。ミユリはそんなふたりを目の前に笑う。
「ふふっ、ありがとう。明日、ちょっと時間見て訪ねてみるよ」

 三月も半ばになると、卒業式が終わり、桜の花が咲き始める。ミユリは初の高校に足を運んでいた。
最初は初の家の近くに住む人に話を聞こうと思ったが、外に出ている人はいなかった。初の家から近い位置に、高校がある。初がそこの学生かどうかはわからなかったが、とりあえず知り合いがいないか聞き込みをしようと思ったのだ。同じ高校生なら、知り合いがいるかもしれない。
しかし、今は春休み。部活で来ている新二、三年生に話を聞くしかないが、ちょうどよくひとりでいる学生がいない。ミユリは一応、芸能人だ。しかも学生に人気のバンドのボーカリスト。大勢に囲まれたらまずい。今日はお忍びなのだ。
校庭にある、大きな桜の木。花がきれいで近づいてみると、そこには髪の長い女性がいた。
 声をかけようとしたが、一瞬躊躇する。私服の彼女はどうやら泣いているようだったから。そっと立ち去ったスーツの男に目が行った。そういうことか。何となく察する。卒業生と、それに手を付けていた教師といったところだろう。卒業を機に振った。よくある話すぎて、新しい歌詞にもできない。
 陳腐な歌詞に構っている場合じゃない。自分は今、才能を試されている。負けん気がミユリに声を上げさせた。
「あの!」
「っ……なんでしょう」
「すみません、なんか」
「コンタクトがずれちゃっただけですよ」
 泣いている様子だったが、本人がそう嘘をつくなら気にしない。
「この学校に、一之瀬初くんって子、いますよね。ご存知ですか?」
「一之瀬くんなら、私の後輩ですけど……」
 ラッキーだった。一発で知り合いと巡りあえたなんて。これも日ごろの行いがよいからなのか。
「あの、ぶしつけなんですけど、一之瀬くんってどんな子ですか?」
「は?」
「私……」
 大き目のサングラスと帽子を取って素顔を見せると、目の前の私服の卒業生は「あ」と小さく声を上げた。
「HARD LUCKのミユリ? ……さん? もしかして『月下』を読んだんですか?」
「まぁ……」
「あれ、すごかったでしょ? 彼の渾身の作ですよ。ミユリさんを想って書いた、ね」
「私を? 確かによくわかってるなぁと思ったけど、ファンとしてでしょ」
「どうでしょうかね、それは。私にもわからないけど。なんせ今、振られたばかりなんで」
「あっ……」
「気にしてないですよ。学生時代なんて、どうせこんなもんでしょう。大人から見れば、ね」
 ミユリは見透かされたような気がした。卒業生なら十八歳か。そんな子に、二十二の自分のことがわかってたまるか。初もそうだ。十七、八の子どもたちに、大人の苦悩がわかってたまるか。
 そう思って、言葉を飲み込んだ。自分が子ども扱いしているように、ゲンも自分を子ども扱いしていたのだと気づく。いつになっても年下は年上には勝てない。どんなに能力があったとしても、天才だとしても。やっぱり年上は上手なのだ。だからこそ、彼女たちを下に見てはいけない。ミユリは態度を少し改めた。
「あの、一之瀬くんはなんで私を知ったんですか?」
「彼女の影響で……あ、『元』彼女か。話すと少し長くなるかも。ベンチに行きませんか。私も今は、誰かと話して気を紛らわせたいんで」
「じゃ、コーヒー代は私に払わせてください。その代わり、一之瀬くんには私が来たことは絶対内緒で」
「……なんでミユリさんが今日ここに来たか、わかった気がします」
 もう制服を着ることがない元文芸部部長の莉子は、ミユリを自販機まで案内した。

 自販機の横のベンチに座ると、ミユリはさっそくたずねた。
「元カノから私のこと……っていうか、バンドを教えてもらったんですか?」
「ええ、元カノって言っても、そんなに深い関係じゃなかったと思いますよ。女の子のほうは最初から一之瀬くんをバカにしてるっぽかったし、一之瀬くんは自分の小説を読んでくれる便利な感想作成機だと思ってたっぽいし」
 意外と毒舌な莉子に唖然とするミユリだが、もっと話を聞きたい。
「元カノって子は、私やバンドのこと……」
「嫌ってたって、一之瀬くん言ってましたね。だけど、一之瀬くんは違った。私も最初はよくわからなかったんですけど、純粋にミユリさんの詞が好きになったみたい。だけど今は……」
「今は?」
「これは私の勘ですけどね、ミユリさんに恋してるんじゃないかなって。あの子素直だから、書いてるものに感情が出ちゃうんですよ」
 まるで自分みたいだ、と素直にミユリは思った。ゲンに同じことを昔言われた。『ミユリは思ったことが全部歌詞に出る』と。だからか。自分の気持ちがゲンに伝わっていたのは、と納得する。
「でも、芸能人と一般人が恋に落ちるなんてことないじゃないですか。しかも未成年だし。報われないとわかっても、恋は止められないんですね。そういうところは、私の終わった恋と一緒だから、ちょっと応援しちゃうんですよ」
 莉子は軽く笑うが、ミユリはこほんと咳ばらいをした。さすがに未成年のファンの子と恋愛関係? あり得ない。
「ところで、元カノが感想作成機って……どういう意味ですか?」
「作家志望者の承認欲求ってやつですかね。無条件で褒めてもらいたかったんじゃないですか? 私だとどうしてもダメ出ししちゃうところがあったりしたので」
「私でもしたくなりますね。確かにあの小説はよくできてた。でもまだ感情の表現方法があるんじゃないかって思った。……正直、悔しかったです」
「それは、ミユリさんだったらもっとうまく表現できたってことですか? それとも……」
 一拍置くと、莉子の目が鋭くなった。彼女もまた、プロの作家なのだ。
「一之瀬くんはもっと伸びると期待している? だとしたら、あなたが伸ばしてあげてください。あなたにしかできないことですよ。一之瀬くんが夢中になってる、ね」
「私が? ……そうですか」
 一之瀬初は、自分のライバルでも、ファンでもない。彼はそうだ。志を同じくする、創作の同志なのだ。
 ――『トライアル』だ。
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