二、

文字数 9,986文字

 その晩、初は有希にラインで連絡をした。やっぱりいきなり通話は気まずい。
『今日はごめん』
 これしか言いようがなかった。自分のわがままに付き合わせたことは悪いと思っている。でも、文芸部についていくと言ったのは有希だ。有希が部長にやきもちを焼いたこともわかっている。だけど、そこにはあるはずの信頼がなかったからやきもちを焼かれたのではないだろうか。
 ミユリだったらこの恋愛に、どんな歌詞を書くのだろう。部長は、初のような文章は書けないと言った。だとしたら、自分の文章をさらに代弁してくれるのは、この作品の元になった詞を書いた、ミユリだけだ。
 ミユリの歌をもっと聴いてみたい。先日買った『リアリズム』をまた再生してみる。歌詞を聴きこんでいると、ラインの返事が来た。有希だ。
『私もごめん。勝手に怒って』
 すぐ返事をするか迷った。まだ曲を再生している途中だ。ミユリが曲の中でこう歌い上げる。

『すぐできる答えなんて、本当の『コタエ』なんかじゃない。
本物の心はいつだって口には出せないって、貴方は知っている』
 
 謝ることは簡単だ。ポーズだけなら。有希に、自分は本当に悪いと思っているのだろうか。これもポーズなんじゃないか。『彼女』を失いたくないというだけの見栄? いくら有希から告白したからって、自分もしっかりと彼女のことが『好き』だ。有希は自分の小説を読んでくれる。趣味に付き合ってくれる。……でも、自分は? 有希に付き合ったことはあっただろうか? いつも自分のわがままばかりで、デートも勉強会にしてしまったりする。有希の成績悪さもあるが、少しぐらい彼女のわがままに付きあってもいいんじゃないか?
 スマホを手に取ると、初はひとつ提案をした。
『今度の休み、カラオケに行こうか?』
 返事は秒速で来た。
『いいの!? 行く! 絶対行く! フリータイムで六時間ね!』
「げ、六時間?」
 さすがにそれはない。だが、今回は有希のわがままに答えてあげようと決めたじゃないか。
『わかった。持ち歌はないから、有希に色々教えてもらうよ』
『いつも教えてもらってばっかりだもんね! 今回は私が先生だよ』
 有希に歌を教えてもらうなんて、新鮮だ。こういうデートもたまには悪くないかもしれない。また、新たな作品を書くきっかけになるなら。
 週末まで、ふたりはいつも通り放課後勉強をして過ごした。その間、部長のことや小説についてはお互い口にしなかった。せっかく回復した仲にまた亀裂が入るかもしれないと思ったからだ。有希の性格を知り尽くしていた初は、蒸し返すようなことをするつもりはなかった。

 週末、土曜日。
 有希は寒いはずなのに、短いスカートにロングブーツを履いていた。メイクもいつもより濃い気がする。それが自分へのサービスだと、初もわかっていた。それなのに初は、気分が悪かった。
 自分に有希は不相応だ。自分はメガネにいつもと変わらない格好。コンタクトですらない。ジーパンに、靴だけコンバースを履いているくらいだ。彼女の隣にいていいのだろうか。不安になるが、有希はポケットに入れていた初の手を引っ張り出した。
「ほら、早く行こうよ! せっかくオープンの時間に間に合うように待ち合わせしたんだから!」
 有希はぐっと強く手を握りしめると、初をカラオケ店に引っ張っていく。強気な彼女に押され気味の初は、これでいいのだろうかと思っていた。いつも自分はリードされっぱなしだ。学校でも、外出先でも。自分がリードできることと言ったら、勉強くらいで。明るい有希に、自分はふさわしくないのでは? と疑念が頭を持ち上げる。
 カラオケボックスに入ると、十七番の部屋を案内された。取り付けられているテレビからは、さまざまなアーティストの紹介が流れる。
「さて、何から歌う?」
「僕はあんまり最近の曲知らないから」
「だったら私がその分歌うよ。えーと、まずは……」
 さっそく一曲目が流れる。有希の歌はうまくも下手でもない。ただ、マイクに声を当てているだけ。それがアンプを通して、本人には上手に歌えているように錯覚させるのだ。
 本物じゃない。ミユリの歌声とは違う。違って当たり前だ。彼女はプロだ。プロの歌手と彼女を比べるなんて、どうにかしている。
「どう? 今の曲」
 流行のポップスを歌い上げた有希を、初は微妙な面持ちで褒めたたえた。
「うん、すごくよかったよ」
「このアーティストも今流行ってるんだよ。初も今度音源ダウンロードしてみなよ!」
「ああ、気が向いたらね」
「だから『気が向いたら』じゃダメだよ! 曲、覚えられないよ」
「は、はは、それもそうだね」
 流行の曲を覚える暇があったら、他のものをインプットして、小説の題材にしたい。例えば……ミユリの新曲とか。彼女は『リアリズム』一枚を出しているが、新曲はまだだ。
「ほら、次は初の番だよ」
「僕、だからあんまり曲は知らないって……」
「でも、六時間は歌うんだから! 私ひとりじゃ声が枯れちゃうよ」
「わかった、じゃあ知ってる曲歌うよ」
 初はデンモクを手にすると、HARD LUCKのリアリストをリクエストする。有希は驚いた顔をした。
「え? HARD LUCK? この間聴いた曲だよね」
「うん」
「……気に入ったんだ」
「CDも買ったんだ」
「へぇ……」
 歌が始まる。ミユリの声と、自分の低い声は毛色が違いすぎる。ミユリだったらもっとここは感情を込めるはずだ。ミユリの歌詞と自分の心を重ね合わせようとする。が、無理だ。本当の詩人とアマチュア作家の自分の気持ちが交わることなどない。うまくいかないもどかしさのうちに、三分四十秒は終わった。
 しばらく有希は黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。
「うまいね、歌」
「そうかな。歌ったことなかったから」
「……初がHARD LUCK聴くなら、私も聴こうかな」
「嫌いだったんじゃないの? ミユリのこと」
「初が好きなものだもん。私も好きになりたい。いいでしょ?」
 笑顔だが、少し乱暴な言い方をして、初のマイクを奪う有希。初はその有希の頬を自分の手で包んだ。そしてゆっくり唇を重ねる。
「初も嬉しいんだ」
「うん。いつもありがとう、有希」
 衝動的にキスしたくなった。だけどその衝動は、有希への愛じゃない。感謝の気持ちを
言葉で表現できなかったが故の、『嘘』だ。

 六時間、有希とカラオケを楽しんだ初は、くたくたになっていた。結局有希ばかり歌っていたので、有希のほうが疲れていると思っていたが、かえって気持ちが昂っていた。
「初、HARD LUCKもいいんだけどさ、さっきのアーティスト……ほら、アレ。スプリットもよかったでしょ?」
「有希はスプリットが好きなんだ」
「まぁね! 歌詞もミユリには負けてないし、天才だと思うんだけど」
 有希のお気に入りのスプリットは、ボーカルがイケメンだ。歌詞に関しては何も感じなかった。どのバンドも歌う、恋とか愛とかを濃いものを水でぐっと薄めた感じのどこにでもあるラブソング。
 初は横目で有希を見る。有希はご機嫌だ。今も自分のポケットに入れている手を狙っている。隙を見せたらきっと握ってくるだろう。嫌ではないが、それよりも寒い。有希の手が温かいとは限らないのだ。
「そうだ! 今度、スプリットとHARD LUCKのツーマンライブがあるんだった! スプリットだけだったら友達と行きたかったんだけど……初がHARD LUCK好きなら、一緒に行ってもいいかな。どう? 初」
「ライブかぁ……」
 行ったことはなかったが、HARD LUCKがどんな生演奏をするのかは気になる。ミユリはどんな感情で、『リアリスト』を歌うのだろうか。聴いてみたい。ぜひとも。
「行ってみたい」
「そういうと思った。まだチケット、はけてないみたいだったからラッキーだよ! すぐ取るね」
 有希はスマホを操作すると、その場でチケットを予約する。
「今度の二十五日だよ! 約束ね! ライブデート」
「わかったよ」
 ライブなんて初めてだ。その緊張よりも、ミユリがどんな風に歌うのか。そちらのほうが気になって仕方がない。有希とのデートというよりも、これではまるで、ミユリとの密会を望んでいるようだ。そんな感情に、初自身気づいていなかった。

 カラオケから数日後。
 塾から帰宅した初は、スマホを机の上に置いた。有希から聞いて知ったことだったのだが、ミユリがパーソナリティーをしているラジオの放送が今夜の十一時から流れるらしいのだ。
 カバンを置き、制服を洗濯機に入れると、風呂にゆっくり浸かる。夕飯を食べ終えると、寝る準備をしてからスマホのラジオアプリをつけた。
『HARD LUCKのミュージックロックス。パーソナリティーはギターボーカル・ミユリと……』
『ベース、ゲンと』
『ドラムのリクがお送りしまーす!』
 ミユリが落ち着いて柔らかい声質なのとは違い、ベースのゲンは渋くて低い声。リクは男性にしては高めの声だ。
『今日のテーマは『本当の恋とは』だって。ミユリちゃんはその辺、プロですから』
 リクに振られたミユリは、どう答えるのだろう。ドキドキしながら初は答えを待つ。
『プロって言っても、恋愛の歌詞を書いているというより、私の場合人間の本質について歌ってるつもりなんだよなぁ……』
 歌っているときとは違い、ふわふわとした和やかな声が聞こえる。本当のミユリ。歌っているときも素のミユリであることは変わらないかもしれないが、ラジオだと本当の彼女が見えるような気がしてくる。話し方、口調、声。どれもが心地よく、耳にフィットする。歌声とは違って、耳にだけじゃない。心にも寄り添ってくる感じがする。胸が温かい。
『人間の本質で、『理想は裏切る』なんて言っちゃうところが怖ぇよ』
『そうかなぁ?』
 ゲンのツッコミに、笑いながら返すミユリに、思わず自分も微笑んでしまう。本当の彼女って、思った以上に人間味があふれている。
 もっと知りたい。ミユリの心を。どういう心境であの詞を書き上げたのか。自分が書いたあの作品と対比させてみたい。それが例え、不可能だとしても。

 翌日、朝登校して、窓を眺めていると有希がひょっこり顔を見せた。
「やっぱり初のほうが早いね。なんだか待っててもらってるみたいで嬉しいな」
「別に……そういうわけじゃないんだけどね。朝のほうが小説のアイデアがわくから」
「小説……」
 あ、と思った。しばらくこの話題は避けていたのに。部長との関係を誤解されたままだと面倒くさい。
「部長とは本当に何にもないよ。あの人、前も言ったけど彼氏が……」
「この間の小説! もう一回読ませて!」
「……え?」
 意外な申し出に、初はイスから落ちそうになる。思い切り机を叩いた有希は、真剣な顔で初に言った。
「二回読めば、感想も変わるかもしれないじゃない。最初読んだときは面白くないっていっちゃったけど……もう一度読み直してみたい。それに一万字、私も桂先輩くらいの速さで読めるようになれば、初も認めてくれるでしょ?」
 認める認めないの問題ではないのだが……。小説はロッカーにしまいっぱなしだった。取り出して渡すと、有希は嬉しそうな表情を見せた。
「今度こそしっかり読み込むから! また一日借りるね」
 そう言って、さっそく自分の席について読み始める有希を見て、初はまた余計なことをしてしまったのではないかと自己嫌悪に陥った。有希は自分のために、自分に好かれるために小説を読んでくれている。でも、それってなんだか違和感がある。うまく説明はできないし、有希は今まで自分の小説を読んできてくれた、趣味を認めてくれた唯一の彼女じゃないか。甲斐甲斐しく小説を読み込んでくれるのは嬉しいが、有希の負担になっているのではないか。だとしたら、自分のために重荷を背負ってくれなくてもいいのに。有希は、有希らしくしてくれていればいいのに。
 部長への嫉妬だったらやめてほしい。彼女とはそんな関係じゃない。何度言っても信じてもらえていないのだろうか。それとも女の汚い意地か。どちらにせよ、美しくない。
 HARD LUCKの『リアリズム』に収録されていた『エゴイスト』という曲の歌詞を思い出す。

『貴方を愛している自分が好きなの。汚い自分が大好きなの。
貴方はそんな私が大嫌いなの』

 自分も本当は有希のことが……。考えて、首を横に振った。

「よかったよ! 『月下』!」
「そ、そう?」
 やっぱり放課後までかかったが、有希はまた小説を読んでくれた。しかし、感想は前回とまったく真逆。これは自分のご機嫌をとるためか? と穿った見方をしてしまうが、有希の顔はキラキラと輝いていた。
「最初読んだときは難しくてわからなかったけど……この月下美人になった女の子への愛情をすごく感じた。なんていうのかな、初の親心?」
「親心って」
「だって、この主人公への愛をすごく感じたよ? 小説を書いたのは初だから、親心でしょ? これが異性とかだったら、恋に近いかもしれないけど……私が初を想うような」
 最後はもごもごして聞き取れなかった。だけど、恋? この小説はミユリの『エゴイスト』の歌詞を想いながら書いた作品だ。それじゃまるで、自分がミユリの詞に恋をしているように聞こえるじゃないか。
「……はは、恋、か」
 あり得ない。自分にはまず、有希という彼女がいる。それにミユリは芸能人だ。住む世界が違いすぎるし、会ったことすらない。口をきいたことだってない。年齢だって、ミユリは二十二歳と五つも年上だ。
 ただ、恋をしたとしたら、ミユリの書く歌詞にだろう。それなら大いにあり得る。ミユリの紡ぐ歌詞は、芸術だ。だてにアーティストを名乗っていない。
 だが、その感情はライブ当日にあっけなくスクラップとなった。歌詞を愛する気持ちだったはずなのに、その想いはべこべこに潰された。

 ライブはお台場の大きなライブハウスで行われる。コートを外のコインロッカーに預けると、チケットの整理番号を呼ばれるのを待つ。やっと自分たちの番になると、入口で五百円と引き換えにドリンクチケットを渡される。
「そういえば今日、塾は大丈夫だったの?」
「一日くらい息抜きも大事だから。普段僕は真面目だから、こういうときは意外と融通が利くんだ」
「自分で真面目って言わないの」
 有希に笑われながら、ドリンクの引き換えを待つ。ミネラルウォーターとチケットを交換すると、フロアに入った。
 中にはスプリットのライブTシャツを着た若い女性が多くいた。パッと見たところ、HARD LUCKのファンのほうが少なさそうだ。有希が当初言っていた通り、ミユリは同性から見たら、お高くとまっているようで人気がないのかもしれない。
「カップルも意外といるね」
「あ、うん」
 有希がそっと自分の腕に絡みつく。嫌な気分ではないが、居心地が悪かった。心の居心地が悪いのはなぜだ? 有希はたったひとりの本命の彼女なのに。なぜ、こんな複雑な感情を持つのだろう。胸がちくりとする。柔らかい有希の胸が当たったところで、初は腕を振りほどいた。
「なんで……」
「ほら、始まるよ?」
 ステージに置かれたギターを最終調整するスタッフが出てきた。あとは時間の問題だ。
 しばらくして、フロアの明かりが一瞬で消えた。ステージに明かりが灯る。ライブの幕開けだ。
 先に出てきたのはHARD LUCKだった。
 パチパチとまばらな拍手が聞こえる。スプリットファンにはHARD LUCKは人気じゃないらしい。
 ドラムのリクが最初にスティックを高く振り上げてステージに上がる。まばらだった拍手だが、ここでようやく大きな拍手と声援に変わる。リクの風貌は中性的で、小柄でかわいらしい。だから女子に人気なのだろう。ゲンとミユリが出てくると、拍手は一旦おさまった。
――曲が始まる。
「ワン、ツー!」
 リクのカウントで、一斉にギターとベースがかき鳴らされる。ハードなナンバーは『リアリズム』に入っていたロックナンバー、『シューティング・スター』だ。
「すごい……」
 息をのんだ。ミユリの声が、フロアの空気を揺るがす。激しく、ギターをかき鳴らしながら吠えるミユリを見た初は、いっぺんで釘付けになった。
 初めてのライブだということもあったが、それ以上にステージで歌うミユリが美しく見えた。まるで本当の月下美人のように、気高く、白く光り輝いている。美しいなんて言葉じゃ足りない。今、辞書があったならミユリにふさわしい単語を片っ端から探すだろう。手元にない今、初の語彙力では例えられなかった。しいて言うとするならば、『神々しい』という言葉が適切か。
 演奏曲はMCなし、ノンストップで流れていく。その歌詞の背景には何がある? たまに目配せし合う、ゲンとミユリ。ちくりと胸が痛む。この痛みはなんだ。
 バラードではギターを置き、手を細やかに動かしながら独自の世界観を表現していくミユリから、片時も目が離せないでいる初。そんな初を見て、有希は喜んでいた。彼に初めてのライブをプレゼントしてあげられた。彼の喜ぶ顔が見られて、嬉しい。きっと初も、これを機に小説よりも音楽を好きになってくれる。それならば、好きでもないHARD LUCKの話題にも無理矢理でも乗る。
 小説を書いている彼氏なんて、本当はダサい。今まで思っていても言えなかったこと。有希は自分好みの彼氏に初を改造したかった。初はコンタクトにすればかっこいい。性格も優しいし、キスも温かい。自分にすぐ手を出してこないところも好印象だ。体目当てなんかじゃない。一度懐に飛び込んでしまえば、自分通りに操るなんて簡単だ。思った通り、ちょっと腹を立てたらカラオケに誘ってきた。今度は楽器にも興味を持って、バンドでも始めてくれればいいのに。そうすれば、みんなに自慢できる完璧な彼氏になる。
 初はミユリをずっと見つめていた。この時間が永遠に止まればいいと思っていた。ゲンとは目配せしないで、観客席に向かって歌っている彼女が好きだ。この生の歌声を一生聞き続けることはできないのだろうか。彼女の瞳に、自分の姿を映してみたい。彼女は自分を見たら、どんな歌詞を書いてくれるだろう。どんな歌声を聴かせてくれるだろう。彼女を――自分だけのものにしたい。

『きれいごとばかり言う汚い貴方も、愛しいとつぶやく偽物の貴方も、
 私の『恋』のひとつなのです』

 有希にきれいごとばかり言う汚い自分も、初めての彼女を愛しいと嘯く自分も、ミユリには見透かされている。
 ――そうだ。自分が書いた小説のミユリへの想いこそが、恋なのだ。

 ラストは『リアリスト』だ。自分の気持ちに気づいてしまった初は、自分を見ていた有希と目が合った。三秒だけ見つめ合って、すぐに逸らした。

「ライブ、本当によかったね!」
 ライブが終了すると、外のロッカーでコートに着替える。興奮した様子で、有希は初に話しかけた。
 スプリットの曲は、可もなく不可もなかった。が、初はやっぱりHARD LUCKのステージと比べてしまっていた。スプリットのステージは、女性ファンたちのおしくらまんじゅうが酷かった。前に行こうとするファンに、何度も突き飛ばされそうになった。男として、有希をそれから守ろうとしていただけでライブが終わってしまった印象だ。有希は初の行動に感激した。自分を守ってくれるところに男らしさを感じた。今までは少し頼りないと思うことが多々あったが、今夜の初はどことなく違う。自分の意思をはっきりと持っているという予感がした。
「ちょっと歩いていこうよ。まだ時間平気でしょ?」
「うん、僕も話したいことがある」
 有希の誘いに、初は乗った。ふたりは寒い中、台場の自由の女神像のところを目指して歩く。
「寒いね」
「……うん」
 顔に冷たいものが当たった。初が上を向くと、雨かと思ったものは白い結晶だった。雪だ。
 まだ小降りだから、折り畳み傘は差さなくても平気そうだ。有希はそっと、ポケットに入っている初の手を握ろうと、彼に近づく。しかし初は、有希が一歩近寄ると、一歩距離を置く。有希の頭に疑問符が付く。なんで? さっきは私を守ってくれたのに。初を怒らせることなんて、何もしていない。それどころか今日は、彼の好きなHARD LUCKのライブに連れて来てあげたのだ。お互い今日は楽しめたはずだ。こんな微妙な雰囲気になるわけがない。もう一度、ぐいと近寄るが、初は離れた。初の顔を見るが、まっすぐと前を見つめている。彼の目の前には、自由の女神像がある。
 初は自分の想いに戸惑った。芸能人なんて住む世界が違うじゃないか。それに、自分はまだ高校生。彼女から見たら五つも子どもだ。彼女はプロだから、自分のために歌っているわけでもない。そんなことはわかっている。スプリットのファンの女の子たちと自分は何が違う? 熱狂度が違うと言われればそうかもしれない。自分がミユリに抱く感情は、スプリットファンの爆発させる情熱とは違い、ふつふつと、じっくりと湧き上がってくるものだ。それでもきっと、自分は彼女を独占したい。無理だと言われようがなんだろうが。ゲンと目が合ったのを見て、気分が悪かったのは多分嫉妬だ。今まで有希と話している男子生徒にやきもちすら焼いたことがなかったのに。
 有希への想いとミユリへの想いは違う。部長が言っていた『小説を読んでくれる彼女』というのは的を射ていた。有希から告白をされて、流されるように付き合った。流されるようにキスをした。自分からした口づけは、お礼だ。こうすれば喜ぶんだろうと、有希を侮っていた。有希は自分を見下している。自分より勉強はできないが、そうした感情を初は抱いていた。カラオケも行かない、趣味は小説。そんな自分を自分好みに仕立て上げようとしていたことにも薄々気がついていた。だから、自分は――。
 ミユリは違う。絶対に自分に手が届かない存在だ。この想いは届かない。『絶対に』。どんなにミユリの歌を聴こうが、このあとライブに足を運ぼうが、ファンである限りその一線を越えることはできない。ミユリはやっぱり芸術の神だ。アーティストはファンの神でなくてはいけない。その神を無言で愛するのが、しがないファンの自己主張だ。でも、どうしても伝えたいから、スプリットのファンたちはステージに近づこうとする。自分は? どうやってミユリに近づける? 無理だろう。
 乾いた笑いが出かかったとき、ちょうど自由の女神像の前に着いた。
「今日、とっても楽しかった。一緒に来てくれてありがとう」
「僕も。誘ってくれてありがとう」
「……ん」
 有希は、細やかな雪の降る中、静かに目を閉じ、唇を初に向ける。初は視線を逸らした。夜景が死ぬほどきれいだ。寒い分、海の向こう側に見える光がまぶしい。ロマンチックというのはこういうことを言うのだろう。だとしたら自分は、こんなロマンチシズムに浸りたくはない。偽りのロマンなんていらない。自分が本当に必要としているのは、夢も現実もない、シビアなリアリズムだ。美しい夜景と白い雪じゃない。本当にあるのは、曇った灰色の空と凍えそうなくらいの寒さ。現実を受け入れるしかない。そのためには、前に進まなくては。
 有希の頬に、軽く触れるだけのキスをする。
「え?」
有希は目を開けた。てっきり唇にされると思っていたのに。
「ごめん、有希。僕は自分に嘘をついてたみたいだ」
「嘘って?」
「……ほかに好きな人ができた」
「桂先輩?」
 やっぱり最初に彼女の名前が出てきたか。静かに首を振る。
「違うよ。もっと手が届かないところにいる、美しい人だ。その人のことが心から愛しいと
思う」
「え……え? ちょっと待って? どういうこと? なんで……」
「ごめん。今日のライブを見て、ようやく気づいた」
「説明してよ! なんで私がフラれなきゃいけないの!? 今日だって、ライブあんなに
楽しかったじゃない! なのに……」
 有希の瞳から、涙がぼろぼろと零れ落ちる。その涙さえ偽物だと初は気づいていた。
「うん、ライブは楽しかった。本当に、心から……」
 泣き始める有希を置いて帰るのはさすがに男としてあり得ない行為だ。有希は左右に振っていやいやするが、フードをかぶらせると、肩を引き寄せた。
 自分はずるいやつだ。最低なやつだ。有希に悪口を言われようが、罵られようがどうでもいい。今日はともかく家まで送り届ける。それで有希との関係を終わらせよう。
 明日以降、学校で最低男と言われようが、どうでもいい。それよりも今は、ミユリへの想いでいっぱいだ。本当の気持ちに嫌でも気づかされた夜だったから、初は声に出さないで心の中で言った。
『有希、君への想いは、恋じゃなかったよ』――。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み