第9話 蜘蛛とダニ

文字数 2,001文字




 ホテルに到着してチェックインし、俺たちはそれぞれの部屋に移動した。

 気分が落ち着いたのか、阿部さんはベッドに寝転ぶと自分の恋人がいかに素晴らしいかを饒舌に語り始めた。彼は男の俺から見てもかなり容姿端麗な青年だ。そんな彼に、「僕にはもったいない彼女です」と言わせる皆瀬伊月の魅力は、たった半日彼女と過ごしただけでも充分理解できるものだった。

 もし俺に亜由美がいなかったなら、あの二人きりの車内で彼女の虜になっていたかもしれない。皆瀬伊月という女には、男を狂わせる特別な能力があるように思えた。

 四人で食事をした後、約束の時間になったので待ち合わせ場所の崖へと向かった。阿部さんには「風に当たってきます」と告げたが、彼はなにも疑っていないようだった。おそらく皆瀬伊月も今頃は亜由美に嘘をついて部屋を出ているはずだ。皆瀬伊月がホテルの部屋を男女別で分けたがっていたのは、部屋を出やすくする目的もあったのだろう。恋人同士で部屋に居ては、相手を置いて長時間外出するのは案外難しいからだ。

 約束の場所に行くと、すでに皆瀬伊月らしき姿があった。キャミソールにホットパンツ姿。彼女は崖の先で海を眺めていた。

 月明かりの下、理想的なボディラインがシルエットで妖艶に浮かび上がり、少女のようなワンピースを着ていた昼間の姿とはまるで別人に見えた。人違いかもしれないと心配になって慎重に近づくと、彼女が振り返った。

「来てもらえないかと思いました」



 それは間違いなく皆瀬伊月だった。

「約束は守るよ。それで相談って何?」

「でもその前にこっちで海を見ませんか。とても綺麗ですよ」

 俺は彼女の隣に並んで海を眺めた。水平線が月の光を反射してキラキラと輝いている。でも海を見ている彼女の横顔は、血の通わない人形のように見えた。

「本題に入ってもいいかな、阿部さんと何かあったの?」

「相談したいのは、そのことじゃありません」

 彼女は近づいてきて華奢な両腕を俺の身体に回し、ぎゅっと抱きしめた。それから指を滑らせて俺の股間にあてがい、ゆっくりと上下に摩り始めた。

「やめてくれ、俺には亜由美がいるんだ」

 俺はまた彼女の手を掴んで拒んだ。それでも皆瀬伊月は指先だけ動かして、俺の敏感な場所を探るように擦り続けた。

「でも本当は私とこうしたかったから、あなたもここに来たんでしょ?」

 他の男ならそうかもしれないが俺は違った。それに彼女の魂胆は分かっていた。

「君はまるで……女郎蜘蛛だな」

「え?」

 男を捕食しようとする彼女の指が、ぴたりとその動きを止めた。

「女郎蜘蛛のメスは目が見えないから、巣にかかった獲物は何でも捕食してしまうんだ。もしそれがオス蜘蛛だとしてもね」

「それがどうして私なんですか?」

「寄ってきたオスを捕食するところが一緒だからだよ」

 後方には海が広がっていた。彼女に抱きつかれた時に向きが回転し、崖先に背中を見せる形になったのだ。

「ここで俺を突き飛ばせば、君の真の目的は達成されるんだろ?」

 俺は皆瀬伊月が身体を離そうとするよりも早く、彼女の腕をぐっと掴んで身動きできないように拘束した。

「痛い、放して!」

「君は十年前、同級生の五木慎二を崖から突き落として殺害したね」

「あなた何を言っているの?」

「誤魔化すな、亜由美から聞いたぞ」

「嘘だ、亜由美ちゃんが喋るわけない!」

 激しく抵抗して鬼の形相で睨みつけたが、俺は腕を放さなかった。

「俺は亜由美を守ると約束したんだ。だからここで死ぬつもりはない」

「亜由美ちゃんを守るのは私だ、おまえなんかに何ができる!?」

「君は人を殺した。また罪を重ねる気か!?」

「私はあんたみたいなダニから亜由美ちゃんを守るためなら何でもする! 亜由美ちゃんは私のものだ!」

「いい加減にしろ、彼女は俺と付き合っているんだ。君の持ち物じゃない!」

 俺は感情を抑えられずに叫んでいた。

「うるさい、ダニめ! 殺してやる!」

 皆瀬伊月が暴れたので顔を殴りつけた。鼻の砕ける音がして、彼女は「ぎゃっ」と短い悲鳴を上げると、糸の切れた人形のように膝から崩れた。

「ダニだって人を刺す。もう交代の時間だ」

 俺はぐったりした皆瀬伊月を持ち上げると、崖の先端まで運んでそのまま海に放り投げた。彼女が落ちた遥か下を覗き込んで身震いをし、その場にへたり込んだ。でもそこには、亜由美を守り抜いたという充実感で満たされている自分がいた。

「これで誰も君を苦しめない」

 震える足にムチを打って立ち上がり、亜由美が待つホテルへと歩き出した。きっとこのことを報告すれば、彼女は喜んでくれるだろう。

 亜由美は以前、ベッドの中で俺に言った。「五木くんを殺したあの子は許せない」と。

 皆瀬伊月がいなくなって、亜由美は本当の意味で解放されたのだ。俺はこの先もずっと亜由美を守り続ける。何故なら俺以外に彼女を守る資格がある者など、この世のどこにもいないのだから。









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