第8話 五本の蝕指

文字数 2,369文字

 きっと今日は特別な日になるだろう。俺は興奮していることがみんなにばれないよう、できる限り平静を装っていた。

 今から十二年前、弟は実家の近くの崖から転落した。でもどうして俺はあの時、そのことを北川亜由美に打ち明けてしまったのだろう。それが神の思し召しだったのかもしれないし、相当に悪酔いしていたからかもしれない。

 初めて北川亜由美に出会ったのは大学の飲み会だった。そこで俺が故郷の話を持ち出すと、たまたま隣に座っていた亜由美が突然、「えっ!」と驚きの声をあげた。聞けば彼女も小学生の頃、夏休みを利用して俺の故郷の近くまで遊びに来ていたという。

 飲み会の帰り道。亜由美と二人で駅に向かっていた俺は、そんな思い出話をきっかけに、亡くなった弟のことを彼女に話していた。すると亜由美はその場で泣き崩れ、俺に許して欲しいと訴えはじめた。聞けば彼女は俺の弟が死んだあの日、あの崖にいたのだという。俺は真相を聞いてショックを隠せなかったが、彼女自身もあの事故が原因で深いトラウマを背負っているように見えた。

「あれは事故だったんだ。君のせいじゃない」

 どんなに慰めたところで、彼女が抱えている自責の念は消せそうになかった。でも俺はこの奇跡的な出会いに運命的なものを感じていた。

 時が経つにつれて、亜由美の存在は俺の中でどんどん大きくなっていたが、彼女にとって俺は事故の被害者家族だった。だから不用意に近づこうとすると、その負い目を利用してしまう気がして、俺はなかなか彼女に思い切ったアプローチができないでいた。

 ある日、亜由美が親友を紹介すると言い出した。名前は皆瀬伊月。幼馴染だという。でも初対面の日、皆瀬伊月は約束の場所に現れなかった。

「いくら電話しても出ないわ」

「これは会う前に振られちゃったみたいだな」

 冗談交じりの俺に対して、亜由美はニコリともせず溜息をついた。

「……どうして来ないのよ」

 亜由美は俯いたまま、コーヒーカップに向かって恨めしそうに呟いた。

「そんな深刻にならなくても、俺なら全然気にしてないし」

 カップから目を離した亜由美が伝票を手に立ち上がった。

「もう帰りましょ、ここにいても仕方ないわ」

 でも俺は亜由美と二人で居るだけで幸せだった。だからその夜、彼女に電話して言った。 

「今日は楽しかった。俺としてはまた君と二人で会えると最高なんだけど」

 この電話を境に、俺たちはどちらともなく付き合い始めた。

「わたし、あの子が怖いの」

 恋人同士になることで、少しずつ彼女が心を開き始めた。

「皆瀬さんが?」

「伊月は……すごくわたしに執着していて」

 それが十年間抱き続けた幼馴染に対する亜由美の本音だった。続けて彼女は、皆瀬伊月が同級生を崖から突き落とした事実を語った。でも俺はそんな恐ろしい話を聞いたにも関わらず、あまり驚いてはいなかった。ただ、皆瀬伊月の狂気が亜由美に向かうのだけは阻止しなければならないと思っていた。何故ならそれこそが、亜由美の恋人である俺の役割だったからである。

 間もなくして、皆瀬伊月に恋人ができたという知らせを聞いた。

「わたしがあなたと付き合い始めたから、気持ちが離れたのかもね」

 亜由美はまるで憑き物が取れたかのように喜んでいたけど、皆瀬伊月には男子生徒を殺害した過去があった。だから俺は彼女のそんな話を聞いても、手放しで安心することができずにいた。

 そして九月のある日のこと。亜由美が皆瀬伊月カップルとのダブルデートを提案してきた。

 デート当日は俺が車で三人を拾っていくことにになり、最初は自宅から一番近い皆瀬伊月の家に向かった。彼女は一人っ子で実家住まいと聞いていたが、その住所に行ってみると、屋敷と呼ぶにふさわしい大きな邸宅が目の前に現れた。

 背の高い門柱の前で、白いワンピースを着た小柄な女性が、こちらに向かって小さく手を振った。

 なるほど、あれが噂の皆瀬伊月か。

「写真も見せるなって言われてるの」と今日まで亜由美に顔を教えてもらえなかったので、彼女を見たのはその時が初めてだった。

 モデル雑誌から抜け出てきたような佇まいに、西洋人形のような整った容姿。話には聞いていたが皆瀬伊月は鳥肌が立つほどの美人で、亜由美の同級生にしては少し幼く見えた。



「谷口ひろしさんですよね。はじめまして、皆瀬伊月です」

 皆瀬伊月は躊躇することなく車の助手席に乗り込むと、しなやかな細い指を使ってシートベルトを締めた。

「今日はよろしくお願いします」

「よろしく」

 俺の隣で微笑む彼女は、亜由美から聞いていた内気な性格とは違って見えた。丈の短いワンピースからは柔らかそうな白い太ももがあらわになり、俺の視線を惑わせた。

「ひろしさんが想像していたよりかっこいいから、正直びっくりしました。どうして私、あの時の約束をすっぽかしちゃったんだろ」

 彼女ははにかみながら、初対面の俺を下の名前で呼んだ。

「運命だったんじゃないかな。それで皆瀬さんは今の彼氏に会えたんだし」

「あの……じつはそのことでひろしさんに相談があって」

「相談?」

「はい、これから会う彼のことです」

 皆瀬伊月はこちらに身体を寄せると、スッと手を伸ばして俺の膝の上に置いた。それから脚の付け根に向かって五本の指を蜘蛛のように這わせながら、じっとりと湿った瞳でこちらを見つめた。

「ダメですか?」

「皆瀬さん、手を……」

 俺は理性を取り戻して彼女の手を掴み、その淫らな行為を拒絶した。



「ごめんなさい。でもゴミがとれました」

 彼女は何事もなかったように前を向くと、離れた手を自分の膝の上に戻した。

「それで相談って?」

 車のエンジンをかけながら俺は聞いた。

「できれば時間を改めてゆっくりお話がしたいです」

 こうして俺と皆瀬伊月は、その日の晩に宿泊先を抜け出し、二人きりで会う約束をした。









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