第5話 鮭のアンチョビクリーム

文字数 1,573文字

 最終決戦には生鮭を用意した。今回は生クリーム仕立てだ。

 またしても彼女は包丁の背で皮を丁寧にしごき、銀色の鱗を盛大にはじき飛ばしていた。この場合、キッチンペーパーでは足りない。新聞紙でまな板の周りを立体的にカバーする必要がある。
 お座なりにすると、後でカピカピになった鱗がキッチンのあちこちにへばりついているのを発見し、掃除に追われる。
 皮が綺麗になったら牛乳で臭みを取り、キッチンペーパーで水気を拭き取ってからシママースと黒胡椒で下味をつけるのが彼女のやり方だ。アンチョビも牛乳で塩抜きする。

 生クリーム仕立ての場合、火加減が重要だ。バターを使うと焦げやすいので、サラダ油とバターを半々にする方法があるが、無塩バターを使うのも良い。
 下拵えを終えた彼女は冷蔵庫を物色し、無塩バターがきれていたのに気づいた。
結局、半々方式になる。
 軽く小麦粉を叩いた鮭に火を通したら一旦取り出し、バターを足して大蒜とアンチョビを軽く炒める。あとは白ワイン、生クリーム、塩胡椒でソースが完成だ。
 レシピではケーパーも入るが、彼女は無視した。何なら、アンチョビ無しでも美味しく作る自信はある。新鮮な魚で、皮さえ綺麗にすれば。(彼女の持論では)

 料理があらかた出来上がる頃、いつものように早々とテーブルについてテレビを見ていた夫に、作戦計画を伝えオープナー一式とワインの瓶を差し出した。
「フォークの背で押し込むといいみたいよ」
You Tubeで、どこかの男が〈抜けないワインのコルクを取る方法〉と題して、フォークでコルクを力尽くで落とし込む様子の動画をアップしていた。
 夫は、彼女の言葉を軽く流してオープナー一式を見比べ、スクリュープルを手に取った。そのスクリューだけを使い、コルクに捩じ込んでは引っ張っているようだった。
 相変わらず、人の話しは聞かない男だ。
彼女は下を向いて苦笑いし、鮭とクリームソースを盛り付けにかかった。
 すると即座に「とれたよー」と呑気な声がした。
 驚いた彼女がテーブルに駆け寄ると、夫はスクリューに串刺しになったコルクをにっこりと差し出した。
 あわれな騎士は、スクリューで引っ掻き出されて身体を半分ほど失ったところを、今度は力尽くで引き抜かれたのだ。
 フランス仕込のコルクの騎士は、日本人職人に敗れた。職人はYouTuberの男にも勝った。コーヒーフィルタで漉す必要なんて無かったのだから。

 ついに金色に輝くシャトー(省略)ブランがグラスに注がれた。
「ハイ、貴方もどうぞ」夫のグラスにも。
彼女は上機嫌だ。長い戦いにやっと終止符が打たれたのだ。いつもの食卓が眩い光に包まれて見えた。
 早速テイスティングしてみる。
 芳醇な、森の木の香りがする。
 白ワインと言うより、ブランデーに近いような、力強い味わいだ。グラスに入れてしばらく待つと味が「開く」のだが、くるくると回してはいけない。デキャンタに移したりすると酸化が早まる場合が有る、との面倒な御触れが出ていた。

 “美しい王女がガラスの塔に幽閉されていました。その姿を誰にも見せぬよう、頑丈な扉がコルクの騎士によって守られていましたが、騎士が倒れ塔から出るや否や、酸化が進みおばさんになってしまいました…”
 そんな妄想を浮かべ、ニヤニヤと古酒ワインを味わう彼女に夫は言った。
「俺がその気になればちょろいもんよ。それを見せつけてやったまでさ」
 職人とは、憎まれ口を忘れないものらしい。

 ヴィンテージワインには、当たり外れもあり、その強烈な個性を堪能するには煮込み料理や熟成生ハムが合う。彼女の持つ白ワイン→魚料理というシンプルな図式は当てはまらない。ワインの世界はオープナーを含め、まだまだ奥が深かった。
 因みにオールドヴィンテージと言われる高価なワインは、15年以上寝かせた当たり年の逸品を指す。

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