2 速球派の時代

文字数 2,999文字

2 速球派の時代
 ウォーレン・エドワード・スパーン(Warren Edward Spahn)は、1921年4月23日、ニューヨーク州バッファローに生まれます。エドワードとメイベル(Mabel)夫妻は,、6人兄弟の5番目の長男をウォーレン・G・ハーディング大統領にちなんで名付けています。

 ウォーレン・G・ハーディング大統領は、1920年の大統領選挙で「アメリカ第一主義(America First)」と「正常への復帰(Return to Normalcy)」というスローガンを掲げて圧勝します¹。国内・外交政策のいずれでも保守的なこの共和党の大統領は、就任当初、人気が非常に高かったのですが、政権にまつわるスキャンダルや不正が発覚、急速に世論が離れていきます。在職中の1923年に急死するのですけれども、その後も汚職が次々に明らかになるだけでなく、彼の不倫や賭博好きなどが暴露されています。スパーンが年々評価を上げたのと逆に、歴史家や政治学者はハーディングを米国史上最悪の大統領の一人と酷評しています。

 ウォーレン少年はニューヨーク・ヤンキースのルー・ゲーリックに憧れ、4番ファーストの強打者を目指します。けれども、入学したサウス・パーク高校(South Park Hogh School)のチームにはすでに一塁手がいたため、彼は渋々投手に転向します。その際、父エドワードがウォーレンにピッチングをコーチしています。 彼は壁紙を売る傍らセミプロの野球チームでプレーしていたからです。父は息子に左投手の利点やカーブの投げ方を教えます。

 「鉄の馬」に憧れていたせいかスパーンは打撃のよい投手として知られています。通算35本塁打は投手としてナショナル・リーグ歴代1位です。大谷翔平のケースがありますので、MLB記録は、投手出場に限定すると、歴代1位はウェズ・フェレル(Wes Ferrell)の37本です。ただ、彼は他に代打で1本放っています。非常に打撃がよい投手で知られ、代打出場も少なくありません。彼は通算193勝、最多勝1回、ノーヒットノーラン1回を記録しています。また、2位はボブ・レモン(Bob Lemon)の35本です。彼は通算207勝、最多勝3回、最多奪三振1回、ノーヒットノーラン1回をマークした右投げ左打ちですが、実は二刀流で、投手以外の出場でもう2本放っています。

 ウォーレンは、高校卒業後、1940年、ボストン・ブレーブスと契約を結びます。この球団は現在のアトランタ・ブレーブスの前身です。もともとはボストン・レッドストッキングスと言い、1871年に創立された現存する最古のプロ野球チームです。ただ、1914年に優勝して以来、長期低迷が続いています。

 1941年シーズン、マイナーリーグで19勝を挙げる活躍を挙げ、翌年、ブレーブスのキャンプに参加します。しかし、その後は先に述べた通りです。

 1943年、陸軍に入隊したウォーレンは欧州戦線に送られます。彼は工兵として「バルジの戦い(The Battle of the Bulge)」に参加、「 ルーデンドルフ橋(The Ludendorff Bridge)」を渡り、銃撃され負傷しています。いずれも有名な激戦地です。彼はパープルハート勲章とブロンズスター勲章を授与され、少尉に昇進しています。一兵卒から将校になった大リーガーは彼だけです。

 ウォーレンは、1946年、ブレーブスに復帰します。その際、背番号が16から21に変更されます。以後、彼は引退するまで他球団でもこの背番号をつけ続けることになります。ブレーブスの21番をつけた選手はスパーンが最後です。

 実質的なデビューである1946年、スパーンは24試合に登板して8勝5敗1S、防御率2.94を記録します。この時点では大した投手ではありません。しかし、翌年、40試合に登板、21勝10敗3S防御率2.33で、最優秀防御率のタイトルを獲得します。彼は身長182cmで、体重80㎏と当時の大リーガーの平均的体躯でしたが、右足を高く上げ、左腕を大きな弧を描いて振り下ろす独特のフォームに相手チームは恐れを抱くようになります。ここからウォーレン・スパーンの伝説が始まるのです。

 スパーンにはユニークな逸話がいくつもあります。その中でも最も有名なものの一つが1948年のブレーブスのローテーションでしょう。

 1948年9月7日、ブルックリン・ドジャースとのダブルヘッダーにおいて、第1試合はスパーンが14回を投げ1失点の完投勝利、第2試合は右のエースのジョニー・セインが完封します。二日間の休みの後、雨により1試合中止になります。翌日はスパーン、翌々日はセインが共に勝ちます。3日後にスパーン、次の日にセインがまた勝利、1日空けてダブルヘッダーにこの二人が投げて連勝します。ブレーブスは12日の間に両エースだけで8勝したというわけです。他の投手で1勝1敗していますから、10試合で9勝を挙げたことになります。弱いチームはエースが人一倍頑張らなければ勝てません。この驚異的な勝率によりボストンは34年ぶりにリーグ優勝を果たすのです。

 この投手コンビを讃えて、『ボストン・ポスト(Boston Post)』のスポーツ編集者ジェラルド・V・ハーン(Gerald V. Hern)は次のような詩を書いています。

First we'll use Spahn then we'll use Sain
Then an off day followed by rain
Back will come Spahn followed by Sain
And followed we hope by two days of rain.

 「スパーン・セイン・休・雨・スパーン・セイン・雨・雨」というローテーションです。この詩は「スパーンとセイン、そして雨に祈りを(Spahn and Sain and pray for rain)」として知られることになります。なお、ジョニー・セイン(Johnny Sain)はこの年、24勝を挙げて最多勝のタイトルに輝いています。彼の通算成績は139勝116敗・防御率3.49です。

 これを耳にすると、「権藤権藤雨権藤雨雨権藤雨権藤」をお思い出さずにはいられません。1961年、ジャイアンツと激しい首位争いを繰り広げた中日ドラゴンズの権藤博は130試合中69試合に登板しています。その超人的連騰から生まれたのがこの名文句です。

 ブレーブスはワールドシリーズに進出しますが、クリーブランド・インディアンス(現クリーブランド・ガーディアンズ)に2勝4敗で敗れます。スパーンは1勝1敗ながら、史上最速との誉れ高い「火の球投手」ボブ・フェラーに投げ勝っています。

 このシリーズには後々まで語られるエピソードがあります。その一つが第5戦にニグロリーグで2000勝以上を挙げたとされる伝説の大投手サチェル・ペイジ(Satchel Paige)がリリーフ登板したことです。彼は、この年の7月、42歳でMLBにデビュー、21試合登板6勝1敗1S防御率2.48をマークしています。ペイジの年齢には異説もありますし、シーズン途中からの記録ですが、後に42歳のスパーンはこの伝説を超えることになるのです。

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