4 レガシー

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 スパーンのMLBでの通算成績は実働21年で、363勝245敗29S防御率3.09です。通算363勝は歴代6位ですが、ライブボール時代に限れば、最多です。ホームランをかっ飛ばすベーブ・ルースが人気となったため、大リーグは打撃戦が観客を集められるとして1920年からより反発力のあるボール、すなわちライブボールを採用します。それ以前の低反発のボールじゃデッドボールと呼びます。通算成績上位の投手は1920年の前に活躍した選手が多いのです。

 しかも、1950年代はMLBの黄金時代と言われます。カラーラインが撤廃、実力のある黒人選手が次々とデビューしています。球団数も1959年まで各リーグ8の16チームですから、選手の質も高いのです。また、従来東海岸に限定されていた本拠地が西絵画にまで拡大、試合もナイターが中心になります。そのため、移動や日程がかつてないほどタフになります。さらに、競合する他のプロスポーツも発展途上で、人気もさほどなく、メディアの扱いも小さいものです。スパーンの363勝はそういう時代に記録した数字なのです。

 付け加えると、スパーンの通算勝利数は左投手として歴代最多です。MLB史上最強のレフティーというわけです。それを讃えて、1999年からそのシーズンに最も活躍したサウスポーにウォーレン・スパーン賞が創設されています。

 ただ、スパーンはそのまま投手をやめたわけではありません。引退後、マイナーリーグの監督を務め、メキシカンリーグでコーチを務めています。その際、メキシコシティ・タイガースで現役復帰しています。それは西武ライオンズなどで活躍した渡辺久信がコーチとして渡った台湾において再びマウンドに登ったことを思い起こさせます。晩節を汚したという批判の声も上がりますが、彼には投球することが何より大切なことなのです。契約してくれるところがなくなるまでスパーンはマウンドに登り続けるのです。

 その後、1972年から2年間、インディアンスの投手コーチを務め、73年に殿堂入りを果たしています。それから2年後の1975年、スパーンは来日します。広島カープの臨時コーチに就任したからです。ジョー・ルーツ新監督は優勝のため投手陣の立て直しため、インディアンス時代にコーチ仲間だった彼を招聘しています。

 日南キャンプで53歳のスパーンは「自分自身に勝て」と説き、外木場義郎らを指導、時に、自らピッチングをして見せます。彼のコーチングはわかりやすいと好評だったと伝えられています。スパーンは開幕を見届けた後、帰国します。このシーズン、カープは、投手力の弱さを理由とした低い下馬評を覆し、球団初のリーグ優勝を達成することになるのです。

 残念ながら、スパーンがカープの臨時コーチを務めていたことはあまり知られていません。MLB史上最多勝サウスポーが万年Bクラス球団のコーチをするなどとても考えられないことなのですが、実は当時もさほど話題になっていません。NPBの歴史において選手やコーチ、監督としてかかわった元大リーガーの中で実績は断トツです。しかし、それを回想しているのは、ネット検索しても、広島カープのオールドファンくらいです。大リーグの知識が打者偏重だということをよく物語るエピソードでしょう。

 2003年11月24日、余生を送っていたオクラホマ州ブロークンアローの自宅で、ウォーレン・スパーンは老衰によりなくなります。82年の生涯です。

 ウォーレン・スパーンの野球人生を振り返る時、最も興味深いのは速球派から技巧派への変身でしょう。彼は転向してからの方がキャリアも長く、勝ち星も多いのです。肉体は衰えても、投手として成長したと言えます。

 投手が速球派から技巧派へ転向することは難しいものです。自慢の速球で打者を捩じ伏せる快感は癖になります。年齢による衰えに薄々気づいても、モデルチェンジをして失敗すれば、悔いが残ります。変わらなければならないと思いながらも、できずに引退する投手は少なくありません。故障したり、指導者から説得されたりするなどやむを得ない理由によって自身を納得させて変わる決断するのが常です。それでも数年思うような結果が出ない状態を乗り越えてようやくモデルチェンジに至ります。成功しても、かつての成績に及ばないことも多いものです。

 スパーンとよく似た投手として近鉄バファローズ最後の背番号1の鈴木啓示を挙げることができます。この左投手もノーコンの速球派からコントロールのよい技巧派に転身しています。けれども、1972年に勝てなくなってからも、彼は転向を拒んでいます。74年に就任した西本幸雄監督に粘り強く諭されて渋々受け入れ、75年に復活しています。

 スパーンはわずか1年で転向しています。これほど早く変身できた投手はそういません。おそらくそれは戦争経験が理由でしょう。彼は22歳から3年間野球から離れて従軍、重傷を負っています。運が悪ければ、野球生命どころか、命も落としかねない状況です。そうした体験を経て野球に復帰したため、時間を無駄にしたくないという思いが強かったように思えます。

 転身するには、自分自身の衰えを認め、今ある力と向き合い、それをどう生かしていくかを考え、パフォーマンスに反映させなければなりません。しかし、かつての姿が真実だとして今の現実を否認したくなるものです。衰えと共に生きていくことは難しいですけれども、直視を避けていれば、時間が浪費されるだけです。今日より明日、明日より明後日の方が衰退するのですから、取り戻すことがさらに困難になります。加齢は自分を対象化することを促します。それを自覚して認知行動する時、むしろ、衰えの中で成長するのです。

 衰えと向き合うことで、人はさらに成長する可能性があります。ウォーレン・スパーンの野球人生はそれを教えてくれるのです。

 「人は、私が大リーグから離れたせいで、400勝のチャンスを失ったのではないかと言います。でも、それはわかりません。私は 3 年間で大きく成長し、22 歳の時頼も 25 歳の方がメジャーリーグの打者を扱う能力が備わっていたと思います。それに、私は 44 歳まで投げました。おそらくそうでなければ、そこまでできなかったでしょう」。

 “People say that my absence from the big leagues may have cost me a chance to win 400 games. But I don't know about that. I matured a lot in three years, and I think I was better equipped to handle major league hitters at 25 than I was at 22. Also, I pitched until I was 44. Maybe I wouldn't have been able to do that otherwise”.
〈了〉

投球回数の”.1”は”1/3”、”.2”は”2/3”を意味します。
参照文献
Lew Freedman, “Warren Spahn: A Biography of the Legendary Lefty”, Sports Publishing, 2018
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