3 技巧派の時代

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3 技巧派の時代
 スパーンはブレーブスのエースとして毎年35試合以上登板して20勝前後を挙げる安定した活躍を見せます。1949年と50年に最多勝、47年から52年まで最多奪三振のタイトルを獲得しています。

 しかし、1952年、スパーンは異変を感じます。防御率は2.98と決して悪くないのですが、14勝19敗と初めて負け越します。ブレーブスは48年の優勝以降、成績が下降、スパーンの不調もあり、とうとうリーグ7位に沈みます。観客動員数も激減、シーズンオフ、球団は本拠地移転を決定、53年からミルウォーキー・ブレーブスになります。

 スパーンは31歳という年齢に加えて、この年、膝を痛め、速球に衰えが見え始めます。球種も他にカーブだけで、速球が走らないと逃げ道がありません。また、確かに球は速いのですが、コントロールが悪く、行き先はボールに聞いてくれという有様です。奪三振王で、与四球王でもあります。なかなかストライクが入らないと、野手の守りのリズムが悪くなり、打撃にも悪影響を及ぼします。しかも、相手チームはスパーンの投球を分析、攻略法をつかみ、もう怖くないのです。

 モデルチェンジが必要なことは明らかです。スパーンは、翌シーズンに向けて、速球派から技巧派への転身を図ります。彼は、練習中、呪文のように、「バッティングはタイミングを合わせること。ピッチングはタイミングを外すこと(Hitting is timing. Pitching is upsetting timing)」と自らに言い聞かせるのです。

 まず、スパーンはコントロールの改善に取り組みます。狙ったところにボールが行くように、肩の力を抜いて、安定したフォームで楽に投げるコツをつかむ練習を繰り返します。「ホームプレートの幅は17インチですが、真ん中の12インチは無視します。左右2.5インチずつピッチングします(Home plate is 17 inches wide, but I ignore the middle 12 inches. I pitch to the two-and-a-half inches on each side)」。

 そもそも力まかせに投げていては、故障しやすくなります。エースがそれではチームも波に乗れません。チームが優勝数ためにどうすべきか自覚のない投手はエースではありません。

 また、スパーンは三振へのこだわりを捨てます。打者を歩かせないようにし、バックを信頼して打たせて取るピッチングを心掛けるようになっていきます。「ゴロを打たせれば、一度にアウトを二つとれます(When I throw a ground ball, I expect it to be an out, maybe two)」。ヒットを打たれても、次の打者を内野ゴロでゲッツーに仕留めればいいというわけです。こういうコントロールのいい投手なら、野手は守りやすく、攻撃の際にもリズムが生まれます。

 さらに、スパーンは球種を増やすことにも励みます。ただし、一つの変化球を試合で使えるようになるまでには時間がかかります。彼は少しずつ持ち球を多くしていきます。チェンジアップやスクリューボール、シンカー、スライダー、パームボール、ナックルを徐々に習得します。

 20世紀に入るまで、変化球はすべて「カーブボール」と呼ばれています。それが、投手の利き腕と反対側に曲がりながら落ちる変化球だけを指すようになります。そのカーブと逆に、利き腕側に曲がりながら落ちるのがシンカーです。

 スクリューボールは利き腕側に横滑りする変化球です。日本で左投手のシンカーがスクリューボールと呼ばれていますが、これは間違いです。平松政次の「かみそりシュート」がスクリューボールなのです。他方、スライダーは利き腕と反対側に横滑りするものです。

 ちなみに、日本で「シュート」と呼ばれている変化球はスクリューボールとシンカーの中間の変化球です。スライダーとカーブの中間を「スラーブ」と言いますが、それに対応する利き腕側に曲がる変化球です。

 チェンジアップは、速球とほぼ同じ軌道を描きながらも速度が遅く、打者のタイミングを外す変化球です。その際、回転数が少ないため、打者の手元で少し沈みます。スパーンのチェンジアップはサークルチェンジだったとされています。指でOKサインを作ってボールを握るもので、利き腕側に曲がりながら沈む特徴があります。

 パームボールは親指と小指でボールを握り、掌で押し出すように投げるチェンジアップの一種です。かつてアメリカではチェンジアップと言うと、パームボールを指しています。手首に近い方で握ると球速が遅くなり、指先の方だと速くなるというように、速度を変えられる利点があります。

 ナックルは、人差し指と中指、もしくはさらに薬指をボールに立てて握り、押し出すように投げる変化球です。球速が遅く、無回転のため、ボールは揺れながら打者の手元で不規則に落ちます。捕手が捕るのも難しい変化球ですから、投球のほとんどをこれが占めるナックルボーラーもいるほどです。日本伝来はかなり早く、「フォークの神様」杉下茂によると、戦前にはすでに知られていた変化球です。スライダーやフォークボールよりも先に伝わったのですが、現在、あまり使い手がいません。

 1953年、スパーンは早くも復活します。35試合に登板して23勝7敗・防御率2.10をマーク、最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得します。与四球は70で、最も多かった1950年の111から40以上も減っていま。彼は、この後、57年から61年まで最多勝、61年に最優秀防御率のタイトルに輝きます。5年連続・通算8回の最多勝獲得は共に歴代1位です。ただ、この年から最多奪三振のタイトルと縁遠くなりますが、打ち取る楽しさを覚えた彼は気にしてなどいません。

 スパーンは、他にも、1956年から始まったサイ・ヤング賞を57年に受賞しています。彼はMVPに輝いたことがありません。実は、MVPは野手が選ばれやすいのです。それは日本における大リーガーの知名度も打者に偏っていることからもわかるでしょう。そのため、投手にもそれに相当する賞が必要だとして創設されたのがサイ・ヤング賞です。ただ、1967年までは大リーグ全体から1人選出など条件が厳しく、58・59・61・64年は該当者なしとなっています。

 野球では、若手は力、中堅は技、ベテランは頭でプレーするとよく言います。スパーンはまさにそういうプロ生活を送っています。

 スパーンは、1960年、39歳にして初のノーヒットノーランを達成します。さらに、翌年、40歳で二度目を記録しています。その1961年、彼は21勝を挙げます。2年後の1963年には、42歳で23勝をマークしています。33試合登板23勝7敗・防御率2.60で、あの世知エル・ペイジを上回ります。40代で20勝以上を複数回記録したのはサイ・ヤングとスパーンだけです。しかも、63年の与四球は49です。投球回数が259.2ですから、2試合9イニング完投してわずかに3つです。かつてのノーコン投手の面影はもうありません。

 この1963年のスパーンの投球回数は259.2です。現在のMLBで200回を投げる投手はいません。ちなみに、2022年の最多投球回数はニューヨーク・ヤンキースのゲリット・コールの174回です。スパーンは、1955年を除いて、47年から63年まで毎年250イニング以上登板しています。その55年も245.2回です。彼はリーグ最多を4度、300回以上も2度記録、非常にタフで、故障が少ない投手です。

 それを物語る有名なエピソードがあります。1963年7月2日、スパーンはサンフランシスコ・ジャイアンツ戦に登板します。相手はエースのファン・マリシャル(Juan Marichal)です。彼は通算243勝を挙げ、最多勝のタイトルを2回、最優秀防御率を1回獲得しています。二人はお互いに譲らず、両軍無得点のまま延長戦に突入します。ジャイアンツのアルヴィン・ダーク監督は、マリシャルに交代を何度も促します。けれども、彼は、42歳が投げ続けているのに、25歳の自分が先にマウンドを降りるわけにはいかないとそれを拒んでいます。このゲームは劇的な幕切れを迎えます。スパーンは、延長16回裏、ウイリー・メイズにサヨナラ本塁打を浴びてしまうのです。この試合の投球数はマリシャルが227球、スパーンが201球です。

 大リーグには引き分けがありません。スパーンは延長に入ってからも続投することがよくあります。彼の完投数はMLB歴代19位の382です。日本の最多記録は金田正一の365ですので、それを上回ります。スパーンの先発試合数は665ですから、非常に完投率の高い投手です。加えて、登板試合数は歴代76位の750ながら、投球回数は歴代8位の5243.2で、マウンドに登ったら、できる限り長くとどまっていることがここからもわかります。ちなみに、金田の登板試合数は949、投球回数は5526.2です。

 しかし、翌64年、スパーンは急激に成績が下がります。38試合に登板したものの、6勝13敗・防御率5.29に終わります。ブレーブスは彼と来季の契約をしないと決定します。

 1953年にエディ・マシューズ、54年にはハンク・アーロンがデビュー、彼らが育ったブレーブスは当だの軸が揃い、強豪チームへと変わります。57年に世界一、58年にリーグ優勝、プレーオフで敗れるものの、59年は同率首位です。しかし、60年代に入ると、成績が下降、それに伴い、観客動員数も減少します。66年、ブレーブスはアトランタに本拠地を移転します。

スパーンに代わり、エースの座に就いたのが史上最高のナックルボーラーと言われるフィル・ニークロ(Phil Niekro)です。彼は48歳まで現役を続け、スパーンを上回る歴代4位の通算投球回数5804.1を記録しています。

 引退の瀬戸際にいたスパーンに声をかける人物が現われます。ケーシー・ステンゲルです。かつてスパーンから登板の機会を奪った彼は、当時、ニューヨーク・メッツの監督を務め、コーチ兼任での現役続行を彼に申し出るのです。スパーンはステンゲルを恨んでいないどころか、敬愛していたので、喜んでメッツに移籍します。

 しかし、20試合に登板して4勝12敗・防御率4.36と思うような結果が出ず、スパーンはシーズン途中でジャイアンツに移籍します。けれども、サンフランシスコでも16試合に塔婆、3勝4敗・防御率3.39に終わります。

 確かに、勝ち星は伸びていませんが、44歳にして197.2イニングを投げていることに驚かされます。シーズン途中まで、彼は最年長投手としてマウンドに登っています。ところが、それを越されてしまいます。59歳のペイジが現役復帰したからです。9月25日、カンサスシティ・アスレチックスのペイジはボストン・レッドソックス戦の先発、3イニングを投げ、打者10人を被安打1三振1の無得点に抑えています。この二人には年齢の点で因縁があります。こうしたオールドタイマーの話題があったのですが、スパーンと来季のメジャー契約を結ぼうとする球団は現れません。スパーンは引退を余儀なくされるのです。

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