IV. 備
文字数 1,572文字
リヴィヤタン帰還のその驚異と影響、ひとびとの再考と再興、不思議に輝くこの時代の影で、或る秘密結社がちいさく産声をあげました。ノースインヘルノの旧王家の血筋の者を母体としたベスティアンは、その名の”獣性に備える者”を意味するように、人間の獣性によってもたらされるだろう次の濁流に備えることを目的とした組織でした。
のちの世に多くの著書を残した思想家ゲインズ・フリューゲルスなどは、ベスティアンでも最高位の者で、最も旧王家に近い血筋の三家、その嫡男に与えられる”色名”を結社内部の者のみが知る名として持っていました。ゲインズ・フリューゲルスは、シアノシス二世、つまりベスティアン創設初期のメンバーである慈善活動家のゲイル・フリューゲルスの息子で、人間の在り方やその本質に否定的ともとれる著書を多く書いた彼だけれども、父の慈善活動を継いで、私財のほとんどを困窮するひとびとの救済にあてるなど、彼自身にあっては高潔で理想的な人間であろうとすることへの努力を生涯やめることはありませんでした。
三家の嫡男は、赤・青・黄のそれぞれの色名を与えられ、経済学者マック・ゾナイフや歌姫サラ・ゾナイフのゾナイフ家は赤の色名”フューシア”を、フリューゲルス家は青の色名”シアノシス”を、自然魔術の国イーストインヘルノの旧貴族の血筋でもあるサンデルト家の嫡男は黄の色名”キスケ”を与えられました。
サンデルト家は三家のなかでも地味で目立たぬ家系で、世間に名の知られるのは、おそらくライル・サンデルトくらいでした。加えて、その彼でさえ、サラ・ゾナイフの若くして亡くなった夫というくらいの認識しかありませんでした。ライルが才能豊かで美しかったサラと一緒になることがなければ、サンデルトの家名が世に知られることはおそらくありませんでした。夫を亡くしたあと、サラは精神だけが抜けたようになってしまいましたが、雷火の起こった日にはわずかに微笑んで、かつて美しかった彼女のその面影を残しこの世を去りました。
キスケ二世、ライル・サンデルトの手記、『火や雷』と呼ばれるその書は、結社内部の高位の者でないと閲覧できず、またその大部分が黒く塗りつぶされていましたが、息子ロマーノ・サンデルトにとっては、ここに残る言葉だけが彼の父親でした。
—父ローヌ・サンデルト。父はやさしいがいつも同じ話ばかりだ。「我々は自身より恐ろしいものさえ知ることができたなら、もっとも美しい生物になれるのだよ」そればかりだ。母はあたたかに微笑んでいるが、おそらく父の言うことを理解しているわけではあるまい。母はそれでいいのだ。やはり血のつながりだろうか、わたしは理解しはじめている。
—嗚呼、サラ。何故わたしを選んでくれたのだ。わたしにはなにもない。君に値しない。君といると美しいことばかりだ。嗚呼、君にはもっとふさわしい幸せがあったのではないか。わたしは君になにを与えられるだろう。君になにを見せることができるだろう。君の歌ううしろで演奏している連中、わたしはあのなかのひとりでよかったのだ。君だけを愛して楽器を鳴らし、君に触れず静かに優しく君を愛していれば、わたしの愛は完全だったのだ。わたしは分をわきまえず君の髪に触れてしまった。君の肌のにおいをかいでしまった。嗚呼、サラ。君の細い手を離すこともできない。せめて君に伝えなければ。わたしが君をどんなに愛しているかを。
—父はなにやら研究をしていたようだ。しかし、これにはさすがに閉口だ。あの温厚な父がこんな大それた魔術を考えていたとは。ひとの為せる業ではない。神の御業のそれにちかい。いや、しかし、わたしにはそれが必要か。
—わたしはこれを完成した。不浄を燃やし、あらゆるものを伝わる雷を。大義などどうでもよい。わたしに必要なのは表現だ—
のちの世に多くの著書を残した思想家ゲインズ・フリューゲルスなどは、ベスティアンでも最高位の者で、最も旧王家に近い血筋の三家、その嫡男に与えられる”色名”を結社内部の者のみが知る名として持っていました。ゲインズ・フリューゲルスは、シアノシス二世、つまりベスティアン創設初期のメンバーである慈善活動家のゲイル・フリューゲルスの息子で、人間の在り方やその本質に否定的ともとれる著書を多く書いた彼だけれども、父の慈善活動を継いで、私財のほとんどを困窮するひとびとの救済にあてるなど、彼自身にあっては高潔で理想的な人間であろうとすることへの努力を生涯やめることはありませんでした。
三家の嫡男は、赤・青・黄のそれぞれの色名を与えられ、経済学者マック・ゾナイフや歌姫サラ・ゾナイフのゾナイフ家は赤の色名”フューシア”を、フリューゲルス家は青の色名”シアノシス”を、自然魔術の国イーストインヘルノの旧貴族の血筋でもあるサンデルト家の嫡男は黄の色名”キスケ”を与えられました。
サンデルト家は三家のなかでも地味で目立たぬ家系で、世間に名の知られるのは、おそらくライル・サンデルトくらいでした。加えて、その彼でさえ、サラ・ゾナイフの若くして亡くなった夫というくらいの認識しかありませんでした。ライルが才能豊かで美しかったサラと一緒になることがなければ、サンデルトの家名が世に知られることはおそらくありませんでした。夫を亡くしたあと、サラは精神だけが抜けたようになってしまいましたが、雷火の起こった日にはわずかに微笑んで、かつて美しかった彼女のその面影を残しこの世を去りました。
キスケ二世、ライル・サンデルトの手記、『火や雷』と呼ばれるその書は、結社内部の高位の者でないと閲覧できず、またその大部分が黒く塗りつぶされていましたが、息子ロマーノ・サンデルトにとっては、ここに残る言葉だけが彼の父親でした。
—父ローヌ・サンデルト。父はやさしいがいつも同じ話ばかりだ。「我々は自身より恐ろしいものさえ知ることができたなら、もっとも美しい生物になれるのだよ」そればかりだ。母はあたたかに微笑んでいるが、おそらく父の言うことを理解しているわけではあるまい。母はそれでいいのだ。やはり血のつながりだろうか、わたしは理解しはじめている。
—嗚呼、サラ。何故わたしを選んでくれたのだ。わたしにはなにもない。君に値しない。君といると美しいことばかりだ。嗚呼、君にはもっとふさわしい幸せがあったのではないか。わたしは君になにを与えられるだろう。君になにを見せることができるだろう。君の歌ううしろで演奏している連中、わたしはあのなかのひとりでよかったのだ。君だけを愛して楽器を鳴らし、君に触れず静かに優しく君を愛していれば、わたしの愛は完全だったのだ。わたしは分をわきまえず君の髪に触れてしまった。君の肌のにおいをかいでしまった。嗚呼、サラ。君の細い手を離すこともできない。せめて君に伝えなければ。わたしが君をどんなに愛しているかを。
—父はなにやら研究をしていたようだ。しかし、これにはさすがに閉口だ。あの温厚な父がこんな大それた魔術を考えていたとは。ひとの為せる業ではない。神の御業のそれにちかい。いや、しかし、わたしにはそれが必要か。
—わたしはこれを完成した。不浄を燃やし、あらゆるものを伝わる雷を。大義などどうでもよい。わたしに必要なのは表現だ—