批判的に使われてしまう真理
文字数 2,604文字
「四書」においては、世の中が乱れる原因は「仁」や「徳」、また「礼」の不履行、特に権力者の不仁な行いだと強調されている。
国の乱れを防ぐには、人々の勤勉と「徳」の実行、親への敬意、年功序列の遵守、冠婚葬祭の形式の遵守などの、「礼」が必要だと説く。
このような傾向から、全体的に「四書」では「規律からの逸脱」が、世の中の乱れの原因とされていると見ることができる。
行動として表すことのできる、人間として「正しいこと」が確固として存在していて、そこから逸脱するから世の中が乱れる、と考えている。
また、前述の「国を治めるにはまず家や自分から」というものや、また「君主が慈愛を持っていれば国民も慈愛を持つし、君主が残忍ならば国民も残忍になる」といった、君主は国民の鏡である、という考えが繰り返される。
それを表すように、「大学」には以下のことが書かれている。
「君子はまずわが身に徳を積んでから始めて他人にもその徳を求め、まずわが身に不徳をなくしてから始めて他人にもその不徳を非難する」
「『世界を平安にするにはまずその国をよく治めることだ』ということは、上に立つ君主がその国の老人を敬っていると、万民もまた孝行になろうと奮い立つ。君主がその国の孤児を哀れんで助けていると、万民も親しくなって離れなくなる」
確かに、これらのことはもっともなことだ。自分は贅沢三昧なのに国民には節制を強いる君主は、まず尊敬されないであろう。国内が乱れているのに、他の国を平定しようとしても説得力がない。
だがしかし、これを少し厳しく見てみなければならない。これらの理念が「現実」に現れると、いったいどうなるであろうか。
すると、むしろこの理想的な理念こそが、世の中の分裂と非難の原因となっているのではないだろうか?
つまりこのような理想的な理念も、現実に出てくればそれは「相手への要求」に変わってしまう、ということである。
ある人々は権力者とか相手の否を、ほとんどあら探し的に探し出して「相手がこのようにそれに値しないのだから、われわれも従わないし権威を認めない」と言わんばかりだ。そしてそれが世間に拡大するにつれて、世間もだんだんと神経質気味に、否定的になって、むしろ社会と人心が批判的に荒廃していってしまう。
このような理想的な理念も現実には、批判的、受動的、逆行的に援用され、世の中を乱す原因になってしまうのだ。
「大学」を始め「四書」は、基本的に権力者に対する教化を目的としている。つまりこれらの理念は本来、能動的、自戒的に使うことを想定している。行動に当たって自分の行いに非がないのか、これが正しいのか、それを内心において自問自答することを念頭に置いている。
しかし実際は崇高な理念すら、世の中に出るや批判的な人たちによって、自分たちの自己中心的な言い訳に使われてしまうのである。
それを明確に表しているのが、イエス・キリストの言動を記した新約聖書の冒頭、四大福音書だ。
「あなた方の中で、誰が自分の羊が安息日に井戸に落ちたのに、それをすぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりはるかに大切なものだ。だから安息日に善いことをするのは許されている」(マタイによる福音書12・9ー14)
イエスはユダヤ人の律法で「何も仕事をしてはならない」と定められた安息日に、手が萎えた人を奇跡によって癒やした。
それを、彼に反対するファリサイ派の人々は「医者としての仕事」をしたとみなし、彼を非難した。そこでイエスは、毅然としてこう言い返したのだった。
この理論にファリサイ派の人々も内心もっともだと思い、すぐに言い返せなかったが、彼らは密かに裏で、どのようにイエスを処刑しようか、と相談し始めたのだった。
ここでも「規律からの逸脱」が、批判的に援用されている。
ユダヤ人が安息日を神聖化する理由はさまざまあっただろうが、次の要素も間違いなくあっただろう。つまり当時は奴隷制が普通であり、労働者は主人の所有物とされた。そのために主人は奴隷や、また家畜などを働かそうと思えば休みなく働かせることができる。
しかしそれをするとけっきょくは奴隷や家畜は健康を害して、すぐに役目を果たせなくなってしまう。適度に休みを与えれば、いつまでも元気に働くことができる。そのような生活上の知恵という部分もあっただろう。
これもまた、能動的、自戒的に運用されることを想定した律法であると見なすことができる。本来、他者を思いやってのきまりなのだ。それならば、主人が所有物の健康や志気に留意すれば、守る必然性は薄い。
しかしファリサイ派の人々は、「規律」を必要以上に神聖化し、それ自体を盲目的に守ることを目的化した。そのために彼らも、受動的、批判的に「規律からの逸脱」を非難してしまったのだった。
しかもその「正義」に、律法に詳しい自分たちが何の権威もない男に論破された、という傷つけられた自尊心が紛れ込んだ。ユダヤ教においても本来厳しく自戒してしかるべき、個人的な思い上がり、他人を理解しようとしない激情が入り込んでいたのだった。
しかし彼らは「律法をないがしろにするイエスは悪い」という批判的な観念に凝り固まっていたので、その反発心でその自分勝手な感情を正当化してしまったのだ。規律という崇高な知恵が生んだものが、その対極に位置する個人の憂さ晴らしに援用されてしまった。
つまりファリサイ派を始め、「真理」というものを批判的、受動的に考える人々は、人間が目指すべき崇高なものを語りながらその実は、プラトンの看破した「自分さえよければ良い」という人間の普遍的なエゴイズムに支配されてしまっているのである。
どのような真理も、能動的、自戒的な性格が欠落してしまえば、人間や社会にとって有害なものになってしまうのだ。
そして現代日本人も、「規律の乱れ」という観点から他人を観察してしまうために、自然と批判的、受動的になってしまっている。それによって、みなファリサイ派と同じようになってしまっているのである。
しかしそれも他方では無理もない。われわれの直接の先祖は、そのような状況に対応する思想を持ってなかったのだから。
最後は、この原因について考えて見ようと思う。
(続)
国の乱れを防ぐには、人々の勤勉と「徳」の実行、親への敬意、年功序列の遵守、冠婚葬祭の形式の遵守などの、「礼」が必要だと説く。
このような傾向から、全体的に「四書」では「規律からの逸脱」が、世の中の乱れの原因とされていると見ることができる。
行動として表すことのできる、人間として「正しいこと」が確固として存在していて、そこから逸脱するから世の中が乱れる、と考えている。
また、前述の「国を治めるにはまず家や自分から」というものや、また「君主が慈愛を持っていれば国民も慈愛を持つし、君主が残忍ならば国民も残忍になる」といった、君主は国民の鏡である、という考えが繰り返される。
それを表すように、「大学」には以下のことが書かれている。
「君子はまずわが身に徳を積んでから始めて他人にもその徳を求め、まずわが身に不徳をなくしてから始めて他人にもその不徳を非難する」
「『世界を平安にするにはまずその国をよく治めることだ』ということは、上に立つ君主がその国の老人を敬っていると、万民もまた孝行になろうと奮い立つ。君主がその国の孤児を哀れんで助けていると、万民も親しくなって離れなくなる」
確かに、これらのことはもっともなことだ。自分は贅沢三昧なのに国民には節制を強いる君主は、まず尊敬されないであろう。国内が乱れているのに、他の国を平定しようとしても説得力がない。
だがしかし、これを少し厳しく見てみなければならない。これらの理念が「現実」に現れると、いったいどうなるであろうか。
すると、むしろこの理想的な理念こそが、世の中の分裂と非難の原因となっているのではないだろうか?
つまりこのような理想的な理念も、現実に出てくればそれは「相手への要求」に変わってしまう、ということである。
ある人々は権力者とか相手の否を、ほとんどあら探し的に探し出して「相手がこのようにそれに値しないのだから、われわれも従わないし権威を認めない」と言わんばかりだ。そしてそれが世間に拡大するにつれて、世間もだんだんと神経質気味に、否定的になって、むしろ社会と人心が批判的に荒廃していってしまう。
このような理想的な理念も現実には、批判的、受動的、逆行的に援用され、世の中を乱す原因になってしまうのだ。
「大学」を始め「四書」は、基本的に権力者に対する教化を目的としている。つまりこれらの理念は本来、能動的、自戒的に使うことを想定している。行動に当たって自分の行いに非がないのか、これが正しいのか、それを内心において自問自答することを念頭に置いている。
しかし実際は崇高な理念すら、世の中に出るや批判的な人たちによって、自分たちの自己中心的な言い訳に使われてしまうのである。
それを明確に表しているのが、イエス・キリストの言動を記した新約聖書の冒頭、四大福音書だ。
「あなた方の中で、誰が自分の羊が安息日に井戸に落ちたのに、それをすぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりはるかに大切なものだ。だから安息日に善いことをするのは許されている」(マタイによる福音書12・9ー14)
イエスはユダヤ人の律法で「何も仕事をしてはならない」と定められた安息日に、手が萎えた人を奇跡によって癒やした。
それを、彼に反対するファリサイ派の人々は「医者としての仕事」をしたとみなし、彼を非難した。そこでイエスは、毅然としてこう言い返したのだった。
この理論にファリサイ派の人々も内心もっともだと思い、すぐに言い返せなかったが、彼らは密かに裏で、どのようにイエスを処刑しようか、と相談し始めたのだった。
ここでも「規律からの逸脱」が、批判的に援用されている。
ユダヤ人が安息日を神聖化する理由はさまざまあっただろうが、次の要素も間違いなくあっただろう。つまり当時は奴隷制が普通であり、労働者は主人の所有物とされた。そのために主人は奴隷や、また家畜などを働かそうと思えば休みなく働かせることができる。
しかしそれをするとけっきょくは奴隷や家畜は健康を害して、すぐに役目を果たせなくなってしまう。適度に休みを与えれば、いつまでも元気に働くことができる。そのような生活上の知恵という部分もあっただろう。
これもまた、能動的、自戒的に運用されることを想定した律法であると見なすことができる。本来、他者を思いやってのきまりなのだ。それならば、主人が所有物の健康や志気に留意すれば、守る必然性は薄い。
しかしファリサイ派の人々は、「規律」を必要以上に神聖化し、それ自体を盲目的に守ることを目的化した。そのために彼らも、受動的、批判的に「規律からの逸脱」を非難してしまったのだった。
しかもその「正義」に、律法に詳しい自分たちが何の権威もない男に論破された、という傷つけられた自尊心が紛れ込んだ。ユダヤ教においても本来厳しく自戒してしかるべき、個人的な思い上がり、他人を理解しようとしない激情が入り込んでいたのだった。
しかし彼らは「律法をないがしろにするイエスは悪い」という批判的な観念に凝り固まっていたので、その反発心でその自分勝手な感情を正当化してしまったのだ。規律という崇高な知恵が生んだものが、その対極に位置する個人の憂さ晴らしに援用されてしまった。
つまりファリサイ派を始め、「真理」というものを批判的、受動的に考える人々は、人間が目指すべき崇高なものを語りながらその実は、プラトンの看破した「自分さえよければ良い」という人間の普遍的なエゴイズムに支配されてしまっているのである。
どのような真理も、能動的、自戒的な性格が欠落してしまえば、人間や社会にとって有害なものになってしまうのだ。
そして現代日本人も、「規律の乱れ」という観点から他人を観察してしまうために、自然と批判的、受動的になってしまっている。それによって、みなファリサイ派と同じようになってしまっているのである。
しかしそれも他方では無理もない。われわれの直接の先祖は、そのような状況に対応する思想を持ってなかったのだから。
最後は、この原因について考えて見ようと思う。
(続)