思想は何を語るか

文字数 1,443文字

 話を簡単にするために、ここでの東洋とは「論語」、「大学」、「中庸」、「孟子」の、いわゆる古代中国の「四書」と、西洋の代表としてソクラテス・プラトンとイエス・キリストの言動を対比させようと思う。

 確かに、これだけではあまりに偏狭だと思われるが、しかしこれは同時にそれぞれの思想の基礎ともなっており、根底となっている。そのために、これだけでもその本質は語れると信じる。
 またこの文はまったく専門的なものではなく、筆者自身もそのような知識はまったくない。ただ単に、世間一般において、東洋と西洋というくくりで語られるさいのその表面的、一般的に語られがちなことに焦点を当てたいと思う。
 しかしそのために、専門的な本などではかえって曖昧になりがちな、その本質の比較に有効だと思う。

 さて、人間の生き方そのものを考える「思想」というものの、その根幹となるものは、やはり「自分がどう考えるか」。また「自分がどう生きるか」ということだ。
 人間がどういうことに陥りやすいか、どういう誤りをしやすいのか、自分が何を求めているのか・・・自分が本当はどういうことを求めていて、しかし多くの人は実際は、それを妨げているということを知るということ。
 つまりソクラテスが標榜した「自分自身を知れ」ということ、その上でどうやってよりよく生きていけばいいのか、ということを知るというのが、およそ思想というものの根幹であると言っていいだろう。
 自分が生きる糧を見つける、これが思想の基礎だ。
 その意味で言えば、孔子の言動をまとめた「論語」と、ソクラテスの言動をまとめたクセノフォンの「ソクラテスの思い出」、それぞれ忠実な弟子によって、実際の言動に忠実にまとめられた二つの本を読んで、この二者に優劣というのは付けられないだろう。
 わずか数十年の時を隔てて、まったく別々の土地に現れたこの二者の教えは、とても似ている。「国家をよく治めるには、まず自分の家をよく治め、そして何よりまずは自分の身をよく治めるべきだ」というのがその根幹に存在している。
 孔子もソクラテスも、実際の社会と政治の誤りを見抜き、それがいろいろな弊害を出しているにもかかわらず、世間の人々はその弊害の元となるものすら「正しい」と信じていることを指摘したのだった。
 そしてその解決法はただ一つ、個々の人間が、それぞれ善良な存在となるしかない。社会はつまりは個人の集まりでしかないのだから、それぞれの個人が善良な存在となり、特に権力者、権力を握ろうとする人々がその模範を示せば、人々もそれを見習う。それによって社会もよくなる、ということが基本にある。

 この「自分がどう考えるか」、「自分がどう生きるか」というのは、古今東西優れた人々が常に考えてきたことで、実際にはその答えは同じ人間である以上、同じようなものとなって行く。
 そのためにこの部分に関しては、東洋も西洋も違いがないと言ってもいい。誰でも自分が気に入る人に学べばよい。大切なのは、孔子の言う通り「行動」である。

 しかしここで問題とする「違い」は、ソクラテスの最も有名な弟子によって現れることになる。
 それはプラトンの存在だ。
 彼こそは、出征の時以外はアテナイ国内に留まり、ただアテナイ人の教育だけに気を配っていたソクラテスの思想を、人類にとって普遍的なものとした人であった。
そして彼が見いだしたことが、西洋の思想の基礎に脈々と流れているものなのだ。
(続)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み