哲学者プラトンの発見した人間の真実
文字数 2,274文字
しかしここでプラトン哲学を云々言っても仕方ない。ここで重要視するのは、プラトンの対話篇「ゴルギアス」の中に集約されている。
その一部を引用してみよう。舞台は(プラトンの書く)ソクラテスが、アテナイの若者カリクレスと対話しているところだ。カリクレスはソクラテスに好意的だが、しかしソクラテスがとうとうと語る節制ということに少しうんざりして、人間として「正しい」ことを、ずばりと言う場面である。
「つまり、正しく生きようとする者は自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ。そしてそれらの欲望に、勇気と思慮を持って充分に奉仕できる者とならなければならない。そうして欲望が求めるものがあればいつでも、この充足をはかるべきである。
しかしこういうことは、世の大衆にはとてもできないことだと僕は思う。だから彼らはそれを引け目に感じて、そうすることのできる人々を非難するのだが、そうすることによって自分たちの無能を覆い隠そうというのだ。
彼らは『放埒は醜い』と言うのだが、それによって生まれつき資質の優れた人々を奴隷にしようというのだ。そしてまた、自分たち自身に満足に快楽を与えることができないものだから、正義と節制を褒め称えるけれども、それもけっきょくは自分たちに意気地がないからだ。
けれども最初から高貴な身分や支配的な立場に立つ才能ある人々にとって、正義や節制がどれだけ害になるだろうか。彼らは正義と節制によって、かえって不幸になるのは避けられないのではないか。
いや、ソクラテス、あなたが追及しているという真実はこうなのだ。つまり贅沢と放埒と、自由とが、背後の力さえしっかりしていれば、それこそが人間の徳であり、幸福なのだ」
どうであろうか。まるで現代の日本人の本音を、そのまま聞いているようだとは思わないだろうか。
現代でも資本主義の下に、個人の欲望は肯定され、むしろ推奨されている。
人間に欲望があるから人はなるべく儲けようとし、またいろいろなものを消費する。それは経済に欠かせないものであり、個人にとってだけでなく、社会にも良いことだとみな考えている。
そして他人のそういう面を快く思わなかったり、非難したりする人々も、実際はその欲望が「正しい」と信じている。カリクレスの言う通り、本当は欲望によって得られる財産や消費を、自分が得られるなら是非手に入れたい。しかしうらやましいのに、自分がその欲望のままに行動できないからこそ、嫉妬によって相手を非難しているのは、紛れもない事実だ。
つまり誰も、その個人の欲望自体が間違っている、とは考えていないのだ。誰もが本当は、個人の欲望が強ければ強いほど、それで良いと思っている。
このように、二千四百年も前の、しかもわれわれとはまったく関係のない土地で書かれたものがわれわれにもまったく当てはまっているという事実は、これが古今東西の「人間」の普遍的な性質であることを示している。
プラトンはその天才的な頭脳で、こういった「人間の本性」そのものを見抜いたのだ。
人間が社会に奉仕したり、また他人のために働くのも、けっきょくは自分の欲望や利益のためである。
人間は自分の欲望や憂さ晴らしのためならば、国家や他人に対して遠慮なく振る舞ったり、他人を貶めてよいとすら思っている。
社会が一見、発展していたり人々の協同が実現しているように見えても、それは個々の人間がそれぞれの自分勝手な欲望を持って動いているから、実現しているだけだ。
だから、みなが他人と協同することは自分の利益にならない、と感じてしまえば、それは簡単に瓦解してしまうものだ。
「自分さえよければ良い」・・・これが人間の本性であることを、プラトンは見抜いたのだった。
しかもその性質が重大な過ちを引き起こしたことを、彼は目の当たりにしていた。アテナイは彼の若い頃に起きたペロポネソス戦争で、スパルタに無残な敗北を喫したのだった。
アテナイの最盛期を造った有能な政治家ペリクレスが、その緒戦にアテナイを襲ったペストに倒れた後、人々は戦争による利益を主張する政治家たち、デマゴークの主張に乗って、いたずらに戦線を拡大した結果、スパルタに無条件降伏するという過ちを犯してしまった。
人々の欲望が実際に、国家に重大な損害を与えたのであった。
しかしそのような痛手を受けたにもかかわらず、しばらくするとアテナイは再び、性懲りもなく個人の欲望を基礎として、再び全盛期の繁栄を取り戻そうと復興し始めた。
この状況に絶望したプラトンには、人間がこのような性質である以上、アテナイは再び崩壊することを確信するしかなかった。
そして彼は師ソクラテスの口を借りて、アテナイにはいままで有能な政治家は誰もいなかった、という大胆なことを言ったのだった。
民主制である以上、これまでの政治家はただ民衆におもねっていただけであり、むしろその誤った性質を助長していただけだ、このようにプラトンは結論づけなければならなかったのだった。
このようにして、プラトンは人間そのものに懐疑の目を向けなければならなかった。そしてそれが、「不完全な人間」という存在と対をなす「完全な神」という概念が強調される基礎となったのであった。
これが、まさに東洋と分かれたところであった。世の中が乱れる原因は何か?・・・プラトンの発見によって、この答えに差異が生まれたのであった。
(続)
その一部を引用してみよう。舞台は(プラトンの書く)ソクラテスが、アテナイの若者カリクレスと対話しているところだ。カリクレスはソクラテスに好意的だが、しかしソクラテスがとうとうと語る節制ということに少しうんざりして、人間として「正しい」ことを、ずばりと言う場面である。
「つまり、正しく生きようとする者は自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ。そしてそれらの欲望に、勇気と思慮を持って充分に奉仕できる者とならなければならない。そうして欲望が求めるものがあればいつでも、この充足をはかるべきである。
しかしこういうことは、世の大衆にはとてもできないことだと僕は思う。だから彼らはそれを引け目に感じて、そうすることのできる人々を非難するのだが、そうすることによって自分たちの無能を覆い隠そうというのだ。
彼らは『放埒は醜い』と言うのだが、それによって生まれつき資質の優れた人々を奴隷にしようというのだ。そしてまた、自分たち自身に満足に快楽を与えることができないものだから、正義と節制を褒め称えるけれども、それもけっきょくは自分たちに意気地がないからだ。
けれども最初から高貴な身分や支配的な立場に立つ才能ある人々にとって、正義や節制がどれだけ害になるだろうか。彼らは正義と節制によって、かえって不幸になるのは避けられないのではないか。
いや、ソクラテス、あなたが追及しているという真実はこうなのだ。つまり贅沢と放埒と、自由とが、背後の力さえしっかりしていれば、それこそが人間の徳であり、幸福なのだ」
どうであろうか。まるで現代の日本人の本音を、そのまま聞いているようだとは思わないだろうか。
現代でも資本主義の下に、個人の欲望は肯定され、むしろ推奨されている。
人間に欲望があるから人はなるべく儲けようとし、またいろいろなものを消費する。それは経済に欠かせないものであり、個人にとってだけでなく、社会にも良いことだとみな考えている。
そして他人のそういう面を快く思わなかったり、非難したりする人々も、実際はその欲望が「正しい」と信じている。カリクレスの言う通り、本当は欲望によって得られる財産や消費を、自分が得られるなら是非手に入れたい。しかしうらやましいのに、自分がその欲望のままに行動できないからこそ、嫉妬によって相手を非難しているのは、紛れもない事実だ。
つまり誰も、その個人の欲望自体が間違っている、とは考えていないのだ。誰もが本当は、個人の欲望が強ければ強いほど、それで良いと思っている。
このように、二千四百年も前の、しかもわれわれとはまったく関係のない土地で書かれたものがわれわれにもまったく当てはまっているという事実は、これが古今東西の「人間」の普遍的な性質であることを示している。
プラトンはその天才的な頭脳で、こういった「人間の本性」そのものを見抜いたのだ。
人間が社会に奉仕したり、また他人のために働くのも、けっきょくは自分の欲望や利益のためである。
人間は自分の欲望や憂さ晴らしのためならば、国家や他人に対して遠慮なく振る舞ったり、他人を貶めてよいとすら思っている。
社会が一見、発展していたり人々の協同が実現しているように見えても、それは個々の人間がそれぞれの自分勝手な欲望を持って動いているから、実現しているだけだ。
だから、みなが他人と協同することは自分の利益にならない、と感じてしまえば、それは簡単に瓦解してしまうものだ。
「自分さえよければ良い」・・・これが人間の本性であることを、プラトンは見抜いたのだった。
しかもその性質が重大な過ちを引き起こしたことを、彼は目の当たりにしていた。アテナイは彼の若い頃に起きたペロポネソス戦争で、スパルタに無残な敗北を喫したのだった。
アテナイの最盛期を造った有能な政治家ペリクレスが、その緒戦にアテナイを襲ったペストに倒れた後、人々は戦争による利益を主張する政治家たち、デマゴークの主張に乗って、いたずらに戦線を拡大した結果、スパルタに無条件降伏するという過ちを犯してしまった。
人々の欲望が実際に、国家に重大な損害を与えたのであった。
しかしそのような痛手を受けたにもかかわらず、しばらくするとアテナイは再び、性懲りもなく個人の欲望を基礎として、再び全盛期の繁栄を取り戻そうと復興し始めた。
この状況に絶望したプラトンには、人間がこのような性質である以上、アテナイは再び崩壊することを確信するしかなかった。
そして彼は師ソクラテスの口を借りて、アテナイにはいままで有能な政治家は誰もいなかった、という大胆なことを言ったのだった。
民主制である以上、これまでの政治家はただ民衆におもねっていただけであり、むしろその誤った性質を助長していただけだ、このようにプラトンは結論づけなければならなかったのだった。
このようにして、プラトンは人間そのものに懐疑の目を向けなければならなかった。そしてそれが、「不完全な人間」という存在と対をなす「完全な神」という概念が強調される基礎となったのであった。
これが、まさに東洋と分かれたところであった。世の中が乱れる原因は何か?・・・プラトンの発見によって、この答えに差異が生まれたのであった。
(続)